風紋 もくじ / この前 / この後
11月27日(木曜)に図書館へ行って借りてきた本の一部。他にも借りてきた本はあるのだけれど、それらはまだ読めなかったり、あるいは「借りてきた」ということをここに書けない段階なので、書かない。ここに書いたのは、ほとんどの本が、昔に1度読んだことのある本。 読みたいな、と思っている本のメモ。 「めざめれば魔女」(マーガレット・マーヒー:作、清水真砂子:訳、1989年、岩波書店)(詳細) 「あるミミズの話。」(佐久間舞:作・絵、2003年、新風舎)(詳細) 今、聴いている音楽 「ピアノ協奏曲第2番ハ短調,Op.18」(ラフマニノフ作曲) 激しい悲しみの渦の中にすぅっと引き込まれるようで、でもそれは決して不快ではなく、むしろ抑え込まざるを得なかった悲しみに出口をつくってくれるような感じで、一方でとても心が落ち着く。そして最後は限りなく優しく終わる。あくまで私の印象、なのだけれど。 時々後ろ向きになったり、時々右を見たり左を見たり、時々ぴとっと止まりながら、少しずつ前に進みたいと思う今日この頃。 未来への希望も失いそうになりながらの状態で、希望だけは捨てずにいたいと必死で願っている。
今日も、何となく何か書きたい気持ちになっているのだけれど、何も書けないような気がして、パソコンの画面を前にして、ぽやん、としている。 昨日降ってきた宿題のうち、突然どかんっと来た大きな宿題の方(公用でない方)は何とかなりそうな目処がついたけれど、「小さいが重要な宿題」の方は少し落ち着いて考える必要がありそうだ。 お昼過ぎ、いつも通る道を普通に歩いていたのだけれど、今日に限って、一度通り過ぎたある場所が気になって、通り過ぎても何度も立ち止まって振り返ってその場所を見つめていた。 少しだけ言い直すと、「今日に限って」ではなくて、むしろ「今日だったからこそ」そうした。 日記を書いても書かなくても、私は1日の終わりに「また明日」という想いを込める。 日記を書き終えて、一度更新して、そしてたった今、小林千登勢さんが亡くなられたというニュースを見た。どうして…、なぜ…、という言葉しか浮かばない。 「お星さまのレール」(小林千登勢著、フォア文庫の会、1984年(初版は金の星社、1982年?))((詳細はこちらになるのだろうか)は、昔、持っていた。印象に残る本だった。きっと今でも持っているはず。引っ越しの時にしまいこんで、何処にいってしまったのだろう。探し出したい。
昨日の日記に「また明日」と書いた以上、何となく何か書かなければいけないなという気持ちになっているのだけれど、書くだけの力が今日はないようで、ぽやん、としている。
焼き芋を食べた。ほっこりとした気持ちになった。 “どんっとしていてしっかりとした未来”というものがあるのではなくて、昨日があって今日があって明日があってという毎日の中で(その中で、大波小波・波瀾万丈はあるだろうけれど。それと、明日…はあるかどうかわからないけれど、あればいいなぁ、ありますように)、その繰り返しの中で少しずつ“未来”に進んでいくのではないだろうか、と私は思う(大きな転機があって、一気に未来が進むこともあると思うけれど)。 …思いたいのだが、どうにもこうにも、私は、今の時点で“どんっとしていてしっかりとした未来”を描かねばならないという圧力を感じてしまう。 私は、こうしたいとか、こうなりたいという希望は強く持っているけれど、全部をかなえる自信はないし、私を取り巻く状況が変わって、私の気持ちも変われば、それはその時だろうと思うのだけれど。 しかし。 本当は、明日という日が来てくれたらそれでいいはずなのだけれど。 今日もあまりうまく書けた気がしない。迷いながらという気がする。あぁぁぁぁ。 また明日。書けるかどうかわからないけれど。でもまた明日。 昨日の日記に少しだけ付け加えをした。
