風紋 もくじ / この前 / この後
や、やっと、ひ、一山越えた…。まだまだ山があるけれど、とりあえずひとやすみ。 所属している楽団の演奏会が近づいている。普通に過ごしていても、演奏会で演奏する曲のメロディーが自分の中で流れていることが多い。家では何度も参考演奏を聴いていたりもする。練習に参加している時は、何度もその曲を演奏し、メロディーの中に身を任せている。 けれど、よく考えてみると、聴きに来て下さるお客様にとっても、演奏している側の私たちにとっても、本番での演奏は「1回限り」のものだ。そこでどれだけのものを作り出せるか、お客様に何を伝えることができるか、演奏する側の私達が何を得ることができるか。1度限りの勝負だ。 お客様にとって、その曲は初めて耳にするメロディーだという場合も少なくないと思う。そんなお客様にも、この曲はこんなにも魅力的で素敵な曲だと感じていただきたいと思う。そんな演奏をしたいと思う。そのためには、私自身が私なりにこの曲に向き合っているのだという気持ちを持たないといけないのかなと思う(たぶん、メンバー全員が…)。 私の中では、いつも何かのメロディーが流れているように思う(そういう方は他にもいらっしゃるかもしれない)。 どうも、私に関しては、緊張している時や混乱している時には、一気にたくさんの曲のメロディーが短い時間で代わる代わるに、くるくると流れるということに最近気がついた。 ちなみに今日の仕事前は、私の頭の中では、ピアノソナタ「熱情」の終楽章(ベートーベン作曲)や、「be master of life」(aiko)、「motto」(JUDY AND MARY)、「カルミナ・ブラーナ」(オルフ作曲)、「百万本のバラ」(加藤登紀子)などのメロディーが流れていた。…ジャンルがばらばら。 上りエスカレーターの前まで来たら、故障のためかエスカレーターが止まっていた。階段に回るのも面倒だったし、エスカレーターの方が段の数が少ないので楽だろうと思い、そのまま故障中のエスカレーターを歩いて上ったのだけれど、何ともいえない違和感があった。きょとん、という感じ。 恐らく、エスカレーターというのは動いている状態が普通の状態である(人の目に触れ、人が使うときには)。だから、「動いているはずのものが動いていない状態だった」ことが違和感の原因だったのかなと思う。 しかし、あの時のあのエスカレーターについては、動いていないという状態が現実の状態で、そういう状態でしかあり得なかったのだから、あの時のあのエスカレーターはああいう状態であったのだし、ああいう状態でしかあり得なかったということを大切に思いたいと思った。 故障中の下りエスカレーターを歩いて降りる時の気持ちについては、今はよくわからない。 肩凝りがやや解消した代わりに、腰痛が再発? 何かをずっとさがし続けているような気がするのだけれど、何を、なぜ、さがそうとしているのかよくわからない。 「さがす」が、「探す」なのか「捜す」なのかもわからない。 「よくある話」であっても、当事者にとっては「よくある話」では済まない気持ちがあるというか、“確かに「よくある話」なんだろうだけれど、今は今で、私は私なんだよ”と言いたくなることがある。 逆に「よくある話だよ」と言われて救われることもあるのだけれど。 私については、という限定つきでの話だけれど。
“腫れ物に触るように私を扱わないでよ。普通に接してよ”と、言いたくなることがある。 私は私でしかないし、私以外の誰でもないし、私であることだけを武器にして闘っていかなければならないのだな、と最近思っている。 “私には泣く資格などない”と思ってきたけれど、よく考えると泣くのに資格など必要なんだったっけ…? 「トリビアの泉」を、初めてテレビで見た(でも少しだけ)。これが、あの「へぇ」か…と思うと、へぇ…と思った。へぇ…。 やや肩凝り。
