風紋

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2003年05月20日(火) 桜の木の下を歩いて / 「エルサレム賛歌」

今日は、変なことを書くかもしれない。

夜、桜並木の下を歩いていた。他にもたくさんの人が、この道を歩いていた。そういえば私は、4月に、この道を、桜の花を愛でながら歩いたことが何度かあった。

ここを歩いている人の中で、これが桜の木であると思いながら歩いている人がいったいどのくらいいるだろうかと思った。そこに桜があると気がつきながら歩いている人が、いったいどのくらいいるだろうかと思った。ほとんどいないのではないか、と思われた(もしも、そういう人がいたなら失礼だが)。

桜の木というものは、花が咲いていないと、そこに桜の木があるということをほとんど意識されないように思うのは、私の気のせいなのかもしれない。あなたはそれで寂しくはないのですか?と、桜に聞いてみたい気持ちになった。

しかし、誰がどう思おうと、誰も気がつかなかったとしても、あなたは桜であり、桜としてそこにあるし、桜として日々を過ごしているのだから、それでいいのかもしれないと思った。

でも、私は、私自身は、少しくらいは、あなたが桜の木であって、桜の木としてそこに居ることに気がつきたいと思った。それは私の自己満足かもしれないけれど。

でも、桜は、1年に1度、花を咲かせる時には、人は注目するから、まだいいのかもしれないとも思った。「まだいいのかもしれない」という言い方は変だけれど。花を咲かせない草や木は、いつまで経っても気付かれることがないのかもしれないと思うと、悲しくなった。それは、私自身があまり華やかな人間ではなくて、いつまで経っても花を咲かせること(←比喩)ができそうにないように思うから、気になっただけなのかもしれない。

しかし、花を咲かせない草や木も、それに名前がついているということは、その存在に気が付いた人が確かにいるのだから、それでいいのかもしれないと思った。…いや、本当は、誰に気付かれなくてもいいのかもしれないし、それに、名前など、どうでもいいのかもしれないとも思った。あなたが何という名前で、どういう種類の植物なのかは、本当はどうでもよいような気もする。それがそれとしてそこに在り、それとして日々を過ごしていて、それが私の目の前にある、私と対峙しているというだけで、奇跡的なことだし、すごくありがたいことなのかもしれない。

その存在を意識していなくても、実はそれは自分にとってとても大切なものであるということがあるかもしれないとも思った。あるんだろうと思った。

例えば、私が毎日通る道にあるあの木。いつもは、その木があるということを特に意識せずに、何気なくその道を通っている。いちいち見上げたりすることはしない。けれど、仮にその木が何らかの事情でなくなってしまったとしたら、日々泣き暮らすということまではないかもしれないけれど、胸に大きな穴が開いたような寂しさや、どうしていいかわからない不安な気持ちを抱えるかもしれない。…と書いたけれど、本当は日々泣き暮らすかもしれない。幸いにして、今はその木は変わらずその道にあるのだけれど。

なくなってから、それが自分にとってかけがえのないものだったと気が付いても遅いのに、それはわかっているのに、それでも、周りを見ようともせず自分のことしか見えていない私。せめて、それが自分にとって大切なものであることは忘れずにいたいのに、それさえも忘れそうな私。それを失ってしまったなら、自分が自分でいられなくなるほど悲しくなるだろうのに。


「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と思うことと、それを言葉にすることと、その言葉を誰かに向かって発することと、そんなことを思ってはいけないと思う気持ちがあること…について、ぐるぐると考えていた。

この続きを書きかけたのだけれど、今はどうしても続きが書けないので、また後日にする。

(↓「後日」(5月24日)に追記した部分)
あまりうまく言えないけれど、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と言葉にして誰かに伝える時、必ずしも相手に「そんなことないよ。あなたは大切なんだよ」と言ってもらうことを望んでいるだけではないように思う(もちろん、多少はそう望んでいると思う)。しかし、だからと言って、「そうだね。あなたは居ても居なくても同じだし、あなたの存在には何の価値もないね」とはっきりと言われてしまうと、物凄い衝撃を受けて二度と立ち直れなくなってしまうように思う。

それは、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」というのが、ある面では真実で、でも、ある面では真実ではないからなのかなと思う。人が1人いなくなっても、朝になれば太陽はいつもと変わらず昇るし、夜になれば月がいつもと変わらず現れるだろう。私は3度の食事の時間になればいつもと変わらずお腹が減るだろうし、食べることもできるだろう、夜になれば眠くなるだろうし、時には周りに合わせて笑うこともあるだろう。けれど、大事な人がいなくなることは、私にとっては言葉にできないくらいの衝撃だろうし、何年経ってもその人のことを話すたびに泣くだろう。全部推測形で書いたけれど、これは私の実体験でもある。

なのになぜ、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と誰かに言いたくて仕方がなくなることがあるのかしらと思う。それは、誰かに答えを求めているからではないような気がする。何か言って欲しいわけでもないような気がする。ただ、そういう気持ちには行き場がないから、自分の中で抱えておくには苦しすぎるから、ただ黙って受け止めて欲しいだけなのかもしれないと思う。

実際に、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と感じる時は、どうしようもないくらいにつらいというか…つらいというより、寒い。もしくは机の下に潜って小さく身をこごめていたい気分である。…最近、私自身がよくそう思うからなんだけれど。

ただ、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と思うこと自体が甘えであり、許されることでないのかもしれないと思う。その気持ちを黙って受け止めて欲しいと思うのも私のわがままであり、ただ甘えているだけなのかもしれないと思う。

それが真実なのか真実でないのかはともかくとして、とにかく今は、ありがたいことに私の命は続いている。だったら、居ても居なくても同じであったとしても、私の存在に何の価値もなかったとしても、ただひたすらに生きていかなければならないし、そうするしかないのだろう。


BGM:「エルサレム賛歌」(アルフレッド・リード作曲.アルフレッド・リード指揮/東京佼成ウィンドオーケストラ)
私はこの曲を演奏する機会に3度も恵まれた(担当していた楽器は3回とも同じだが、所属団体は3回とも違った)。それぞれにそれぞれの思い出があって、その時々の記憶が甦ってくるような気がする。回を重ねるに従って上手に演奏できるようになった…と思いたいけれど、どうなんだろう。2回目に演奏した時の記憶が自分にとって一番鮮明で、でも思い出したくないくらいつらかったことのあった時期で、…だから何なんだ、私。

この曲を聴くと、最後に“昇華する”という印象を受ける。何が何に昇華するのかよくわからないけれど。

最後まで書いて、書いたり消したりして、改めて、私は何をやってるんだろうと思った。弱音ばっかり吐いて。全然しっかりできなくて。言い訳ばっかりして逃げてばかりで。しっかりしなければ。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)