今日はうまく書けるかどうか自信がないけれど、それでも勇気を出して少しでも書いてみようと思いつつ、やはり少しの躊躇いも残しながら、それでも書く。 「同じ出来事に遭遇したから、同じ気持ちを抱えているだろう」として、ひとくくりにされて扱われるのは、随分とつらいことではないだろうか、と、思う。 確かに、同じ出来事に遭遇すると、同じような気持ちを持つかもしれない(持つ可能性は大きいと思う)。ただ、その出来事をどう受け止めるか、どのような状況の中でその出来事に遭遇したか、という点からして、既に「同じ」ではなく、1人1人違うものであるように思う。そこで生じる気持ちも、「同じような」ところを抱えながらも、それぞれ違うものであって、それぞれを大切にしたいものだと思う。私はそう思うので、複数の気持ちを「同じもの」として無遠慮に扱うことには、戸惑いと申し訳なさを覚える。 しかし、「同じような気持ち」があるからこそ救われる部分も大きいように思う。それは、別に「同じ出来事」に遭遇していなくてもよいのかもしれない。「同じ出来事」に遭遇していなくても、あぁ、と思うことはある。 “ただ隣に居て、心から相槌を打ってくれれば嬉しいのよ”と思うこともある。 追記:↑“ただ隣に居て、心から相槌を打ってくれれば嬉しいのよ”と書いたが、相槌を打ってくれなくてもいいということに後で気がついた。相槌を打ってくれなくても、迷っても、戸惑っても、悩んでも、居てくれればそれだけでいい、と思う(2003/11/24,23:15)。 最近、私は私自身に対して「自分が痛みを抱えていると自覚できていない人間に、他の人の痛みをわかることができるのか?」と問い掛けている。あくまで私が私自身に対して、私自身のために問い掛けているだけなのだけれど(だから、一般的にどうこうというつもりはない)。 私がこれまで生きてきた中では、いろいろなことがあった(などと書くと波瀾万丈の人生のように思われそうだが、そうでもない)。その中には、悲しいことやつらいこともあった…ような気がする。その時に、私はきちんと悲しんできただろうか?つらさを十分に味わってきただろうか?と考えると、どうだろう…と思うのだ。 「大したことはない」「悲しくもつらくもない」「大丈夫」というふうに他の人の前で振る舞おうとし、実際にそうすることによって、自分自身に「大したことはない」「悲しくもつらくもない」「大丈夫」と言い聞かせてきた。そう思うようにしてきた。結果、悲しみやつらさから随分と逃げてきたような気がする。1つ1つのことにきちんと向き合ってこなかった。 こんなことを考えるのは、最近「あの頃はこうだったのだな」と振り返ることがあるからだ。そんな今も、未来のある時に、「あの頃はこうだったのだな」と振り返られているかもしれないけれど。 ここのところ、人に会う練習をしてきているように思う。…と書くのもおかしいのだけれど。 私の話を他の人にして、他の人に聴いていただいて、自分自身を振り返って。 他の人の話を私が聴かせていただいて、ただただ聴かせていただいて、自分自身を振り返って。 もう少し、きちんと人と会えるようになれればいいのにな、とは思う。 休みを使って、身体面と精神面の調子を整えようとしています。とは言っても、これがなかなかうまくいかない。今日は少し頭痛がしたような気がしないでもない。 少し家事をしたり、少し仕事をしたり、少し掃除をしたり、少し連絡をしたり、少しテレビを見たり、少しお菓子を食べたりしながら、基本的には日当たりの良い部屋で、のんびりとしていた。こんなのでいいのかなぁとは思っていたが、少し自分が戻ってきたような気がする。
「あのね。あのね。今日、私、すっっっごく、楽しかったんだよー」と、大きな声で伝えたいような、そんな日でした。 「メルティーキッス」は、私の友人のとても好きなお菓子だったそうです。
帰り道、小さいお店の前を通りかかった。コンビニエンスストアではなくて、個人商店のようなお店だった。小さい女の子が、中華まんを買っていた(どの種類かはわからなかったが)。女の子が100円玉を1枚(…だと思う)をお店のおじさんに差し出すと、お店のおじさんは、丁寧に袋に1つ、中華まんを入れて女の子に渡していた。 こんな時だからこそ、無理をしてでも挑戦してみたいことがある。こんな時だからこそ、行きたい所がある。こんな時だからこそ、会いたい人がいる。こんな時だからこそ、できることがある。何か少しでもいいことがあるに違いない。何か少しでもいい出会い(人や物との)があるかもしれない。