虹を見た。あんなにくっきりとはっきりとした虹を見たのは何年ぶりだろう。 10月21日の後の近況報告(できれば、10月21日の日記を先に読んでおいて頂いた方がよいかもしれない)。で、やはりどちらかというと、自分自身のための近況報告。 10月21日に、私はその時の私自身の状態を、「毎日が綱渡り」という感じで、「綱を右手と左手で掴んで、綱にぶら下がりながら、少しずつ前に進んだり止まったりしている感じに近い」と書いた。そして、10月21日の時点では「片手だけでぶら下がっているか、片手の指3〜4本くらいでぶら下がっている気分」と書いた。 で、その後の感じとしてどうなったかというと、結局、綱から手が離れて落ちてしまったという状態に一時は陥った。 綱から手を離すと、下には一度落ちたら戻ってこられないような真っ暗な闇があると思っていた。底なしで、落ちたらもう戻ってくることができないような。 しかし、今回はどうやら、はるか下にだけれど、底は一応あることはあったようで、ぶつかって「大怪我」をした(あ、実際に大怪我をしたわけではなくて、あくまで比喩ですからご心配なさらないで下さい…でも精神的にはけっこうな大怪我だったと思う…未だに思い出すのはきつい)。 落ちたきっかけになった出来事も、恐らく通常の状態なら普通に受け流せるような、そんな、本当に些細なことだったのだけれど、疲労が蓄積していたので大きく受け止めてしまったのか、あるいは、もともと私自身が落ち込みやすい性格なのか。たぶん両方だと思う(この日記および日記を読んで下さっている方には本当に全く関係のない出来事です)。 で、「大怪我」の回復は比較的早かったのだけれど、「大怪我」だっただけに、きちんとした回復には時間がかかるようで、手探りで、1つ1つのことをゆっくりこなしながら毎日を過ごしている感じがする。 所属している楽団の演奏会ももうすぐだ。体調が良い時には練習に参加している。楽器を演奏するための身体も、全面的にではないが、徐々に戻りつつあるような気がする。大勢の中で演奏すること、音の中に自分が溶けていくこと、その音を自分も発しているということは、何ともいえず幸せな感覚だ(でも、実はまだ復団手続きを済ませていない…そのうちに済ませよう)。 体調を考えると、最後まで演奏しきれるかという感じだが、命懸けでステージに乗ろうと思う。 朝、電車に乗ろうとしてホームにいて、ふと線路を見下ろすと、しばらくは電車が入ってこない線路で1羽の鳩が遊んでいた。レールの上を歩いたり降りたり、何かをつついたり、またレールの上を器用に歩いたり。 和やかな気持ちになった。 今日、買った本。 (1)『死者の贈り物 詩集』(長田弘著、2003年、みすず書房)(詳細) 今は何とも言いあらわせない…。 (2)『色の名前』(監修:近江源太郎/構成・文:ネイチャー・プロ編集室, 2000年,角川書店)(詳細)。 ぱらぱらとめくっただけだけれど、私は「浅葱色」とか、「マゼンタ」とか、「躑躅色」とか、「スカイ・ブルー」とか、「フォゲットミーナット・ブルー」(勿忘草色)とかが好きかな。「スカイ・ブルー」と「フォゲットミーナット・ブルー」は、割と近い色であるらしい。 今日、印象に残った言葉 「出逢いも別れも夕暮れにあずけたら 自分の影を捜しに 西へ行く」 (「いい日旅立ち・西へ」(作詞・作曲:谷村新司/編曲:羽毛田丈史/歌:鬼束ちひろ…聴いてはいないのだけれど))
