風紋

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2003年06月28日(土) そぼそぼ・しょぼしょぼ / フリーズ / フルーツグラノーラ / 「あの丘をこえて」 / 梅雨が明けたら

ここ数日、私がどんな感じで過ごしているか、というのを一言で表現すると「そぼそぼ」という感じで過ごしている。そぼそぼと歩き、そぼそぼと食べ、そぼそぼと喋り(できるだけ人前では元気に話すように心がけているが)、そぼそぼとパソコンのキーボードをたたく。時々は、そぼそぼと泣く。何だか変な形容だけれど、「そぼそぼ」という言葉が一番ぴったりするような気がする。

ちなみに、インフォシークの国語辞典(こちら)で調べてみると、「そぼそぼ」というのは「雨のそぼ降るさま。しょぼしょぼ。」ということらしい(こちら)。そして、「そぼ降る」というのは、「雨が静かに降る。しとしとと降る。 」ということで(こちら)、「しょぼしょぼ」というのは、「(1)小雨がふり続いているさま。そぼふるさま。 (2)無気力なさま。しょぼくれたさま。しょんぼり。 (3)目がはっきり開けられず、まばたきをするさま。」ということ(こちら)。ちなみに「しょんぼり」というのは「力なくさびしそうにしているさま。 」(こちら)で、「しょぼくれる」というのは「元気がなくみすぼらしい様子をしている。」(こちら)こと。…と考えると、どうも「そぼそぼ」というよりは「しょぼしょぼ」の(2)の意味に近いような気もしてきた。けれど、「しょぼしょぼ」よりは、もう少し乾いた感じというか、潤いのない感じ。意味としてではなく、語感として。

雨だけは「そぼそぼ」でなく、ぴしゃぴしゃ、ざあざあと降っているものの、私自身は「そぼそぼ」としている。日記を書こうとしても、言葉も「そぼそぼ」という感じでしか出て来なくて、単語の断片が意味のある文章につながらない感じだったので、書けなかった。もっとも、日記を書けなかったのは、疲れていたということも原因のひとつであるし、正直なところ、元気がなかったので何をどう書けばいいのかわからなかったということもある。元気になりたいと思う元気もないというか。気分転換もする気にならないというか。


昨日はお昼過ぎまでフリーズしていた。パソコンが、ではなく、私が。これも、変な形容だけれど「フリーズ」としか表現できないように思う。

起きた時から調子が悪くて、目は覚めていたのだけれどなかなか起き上がれなかった(起き上がりたくなかった)。頑張って家を出たものの、電車から降りようとする時に、どうしようもなく動くのが面倒になってしまった。気合いを入れて立ち上がったものの、ゆっくりゆっくりとしか歩けなかった。普段の倍くらい遅いスピードで歩いたように思う。午前中の授業には1時間の遅刻で入ったものの(遅すぎるよ)、昼休みも引き続きフリーズした状態。昼食も食べる気にならず、散らかった机の片付けもする気にならず、ただただ机の前で、何を見るともなく何を聞くでもなく、ぼーっと座っていた。昼からの勉強会は、「ちょっと調子が悪いから今日はお休みにしましょう」と伝えに行くのが精いっぱい。勉強会を休みにすると決めた後から、徐々に解凍(?)しはじめてきたような感じだったけれど、その後も「疲れていないと無理にでも思い込めば、とりあえずまっすぐ歩くことはできる」という感じだった。

パソコンのように「Ctrl+Alt+Delete」を押すと再起動するようであったらいいのにな、と思った。悲しいような嬉しいようなことではあるが、人間の場合はそういうわけにもいかないのだなと思った。

元気がないせいなのか、雨のせいなのか、視点が内向きになって自分のことしか見えない・考えられないという状態になっている。良くないなと思う。


昨日、シャンプーを買いにスーパーマーケットに寄ったついでに、カルビーのフルーツグラノーラを買った。いちごが入って味わい豊かになったらしい(こちら)。まだ食べていないけれど、以前に食べたことがある。美味しいと思う。果物はだいたい何でも好きです。


BGM:「あの丘をこえて」(星谷丈生:作曲)
2001年の吹奏楽コンクールの課題曲。軽やかで明るい曲。そんなに頑張ろう頑張ろうという気負いもないのに、とても前向きで、常に前に前に進んでいく感じが好き。まっすぐ一直線に進むのではなくて、転がりながら進む感じかな。

なぜこの曲を思い出したかというと、私自身が「丘」を越えたいから。と言っている割には今日も練習に行けず、そぼそぼと赤ペンで書き込みをしたり、そぼそぼとキーボードを叩いたりしていた。いつまで経っても越えられないんじゃないだろうか。


梅雨が明けたら、その先には何が見えるのだろう。何が掴めるのだろう。見ようとしなければ見えないのかもしれないし、逆に見ようとしなくても目に入ってくるかもしれない。掴もうとしなければ掴めないのかもしれないし、逆に掴もうとしなくても手に入るかもしれない。


2003年06月24日(火) まとまらないままいろいろ(紅茶/本/雨、など)

よく働いたのか、単に大学に長居してぼけっとしていただけなのか、よくわからない1日。

紅茶をたくさん飲む。火曜日はお茶を飲む日(←私だけか)。レピシエの194 ダージリン・オータムナルスペシャルDARJEELING AUTUMNAL SPECIAL,FTGFOP1(こちら)、378 マハガストット・PEKOEクォリティ MAHAGASTOTTE, PEKOE1 QUALITY 03-2(こちら)、380 ラブーケリー・クオリティ LABOOKELLIE, FBOP QUALITY 03-4(こちら)のローテーション。あと何種類かリーフを大学に置きっぱなしにしているのだけれど、どれも残り少ない。しかもどれも同じくらいの量が残っていて、どうしようかと思う。

注文していた本が届く。「愛する人の死、そして癒されるまで」(相川充著、2003年、大和出版)(詳細)。また後で読もうと思っていたのだけれど、一度読み始めると一気に読み進めてしまった(ところどころ飛ばし読みながら)。感想は…今はまだ言葉にならないことが多いので、敢えて書かずにおく。逃げているわけではない。

帰宅するタイミングを誤って、行きも帰りもかなりの雨の中を歩く羽目になった。小降りのうちに帰ればよかったのに、私は莫迦だよ…と思いながら、冷たい雨の中を歩いていた。時間が時間だったので、電車の中も、どんより疲れた重苦しい空気があって、逃げ出したい、早く下車したい…と思いながら電車に乗っていた。電車の中は、時々とてもつらい。

後ろ向きに全力疾走することもできるか、と、ふと考えてみる。

当たって砕けろというくらいの気概を持ちたいと思うが、砕け散ることをどうしても怖いと思う。砕けないかもしれないけれど。砕けてもいいのかも。

明日は、少しぱたぱたする予定。予定は未定。


2003年06月23日(月) 少しだけ(夏の花、今日の状態、言葉にならない)

ふらふらと歩いていると、夏の花がそろそろ咲きかけていることに気がつく。あそこの家の庭には向日葵(小さいけれど)。向日葵は花屋の店先にも並んでいる。そこの家の塀の上から見えるのは凌霄花(と、思うんだけれど)。

凌霄花という名前と花の姿が一致したのは、実はごく最近のことなのだけれど、「凌」は「しのぐ」、「霄」は「空」の意味らしい。空を凌ぐ花…か。憧れる。私も空を凌ぐくらいの勢いを持ちたいと思うが…。

