風紋

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2003年10月30日(木) 一山越す / 1回限りの演奏 / 頭の中でメロディー / 故障中の上りエスカレーター / 呟きいくつか

や、やっと、ひ、一山越えた…。まだまだ山があるけれど、とりあえずひとやすみ。


所属している楽団の演奏会が近づいている。普通に過ごしていても、演奏会で演奏する曲のメロディーが自分の中で流れていることが多い。家では何度も参考演奏を聴いていたりもする。練習に参加している時は、何度もその曲を演奏し、メロディーの中に身を任せている。

けれど、よく考えてみると、聴きに来て下さるお客様にとっても、演奏している側の私たちにとっても、本番での演奏は「1回限り」のものだ。そこでどれだけのものを作り出せるか、お客様に何を伝えることができるか、演奏する側の私達が何を得ることができるか。1度限りの勝負だ。

お客様にとって、その曲は初めて耳にするメロディーだという場合も少なくないと思う。そんなお客様にも、この曲はこんなにも魅力的で素敵な曲だと感じていただきたいと思う。そんな演奏をしたいと思う。そのためには、私自身が私なりにこの曲に向き合っているのだという気持ちを持たないといけないのかなと思う(たぶん、メンバー全員が…)。


私の中では、いつも何かのメロディーが流れているように思う(そういう方は他にもいらっしゃるかもしれない)。

どうも、私に関しては、緊張している時や混乱している時には、一気にたくさんの曲のメロディーが短い時間で代わる代わるに、くるくると流れるということに最近気がついた。

ちなみに今日の仕事前は、私の頭の中では、ピアノソナタ「熱情」の終楽章(ベートーベン作曲)や、「be master of life」(aiko)、「motto」(JUDY AND MARY)、「カルミナ・ブラーナ」(オルフ作曲)、「百万本のバラ」(加藤登紀子)などのメロディーが流れていた。…ジャンルがばらばら。


上りエスカレーターの前まで来たら、故障のためかエスカレーターが止まっていた。階段に回るのも面倒だったし、エスカレーターの方が段の数が少ないので楽だろうと思い、そのまま故障中のエスカレーターを歩いて上ったのだけれど、何ともいえない違和感があった。きょとん、という感じ。

恐らく、エスカレーターというのは動いている状態が普通の状態である(人の目に触れ、人が使うときには)。だから、「動いているはずのものが動いていない状態だった」ことが違和感の原因だったのかなと思う。

しかし、あの時のあのエスカレーターについては、動いていないという状態が現実の状態で、そういう状態でしかあり得なかったのだから、あの時のあのエスカレーターはああいう状態であったのだし、ああいう状態でしかあり得なかったということを大切に思いたいと思った。

故障中の下りエスカレーターを歩いて降りる時の気持ちについては、今はよくわからない。


肩凝りがやや解消した代わりに、腰痛が再発?


何かをずっとさがし続けているような気がするのだけれど、何を、なぜ、さがそうとしているのかよくわからない。

「さがす」が、「探す」なのか「捜す」なのかもわからない。


「よくある話」であっても、当事者にとっては「よくある話」では済まない気持ちがあるというか、“確かに「よくある話」なんだろうだけれど、今は今で、私は私なんだよ”と言いたくなることがある。

逆に「よくある話だよ」と言われて救われることもあるのだけれど。

私については、という限定つきでの話だけれど。


2003年10月29日(水) 近付いて来て欲しくて、近付いて来て欲しくなくて / 武器 / 泣く資格? / へぇ…。

“腫れ物に触るように私を扱わないでよ。普通に接してよ”と、言いたくなることがある。

一方で、“そんなに踏み込んで来てもらうと困ってしまうよ。そっとしておいてよ”と、言いたくなることがある。

たぶん、私はその両方の気持ちを抱えながら、バランスを取りながら(時にはバランスを崩しながら…?)生きていっているのだと思う。

私の心にとまっている詩に、吉原幸子さんの「祈り」(詩集「魚たち・犬たち・少女たち」より)という詩がある。


祈り

わたしを解き放ってください
わたしは スティンドグラスの影にそまった
床のうえの 小さなしみをみつめているのです

愛がこわい やさしさがこわい
かみつぶす思いの悔いがこわい
わたしをいのちに誘わないでください
わたしはどこへも行かない 笑わない
ここに このじっとしたひとりの場所に
わたしを解き放ってください