今、東の方の空が、妖しく美しいという感じに見える。ただの「美しい」ではなくて、少しの怖さもはらんだような。 朝に空を見て、走り書きのように更新しただけなので、このままだとかなり中途半端だ。というわけで、差し支えのない範囲で近況報告など。読んで下さっている方のためにというよりは、どちらかというと自分自身のためにという気がする。 10月になってから相当な時間が経って、もう10月も下旬になった。何となく、私自身の調子が悪くなってきかけているかなぁ…と思う。しかし、どこがどのようにとはうまく説明できないところがある。うーん…。外出から帰ってきた後の疲労がきついとか、そもそも自分の身体が疲れていることもあまり自覚できていないような感じがするとか、それゆえに身体が疲労に適切に対処できていないとか(だから、疲労が積み重なったのかなと思う状態が思わぬ時に一気に出てきたりする)。 10月上旬に「毎日が綱渡り」と書いた覚えがあるけれど、どちらかというと、綱を足で踏みしめながら歩いていると言うよりは、綱を右手と左手で掴んで、綱にぶら下がりながら、少しずつ前に進んだり止まったりしている感じに近い。両手で掴めているときは両手で掴んでいるし、たまに片手だけでぶら下がっている時もあるし、稀に指一本でぶら下がっているような気がする時もある。「指一本でぶら下がっているような気がする時」は非常につらい。…気のせいかな。ちなみに今は、片手だけでぶら下がっているか、片手の指2〜3本くらいでぶら下がっている気分。 ゆっくり自然にやっていけたらいいなと思ってはいるのだけれど。 他の人の前で元気に見せようとしたり、平静を装って何でもないように見せようとするから、かえって疲れるのかもしれないと思う。だから、この場所に現れている私の方が素直だと言えば素直なのだけれど、かと言って、他の人の前での私は嘘の私だというわけでもない。それも私だし。 どんより落ち込んだり、少し前向きになったり。“そういうものなんだ”と言い切って片付けるには、少しつらい思いもある。 それでも、春から夏の頃を思い出すと、その頃よりはかなり元気だ。割とけろっとしていることも多い。そういうわけなので、…だから何なんだ?…、…適度に心配しなかったり心配したりして下さい…って、何のことやら…。日記も、書けるときは書きます。 近日中に、『色の名前』という本を買おうかなと思っている(近江源太郎, 2000年,角川書店)(詳細)。思っているだけ。 この春頃から、私にしては珍しいくらいに本を買ったり、テレビ番組をビデオに録画したりしているけれど、まだ開いてもいない本や見てもいないビデオもかなり多い。しかし、読める本は自分でも不思議なくらいのペースで読んで、もう一度読み直したりもしている。 (10月21日、23:20記)
火星が、ひとりぼっちで寂しそうに見える。
やっぱりうまく書けないのだけれど。 久しぶりの学生たちと会う。最近どうなの?元気なの?という話から始まって、言葉をかけたり、話を聞いたり、励ましたり、励まされたり、きゃあきゃあと笑い合ったりしていた。 で、いつの間にか飴玉を3つもらっていた。嬉しいなぁ…。
他部局の図書館に行くために、久しぶりの道を通った。一時期はこの道をかなり頻繁に通っていたこともあるのだけれど、ここ数年は歩いては通ったことがなかったし、あまり風景を見ることもなかった。 嬉しいできごとがいくつかある。とても喜ぶ。わぁい! 一方で、まだ連休明けの初日だというのに、帰ってきてからどっと疲労が出て、しばらくうとうととしてしまう。だめだよ…。で、起きてから何だか頭が重いような感じがする。 うたた寝は風邪をひくきっかけにもなってしまいます。みなさまあたたかくして、きちんとお休みください。 あぁ、この頭痛のような感じが風邪の前触れではなくて、単なる気のせいか、睡眠不足によるものであったらいいのに。そうでありますように(睡眠不足は、それはそれで困ってはいるのだけれど…)。風邪の前触れだったらどうしよう、と不安になる。 「休んでいれば、きっと治るよ」と誰かに言ってほしいような気持ち。やや弱気。 本当に大切なことは、誰にも言えないし、ここにも書けないような気がする。かと言って、ここに書いていることはいい加減なのか?大切ではないのか?と問われると、絶対に絶対にそんなことはない。