昨夜は寝付くのにかなり時間がかかった。相変わらず昼過ぎまでかなり身体がだるいのをごまかして外出しているようなところがないこともないのだけれど、動こうとすれば動けないこともないので、少し頑張って動こうとしてみる。

言葉にならない思い、うまく言葉にすることのできない思いがある。言葉にならないのだから、誰かに伝えることもできないのだけれど、言葉にならない思いを何とか言葉にして伝えてみたいという強い思いもあって、でもやっぱりいくら言葉を使っても言葉にならなくて、ぐるぐるとしている。何か・何処かに向かいたいという感じがあるように思う。しかし同時に自分の至らなさや情けなさも思い、“どうせ無理だよ”と思って、沈み、でも諦めたくもなくて、混乱する。そんな感じ。

BGM:交響曲第5番/チャイコフスキー

追記:そういえば、今日は久しぶりに青い空を見たような気がした。「うっすら青い」という感じだったけれど。…ということを書こうと思って、忘れていた。

ついでにメモ:今週中に定期券を買うこと。


2003年06月22日(日) 力の入らない日 / 聴いた曲 / メモ / 御礼

力の入らない日。

しなくてはいけないことがあるのに、する気になれない。だが気分転換のために別のことをする気も起こらない(しかけたのだけれど、どうにも力が入らなかった)。かと言って、寝る気も起こらない(どうしても「しなくてはいけないこと」のことが気になって眠れないのはわかっているから)。小さいことからでもいいから少しずつやっていけばいいと頭ではわかっているものの、もう一切動きたくない…という気分。“もう、何もかもどうでもいいよ…”と思う一方で、それが本心でないことは自分でもよくわかっていて、本当は“どうでもいい”なんてことは全然なくて、情けなくて、ぺそぺそと泣いたりもしていたが、単に欠伸のついでに出た涙だということにしておこうと思う。

さっきから少しずつ「しなくてはいけないこと」に取り組んでいるものの、少し進んでかなり休んでという感じである。明日からどうしよう…。


音楽をよく聴いた日だった。以下、順不同で列挙して、少しだけコメント(というよりほとんど自分のためのメモ)。

・「喜歌劇“メリー・ウィドウ”セレクション」(F.レハール作曲/鈴木英史編曲)
 昨日から何回聴いただろう?というくらい何度も聴いている。爽快。

・「フラッシング・ウィンズ」(Jan Van der Roost作曲)
 最初から3小節目あたりで、「確かに風が眩しいほどに輝いた」という印象を受ける。全体的に爽やかな風の雰囲気がある。ところどころ、少し寂しげに見えたりもするけれど、それでも吹き続けるという感じ。最後は、風がひゅうっと吹きすぎて終わる感じ。
 
・「アルヴァマー序曲」(J.バーンズ作曲)
 あらゆる意味で自分の原点と言える曲。この曲に出会わなければ私は音楽を続けようとは思わなかったなと思い出す。実際に演奏すると、ものすごくきついのだけれど(2〜3回通して演奏したら、ばてる)。

・「ビザンチンのモザイク画」(F.チェザリーニ作曲)
 もうこの曲は二度と聴けないと思っていたけれど、思い切って聴いてみたら意外と動転せずに聴くことができた。それでも第2楽章(「エルサレムの寺院」)の冒頭の部分はつらい(「崩れ」という雰囲気がするから)。第3楽章に「復活の天使」と名前が付けられているのが、泣ける。

・「風紋」(保科洋作曲)
 私がこの曲を聴いた時に思い浮かぶのが「眼」である。あらゆるものから逃げず、あらゆるものをじっと見つめ続ける「眼」の存在を感じる。存在というか、姿勢というか。「風紋」ということで、風の様子を描写したかのような美しく流れるメロディーが展開される中に、ぴしっと1本、強い「眼」の存在を感じる。

・他、2〜3曲

もっと多くの曲を聴いたような気もするのだけれど、単に同じ曲を何回も繰り返して聴いていただけなのかもしれない。


メモ:
・「自信」と「保身」と「勇気」。何となく、今の自分にとってのキーワード。
・「全力」と「余力」って、字の形が似てるね…と言った人がいる。


日記のカウンタが4000を超えました。いつでもやめられる覚悟はしておかなければならないと思うものの、今まで続けられたのは素直に嬉しいです。いつも読んで下さっている方にも、時々読んで下さっている方にも、別の目的で検索をかけてこられて偶然にここに辿り着いた方がいらっしゃるならその方にも、ありがとうございます、と思います。


2003年06月21日(土) 幸せ / 練習に行った / 「メリー・ウィドウ セレクション」 / へなそうる /昨日のも

私は、時々は不幸せだと思うけれど、時々は幸せだと思う。だから幸せだ。何が幸せか、何が不幸せかはうまく説明できないけれど、この気持ちを幸せだと名付けてもいいかなという気持ちになることは時々はあるから。


楽団の練習に行った。演奏会後からずっと休みっぱなしだったから、ほぼ2ヶ月ぶり。かなり長い間休んでしまったので、少しどきどきしながら行った。私がいない間に、ぽつぽつとトラブルもあったり、コピー機が直ったり故障したりしていたらしいけれど、ほぼ前のままで、少し安心した(ただ、ちょうど行事と行事の切れ目で休んだので、楽譜を探すのが大変だった)。

さすがに2ヶ月全く練習していないと身体が思うように動かなくて、低音域はまだ良かったが中音域から高音域は音がどうしてもふらついてしまった感じがして、もどかしかった。あと、指もあまり上手に回らない。それでも、あぁ私は楽器を吹いているんだなぁ…と思うと、何とも言えず幸せだった。

最後の30分くらいだけだったが、合奏にも出た。私が以前から演奏してみたいなぁと思っていた曲を次の演奏会で演奏することになったらしく、今日はその曲の合奏もした。身体の使い方を忘れているので変なところに力が入って、最後は高音域の音が全く出なくなってしまった(←あまり良くない吹き方)のだけれど、楽しかった。

次の演奏会、のりたいなぁ。全曲でなくてもいいから。でも、どうだろうかと思うと自信がない。それでも今は、今できる範囲で楽しんでいければいいなと思う。同時に、いつ退団せざるを得ない状況になってもいいというくらいの覚悟をしておきたいとも思った。これが最後の合奏になってもいいというくらいの…覚悟というか緊張感というか。それは何に対しても言えるのかもしれない。考えたくなくもあるけれど。


BGM:「喜歌劇“メリー・ウィドウ”セレクション」(F.レハール作曲/鈴木英史編曲)
とにかく、めちゃめちゃ爽快な曲。「すがすがしい」とか「爽快」という言葉が似合う。最初のフレーズを聴いただけで何となく笑顔になる。個人的には最後のテンポが速くなるところが好きだ。最後で一気に花開くというか、解放された感じになる。どういう気分の時に聴いても大丈夫(?)な曲であると思う。

昔にピアノをやっていた時からの私の悪い趣味(?)なのかもしれないけれど、テンポが速い曲は、思いっきりテンポを速くした演奏の方が好きで、この曲も2種類の音源を持っているのだけれど、テンポの速い方が好きだったりする。ピアノをやっていた時は、丁寧さに欠けるとか雑だとかとよく注意を受けたものだけれど、今もそんなに変わっていない気がする。速くてもきっちり演奏できるのなら問題はないのだろうけれど、たぶん今でも速いフレーズだと、音符をすっ飛ばしたりだとか、指が滑って均等に動いていないとかということがありそうな気がする。


