風紋 もくじ / この前 / この後
今日は、変なことを書くかもしれない。 「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と思うことと、それを言葉にすることと、その言葉を誰かに向かって発することと、そんなことを思ってはいけないと思う気持ちがあること…について、ぐるぐると考えていた。 この続きを書きかけたのだけれど、今はどうしても続きが書けないので、また後日にする。 (↓「後日」(5月24日)に追記した部分) あまりうまく言えないけれど、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と言葉にして誰かに伝える時、必ずしも相手に「そんなことないよ。あなたは大切なんだよ」と言ってもらうことを望んでいるだけではないように思う(もちろん、多少はそう望んでいると思う)。しかし、だからと言って、「そうだね。あなたは居ても居なくても同じだし、あなたの存在には何の価値もないね」とはっきりと言われてしまうと、物凄い衝撃を受けて二度と立ち直れなくなってしまうように思う。 それは、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」というのが、ある面では真実で、でも、ある面では真実ではないからなのかなと思う。人が1人いなくなっても、朝になれば太陽はいつもと変わらず昇るし、夜になれば月がいつもと変わらず現れるだろう。私は3度の食事の時間になればいつもと変わらずお腹が減るだろうし、食べることもできるだろう、夜になれば眠くなるだろうし、時には周りに合わせて笑うこともあるだろう。けれど、大事な人がいなくなることは、私にとっては言葉にできないくらいの衝撃だろうし、何年経ってもその人のことを話すたびに泣くだろう。全部推測形で書いたけれど、これは私の実体験でもある。 なのになぜ、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と誰かに言いたくて仕方がなくなることがあるのかしらと思う。それは、誰かに答えを求めているからではないような気がする。何か言って欲しいわけでもないような気がする。ただ、そういう気持ちには行き場がないから、自分の中で抱えておくには苦しすぎるから、ただ黙って受け止めて欲しいだけなのかもしれないと思う。 実際に、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と感じる時は、どうしようもないくらいにつらいというか…つらいというより、寒い。もしくは机の下に潜って小さく身をこごめていたい気分である。…最近、私自身がよくそう思うからなんだけれど。 ただ、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と思うこと自体が甘えであり、許されることでないのかもしれないと思う。その気持ちを黙って受け止めて欲しいと思うのも私のわがままであり、ただ甘えているだけなのかもしれないと思う。 それが真実なのか真実でないのかはともかくとして、とにかく今は、ありがたいことに私の命は続いている。だったら、居ても居なくても同じであったとしても、私の存在に何の価値もなかったとしても、ただひたすらに生きていかなければならないし、そうするしかないのだろう。 BGM:「エルサレム賛歌」(アルフレッド・リード作曲.アルフレッド・リード指揮/東京佼成ウィンドオーケストラ) 私はこの曲を演奏する機会に3度も恵まれた(担当していた楽器は3回とも同じだが、所属団体は3回とも違った)。それぞれにそれぞれの思い出があって、その時々の記憶が甦ってくるような気がする。回を重ねるに従って上手に演奏できるようになった…と思いたいけれど、どうなんだろう。2回目に演奏した時の記憶が自分にとって一番鮮明で、でも思い出したくないくらいつらかったことのあった時期で、…だから何なんだ、私。 この曲を聴くと、最後に“昇華する”という印象を受ける。何が何に昇華するのかよくわからないけれど。 最後まで書いて、書いたり消したりして、改めて、私は何をやってるんだろうと思った。弱音ばっかり吐いて。全然しっかりできなくて。言い訳ばっかりして逃げてばかりで。しっかりしなければ。
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