ここに書いていることは、迷って迷ってしながらも、私が大切に思っていることだ(たとえそれが「コンタクトレンズをはめたままであるのを忘れて、思いっきり眼をこすりながら顔を洗ってしまった」とかいうことでも)。 大切なことの中には、言葉にできるものもあるし、できないこともある。人に話せることもあるし、話せないこともある。どちらでもいいような気がする。 私が今まで経験してきたことの中には、忘れた方がいいこともあるのかなぁ…と、ふと思った。 しかし、「忘れた方がいい」と頭では思っていても、どうしても忘れられないことだってある。 逆に、覚えておいた方がいいだろうことを忘れてしまっていたり。 忘れられないことが悲しかったり苦しかったりもするけれど、まるごと抱え込んでいければいいな、と、私は私自身については、そう思う。
今から書くことは、うまく書くことができるかどうかわからないのだけれど。 楽団の練習に行った。以下、メモのような日記のような箇条書き。 ・身体は、だいぶ動くようになってきたような気がする。 ・しかし、「楽器を吹くための身体」が相当崩れているような気がする。以前はこうだったのに…と思うともどかしい。 ・思っているように身体が動かず、頭と身体がばらばらに動いている感じ。特に腹式呼吸がうまく使えていない。 ・たぶん身体の使い方がおかしい。高音が出にくい。 ・昨日よりは緊張しなかった。何回か合奏に出たことのある曲だったからか? ・それでも、以前のような音が出るようになってきたような気がする…のは、合奏中で全体の中にいたからそう思うだけかもしれない(別の人の音を自分の音のように勘違いした可能性がある。でも、身体が昨日よりも自由に動くように思った)。 ・今回、1曲だけ、以前別の団体で自分が演奏したことのある曲を演奏する。今日はその曲を合奏したのだが、その曲に限っては、ブレスのタイミングや指回しを身体が覚えているように思う(頭でなくて)。 ・グロッケンの女の子が以前より随分上手になったな…と思った。 ・音の中にいるのは、やはり幸せだ。自分自身が、メロディーの中に溶けていくような感じ。 「思っているように身体が動かず、頭と身体がばらばらに動いている感じ」は、特に楽器を演奏する時でなくても最近よく感じるように思う。自分の身体の状態を自分でよく把握できていないような…。 いや、まぁ、大抵はけろっと元気にしています。
久しぶりに楽団の練習へ行った。継続してこの日記を読み続けて下さっている方には、既に私が相当練習をさぼってしまっている不真面目な楽団員であることがばれてしまっているだろう…。前回練習に行ったのはいつだったっけ(探さないで下さい)。 左の膝に、ぶつけたような痣ができているのだけれど、いつどこでぶつけたのか思い出せない。数日前に、どこかで、何かに膝をぶつけて「あっ、痛っ」と呟いた覚えはあるのだが。 あ、ちょっと頭痛。
とあるお寺に伺い、住職の方とお話をしてきた。私はそのお寺の直接の檀信徒ではないのだが、最近何度かお伺いするうちに偶然お会いする機会があり、顔を覚えていただいたのだ。一度ゆっくりとお話がしてみたいと思っていたので、嬉しかった。
10月に入ってから「毎日が綱渡り」という気持ちが続いている。張りつめた気持ちだ。自分でも可笑しくなるくらい緊張していて、何でもないはずのことがとても大変に思われたりする。自分で勝手に決めたおまじないをしていることも度々ある。 今まで、初めての人と出会うときは「愛しい」と思う気持ちよりも恐怖の方が上回っていたような気がする。でも、恐怖を少しだけゆるめて、愛しいと思う気持ちを大切にしたいと思う。 今日出会った人たちは、愛しかった。 曼珠沙華のことを少し前に書いたように思う。あれから少し印象が変わった。曼珠沙華は、ぎりぎりのところまで、人を惹き付けておいて、実際に近寄ると「私に近付かないで」と撥ね退けられそうな感じ。でも、本当は近寄ってきて欲しいと思っている感じ。 やっぱり私が花の気持ちを勝手に想像しているだけだけれど。花に合わせて自分の気持ちを示そうとしているのかもしれないな、私は。 素直になりたいです。 美しいお月さまですね。