“へなそうる”は、こんな生き物(こちら


昨日の日付の日記を同時に更新したのだけれど、読んで欲しいような読んで欲しくないような微妙な気持ちでいる。この下の「この前」から飛べます。


2003年06月20日(金) turning point

あまり日記をうまく書ける気がしない。ものすごく不器用ながら一応書けたとしても、私以外の誰の役にも立たない記述だと思う。こういうことをこういう姿勢で書くのは良くないと思う。けれど、「書かないよりはましだ」というただそれだけの(直感的な)理由で書く。

発表。準備の段階で、発表資料を作成する時に新しい文書に古い文書を上書き保存してしまったり、メーリングリストの投稿先アドレスを誤って認識していて何度やってもメールが届かなかったり、どうもただで済みそうにない雰囲気はあることはあった。当日も、プレゼンテーションに使う予定だったノートパソコンが行方不明だったり(他の授業で使用中だったらしい。別のパソコンを使ったのだが)、体調がどうも良くなかったりと、いろいろとあったのだけれど、発表自体は乗り切った。というか、出来はともかくとして、少なくとも持ち時間の最初から最後までは居続けられただけと書いた方がよいか。

ただ、最後に、ある先生から頂いたコメントが、あまりにも的確に私の現在の欠点を把握された上でのコメントだったのが、かなりこたえた。欠点…という表現が適切なのかどうかわからないけれど、今の私の研究の一番弱いところであり、一番迷っているところでもあり、「これからどうしたらいいんだろうか」と思っているところでもある。だから、コメントを頂いて、かえって良かったというか、安心したところもあるのだけれど。

動転していたのであまり細かいことは覚えていないのだけれど、端的に書くと「あなたが研究を通じてアピールしていきたいことが見えない」ということだった。自分がこういうことを伝えたいということや、自分がこの研究を続ける動機・発表する動機は何なのかということが伝わってこない、と。特に私のテーマだと、他分野の人達や全然研究と関係のない人達にも伝えていくことも必要になるだろうし、そのあたりをもう少しはっきりさせる必要があるのではないか、と。…まさに今は、その辺に迷いがあるから、そりゃ聞き手にも伝わらないだろうよ、と思った。あぁ見破られたな、ばれる人にはばれていたんだなと、ある意味ほっとしたものの、どうしたらいいんだろうと途方に暮れて、発表後にそっと退室して研究室で泣いていた。泣きたくなんかなかったし、泣いてもどうしようもないことはわかっていたが、コントロールがきかなくなっていた(恐らくこの辺りが私の弱点だろう。まだ授業自体は続いていたので、落ち着いた後にもう一度戻ったが)。

私、誰に対して何を言っていけるの? 私は私の立場から何ができるの? 何を見るの?と思った。結局、私はどこまでも自分のためだけに研究をしていたのかもしれないなと思った。自分が救われたかっただけかもしれない。この経緯を、師とも姉とも慕う人に話すと「誰に向かってものを言っていくのか、誰に向けて論文を書くのか、誰のために論文を書くのか…ということではないか」と言われた。言葉に詰まった、というのが現状だ。

自分のことと近づきすぎてもだめだ。私は自分自身の状況との照合が強すぎるのかもしれないと思う。しかし、自分から乖離しすぎると上滑りになってしまう。

今まで、私は何もできなかったと強く思う(今までしてきたことを過小評価しているのかもしれないが、実感としてそう思う)。ただ、今までのことは今までのことで、次にどうしようと考えた時に、止まってしまう。これからも、何もできないような気がする。どうせ何をやっても無駄だという気もする。一方で、何かをしたいという思いがなくなったわけではない。あきらめたくないとも思う。

自分でも混乱して、ものすごく根本的なところで間違いをしているのかもしれないけれど、“もう何もできない”という思いと“まだあきらめたくない”という思いの間でふらふらしていて、今は、もう無理かもしれないという方に重みがかかっている気がする。次に何をしようと考えようとしても、“もう無理だろうし、もともと無理だったんだよ”という気持ちに悉く呑み込まれてしまう気がする。一方でそれが悔しいし不本意でもあるし。

立ち止まるのが生産的でないことはわかっているし、歩きながら考えることも可能だと思うけれど、少し立ち止まりたい…と思うのも現状である。休学・退学も考える。糸が縺れて解けないというか、…縺れた糸を解いてみたら実は切れていたというオチかもしれない。

午後からは話もできないほど疲れ果てて、時々はこっそり泣いて、途方に暮れていた。それでも20時くらいには大学に何となく残っていた。帰り着いたら疲れ果てて、やっぱり泣きながら寝た(…眠れなかったが)。

(2003/06/21,18:00記)


2003年06月19日(木) ごく簡単に今日1日のこと(話をしたことや、発表の準備をしたことなど)

ひどく起きづらい朝だった。頭痛がして。いつまで経っても起き上がれずに。ラジオからは「愛の夢 第3番」(リスト作曲)が流れていたような気がする。どこまでも優しい音楽だ…と思う。一度起きるとけろっとしていたのだけれど。

仕事へ。電車の中で、急に連絡が入ったりして、あー、うわぁーと携帯電話を片手に途方に暮れていた。明日発表だというのが気になっていたからか(その割にちっとも準備をする気が起こらないのだけれど)、何となくぼーっとしてしまう。

授業が早く終わったこともあり(もともとそういうスケジュールだったので)、教室に残っていた数名の学生と話をする。彼女たちは彼女たちなりに自分自身のこと、そして私のことをよく見ていたし、いろいろと考えていたんだなぁと思った。そしてやはり、4〜5月は彼女たちも私も必死だったのだなぁと思った。双方が必死で、模索して、空回りも随分したし。で、やっと「あの頃はああだったね」と冷静に振り返ることができるのが今くらいなのかね…と話していた。

随分悩んだし苦しんだけれど、彼女たちと出逢えて良かったと思った。私が彼女たちにどれほどのものを伝えられたのか自信はないし、随分迷惑もかけたけれど、かけがえのない一人一人だったと思った。特に、当初「この学生とは絶対にわかり合えない」と思っていた学生の1人と話ができたのが大きかったのかもしれない。彼女は彼女の視点でいろんなものを見ていたのだなと思った。あなたの夢が叶いますようにと願った。なんだか「まとめ」のようなことを書いたけれど、今日が最終ではないのだけれど…。

仕事の後、いつもは自宅に戻るが、今日は同僚と大学に一度行く。結局、17日の夜に最終更新をした分のPowerPoint資料は大学のパソコンの中にあった…ような気がする(あまり時間がなかったのでよく見ていないけれど)。お弁当を食べてレジュメの印刷。あまり出来のよいものではないのは自分で分かるのだけれど。これ以上手を入れる気がしない。ただ、少しずつ少しずつ、何かが見えてくるような気はしている。縺れた糸が解けていくような気はしている。思い込みかもしれないし、その結果明らかになったことは自己満足なのかもしれないけれど。その後、どこに向かってどう進むか。もう進めなくなるという道もあるいはあるだろうか。

帰り際に「さよならあんころもち またきなこ」と言って研究室を出てきたのだけれど、そう言えばこのフレーズをどこで私は知ったんだったっけ?と思う。「さよなら」はとてもつらくて寂しくて、少し口に出すのが怖い言葉だけれど、こう言うと少し楽に別れられそうな気がする…のは、後に「また」と言っているからだろうか。


2003年06月18日(水) 発表前の不手際? / メモ / 「南町から」

明後日に発表を控えている。が、どうにもやる気にならない。今日は、たまたま出歩く用事がなかったのと、雨がひどくなるとの天気予報が出ていたのとで、1日自宅にいた。自宅で作業をする…つもりだったのだけれど、どうにもこうにもやる気にならず、うだうだとしていた。