ありそう。 ふとそんな気がした。 …しかし、無理は禁物。 「メルティーキッス」のマイルドカカオ味を買った(商品名だとは言え「メルティーキッス」と書くのは何となく照れる。これが「小枝」だったら照れないのに)。 悲しみについて考えていたのだけれど、少し時間をおいてからゆっくりと考えて書いた方がいいような気がするので、取り急ぎ今日は「悲しみについて考えた」ということだけをメモ程度に残しておく。 明日から急激に寒くなるそうです。どうぞ気をつけて。私はしばらく、ぼーっとすることにします(日記も、ぼーっと書いたり書かなかったりするかも)。 もっと他にも、書かねばならないことがあるような気はしている。けれど、少しゆっくり自分の中で暖めてから言葉にしてもいいかなぁ、と。
今日、ふっと“音楽が私の中に戻ってきた”という気がした。久しぶりに。 それと同時に、少しだけ言葉も戻ってきたような気がして、今、こうして日記を書いている。ここ数日は、書けないという気持ちと、書いてはいけないという気持ちがあった。無理やりに、書けない状態に私自身を追い込んでいかなければならないと思う気持ちがあった。今もある。 パソコンの壁紙の色を青一色にしようと思って、いろいろと調整をしていた。しかし、青にしようとすればするほど、私の思っている“青”からは遠ざかるような気がした。これじゃ紫に近いよ…とか、これじゃ緑に近いよ…とか、これじゃ青すぎて青じゃないよ…と呟きながら、色を探していた。 …いや、色事典の類を見れば、“青”を定義することはそれほど難しくないだろうとも思うのだけれど。 『色の名前』(監修:近江源太郎/構成・文:ネイチャー・プロ編集室, 2000年,角川書店)(詳細)の巻末に掲載されている、系統色相法の考え方に沿っている色見本の配列を見た。色相名(赤、黄、青など)で色を表現したうえで、さらに明度・彩度の特徴を示す修飾語をつけて、より細かく色の違いを説明する(p.194より要約)らしい(美術のことについては私はあまり詳しくないので誤った表現をしているかもしれないけれど)。 「青」に関係したところでは、「青緑」「緑みの青」「青」「紫みの青」「青紫」があり、修飾語としては「薄い」「浅い」「明るい」「さえた」「強い」「濃い」「にぶい」「暗い」「灰みの」「明るい灰みの」があった。もっと細かい分類もできるのかもしれないし、実際には同じ程度の色に複数の名がついていたり、この分類に当てはまらない色もあるように思うけれど。 私が探している“青”は、どこにあるのだろう…。
書いてよいことなのかどうかよくわからないけれど。 というわけで、日記も時々しか書けずにいる。ここの存在を忘れたり軽視したりということはないのだけれど、なかなか思うように書けない。言葉にできないという面と、物理的にも精神的にも余裕がないという面と、日常を必死で過ごしているので日記を書こうとしても何も残すことが思いつかないという面がある(ん? そこまで「必死」なのだろうか…)。あぁ、それから、あまりにも暗い内容の日記になりそうなので、こんなものをお読みいただくのも申し訳ないなという思いもある(という意味では今日の日記なども申し訳ない)。 私にとっては、今年の夏は割とわかりやすい形で訪れたし、夏の夏らしさを私なりに十分に味わった気がする(暑かったり寒かったり大変だったけれど)。しかし、私にとって、今年の秋は知らない間に訪れていて、秋の秋らしさを味わうことがないままの状態でいる。木々の葉の色が変わっているということに気がついたのもごく最近であるし、どんぐりが転がっているのに気がついたのもごく最近だ。 夜が長くなったというのが、私にとって1つの困った点ではある。夕方の17時くらいで暗くなり始めると、何だかあせってしまう。朝も、最近は5時や6時に目が覚めることが多いのだけれど、その時間にカーテンを開けるとまだ暗いのは少し悲しい。“お願いだから早く夜が明けてください”と思う。 秋の夜長を楽しむ心のゆとりが持てたらいいのにと思う。夜は夜で素敵なところがたくさんあるのに。 ちなみに、「思い出のマーニー」についての感想(感想になっていない感想…)を書いた日記は2003年8月19日の日記です。