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2011年05月29日(日)
熊谷和徳 TAP LIVE『FREEDOM, MUSIC, and DANCE CARNIVAL』

RHYTHMIST/K.K. 熊谷和徳 TAP LIVE『FREEDOM, MUSIC, and DANCE CARNIVAL』@Shibuya O-EAST

熊谷和徳 Featuring. K.K.QUINTETの初お披露目。そのメンバーと言うのが、池田潔(Ba/Sleep Walker)、菱山正太(Key)、類家心平(Tp)、千住宗臣(Drs)…類家くんと千住くんが熊谷さんと共演て、願ったり叶ったりですがな。

熊谷さんのTAPソロで幕を開けたファーストセット。K.K.QUINTETと2曲、そこにラティール・シーとOLAibiが加わってのビーツセッション1曲、転換してDJ BAKUとのHIP-HOPインプロ1曲。休憩を挟んでセカンドセットはTAPPERS RIOTのメンバーたちと「TOHOKU」、山下洋輔のソロ1曲、山下さんと熊谷さん、ラティールで「My Favorite Things」、山下さんと熊谷さんで「ボレロ」。K.K.QUINTETが戻ってきて1曲、ラストはFreddie Hubbardの「Gibraltar」からK.T.S. SAMBA、アンコールではTAPPERS RIOT、K.T.S. Tappers揃っての文字通りフロアが地響きを起こすTAP。構成も練られた飽きのこない約3時間。いやーよかった、大雨の中行ってよかった……。

圧巻だったのは「My Favorite Things」と「ボレロ」。その前の山下さんのソロもすごくて、このセクションはフロアの空気が一変しました。熊谷さんが「レジェンド、山下洋輔!」と紹介して山下さんを呼び込んだんだけど、もうあっと言う間に持っていきました。アホな感想になってしまいますがホント、オーラがある。出てきただけで、その場にぱっと華が咲いたかのような雰囲気になる。それは、山下さんの活動を知っているひとたちが発する雰囲気を、山下さんのことを知らないひとたちも感じ取って敬意を示したもの、と言うこともあるのだろう。しかし実際演奏が始まれば、彼が「レジェンド」と言われる所以が瞬時に伝わる。雰囲気を読むと言う作業は不要になる。音が景色を見せてくれる、フロアはそれに正直に、素直に反応する。いい光景だった。

「ボレロ」はラヴェルのあれですが、あのリズムを刻む熊谷さんのTAPと山下さんのピアノが殴り合いをしているかのような激しさ。ベジャール以外の振付けで「ボレロ」を観たのも初めてだったので新鮮でした。山下さんのピアノで「ボレロ」を聴けたと言うことも嬉しかったな。

K.K.QUINTETはバリッとジャズで、類家くんのソロも沢山聴けた。熊谷さんがリズムを踏むので千住くんはどう機能するのかなと思っていたのだが、涼しい顔してポリリズムをぶっこんできてました…ひぃー。勿論周りをよく見ている上で変則ビートを噛ませてくるのでアンサンブルとしても非常にスリリング。来週またDCPRGで観られるので楽しみです。

そういえば終盤熊谷さんがバンド側に振り返って両腕を挙げて、それは感情の動きに伴った自然な動作だったようなんだけど、熊谷さんをしっかり見ていた千住さんは何かのキューと思ったのか一瞬えっと言う顔をして自分の背後を振り返ってた。誰もいませんよー(笑)。そして池田さんの方を見て「展開変えるの?このまま行くの?」とアイコンタクトして笑っていたのがおかしかった。その間当然のようにリズムは微塵もブレず。いいわー(笑)。このクインテットは今回限りではないだろうから、これからの展開も気になります。

当日配布されたリーフレットには「ALL FOR TOHOKU 故郷の仲間達へこのショウを捧げる」と書かれていた。熊谷さんは仙台の出身。ご実家も、仙台での教え子も多数被災している。「言いたいことは沢山あったんだけど…いいや、と」。言葉にならない思いは全てTAPに込めている。静かに響くリズム、嵐のように激しいリズム。美しい響きを持ったTAPは祈りそのものでした。

ちなみに震災二週間後の3月25日、PIT INNで行われた『2011 春 梅津和時・プチ大仕事』でのセッション「東北」音源はDIY HEARTSで販売されています。こちらは梅津和時さん(同じく仙台出身)の曲。熊谷さんの「TOHOKU」、梅津さんの「東北」。どちらの音も胸に迫る。
・『梅津和時 × 熊谷和徳「東北」』DIY HEARTS:東日本大震災義援金募集プロジェクト



2011年05月28日(土)
『藤城清治 自宅スタジオ展』

『藤城清治 自宅スタジオ展 ―生きるよろこびと幸せの展覧会』

洗足駅から、ひと通りの殆どない静かな住宅街をてくてく歩く。雨だけど気持ちがよい。ぽつぽつすれ違うひとの手にはあの小人のシルエットが描かれた紙バッグやビニールバッグ。最後の角を曲がってしばらく行くと、穏やかなひとだかりが出来ていた。自宅スタジオ展は二十年振りとのこと。

