風紋

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2002年12月01日(日) 本「風と夏と11歳」

気が付いたら12月になっていた。


11月24日に、公立図書館から児童書を2冊借りてきた。1冊は11月24日の日記に書いた「優等生−いつか本当に泣ける日まで−」なのだけれど、今日はもう1冊の話。

そのもう1冊とは「風と夏と11歳 〜青奈とかほりの物語」(薫くみこ作/みきゆきこ絵。ポプラ社。1993年)。ちなみに「青奈」は「せいな」と読むらしい。ストーリーは、…説明しづらいのだけれど、思いっきり簡単に言うと、主人公の「かほり」が「青奈」に出会う、という話(簡単にし過ぎか…)。

この物語の中で、私の印象に残っている場面の1つが、かほりが青奈に会いに行こうかどうしようかと迷う場面だ。

「会いにいこう。
 青奈のことを思い出すと、胸のなかに明るい日ざしがさしこむ気がする。青奈のはなつ色あいはけして明るくないものなのに、なぜか青奈とすごしたあの一日には、どの夏の日よりじりじりと肌をこがす太陽がいる。だれとも似ていない青奈。どの日ともとりかえられないあの一日。
 会いにいこう。西崎青奈にもう一度会いたい。」(p.106)

と思うかほりだが、会いに行こうか、行くべきでないのか、そもそも自分は青奈に会いたいのか会いたくないのか、わからなくなってしまう。

「会ったところで、べつに話すことがあるわけでもない。それに青奈のほうだって、なにをしにきたのかとおどろくだろう。
 わたしのことなどわすれているかもしれないし、かんがえてみればうちですごしたひと晩のことは、青奈にとって楽しい思い出であるはずもない。
 そして、あんな会いかたをしたものだから青奈は孤独ときめつけてきたけれど、よくかんがえてみればそうとも言えない。たった一回会っただけで、よくもわるくもこんなに深く心に焼きつく人物だ。きっと本音でひきつけあい、むすびついている親友を持っているにちがいない。のこのこ出かけていったところで、さみしい思いをするだけだ。
 けれど、そうやって理由をならべ納得したはずなのに、ふと気づくと地図をひろげ、青奈の住所を指でさがしていたりする。こんなことならいっそのこと、なにがどうであろうと明日になったらいってみよう−−そう決心してベッドに入ったこともあった。
 なのに目がさめると、なぜか気持ちが萎縮して、会ったところでべつに−−と、同じ考えをまたくりかえし、窓べによりかかってしまう」(p.126〜127)

こんなかほりの背中を押したのが、かほりの父親がかほりに向けて言った言葉だった。

「『四十年生きてきてぼくは思うけれど、会わなくてはならないから会う人間は山ほどいるが、会いたくて会う人間はほんのひとにぎりだよ。そして、会おうか会うまいかと真剣にまよう相手というのはさらに少ない。めったにいない。
 まようっていうのはね、会いたいからまようんだ。会いたくなかったらまよいはしない。だったら会いにいけばいいんだ。会いたいなら会えばいい。』」(p.129〜130)

この言葉は、かほりだけでなく、私をも勇気付けてくれる言葉であるような気がする。私の好きな言葉で、ノートに書きとめて、迷った時には時々ノートを出してきて眺めている。そうだよね、会いたいなら会えばいいんだよね、と自分に言い聞かせている。

「会う」に限った話ではなくて、一般的に何かをすることにも当てはまるような気はするけれど。私がここで日記を書き始めるのも、最初は随分悩んだけれど、最終的に書きたいなら書けばいいんだと思って始めた。ただ、「会う」というのは自分だけでなく相手が居ることだけに、余計に迷うのかもしれないけれど、それでも、「会うのを迷っている」という事実と「会おうかどうしようか迷うほど会いたい」という気持ちを大切にしようと思う。以前会った人ともう一度会えるというのは、何気ないことのように思うけれど、実はとてもありがたいことだと思うから。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)