夜になってから、初めて大変なことに気が付いた(…って、言うほど大変でもないのだが)。USBのフラッシュメモリに入っている、PowerPointで作った発表資料の最終更新日時が、一昨日の夜なのだ。昨日も大学でちょこちょこと作業していたので、最終的に更新したのは昨日(17日)の21時頃だったはずなのだけれど、昨日修正した分が反映されていない。…昨日修正した分、どこへいったのだろう? 大学のパソコン、MO、USBのフラッシュメモリと、バックアップを取ろうとして移動とコピーを繰り返すうちに混乱して、新しいものに古いものを上書きしてしまったのか…。なんだか「石橋を叩きすぎて壊す」という感じが…。

もしかすると、大学に行けば、どこかに昨日の更新が反映された分があるのかもしれないけれど、今から大学に行けないし、明日も夜にならないと行けない。それに、すでに全部消している可能性もある。明日は夜に資料の印刷をしたいし、それまでは仕事だから資料の修正もできないし。

まぁ、昨日の作業内容って、一昨日のものを小幅に修正しただけだったし、何よりも、昨日最終的に修正した分をプリントアウトしたものを持ち帰っていたのが幸いだった。これに基づいて、一昨日のPowerPoint資料を小幅に修正している途中。 …どっちにしても、そんなに大したものでないし、大した違いはない…。

ちなみに、今は私はほとんど仕事は大学の研究室(にある大学のパソコン)でしていて、自宅ではあまり仕事をしない。でも、自宅で仕事をしないとは言い切れないので、データはフラッシュメモリに保存して持ち運んでいる。しかし、これはあまりに小さいので、すぐになくしてしまいそうに思うので、大学から戻る時は必ずバックアップを取るようにしている。…たぶんその過程で誤って上書きしたんだろうなぁ。


「とじる」「ひらく」ということ、「とじられる」「ひらかれる」ということについて、とりとめもなく考えをめぐらせていた。まとまったらここに書くかもしれないし、書けないかもしれない。

夜に、ふっと、ひどい怖さに襲われる。昨日と同様の。時々、そういうことがある(と言っても割り切っているわけではない。割り切っていたらそもそもここに書かない)。そういう時は、まず書くこと、というより思いを言葉にすることが怖くなる。でも、怖さに耐えかねて、言葉を発してしまうこともある。Webを持ってからはしばしば。言葉を発したから解放されるものでもないけれど。


BGM:「南町から」(作詞・作曲・歌/平松愛理)
午前中に仕事もせずにWebを読みふけっていて、ふと聴きたくなった。自分がこの曲の音源を持っていることさえ忘れてしまっていたのだけれど。静かに強い歌だと思う。今はこれだけしか、書けないけれど。


2003年06月17日(火) 一言だけ

こういうことを書くのは、良くないのかなという気もするが。

時々、ひどく怖くなる夜がある。何がどのように怖いのかを言葉にすることを、自ら避けざるを得ないような(日本語が変か? 言葉にできないのではなくて、してはだめだと思うからできないし、しない)。怖いと言葉にすることも怖いかもしれない。ただただ、無事でいてくださいと繰り返し思う。「そんな夜もあるさ」とは割り切れない夜。

せめて、できるだけのことはできるうちにしようと思うのに。何をどこまでやっても足りない。ごめんなさいと思う。

これだけの記述で終わるのも…という気はするものの、「あまりたくさんのことを書いてはいけないように思うけれど、これだけは書いておかなければならない」と思ったので。

追記:昨日(6月16日)の日記を、昼間に書きました。


2003年06月16日(月) 日付感覚がない / こんな日 / 元気のない向日葵 / 「もりのへなそうる」 / そんな日々

一日中、「今日は19日の月曜日である。1週間後は26日の月曜日である」と思い込んでいたのは、先月のカレンダーが頭の中に入ったままになっているからだろうか。

私の時計は、右に小さく日付けの表示が出るようになっているのだけれど、表示されるのは日だけである(月や曜日は出ない)。で、1ヶ月を31日として回っているようで、1ヶ月が30日だった月の直後には修正しないといけなくなる。…のだけれど、3月(=2月の直後)に修正する気が起こらなくなってしまった。どうしても修正したくなくなってしまった。だから、今は「実際の日付−4」の日付が表示されているので、ほとんど役に立たない。

気がつくと6月半ばになっていた。焦りばかりが募る。少しでも動ける時に無理をしてでも動いておかないといけないという焦りがいつもある(…しかし、効率よく動くことができたことがないのだが)。


1日中、身体がどうしようもなく疲れていた。あれもこれもしなければならない…と思うのに、どうにもこうにもやる気が起こらなかった。早めに帰って早めに寝ようとしたのだけれど、なぜかいつまでも寝つけずに、のたうちまわっていた。


以下、「そよ風」より転載、および補記。

今日、かなしかったこと。
花屋の店先で、元気のなくなった向日葵の鉢植えが300円に値下がりしているのを見たこと。この前は700円で売られていて4つか5つあったのに、今日残っていたのは1つだけだった。700の上から300と赤字で書き直した札をつけて、1つだけ佇んでいた。寂しそうだった。値下がりしていたのがかなしかったのか、向日葵が元気がなくなっていたのがかなしかったのか、誰もそれに気がついていないだろうと思ったのがかなしかったのか、よくわからない。


思い出した本
「もりのへなそうる」(作:わたなべしげお/絵:やまわきゆりこ,1980年,福音館書店)(詳細
中学生か高校生のころに友達が「ぼか、へなそうる」と口癖のように毎日言っていて(なぜかわからないが)、それで「それ何?」と尋ねて、本の題名(というよりその本に出てくる恐竜の名前)だと知った。その時に一度読んだことがあるのだけれど、あらすじはほとんど覚えていない。強烈に覚えているのが「ぼか、へなそうる」という言葉だけ(たぶん「僕はへなそうるです」という意味…だと思う)。今日、駅のプラットホームで「ぼか、へなそうる」という言葉がふと頭に浮かんで、探したくなった。しかし「へなそうる」って、いい名前だなぁ。居たら会いたいよ。


言葉になるところで、言葉にならないところで、いろいろと感じたり考えたりしている。昔のことを思い出したり、今のことを考えたり。言葉にならないことも時にはあるだろう。沈黙するしかないことも。気持ちばかりが先走って意味のある言葉が発せないことも。焦ったり、もどかしく思ったりしても、焦らず待とうと自分に言い聞かせている。最近はそんな日々。言葉になったところで、それはどこまでも自分のためのものでしかないのかもしれないけれど。

ここのところはこちら(「風紋」)に書くだけの気力がないことも多いけれど、「そよ風」は時々書いています。

(2003/06/17(Tue.)17:40記…どうしようもなく眠いから、眠気覚ましに書いてみた。なんだか「今、自分は何をするべきなのか」ということをあまり考えたくない気分。それは逃げなのかもしれない。しっかりしなければならない、毅然としていなければならないとは思う。したいことなら、ないでもない。へなそうるを探しに行くとか)


2003年06月15日(日) 近況 / 「感傷的な唄」 / 「五つのラメント」と、終わらないということ / 読んだ絵本と読みたい本 / 呟きを二つ

昨日(14日)は、自主的に休日出勤(?)してちょこちょこと仕事を片付けていたのだけれど、今日になってどっと疲労が出てしまう。疲労している場合ではないのに。起きて仕事をするだけの体力もないし、全身から力が抜けていくようなだるさとか、休もうとしても気持ちばかり焦って休めないとか。