わたしの肩に手を置かないで
ふりむかせないで
わたしのみつめている小さなしみを
親切な 大きな掌で
ふいてしまわないでください



(『続 吉原幸子詩集』(現代詩文庫 2003年,思潮社)(詳細)、p.53〜p.54より引用。本文3行目、12行目の「しみ」には傍点がついている)

この作品の背景などを全く知らずに、詩を読んで思ったことだけを書くのだけれど(吉原幸子さんの詩は私は好きなので、いくつかは知っているけれど)。

確かに私の中にこれに似たような気持ちがあることはあるのだけど、一方でそれとまったく逆の気持ち…つまり「肩に手を置いて」欲しい気持ち、「ふりむかせて」欲しい気持ち…も、私は持っている。しかし、時々は「肩に手を置かないで」「ふりむかせないで」と思うこともある。確かに。

また、私自身が、相手が「小さなしみをみつめている」時に、「肩に手を置かないで」「ふりむかせないで」という相手の切実な気持ちを無視して、「肩に手を置いて」しまっていたり、「ふりむかせようとした」り、「親切な 大きな掌で ふいてしまおうとした」り、ということをしてしまっているのではないかと振り返ると、申し訳なくてならなくなる。

少なくとも私自身については「肩に手を置いてほしい気持ち」と「肩に手を置いてほしくない気持ち」が、同居している(吉原幸子さんについてはどうだったのか、私にはわからないのだけれど)。

今、言えるのは、自分についても、自分でない人についても、「小さなしみをみつめている」時はそれを壊さないように大切にしたいということ…かもしれない。


私は私でしかないし、私以外の誰でもないし、私であることだけを武器にして闘っていかなければならないのだな、と最近思っている。


“私には泣く資格などない”と思ってきたけれど、よく考えると泣くのに資格など必要なんだったっけ…?


「トリビアの泉」を、初めてテレビで見た(でも少しだけ)。これが、あの「へぇ」か…と思うと、へぇ…と思った。へぇ…。


やや肩凝り。


2003年10月28日(火) 虹を見た / 近況報告 / 線路で遊んでいた鳩 / 今日買った本 / 印象に残った言葉

虹を見た。あんなにくっきりとはっきりとした虹を見たのは何年ぶりだろう。

ちょうど自転車で坂を上っている時に見つけた。だから、自分が全身をかけて虹に向かっているような気がするというか、坂を越えたら虹がひらけてくるというか、そんな感じだった。

うわぁ、虹だよ、虹、と、心の中で言っていた。このことを今すぐ誰かに伝えたいような、誰にも伝えずに1人でそっと秘密にしておきたいような、微妙な気持ちだった。

しばらくすると、だんだん薄くなって、消えてしまった。でも、虹を見ている時から、私は、遠からずそれは消えてしまうだろうとは思っていた。仕方ないことだが、悲しかった。でも、今日、こんな虹を見たことを心にしっかり焼き付けておけばそれでいいと思った。消えても寂しくないと思った。

でも、ちょっと寂しかったな。


10月21日の後の近況報告(できれば、10月21日の日記を先に読んでおいて頂いた方がよいかもしれない)。で、やはりどちらかというと、自分自身のための近況報告。

10月21日に、私はその時の私自身の状態を、「毎日が綱渡り」という感じで、「綱を右手と左手で掴んで、綱にぶら下がりながら、少しずつ前に進んだり止まったりしている感じに近い」と書いた。そして、10月21日の時点では「片手だけでぶら下がっているか、片手の指3〜4本くらいでぶら下がっている気分」と書いた。