電車に乗っていると、窓から、彼岸花や濃いピンク色の可愛らしい花(確認しようにも電車が速く通過していってしまうので名前もわからない)や、その他たくさんの草が見えた。“あ、いいな”と思った。が、しばらく行き過ぎると、数人の作業員の方が除草作業をしているのが目に入った。濃いピンク色の可愛らしい花も、刈り取られていた。電車から見ただけなので、その風景もほんの一瞬で通り過ぎていったのだが。 日中の眠気がすごくて、久しぶりに電車の中でうとうととしてしまった。 疲れてどうしようもなくなった時は、大きく溜め息をつくことも、たまには許されるだろうと思う。 ふうぅぅ。 今日中にしてしまわないと命がなくなるとか、そんなことではないはずなのに、今日のうちにいろいろなことをしてしまいたいと思ってしまう。けれど、今日はもう寝よう。 「そよ風」が、「ヤプース!」側のトラブルで、ちょっとうまく表示されなかったり、変なことになっています。詳細は「そよ風」の方に書きましたが、あの在り方が、現時点での「そよ風」の在り方です。
火星とお月さまが見つめ合っているように見える夜。 1人1人の人に、大切に会っていきたいなと思った。目を逸らさずに。 私はもう何もかもだめだと思っていたけれど、少し体調も戻って、小さいことでも少しずつできるようになって(本当に小さいことばかりだけれど)、今は、ここまでは出来そうとか、ここからは無理だと何となくわかるようになって、そして、今は無理なことでも、いつか出来るかもしれないと思うと、少し気持ちが楽になった。 のそのそ、という感じ。時々、ぴとっと止まったり、うぇぇと泣いたりしているけれど。
ぼーっと座っていたら、金木犀の木の下から白い猫が突然現れた。思わずお互いの眼を数秒間見つめ合ってしまった。猫の方が少し走って、また振り向いて、そこでまた数秒間見つめ合ってしまった。 すみません。今日はこんなところで。 私の最近の日記は、まともなタイトルがついていないなと思う。
仕事と仕事との間に、思いがけず相当な長さの空き時間ができてしまった。建物の中に居るのも息が詰まるような気がしたので、仕事先の中庭の藤棚の下のベンチに座って、ぼーっとしていた。 帰り際に、西の空がとても印象的だった。燃えるような赤と書きたいところだけれど“燃えるような”と言うよりは、もう少し穏やかで優しい感じ。でもとても情熱的な感じ。 で、帰りは夜。火星と月を見て、何だかお互い呼び合っているみたいに見えるなぁと思いながら帰ってきた。 差し当たり、おそるおそるという感じで進んでいる10月のはじまり。景色やお天気のことしか書くことがないのか…?という感じの日記だが、その他のことと言ったら、ひたすら緊張して身をかたくしていたことくらいしか書きとめることがないし(でも、時間が経つにつれて緊張もほぐれてきたが…)。
今日から10月。机の下でこっそりと、右手と左手でおまじない(昨日の日記参照)をしていた。 私は、この夏、実際には旅行や遠出を全くしなかった(唯一泊まりがけの遠出をしたのも公用だった)。しかし、何だか、この夏はずっと旅をしていたような気がする。気持ちだけだが。何となく。しかし、今日で旅が終わりなのかと問われると、そういうわけでもないような気がする。どこかで何かがずっとつながっていくような気がする。 気持ちの上でだけ、だが。 「なぜ?」「なぜ?」と問い続けて、それに答えようとしない限り、私に明日は来ない…という気がした。しかし実際は、問い続けなくても、答えなくても、夜が明ければ朝が来て新しい1日がはじまる。 何だか今日の日記は日記ではないような気がする。しかし、このような気分。
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