…最近、休日のたびに同じことを書いているような気がする。でも多分大丈夫だと思うし、先月に比べれば随分と楽ではある(少なくとも外に出たときは元気だから。だから昨日も外出したのだが…)。そのうちもとに戻ると思う。


思い出した音楽
川崎洋の詩による五つの女声合唱組曲「やさしい魚」より“感傷的な唄”(作詩:川崎 洋/作曲:新実徳英)

男声・女声・混声と3種類あるのだけれど、私が歌ったことがあるのは女声合唱版。しかも5つの曲から成る組曲なのにこの曲しか知らない(…のだけれど、“やさしい魚”も好きな詩です。美しくてかなしいですが)。ちなみに私は、Mezzo SopranoとAltoの間をふらふらしていたのだけれど、この曲を歌った時にはMezzo Sopranoを歌っていた。

好きな部分を切り取ることができないほど、この詩の全体が好き。その中でも、「風が吹くから 生きよう そう思う前に もう足が駆け出していた」という冒頭部分が好き。そして、途中の部分で、「体温計のケースに忍ばせて 手渡そうとした恋文は」という部分も、ちょっとお茶目で好き。

その中で、印象に残っているのが最後のこの部分。今でも、不意にこの部分の詩とメロディーが浮かんで離れないことがある。静かな気持ちになる。

「死んでしまって
肉体もすっかり滅びても
私の
もう此の世のものではない耳に
美しい歌だけが聞こえてくる
そんな祈りが
もしかして
適えられないだろうか」



今日、聴いた音楽
男声合唱組曲「五つのラメント」(作詩:草野心平/作曲:廣瀬量平)

「ラメント」(lament[英],lamento[伊])とは、 インフォシーク英和辞典によると「悲歌」という意味があり(こちら)、また、ヤマハの音楽用語辞典(こちら)によると、「〔1〕死者を悼む音楽の総称。〔2〕嘆きの音楽」であるそうだ(こちら)。

話は飛ぶ。昨日、数年前に私が書いた日記をふと見つけて読んでみた。もちろんWeb上ではなくノートに記したもので、書いた当時は特に誰に見せようと意図していたわけではなかった。今でも誰にも見せていない。けれど、自分の中に渦巻くもの(?)を誰かに伝えたい、伝えられなくてもいいから外に出したい、自分の中に留めておけないという気持ちが常にあったような気がする。

読んで、笑った。可笑しかったのではない。面白かったのでもない。うまく説明できないけれど、気が付いたら笑っていた。ノートの中にいる自分も確かに自分であり、今の自分と同じ人間だ(と思った)。そして、今の自分にとって鍵となる(と思っている)言葉がところどころに記してある。なぁんだ…とも思った。この時にもっとこうしていれば…と思わないでもない。けれど、「こうならなかった」ことも「なった」ことも含めて、その延長線上に今の私がいる。それは別に後悔はしていない。

「数年前の自分」を見ている「今の自分」がいて、そして、数年後に、またこのようにして「今の自分」を見ている「数年後の自分」がいるのだろう(私が無事に生き延びることができていたなら)。目眩がしそうだが。

と考えると、「終わらないんだなぁ…」と思った。何がどう「終わる」「終わらない」と思ったのか説明できないけれど…。「今」から「昔」を振り返ってみても、その「今」も「未来」になれば「昔」になるのだろう。その時には、「今」における「昔」は「昔の昔」(?)になっていて、振り返り方(捉え方?)も変わっているかもしれない。そう考えると、「今の自分」が「昔の自分」を振り返ることや、「今の自分」を形に残すこと(言葉にしたり、写真を撮ったり)は、やや恥ずかしいことでもある。それでも、少なくとも恥ずかしさは越えたいと思う。今は、今を大切にしようと思う。言葉にできることも、できないことも含めて。…あぁ、まとまらない。

で、なぜこの曲なのかというと、数年前の日記を読んでいる時に、ふとこの曲集の5曲目「Volga」のメロディーが浮かんできたから。「歴史は時に逆流し」と、各パートが何度も何度も掛け合いをする箇所のメロディーが。なぜだかわからないけれど。で、いま聴いてみると、その後に「三重写しの しかし悠々の母なる動脈」という歌詩があった。三重写し、か。さんじゅううつし、か。

音楽と考えた内容との間に全然関係はないのかもしれない。ただ、ふっと浮かんだというだけで。


読んだ(?)絵本
『たれゆくままに−きがつくとそばにいる』(末政ひかる,2001年,小学館)(詳細1)(詳細2
「たれぱんだ」の絵本の3冊目。久しぶりに本棚から引っ張り出した。とにかく好き。理由もなく好き。

読みたい本
(1)『そして、星へ行く船』(新井素子著,1987年,集英社コバルト文庫)(詳細
何度も読んだ本なのだけれど、引っ越しの混乱で、どこにしまい込んだか忘れてしまった。今読みたいのに。
(2)『約束』(村山由佳著(絵:はまのゆか),2001年,集英社)(詳細
そういえば1年くらい前から読みたい本だったのに…。この本の一部分の文章だけを読んだことがあって、その部分がものすごく印象的だったので。


数日前に「そよ風」に書いたことだけれど。

私は、あなたの役に立つようなことは何ひとつできないのかもしれない(というかできていないし)。けれどあなたに逢えて良かったと思う。微妙に意味不明な文だが、そう伝えたい人が何人か(何人も?)いる。いつもありがとうと思う。


私が記憶していることの全てが私にとってやさしい形で残っているわけではないけれど、それでも私はいま幸せだし、生きていけるのだなぁと思うことがある。


2003年06月11日(水) ふらふら歩く / とにかく書こう / さやかでさえわたる月

あまりよく眠れないままに、お昼前に家を出てきてしまった。ふらふらと歩く。

コンビニで飲み物その他を買ったのだが、ぼーっとしていて、「984円です」と言われて、お釣りのないように出そうと思ったら小銭をぶちまけてしまい、店員さんに迷惑をかける。

ムラサキカタバミ(という名前なのだと思う)の花が好き。

あまりにも地面すれすれのところを飛ぶ蝶々を見つけて、どうしても気になってしまい、思わず立ち止まる。ずっと見ていても、あまり高いところを飛ぼうとしない。かと言って、翅が折れたり弱ったりしているのかというと、どうもそうでもなさそうだ。未練を残しつつ見送ったが、無事で居てくれればと思う。

もうしばらく歩くと、不意に、自分の後ろの方で、かさっという音が聞こえて、何か落としたのではないか、何か蹴っ飛ばしたのではないかと気になって、思わず立ち止まる。周りを見回す。何も落としていないし、何も蹴っ飛ばしてはいなかったようだけれど。もしかすると、これまで私は気がつかないうちに、何か大切なものを落っことしてきてはいないかとふと思う。時々は振り返っているつもりだけれど、落っことしたことにさえ気がついていないのではないかと。それでも、今は今、見えるものを大切にしたいと思う。


とにかく書こう、書かねばと思う。どれだけ苦しい思いをしても、言葉にしようと思う。それは論文の形にするということでもあり、ここで日記を書こうということでもある。私の文章は下手だし、全然上手に書けないような気がする。でも、書かなければ。別に義務感でそう思っているのではなくて、嫌々そう思っているわけでもなくて、…何と言えばいいのかな。自分には書く必要があると自分が勝手に思っているだけ。で、多少の不安や恐怖はあるのだけれど、それを抱えたままでも書きたいし、書かなければならないと。それは、どこまでも自分のためのものでしかないものなのかもしれないけれど。