で、その後の感じとしてどうなったかというと、結局、綱から手が離れて落ちてしまったという状態に一時は陥った。

綱から手を離すと、下には一度落ちたら戻ってこられないような真っ暗な闇があると思っていた。底なしで、落ちたらもう戻ってくることができないような。

しかし、今回はどうやら、はるか下にだけれど、底は一応あることはあったようで、ぶつかって「大怪我」をした(あ、実際に大怪我をしたわけではなくて、あくまで比喩ですからご心配なさらないで下さい…でも精神的にはけっこうな大怪我だったと思う…未だに思い出すのはきつい)。

落ちたきっかけになった出来事も、恐らく通常の状態なら普通に受け流せるような、そんな、本当に些細なことだったのだけれど、疲労が蓄積していたので大きく受け止めてしまったのか、あるいは、もともと私自身が落ち込みやすい性格なのか。たぶん両方だと思う(この日記および日記を読んで下さっている方には本当に全く関係のない出来事です)。

で、「大怪我」の回復は比較的早かったのだけれど、「大怪我」だっただけに、きちんとした回復には時間がかかるようで、手探りで、1つ1つのことをゆっくりこなしながら毎日を過ごしている感じがする。

所属している楽団の演奏会ももうすぐだ。体調が良い時には練習に参加している。楽器を演奏するための身体も、全面的にではないが、徐々に戻りつつあるような気がする。大勢の中で演奏すること、音の中に自分が溶けていくこと、その音を自分も発しているということは、何ともいえず幸せな感覚だ(でも、実はまだ復団手続きを済ませていない…そのうちに済ませよう)。

体調を考えると、最後まで演奏しきれるかという感じだが、命懸けでステージに乗ろうと思う。


朝、電車に乗ろうとしてホームにいて、ふと線路を見下ろすと、しばらくは電車が入ってこない線路で1羽の鳩が遊んでいた。レールの上を歩いたり降りたり、何かをつついたり、またレールの上を器用に歩いたり。

和やかな気持ちになった。


今日、買った本。

(1)『死者の贈り物 詩集』(長田弘著、2003年、みすず書房)(詳細

今は何とも言いあらわせない…。

(2)『色の名前』(監修:近江源太郎/構成・文:ネイチャー・プロ編集室, 2000年,角川書店)(詳細)。

ぱらぱらとめくっただけだけれど、私は「浅葱色」とか、「マゼンタ」とか、「躑躅色」とか、「スカイ・ブルー」とか、「フォゲットミーナット・ブルー」(勿忘草色)とかが好きかな。「スカイ・ブルー」と「フォゲットミーナット・ブルー」は、割と近い色であるらしい。


今日、印象に残った言葉

「出逢いも別れも夕暮れにあずけたら
自分の影を捜しに 西へ行く」


(「いい日旅立ち・西へ」(作詞・作曲:谷村新司/編曲:羽毛田丈史/歌:鬼束ちひろ…聴いてはいないのだけれど))


2003年10月21日(火) とりあえず / やっぱり近況報告

今、東の方の空が、妖しく美しいという感じに見える。ただの「美しい」ではなくて、少しの怖さもはらんだような。

…身支度をしよう。

(10月21日、6:10記。詳細はまた後日…かもしれないし…とりあえずここまで)


朝に空を見て、走り書きのように更新しただけなので、このままだとかなり中途半端だ。というわけで、差し支えのない範囲で近況報告など。読んで下さっている方のためにというよりは、どちらかというと自分自身のためにという気がする。

10月になってから相当な時間が経って、もう10月も下旬になった。何となく、私自身の調子が悪くなってきかけているかなぁ…と思う。しかし、どこがどのようにとはうまく説明できないところがある。うーん…。外出から帰ってきた後の疲労がきついとか、そもそも自分の身体が疲れていることもあまり自覚できていないような感じがするとか、それゆえに身体が疲労に適切に対処できていないとか(だから、疲労が積み重なったのかなと思う状態が思わぬ時に一気に出てきたりする)。