こちらの方が、私が表現することができなかったこの物語の魅力を、私に割と近い形で記して下さっていました。本当にありがとうございます。よろしければ他の方も、一度読んでみてください。素敵な物語です。どのように素敵なのかを語り始めると、読まれるときの楽しみが減ってしまうだろうので、あまり語りませんが、そのくらい素敵な物語です。 (2003年11月15日、5:50記…時間が時間なので、この後続けるかどうかは謎。) 追記 たとえ、姿や形がなくなってしまったとしても、何かは残ると思う。とても大切なものが残ると思う。…思いたい。私はそう思います。…頭ではわかっていても、なかなかそう思えないこともあるから、そういう時はとても苦しいのだけれど。すとんと納得できる時もある。 今は、こうとしか言えないけれど。ごめんね。 (2003年11月15日、12:00記…追記がさらにこの先続くかどうかは、やっぱり謎) 追記2 言葉にできない状態からはじまって、少しずつ話すようになって、また言葉にできなくなって黙り込んでしまう。しかし話したくないというわけではなく、話せないもどかしさや悔しさがあって、唇を噛む(文字通り、本当に唇を噛んでしまう)。 そんなことを、いつも繰り返している…のかな。 (2003年11月15日、23:50記…今日のところは「追記」としては続けないが、この先この日記がどうなるかは、やっぱり謎。いつも謎。と言いながら、素知らぬ顔をして書き続けているかもしれない。一応、ぎりぎり元気です)
日記を書く日と書かない日(「書ける日と書けない日」とも言えるが)が、まるで音楽のリズム打ちの練習のようなペースになっている。「書く、休む、休む / 書く、休む、休む 」みたいな。もちろん微妙に変動はあるし、ある一定のペースでとも考えていない。そのうち「書く、書く、休む、休む」とか「書く、書く、書く、休む」とか「書く、休む、休む、休む」くらいのペースになるかもしれない。 BGM:「蛍の光もう一度(Schoolyards version)」(作詞・作曲・歌:平松愛理/編曲:清水信之) この曲は、ずっと前から知っていたのだけれど、歌詞カードを紛失してしまったし、最近は改めて聴き直すこともなかった。先日、平松愛理さんの「Eri's "B" Good」というアルバムを手に入れ、その中にこの曲が入っていた。改めて歌詞を読んでみると、何となく「南町から」の雰囲気に似ているような気がして、気になって聴いてみた。しかし、両方の詞を改めて読み比べると、全く違うような雰囲気を持っているような気がする。「違う」と捉えねばならないような気もする。とすると、最初に「似ている」と思ったのは何なのだろう。 …………。
比喩的な表現をするならば。 今日の出来事を列挙してみる。 大学に行き、ゼミに出席した。昼食にパンを1つ食べながら、小さい用事を片付けたり、諸方面に連絡をとったり、ファイルの整理をしたりした。今日は何だか妙に元気で、いろいろな人と話したり、冗談を言って笑ったりした。「師とも姉とも慕う人」に会って話をしてきた。文房具を買い込んだ(赤いボールペンの替え芯やファイル類など)。大学を出て、オレンジ色のガーベラとなでしこを持って友人に会いに行った(その頃には真っ暗になっていた)。お寺に伺い、ご住職とお話ができた。その後、ふらっと喫茶店に寄って、グレープフルーツジュースとケーキを食べた。来年度の手帳を購入した。綺麗なお月様を眺めながら自転車を走らせて帰ってきた。帰りに、少しだけ、前の家の跡地を眺めてきた。 ご住職とは、今日は、「いろいろな方がいるのですね」というお話をして、しみじみとしてきた。 坂村真民さんという方の詩を街角で見かけ、心惹かれた。この方の他の詩も読んでみたいと思った。 これは今日の話ではなく、数日前の話。 所属している楽団を、8月から10月まで休団していたのだが、先日正式に復団手続きを済ませた。最後に係の女の子たちに書類を渡した時に、「お帰りなさい!」と拍手してくれたのが、素直に嬉しかった。 間もなくパートリーダー会議があって、早速出席してきたのだけれど、そこで行われた話で、私にしては珍しく逆上したというか、ぶち切れたというか、けっこうな勢いで意見を言ってしまった(いや、自分ではこんな感じで逆上するのは珍しいと思うのだが、どうなんだろう…)。