少なくとも、今は私は、論文を書かなければ話にならない立場にはいる(公的(?)には)。

自分の立場から、何ができるのだろうか。何をどう見ることができるのか。そこでそれに、どう対峙することができるのか。

ある討論で、私自身が、自分の考えを言葉としてうまくまとめることができない状態のまま、その場にそぐわない(と私自身に感じられるところの)発言をしてしまって、後で苦い思いをした…ということもあって、何となくそんなことを考えていた。気に病んでいたのは私だけだとも考えられるが。

とにかく、今、書けることを書こう。私が書きたいから。


日中は、気が張っているのか、あまり無理をしている自覚もなく元気にしているが(といっても作業効率はおそろしく悪い)、行きしな・帰りしなは気が抜けるのか、疲労がすごい。今日は風が強かったということもあり、何度も蹲りそうになりながら帰ってきた。先行きが不安。死にもの狂いで頑張るしかない。

空には月。この前より丸くて、随分と明るい。「さやか」とか、「さえわたる」とか、そういう印象を受けた。


2003年06月10日(火) 梅雨入り / 別に、誰に宛てるわけでもない呟き / BGM(「美しい訣れの朝」「ぐるりよざ」)

だいたいの地方で梅雨入りしたということだった。昨年も確か同じ頃、火曜日に梅雨入りの知らせを受けたような覚えがある。なぜ覚えているかというと、その日にちょうど髪型を今のように変えてもらったから。


別に、誰に宛てるわけでもない呟き。

ずっと、答えをさがし続けてきた。今も、さがし続けている。これからも、さがし続けるだろう。さがして見つかるかどうかわからない。けれど、わからなくてもいいような気もする。もしかすると答えをさがし続けることが答えなのか?と思ったりもする。

やはり今年度は休学すればよかったと思ったり、けれども少なくとも今年度は休学せずにやっていくことを私自身が決めたのだから…というより、年度はじめの時点でここまで自分が調子を崩すとは思っていなかった(ちなみに体調はそれなりに元に戻っているので心配なさらないで下さい)。

なぜ人は死んでしまうのだろう。そして、なぜ今、私は生きているのだろう。なぜ私は、今のところ死なないでいるのだろう。生きている私は、死ぬということをどう考えればいいのだろう。死んでしまった人とどう対峙すればいいのだろう。きっと答えは1つではない。

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。


BGM:
(1)女声合唱組曲「美しい訣れの朝」(阪田寛夫作詩/中田喜直作曲)
私自身が一度歌ったことがある。改めて楽譜を取り出してみると、楽譜の冒頭には、“詩の内容は、夫に先立って死んで行く、妻の回想による「レクィエム」或は「女の愛と生涯」といったものを、五章に分けて書いてある”と書かれていた。それ以上の説明はできないけれど。久しぶりに聴いて、胸が熱くなった。今は私は合唱はしていないけれど、もし今、この曲を歌う機会が与えられたなら、私はどのように歌うだろうかと考えた。

(2)吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」(伊藤康英作曲)


2003年06月09日(月) そんな夜も

夜、眠ろうとする直前のこと。眠ろうとして部屋の灯りを消した後のこと。

翌朝起きる予定の時間に合わせて携帯電話のアラームをセットしようとして、携帯電話をさわっていたら、ふとした拍子に通話ボタン(?「受話器をあげるマークのボタン」)を押してしまった。当然ながら、携帯電話は「ツー」という音を発した。その音を聞いて、何だか急に寂しいような、懐かしいような、急き立てられるような気持ちになった。電話をかけてもいいんですよと言われているような気がした。ここで何か番号を押せば誰かに電話がつながるのだと思った。この勢いで、どこかの誰かに電話をかけて声を聞きたい、話がしたいと切実に思った。もう夜も遅いし、私自身も明日は早起きしなければならないし…と、すんでのところで思いとどまったけれど。それでも、なかなか気持ちの高ぶりを抑えることができずに、何度も何度もボタンを押して、「ツー」という音を聞いていた。

そんな夜も、たまにはあるさ。


2003年06月08日(日) 仕事と体調の因果関係 / 雨に不安 / 「風と海との対話」(ドビュッシー)を聴いて、対話について / 「そよ風」に写真

しなければならないことが多くあるから体調が悪いのか、体調が悪いからしなければならないことが多くあるのか、よくわからなくなってきている…と、とある人に相談すると、「前者でしょう?」と言われた。確かに、このように文章にしてみると、どう考えても後者はおかしい。ただ、後者であるという気持ちもどこかにあるように思う。

恐らく、正確には「もともと体調があまり良くないように思われるところに、しなければならないことが圧し掛かってきているから、余計に気が滅入るし、体調の悪さも改善しないように思われるし、しなければならないことの多さ・重大さも実際以上に大きく感じられる」というところだと思う。

もう少し軽やかにやっていけたらなぁと思うけれど、頑張らなければ…という圧力に押し潰されそうになっている。今月は、今後さらに無理のかかる状況になっていくような気がするので、どうなってしまうだろうと不安になっている。不安がっていても仕方がないから全力を尽くすしかないのだけれど。

土曜・日曜と、どこにも出かけなかったのに、ずっと身体がだるくて、食欲もなくて(というかお腹は減っているのだけれど食べ物を目の前にすると食べる気が起こらない)、眠ろうとしてもいろいろなことが気になって十分に休めなかった。どうしたら元気になるの?


来週(今週?)は、雨が続くらしいと週刊天気予報で知って、なんだかとても気が滅入って、あせって、不安になっている。たかだか天気予報でこんなに気分が左右されているのも自分でおかしいなと思うのだけれど。雨が続くと、私はまた大学や仕事に行きたくなくなるのではないだろうか、それでも気合を入れて行くしかないんだろうな…と思うと、正直なところ、ものすごくつらくなる。先のことばかり心配しても仕方がないのだけれど。今日は今日を大切にするしかないのだけれど。

…たぶん大丈夫です。頑張ります。


今日聴いた音楽
「海−3つの交響的スケッチ(I.海の夜明けから真昼まで,II.波の戯れ,III.風と海との対話)」/ドビュッシー作曲(ウラディーミル・アシュケナージ指揮/クリーヴランド管弦楽団)

「対話」ということについて、ぼけっと考えていたのだけれど、「対話」という言葉を聞いて思い出す曲がこの曲の3楽章「風と海との対話」(それとBill Evansの「自己との対話」というアルバム)だったので、まずこの曲を聴いた。このようにタイトルがついていると、本当に風と海とが対話をしているように思われる。弦楽器と管楽器、金管楽器と木管楽器といったような各グループのかけ合いがあまりにも自然であるからか。寄せて返す波。その上を吹きぬける風。ずっと対話が続いているような。

「対話」というのは、辞書的には「双方向かい合って話をすること。また、その話」らしい(インフォシーク国語辞典より)。それでも、風と海との間に対話が成り立つのだったら…と、考えていた。

風と海とが対話するのであれば、「双方向かい合う」のは、別に、生きている人間と生きている人間でなければならないということはないように思う。風と海とでもいいのかもしれないし、人間と自然とでもいいのかもしれないし、生きている人間と死んだ人間とでもいいのかもしれない。私は、「対話」のポイントになるのは「向かい合って」ということだと思う。別に位置的に向かい合う位置になくてもよくて、…何と言うのかな。心が向かい合って(?)いればいいように思う。