10月上旬に「毎日が綱渡り」と書いた覚えがあるけれど、どちらかというと、綱を足で踏みしめながら歩いていると言うよりは、綱を右手と左手で掴んで、綱にぶら下がりながら、少しずつ前に進んだり止まったりしている感じに近い。両手で掴めているときは両手で掴んでいるし、たまに片手だけでぶら下がっている時もあるし、稀に指一本でぶら下がっているような気がする時もある。「指一本でぶら下がっているような気がする時」は非常につらい。…気のせいかな。ちなみに今は、片手だけでぶら下がっているか、片手の指2〜3本くらいでぶら下がっている気分。

ゆっくり自然にやっていけたらいいなと思ってはいるのだけれど。

他の人の前で元気に見せようとしたり、平静を装って何でもないように見せようとするから、かえって疲れるのかもしれないと思う。だから、この場所に現れている私の方が素直だと言えば素直なのだけれど、かと言って、他の人の前での私は嘘の私だというわけでもない。それも私だし。

どんより落ち込んだり、少し前向きになったり。“そういうものなんだ”と言い切って片付けるには、少しつらい思いもある。

それでも、春から夏の頃を思い出すと、その頃よりはかなり元気だ。割とけろっとしていることも多い。そういうわけなので、…だから何なんだ?…、…適度に心配しなかったり心配したりして下さい…って、何のことやら…。日記も、書けるときは書きます。

近日中に、『色の名前』という本を買おうかなと思っている(近江源太郎, 2000年,角川書店)(詳細)。思っているだけ。

この春頃から、私にしては珍しいくらいに本を買ったり、テレビ番組をビデオに録画したりしているけれど、まだ開いてもいない本や見てもいないビデオもかなり多い。しかし、読める本は自分でも不思議なくらいのペースで読んで、もう一度読み直したりもしている。

(10月21日、23:20記)


2003年10月19日(日) ひとりごと

火星が、ひとりぼっちで寂しそうに見える。

…と思ったら、周りに他の星もちらほらと見えた。

そんなふうに夜空を見上げながら、楽団の練習から急いで帰ってきた。


2003年10月16日(木) 話すとか話せないとか / 飴玉3つ

やっぱりうまく書けないのだけれど。

「話したいけれど話せないこと」、「絶対話さないと決意しているけれど、話したいという気持ちがどこかに残っていること」、「話したいけれど話せないままでいること」、「『話したいけれど話せないと思っていたこと』を話すこと」、「『話したいけれど話せないと思っていたこと』の話を聴くこと」、「『話したいけれど話せないこと』を持っているんだろうと感じる人と向き合うこと」などについて、考えていた。

話せないことの中にも、大切なものがある、ということがあるのかもしれない。そう考えると、黙ったままでいることも、悪くはないのかもしれない。

しかし、“相手の迷惑になるかもしれない”とひるんだり、血を吐くような思いを感じたりしながらも、話したいという思いが湧きあがることもある。そういう思いを抱えながら、人と向き合うことがある。

逆に、相手が、“相手の迷惑になるかもしれない”とひるんだり、血を吐くような思いを感じたりしながらも、話したい(話さずにはいられない)という思いを抱えながら話しているのだろうという話を聴くこともある。そういう思いを抱えているのだろうと感じながら、人と向き合うことがある。

そういう時、言葉はなかなか出てこないし、出てきたとしても言葉はきちんとしたものにならないように思う。苦しい。でも、とても大切な時間を過ごしているのだとは思う。

だから生きていて下さい。

…などと考えながら帰っていたら、スーパーマーケットに寄るのを忘れていたことに、家に帰り着いてから気がついた。ふりかけがないから買おうかなと思っていたのだけれど。あと、風邪をひきやすい季節だから、生姜湯など買おうかなと思っていた。生活必需品がないというわけでないから、特に急がないのだけれど。

ふりかけも生姜湯も大切なもの。


久しぶりの学生たちと会う。最近どうなの?元気なの?という話から始まって、言葉をかけたり、話を聞いたり、励ましたり、励まされたり、きゃあきゃあと笑い合ったりしていた。

で、いつの間にか飴玉を3つもらっていた。嬉しいなぁ…。


2003年10月14日(火) 久しぶりの道 / うたた寝と風邪に注意 / 大切なこと / 忘れないこと

他部局の図書館に行くために、久しぶりの道を通った。一時期はこの道をかなり頻繁に通っていたこともあるのだけれど、ここ数年は歩いては通ったことがなかったし、あまり風景を見ることもなかった。

知らない間に、建物が改築になっていたり、新しい建物があったり、なくなった(ような気がする)建物があったり、変わらないものもあり。新鮮だった。風景が以前よりもくっきりはっきり見えるようになった気がするのは、お天気のせいだったのだろうか。


嬉しいできごとがいくつかある。とても喜ぶ。わぁい!