少し私情をまじえすぎたかなというのと、けんか腰になっていたかもしれないと思って、帰ってからもずっと後味の悪い思いが残った。そもそもの議題については、パートリーダー会議のレベル以上の議題ということで、時間をおいて考えることになったのだけれど。 こういうことがあると、“もう1回休団してやる!”とか“もう辞めてやる!”と思わないでもないけれど、そういう部分も含めて私はここを愛しているから、結局は戻ってくる。音楽がそれをつないでくれているのかもしれない。 私とほぼ同時期に入団し、同じ年齢で、ずっと心の支えにしている友人が、今回の演奏会で退団すると知った。本人から「あなたにいつ言おうかと思っていたんだけれど。自分でも今回を最後にしたくはなかったんだけれど」と聞いた。細かい事情はよくわからないし、詮索しようとも思わないけれど、ずっと一緒にやってきて、そんな日がこれからもずっと続くと無意識のうちに思っていたから、寂しいとか悲しいというところを通り越して、一気に茫然としてしまった。 とりあえず、手紙を書いて、ありがとうと伝えた。 なかなかうまく言葉にできなくて、書けなくて、悔しいな。 私には何もできないんだな、と思って。こんなにきちんと言葉にして伝えておられる方々がおられるのに、いったい私は何をしているのだろうと思って。何も話せなくて。悔しい。 それでも何とか、少しでも。言葉にできるものがあるなら、それに賭けたい。 BGM:「南町から」(作詞・作曲・歌:平松愛理) 振り返りながら。
すこーん、と抜けるような青空の日。 公用で、不安材料がぽつぽつと降りかかりつつある。ざわざわとした不安の感じ。よく考えるといつも不安だらけのような気もする。いつまでも逃げていられないのだけれど。 BGM:「地上の星」(作詞・作曲・歌:中島みゆき/編曲:瀬尾一三) 久しぶりに聴いた。 「名立たるもの」や「輝くもの」ばかりが素晴らしいとは必ずしも言えないのかもしれない、と、思った。「名立たるもの」でないものにも輝きはあるのではないか、とも。
昨夜眠っている間に、もどかしい夢を見た。 ↑些細なことではあるが、後で気になったので、追記。 私の所属する楽団は、確かに揉め事が起きることはあるが、決して居心地の悪いところではない。少なくとも私は、楽団で揉め事が起きるのは、何かを生み出そうとか何かを進めようとする中で起きるものだと捉えている。揉め事が起きるようなところも含めて、私は私の所属する楽団をそのまま愛しているし、ここの楽団に所属していることは私の中で大きな支えになっている。 夢の内容は、別に楽団の話でなくてもよかったのかもしれない。そのあたりは詮索するまい。 練習に出てきた。そろそろ本番が近いという空気が漂っている。足りなかったパートも徐々に揃いはじめる。帰りも少し遅くなる。気持ちも高揚してくる。ステージの上ではこんな感じかなと想像して、わくわくする。 合奏に参加しながら、この時間がいつまでも続けばいいのにと思った。本番までの時間がゆっくりゆっくりと過ぎればいいのにと思った。一瞬一瞬がとても大切で愛しくて、そんな一瞬一瞬が過ぎるのがとても悲しくて寂しくて、でも、悲しいとか寂しいだけで終わらないように思った。この時間を過ごすことは、この先、私が生きていくための大きな力になるような気がした。この時間のことを思い出せば、何があっても生きていけるような気がした。 小さいガラスの瓶に入れて、心の中にそっとしまっておきたいような時間(センチメンタルな表現かな。秋だからいいか…)。 そう感じることは、別に音楽をしている時でなくても、時々ある。幸せだと思う。幸せだという言葉では言い尽くせない。 復団の手続きを済ませかけてきました。実質的にはもう手続きは済んだようなものです。ようやくここまで決意できました。この先この決意がどうなるかわかりませんが、とりあえず無理をせずに私のしたいことをできる範囲でしていきます。 (2003年11月1日 夜 記)
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