「話をする」と言っても、別に具体的に言葉のやり取りを行わなくてもいいのかもしれない。意味のある話を続けなくてもいいのかもしれない。どちらかがどちらかに一方的に話をして、黙って聞いてもらうというのも、あり…なんだろうか。

ここのところ、いろいろな人と対話をした。直接会ったり、会わなかったり、電話をしたり、メールをいただいたり。いっぱい助けてもらった。支えてもらった。言葉は十分でなくても、まるごと抱えてもらったという気がした。

だから、私も彼女と対話を続ける勇気を出してみようかと、そう思った。今まで逃げてきたところはあるけれど、いつかは「向かい合う」ことをしなければならないのだろう。返事は戻ってこないけれど、それでも気まぐれにふっと戻ってくるかもしれない。

…やっぱり、あんまりうまく書けた気がしない。技術的に上手く書けた書けないでなくて、伝えたいことをきちんと伝えられるように書けたような気がしない。それは、自分の中でも考えがまとまっていないことだからかもしれないし、この場所ではあまり具体的な事実を出して話をするわけにいかないことがあるからだということもある。“何となく伝わって下さい”というのは、あるいは、とても甘い考えなのだと思う。それでも、意味のつながった整然とした言葉ででなくても、対話を続けたくて…対話を続けたいという意志があることを示したくて、日記を書いているようなところがある。

読んで下さっているだけでも、随分助けられています。日記に依存してはならない、いつ日記をやめなければならない事態になっても大丈夫なようにある程度の覚悟は決めておかないといけないと思いながらも、今は、随分この場所に、そして読んで下さっている方に寄りかかってしまっているような気がします。

もう少ししっかりします。


そよ風」に、少しだけ写真を追加した。また空の写真ばかりですが。空と花くらいしか、ここには掲載できないですが。


2003年06月06日(金) 月が好き / とあるところから届いた、とある書類の、とある1行の記述

月が好きだ(夜に空に出る「月」)。特に理由などないが、とにかく好きだ。好き…というのとは少し違うかもしれない。この気持ちを何と呼べばよいのかわからないけれど。

帰りが夜になる時は、たいてい帰り道のどこかで空を見上げて、月を探してしまう。自転車をこぎながら空を見上げていて、フェンスにぶつかりそうになったこともある。月が見つかると嬉しいし、励まされるような気持ちになる。こんな素敵な月を見ることができるなら、もう少し生きていてもいいとさえ思う(別に明日死ぬとも思っていないけれど)。

何日に見るか、何時頃見るかによって、同じ「月」と呼べるものであっても、受ける印象が全然違う(受ける印象が違うのには、私自身の状態も反映しているに違いないが)。と言っても天文学の知識があるわけではないけれど(私は地学の天文分野は苦手だった)。

2〜3日前に見た月は、「そよ風」の方には「細い」と書いたけれど、ぱっと見たときの印象は「薄い」だった。触ってみたいけれど、うっかり触ると、ぺきっと折って壊してしまいそうな気がした。だから触れないと思った。

今日に見た月は、それよりも少し太く(?)はなっていたけれど、今度は本当に「薄い」と思った。少し濃い黄色、あるいはオレンジ色。そして形が「夢」という字に似ているように思った。


とあるところから届いた、とある書類の、とある1行の記述を見て、改めて悲しみを感じ、胸が締め付けられるような気がして、ぼろぼろと泣いていた(というか、それは、泣きポイント(?)では全くなかったのだが)。

誰かに助けて欲しい気持ちがありながら、この行き場のない気持ちをどこかで吐き出して誰かに受けとめてほしいと思いながら、一方で、そのことには決して他の人に触れられたくはないし、自分自身が思い出すのさえつらくて言葉にならない。それは私が弱いからなのかもしれない。でも、これからもこうして生きていくとしか、今は言えない。

この記述だけでは何が何だかわからないと思うけれど、これ以上のことはここでは書けない。ただ、こういう気持ちになったことだけは書いておきたいと思った。


BGM : Terpsichore (Margolis / Praetorius)


2003年06月03日(火) 紫陽花に励まされて / 紅茶飲み比べ(ヌワラエリヤ2種) / 研究の話をした / NHK教育「福祉ネットワーク『喪の悲しみを癒す』」

今日も割合落ち着いた気持ちでいられた。かえって少し不安な気持ちになるのはなぜだろう。そして、6月のカレンダーを見て、ぞっとしている自分がいる。

いつも通る道に、青い紫陽花が咲いている(5月26日の日記に書いたものと同じもの)。何気なく歩いていると見落としてしまいそうな目立たないところにささやかに咲いているのだけれど、とても美しく毅然と咲いている。

最近は、毎日毎日、この紫陽花を見るたびに、何だか励まされているように思う。支えられているように思う。こんなに綺麗な紫陽花を見ることができたのだから、今日も何とかやっていけるだろうと思う。

あまりに思い入れが強いので、この紫陽花の花が最盛期を終えたら(…要するに花が終わってしまったら)、自分はどうなってしまうだろうかと、ふっと不安になる。ちゃんとやっていけるのだろうか、と。しかし、一方では、別に私の中の何がどう変わるわけでもないでしょうと、苦笑している。この紫陽花が咲く前も私は生きていたのだし、紫陽花が花を終わらせても、私は生きているだろう。紫陽花が咲いているか咲いていないかにかかわらず、私は私として生きていくだろうし、そうするしかないのだろうと。

自分でもうまく説明できないし、自分でもよく分からないのだけれど、今は、この紫陽花がやがてしおれてしまうということがとても恐ろしくて不安なのだ。そしてその日は、必ずやってくる。それが不安で。自分でも、莫迦みたいだと思うけれど。

せめて今は、まっすぐにその紫陽花を見つめていたいし、最後まで見届けたいと思う。


大学で、レピシエの378 マハガストット・PEKOEクォリティ(MAHAGASTOTTE, PEKOE1 QUALITY 03-2)(こちら)と、380 ラブーケリー・クオリティ(LABOOKELLIE, FBOP QUALITY 03-4)(こちら)を飲む。どちらもセイロンヌワラエリヤのお茶だということで、飲み比べて日記に書こうと、ラブーケリー・クオリティは1杯、マハガストット・PEKOEクォリティに至っては3杯飲んだのだけれど、「何か違う感じがする」ということしかわからない。…と、私はラブーケリー・クオリティの方がやっぱり好きかな?ということと。

ただ、マハガストット・PEKOEクォリティの方は、レピシエのサイトの説明に書かれているような印象と違う印象を受けるので、私の淹れ方が悪いのかもしれない(何となく「味が薄い」と思う。香りは爽やか…な気がするが)。もう少し修行します。


ラブーケリー・クオリティを飲んでいると、他の大学から、私の研究テーマに関連した研究を今後しようと思っているとおっしゃる方がいらっしゃって(先生を経由して紹介いただき)、しばらくお話をする。自分自身が、迷いながら研究を進めているので(いや、進めているか?止まっているかも…)、「このへんは自分でもわけがわからないし、ちょっとどうだかと思うんです」というところをそのままお話したので、お役に立てたかどうか自信がない(あちらの方が私より長く研究を続けておられる方でもあるし)。しかし、テーマについていろいろとお話ができたのは、私自身は楽しかった。自分自身が「これ、どうなんだろう?」と思っていることについても詳しく御存知で、「どうなんでしょうか」「どうなんでしょうね」「こういうところに問題があるのでしょうね」とお話しているだけで楽しかった。アプローチの仕方は私と少し違っていらっしゃるそうだけれど。私の研究室には私と近いテーマの人が少ない(「いない」という感じが強い)ので、貴重な機会を頂いて嬉しかった。