一方で、まだ連休明けの初日だというのに、帰ってきてからどっと疲労が出て、しばらくうとうととしてしまう。だめだよ…。で、起きてから何だか頭が重いような感じがする。

うたた寝は風邪をひくきっかけにもなってしまいます。みなさまあたたかくして、きちんとお休みください。

あぁ、この頭痛のような感じが風邪の前触れではなくて、単なる気のせいか、睡眠不足によるものであったらいいのに。そうでありますように(睡眠不足は、それはそれで困ってはいるのだけれど…)。風邪の前触れだったらどうしよう、と不安になる。

「休んでいれば、きっと治るよ」と誰かに言ってほしいような気持ち。やや弱気。


本当に大切なことは、誰にも言えないし、ここにも書けないような気がする。かと言って、ここに書いていることはいい加減なのか?大切ではないのか?と問われると、絶対に絶対にそんなことはない。ここに書いていることは、迷って迷ってしながらも、私が大切に思っていることだ(たとえそれが「コンタクトレンズをはめたままであるのを忘れて、思いっきり眼をこすりながら顔を洗ってしまった」とかいうことでも)。

大切なことの中には、言葉にできるものもあるし、できないこともある。人に話せることもあるし、話せないこともある。どちらでもいいような気がする。


私が今まで経験してきたことの中には、忘れた方がいいこともあるのかなぁ…と、ふと思った。

しかし、「忘れた方がいい」と頭では思っていても、どうしても忘れられないことだってある。

逆に、覚えておいた方がいいだろうことを忘れてしまっていたり。

忘れられないことが悲しかったり苦しかったりもするけれど、まるごと抱え込んでいければいいな、と、私は私自身については、そう思う。


2003年10月12日(日) 生きていて下さい…など / 練習メモ

今から書くことは、うまく書くことができるかどうかわからないのだけれど。

「どうか生きていて下さい。でないと、私が生きていられなくなってしまう」と言ってしまったことがある。

言った後で、相手に対して、すごく申し訳ないことを言ってしまったと思った。私自身が、どうしてそういう論理の帰結になるのか把握できていない部分もあるのに、その時はどうしても言わないといけない気がして言ってしまった。口に出した後で“何を言ってしまったんだ、私は…”と思った。

しかし、間違いなく私の中にこのような気持ちはある。それを表に出してもいいのかどうかは別にして。それはその相手のみならず、自分の周りにいる複数の人に対してもそんな気持ちがある。直接は知らない人に対してもある…かもしれない(よくわからない)。

人は、いつかいなくなってしまう。それは頭ではわかっている。でも、いなくなってしまうのはもう嫌だ。嫌だ…というよりも、悲しい、寂しい…どの言葉もあてはまらないような気がするけれど、胸が苦しくなるような、あるいは足もとからがくっと崩れるような、そんな感覚がある。

なぜ生きていて欲しいと思うのか、自分でもよくわからない。

自分の周りの人がいなくても、私はしっかりと毅然として生きていけるようにならなければいけないとは思っている。“あなたがいなくても私は大丈夫。心配しないでね”と言えるようにならなければいけないと思う。しかし、現実にはそうではない。いろいろな人に支えられて、助けられている。目に見えるところでも、見えないところでも支えられている。自分の周りの人がいなくなってしまったら、きっと私は生きていけない。…と思うが、現実を考えると、私の身体が生命を維持するための活動をやめない限りは、私は生きているのだろう。

なぜ生きていて欲しいと思うのか、自分でもよくわからない。

なぜ、人が生きていてくれないと、私自身も生きていられなくなるような気がするのかもわからない。

そもそも、なぜ自分がここにいるのかもよくわからない。不思議な感じ。

ただ、今は“生きていてください。生きましょう”としか。


楽団の練習に行った。以下、メモのような日記のような箇条書き。

・身体は、だいぶ動くようになってきたような気がする。
・しかし、「楽器を吹くための身体」が相当崩れているような気がする。以前はこうだったのに…と思うともどかしい。
・思っているように身体が動かず、頭と身体がばらばらに動いている感じ。特に腹式呼吸がうまく使えていない。
・たぶん身体の使い方がおかしい。高音が出にくい。
・昨日よりは緊張しなかった。何回か合奏に出たことのある曲だったからか?
・それでも、以前のような音が出るようになってきたような気がする…のは、合奏中で全体の中にいたからそう思うだけかもしれない(別の人の音を自分の音のように勘違いした可能性がある。でも、身体が昨日よりも自由に動くように思った)。
・今回、1曲だけ、以前別の団体で自分が演奏したことのある曲を演奏する。今日はその曲を合奏したのだが、その曲に限っては、ブレスのタイミングや指回しを身体が覚えているように思う(頭でなくて)。
・グロッケンの女の子が以前より随分上手になったな…と思った。
・音の中にいるのは、やはり幸せだ。自分自身が、メロディーの中に溶けていくような感じ。

「思っているように身体が動かず、頭と身体がばらばらに動いている感じ」は、特に楽器を演奏する時でなくても最近よく感じるように思う。自分の身体の状態を自分でよく把握できていないような…。

いや、まぁ、大抵はけろっと元気にしています。


2003年10月11日(土) 練習へ / いつぶつけた?

久しぶりに楽団の練習へ行った。継続してこの日記を読み続けて下さっている方には、既に私が相当練習をさぼってしまっている不真面目な楽団員であることがばれてしまっているだろう…。前回練習に行ったのはいつだったっけ(探さないで下さい)。

実は、今日の練習前は、相当落ち込んだ気分でいた。良くない考えだとわかりながらも、私の存在には何の意味もない…だとか、私が生きていても仕方ない…だとか思ってしまっていた(でも死にません)。そんな状態で、しかも体が楽器を吹く体勢になっていない状態で合奏に入って、しかも今日合奏した曲は私にとっては初見で、途中でぼろぼろ落ちまくってしまって(隣の人がきちんと吹いてくれていたので何とか譜面を追うことはできたものの)、あぁ、ほんとに、なんだか、なんだかなぁ…と思ってしまった。うまく吹かなくてはいけないと思うと、また張りつめた気分になって、何だか動悸も激しくなってきたような。途中で、ごーんと目眩がしたような。

けれど、今日は初めて本番前のテンションを味わうことができた。合奏の途中に、“私はステージの上でこの曲を演奏することができるのだなぁ…”と実感した。過去に経験した演奏会の高揚感を身体で思い出して、私はまたステージに乗ることができるんだ!と思った。それが何とも幸せだった(全然吹けてなかったくせに…)。

演奏会に出る自信は、まだない。でも、出たい。ステージ乗りたい。


左の膝に、ぶつけたような痣ができているのだけれど、いつどこでぶつけたのか思い出せない。数日前に、どこかで、何かに膝をぶつけて「あっ、痛っ」と呟いた覚えはあるのだが。


あ、ちょっと頭痛。


2003年10月10日(金) お寺に行く

とあるお寺に伺い、住職の方とお話をしてきた。私はそのお寺の直接の檀信徒ではないのだが、最近何度かお伺いするうちに偶然お会いする機会があり、顔を覚えていただいたのだ。一度ゆっくりとお話がしてみたいと思っていたので、嬉しかった。

まだ肩に力が入りながらも、いろいろお話させて頂いて、本当に良かった。今は言葉にすることはできないのだけれど。またいつでも来て下さい、と声をかけていただいて、はいありがとうございました、と心から言った。