不完全でも、恥ずかしくても、自信がなくても、できるだけ人と話をするようにしたいと思った。近いテーマの人とも、遠いテーマの人とも、全然研究と関係のない人とも。


夜8時からのテレビ番組を見たかった(さらにビデオ録画もしたかった)ので、急いで帰る。見たかったのは、NHK教育テレビの「福祉ネットワーク こころの相談室 『喪の悲しみを癒す』(1)−書いて受け入れた 妻との死別−」(こちらこちら←いずれリンク先が変わるような気がする)。

家族で晩御飯を食べながら見ていたので(しかも晩御飯のメニューが鉄板焼だったので)、テレビをつけてはいたものの、番組の内容はほとんど把握できなかった。しかも換気扇をつけていたので音も聴きにくかった。後でゆっくりとビデオを見てみようと思う(きちんと録画されていれば)。

現時点ではその程度にしか見ていないので、番組自体については、今は何とも言えないのだけれど、悲しみは乗り越えるものなのかな、というのが少し疑問だった。言葉の問題に引っ掛かっているだけなのかもしれないけれど、自分自身がいつまで経っても「乗り越えて」はいないように思うから。しかし、それは私が悪いのかもしれない。「乗り越え」ないと、やっていけない部分もあるのかもしれない。でも、悲しい気持ちを隠さずにおもてに出すことは大事なことなのだろうと。あと、何の関連もないのだけれど、ふと、前の家の解体の場面や当時の気持ちを久しぶりに思い出して、胸が苦しくなった(←比喩だが)。

あと、来週と再来週に関連したテーマで番組が放送されるそうだ。見てみたいと思う。


2003年06月02日(月) 今は今を生きようと思った / さくらんぼの木の思い出 / 紅茶を飲んだ(レピシエ380 ラブーケリー・クオリティ)

今日は、割と…どころではなく、かなり元気だったような気がする。元気過ぎて、かえって不安になったくらいだった。大切なことを見落としていないかとか、根本的な原因が解決していないのにこの元気がいつまで続くのかとか。身体が動くうちにできるだけのことをしようと、かえって焦っているところもある。

今は、今を生きよう、と、ふと思った。今はただ、今を大切に、精いっぱい生きようと。「長期的な見通しを持たずに生きる」というわけでは決してないのだけれど。うまく言葉にできないのだけれど。今は、今を生きようと思った。


アメリカンチェリーを食べた。堂々とした大きな実と、しっかりとした歯ごたえと甘酸っぱい味が好き。

この日記を書き始めた時に住んでいた家には、アメリカンチェリーの木…は、さすがになかったけれど、さくらんぼの木があった。正式名称は知らないけれど、ちゃんと食べられるさくらんぼが毎年実をつけていた。花が咲き出すのは普通の桜が咲くよりも早くて、5月の初旬、ちょうど小学生の家庭訪問の時期になると、つやつやと光る、赤い(朱色の?)さくらんぼの実をつけていた。一部は鳥に食べられたりもしたが、運良く鳥に食べられる前に収穫したものは、きれいに洗って食べた。甘くて美味しかった。曾祖父が園芸が好きで、曾祖父が植えたそうだ。

あの木も、たぶんこの家には持ってきていない。一緒に切り倒したのかもしれない。好きだったのに。


久しぶりに、紅茶の葉を買いに行くだけの元気とゆとりが、ほんのちょっとだけ出た。というわけで、今日買って飲んだお茶は、レピシエの380 ラブーケリー・クオリティ LABOOKELLIE, FBOP QUALITY 03-4(こちら

店頭で、「何かお探しですか」と尋ねられ、「特に何かを探してというわけでもないのですけれど、新しい紅茶が欲しいなと思って」と答えた時に、薦められたもの。割と飲みやすい。何杯でも飲めそうな気がする。「黒糖のように柔らかい飲み口に、ふくよかで複雑な表情の滋味が響き合います」そうだ。黒糖のようかどうかわからないが飲み口は柔らかく、複雑かどうかはわからないがふくよかな感じがした。よい香りで、美味しい。
ヌワラエリヤがどんな特性を持つ紅茶なのか、いまひとつよくわかっていないのだけれど、先日飲んだ378 マハガストット・PEKOEクォリティ MAHAGASTOTTE, PEKOE1 QUALITY 03-2(こちら)より好きかな?と思った…かな? …同時に飲んでみないとよくわからない…。

ちなみに378 マハガストット・PEKOEクォリティの方は、先日に全部飲み終えたと思い込んでいたのだが、今日見てみると、まだ若干残っていた。びっくりした。後日飲み比べてみようと思う。

紅茶、あまり多くの種類を飲み比べているわけではないし、私は飲んだらどれもそれなりに美味しいと思ってしまうので、…言葉にして記述するのは難しい。


2003年06月01日(日) 友達と会う / 青い紫陽花が好き / 「交響組曲“シェエラザード”」 / 「そよ風」に写真

何もできないまま5月が終わって、知らない間に6月になっていた。焦りが募る。

少し外出して、友人と会っていた。彼女と会うのは半年ぶり。いろいろ話を聞いてもらって、ひとつひとつを大事に受けとめてもらえて、いろいろ言葉をかけてくれて、励ましてくれた。嬉しかった。不安はまだ残るけれど、「頑張るよ」とも「大丈夫だよ」とも言えなかったけれど、帰り際は笑顔で手を振ることはできた。今度会う時までには、必ず元気になっていたい。


私は、たいていは、ピンク色の花が好きだ(濃いピンク色でも、薄いピンク色でもかまわない)。桜やムシトリナデシコなど(そう言えば「浜梨」もピンク色なのかな。見たことはないのだけれど←ハンドルネームなのに)。でも、紫陽花は、青色が好き。ピンク色のも好きだけれど、それよりも青い紫陽花が好き。青い紫陽花が咲いているのを見て、幸せな気持ちになっている。


今日聴いた音楽
「交響組曲“シェエラザード”」/リムスキー・コルサコフ作曲(モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団,指揮:ローレンス・フォスター,バイオリン:ロナルド・パターソン)

駅まで家族を迎えに行こうと車を出したら、ちょうどNHK-FMでかかっていた曲。全部聴きたかったので、かなりゆっくり車を走らせた(後続の車の迷惑にならない程度に。もともと私はスピードをあまり出さない)。が、第4楽章の途中で家に着いてしまった。仕方がないので、ガレージに車を入れた後、エンジンを切ってラジオだけかけてじっくり聴いて、最後まで聴いてから家に入った。

曲の背景をあまり詳しくは知らず、曲だけを知っている(しかもほとんど第4楽章だけ)だけなのだけれど、かなり以前に、フィギュアスケートのある大会でこの曲が使われているのを聴いたことがある。それで、この曲の4楽章を聴くたびに、何となくフィギュアスケートの選手が氷上を滑走しているイメージが湧く。

中低音が堂々とした旋律を奏でるところがかなり好き。あと、こんなふうにバイオリンを弾くことができたなら恰好いいのになと思う。


そよ風」に、写真を追加した。台風の日の空が美しかったので、空の写真ばかりですが。

「そよ風」、私の中では、「『風紋』に書くまでもないような、あるいは『風紋』に書くのが気恥ずかしいような呟きを書く場所」であり、「リアルタイムの呟きを書く場所」でもあり、「時々、写真を掲載する場所」でもある…と思っている。


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