時間が経てば忘れてしまうものだと、無意識のうちに思い込んでいた。けれど今は、時間が経ってからわかることや、時間が経ったからこそ深まる想いもあるのだと思っている。だって、数年前は、今、このようになっているとは考えもしなかったから。

私が過去に経験したある出来事は、確かに悲しいものだったが、悲しいだけで終わらせたくない。「悲しい」以外の部分にも目を向けていきたい。だって、悲しいだけのことではなかったから。悲しかったこととして話せる部分だけではなくて、ごく普通に話せる部分もあるのだから。でも、悲しかったことも忘れずにいたい…というか忘れられない。今も悲しいし。今はそう思っている。

(2003/10/11,23:55記。ちなみにこの日の夜は、1週間の疲労が一気に出てパソコンを開く力もなかった。あぁ、1週間長かったよぉ。せめてこれだけは書いておきたいと思ったので…)


2003年10月09日(木) ほどけた / 愛しい / 曼珠沙華

10月に入ってから「毎日が綱渡り」という気持ちが続いている。張りつめた気持ちだ。自分でも可笑しくなるくらい緊張していて、何でもないはずのことがとても大変に思われたりする。自分で勝手に決めたおまじないをしていることも度々ある。

でも、今日、ふっとそれがほどける時間があった。ほどける…という言葉が適当なのかどうかわからないけれど、固く結ばれたものがふっとほどけるというか、こちこちになったものがふっと緩むというか、そんな感じ。無理をしなくても笑顔でいられる。無理をしなくても優しい気持ちになる。無理をしなくても楽しく話ができる。そんな時間があった。

なぜそのような時間を持つことができたのか、よくわからないのだけれど、そういうことを感じることも大切にしていきたいなと思った(…単に週末が近いから緊張がとけただけ、という可能性もあるが)。

一方で、疲れた時には遠慮なく溜め息をつきたいと思う。


今まで、初めての人と出会うときは「愛しい」と思う気持ちよりも恐怖の方が上回っていたような気がする。でも、恐怖を少しだけゆるめて、愛しいと思う気持ちを大切にしたいと思う。

今日出会った人たちは、愛しかった。


曼珠沙華のことを少し前に書いたように思う。あれから少し印象が変わった。曼珠沙華は、ぎりぎりのところまで、人を惹き付けておいて、実際に近寄ると「私に近付かないで」と撥ね退けられそうな感じ。でも、本当は近寄ってきて欲しいと思っている感じ。

やっぱり私が花の気持ちを勝手に想像しているだけだけれど。花に合わせて自分の気持ちを示そうとしているのかもしれないな、私は。

素直になりたいです。


美しいお月さまですね。


2003年10月06日(月) 刈り取られた花とやるせない思い / その他いろいろ一言ずつ

電車に乗っていると、窓から、彼岸花や濃いピンク色の可愛らしい花(確認しようにも電車が速く通過していってしまうので名前もわからない)や、その他たくさんの草が見えた。“あ、いいな”と思った。が、しばらく行き過ぎると、数人の作業員の方が除草作業をしているのが目に入った。濃いピンク色の可愛らしい花も、刈り取られていた。電車から見ただけなので、その風景もほんの一瞬で通り過ぎていったのだが。

あれが私があの花を見た最後だったのかもしれないとか、あれが私があの場所をあのように見た最後の風景かもしれないとか思うと、やるせない思いだった。

「やるせない」という言葉を私の国語辞典で引くと、「気持ちを晴らす方法がない。切なくて苦しい」とあった。どちらかというと「切なくて苦しい」思いだ。

ただそれだけのことだと言えば、ただそれだけのことなのだが、書いておきたかっただけ。


日中の眠気がすごくて、久しぶりに電車の中でうとうととしてしまった。


疲れてどうしようもなくなった時は、大きく溜め息をつくことも、たまには許されるだろうと思う。

ふうぅぅ。


今日中にしてしまわないと命がなくなるとか、そんなことではないはずなのに、今日のうちにいろいろなことをしてしまいたいと思ってしまう。けれど、今日はもう寝よう。


そよ風」が、「ヤプース!」側のトラブルで、ちょっとうまく表示されなかったり、変なことになっています。詳細は「そよ風」の方に書きましたが、あの在り方が、現時点での「そよ風」の在り方です。


2003年10月04日(土) (題名がつけられない)

火星とお月さまが見つめ合っているように見える夜。


1人1人の人に、大切に会っていきたいなと思った。目を逸らさずに。


私はもう何もかもだめだと思っていたけれど、少し体調も戻って、小さいことでも少しずつできるようになって(本当に小さいことばかりだけれど)、今は、ここまでは出来そうとか、ここからは無理だと何となくわかるようになって、そして、今は無理なことでも、いつか出来るかもしれないと思うと、少し気持ちが楽になった。

のそのそ、という感じ。時々、ぴとっと止まったり、うぇぇと泣いたりしているけれど。


2003年10月03日(金) 一言だけの日記

ぼーっと座っていたら、金木犀の木の下から白い猫が突然現れた。思わずお互いの眼を数秒間見つめ合ってしまった。猫の方が少し走って、また振り向いて、そこでまた数秒間見つめ合ってしまった。

凛とした綺麗な眼だったなぁ。

猫の立場からすると、私の方が突然現れた人間なのかもしれないけれど。


すみません。今日はこんなところで。


私の最近の日記は、まともなタイトルがついていないなと思う。


2003年10月02日(木) 景色とお天気のことなどを書いた日記。

仕事と仕事との間に、思いがけず相当な長さの空き時間ができてしまった。建物の中に居るのも息が詰まるような気がしたので、仕事先の中庭の藤棚の下のベンチに座って、ぼーっとしていた。

いろいろと考えたり思いを巡らせたりしていたような気もするし、全然何にも考えずにただぼーっとしていただけのような気もする。気持ち良いお天気。風も心地良く吹いてくる。人工の小さな滝の水音も心地良く聞こえている。青い空を眺めていると、雲が割と早く動いていっていた。あぁ、いい空だなぁ。

いろいろごたごたと、大きなことから小さなことまで悩んだり考えたりしていて、“ぐわぁぁぁっ、もう何が何だかわけがわからないよ”と思う。とりあえず、“私は私だ”ということだけ覚えておけばいいかなぁと思ったりする。それだけでも大切にできたらいいなぁ。

えいっと気合いを入れて手を伸ばして、右手と左手を空にかざして、立ち上がった(近くを歩いている人から見ると変に見えるだろうなぁと、少し恥ずかしく思いつつ、何となくおまじない)。


帰り際に、西の空がとても印象的だった。燃えるような赤と書きたいところだけれど“燃えるような”と言うよりは、もう少し穏やかで優しい感じ。でもとても情熱的な感じ。


で、帰りは夜。火星と月を見て、何だかお互い呼び合っているみたいに見えるなぁと思いながら帰ってきた。


差し当たり、おそるおそるという感じで進んでいる10月のはじまり。景色やお天気のことしか書くことがないのか…?という感じの日記だが、その他のことと言ったら、ひたすら緊張して身をかたくしていたことくらいしか書きとめることがないし(でも、時間が経つにつれて緊張もほぐれてきたが…)。


2003年10月01日(水) 日記になっていない日記。

今日から10月。机の下でこっそりと、右手と左手でおまじない(昨日の日記参照)をしていた。


私は、この夏、実際には旅行や遠出を全くしなかった(唯一泊まりがけの遠出をしたのも公用だった)。しかし、何だか、この夏はずっと旅をしていたような気がする。気持ちだけだが。何となく。しかし、今日で旅が終わりなのかと問われると、そういうわけでもないような気がする。どこかで何かがずっとつながっていくような気がする。

気持ちの上でだけ、だが。


「なぜ?」「なぜ?」と問い続けて、それに答えようとしない限り、私に明日は来ない…という気がした。しかし実際は、問い続けなくても、答えなくても、夜が明ければ朝が来て新しい1日がはじまる。


何だか今日の日記は日記ではないような気がする。しかし、このような気分。


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