入場すると即左手にふくろうがいて驚いた。藤城さんが沢山のどうぶつを飼っていることはよく知られていますが、そのどうぶつたちが普通にいてビックリ。ぎゃ、ぎゃわゆい……いぬ(サルキー犬)とか、階段の下にべろーんとへばりついてくつろいでいて、二階から下りてきたとき踏んづけそうになったよ!ふくろうとねこ、ブルーボタンインコはケージに入っていましたが、ワライカワセミといぬは部屋のなかに普通にいてさわれる。かわせみは止まり木に繋いであったのかなあ。あんなに近くで見たの初めて。思ったよりおおきい、羽毛ふわふわ。途中あの独特の声でワカカカカ!と鳴き出して、絵を観ていたひとたちがすっとんで行ってた(笑)。

そのどうぶつたちの歓迎に加え、チケットには撮影禁止とあったのにいざ入場してみれば撮影オッケー、ふるまいカルピス等もありとてもオープンな雰囲気。自宅でもあるので、ところどころに仕事や生活の名残が見える。「自分が住み、使いなれた自宅スタジオでなければ出来ないことや見せられないものもあると思った」と言うコメント通り、ある種の生々しさも感じました。展覧会のサブタイトルにある「よろこびと幸せ」。それと表裏一体の、作品を生み出す凄絶さ、真摯さがぽんと置かれているかのよう。どちらも地続きで、どちらが欠けても嘘。だからどちらも隠さない。全部見せる、それが自然、と言う感じ。

代表作60点に新作40点以上。太田光さんの小説『マボロシの鳥』を絵本化した原画は、展覧会が幕を開ける四日前に完成したとのこと。このサイズの絵を、三ヶ月で、40点。「制作途中で日課だった朝夕の血圧測定を止めた。体調に気を遣っていたらいいものが作れないと感じた」と言うコメントがありました。そ、それは……と心配になる反面、この87歳とは思えない創作意欲と、作品制作へ心身ともに注ぎ込むパワーには圧倒されるばかり。実際その過程が目に見える。剥き身のカミソリを素手で持って、厚手の紙をザクザクと切っていく。結構な力仕事だ。若い頃の作品とはその線の切れが違うのが見て判るのだ。スパッと切る、と言うより、紙をひきちぎらんばかりにカミソリをひいたかのような毛羽立ちが目立つ。それでも絵の緻密さ、豊穣な色使いは以前と変わっていない。荒々しさと瑞々しさが同居する今の作品には、まだまだ先があると感じさせられるものばかり。

以前展覧会で観たものもかなりあったが、それでも原画を目に出来る嬉しさはいつでも新鮮。いつになっても新作が楽しみ。いつになっても過去の作品の輝きが失われない。光と影のなかで小人たちが、ねこが、少女があの印象的なまっすぐな黒目でこちらを見詰めている。その目にやはりまっすぐ対峙出来るような人間でいたいと思う。

自画像やペットたちを描いたデッサンや水彩、油彩画もあり、藤城さんの暮らしが透けて見えたのもなんだか楽しかったです。いやはやホント、ここ迄見せてもらえるなんて。行ってよかったなあ。

自宅故ハッキリとした順路がある訳ではなく、しかも激混みだった(物販コーナーはラッシュ時の山手線みたいになっていた。諦めた……泣)ので狭い通路が埋まってたりして、入り損ねた部屋があるのに後で気付く。ガーン軍艦島や桜島のセクション観てない…あったんだ……ショック。平日にまたゆっくり行けないかなあ。



2011年05月21日(土)
『散歩する侵略者』

イキウメ『散歩する侵略者』@シアタートラム

2006年、G-upのプロデュース公演でこの作品を観た。その時の衝撃を忘れることはないと思う。今でもありありと思い出せるあの感触。理解と言葉の無意味さに対する恐怖、想像力の可能性。

そこで初めて前川知大という人物を知った。イキウメと言う劇団の座付作家。この作品は、そのイキウメで初演されたもの。2007年に小説版が出た

その後『奇ッ怪〜小泉八雲から聞いた話〜』『狭き門より入れ』『抜け穴の会議室〜Room No.002〜』と観ていき、作家への感嘆と興味は増すばかり。そしてようやく、イキウメの本公演に辿り着いた。5年経っていた。三演目、上演台本と演出を大幅に改定したとのこと。

G-up版は赤堀さんが演出していた。つまり前川さんの演出でこの作品を観たのも初めて。打ち出し方の違いがとても興味深かった。ホン自体の改訂もあるけど、こんなに印象が変わるとは。しかしストーリーに対する衝撃と絶望、そしてほんの少しだけ残る希望は変わることがない。怖い、悲しい、それでもちいさなちいさな光を残す。たよりない、心もとない、ちいさな、ちいさな希望。

概念を奪えば奪う程彼らは“人間的”になる。言葉に意味はない、理解していてもそれはただの理解でしかない。コピーアンドペーストではなくカットアンドペーストなのがミソで、奪われた側にとってそれがどんなに大切なものか、彼らは奪ってみた後にしか実感することが出来ない。そしてそれを返すことは出来ない。自分が何をしたか、自分がやったことはどういうことか、思い知ったときにはもう何もかもが遅いのだ。真治がそうであったように、天野や立花もそうなるだろうか?

そうなれば、ひょっとして彼らの計画は頓挫するかも知れない。長谷部はその概念を失った丸尾を補って向き合っていこうとするし、車田は“訓練”によって失ったものを身に着けようとする。人間はそれが出来る。そこに希望がある。

しかしそうだとしても、そこに希望を見出したとしても、それはそこにしか希望がないからだ。真治が最後に鳴海から奪ったものは他の誰かが補うことは出来ないし、訓練によって獲得出来るものではない。与えることしか出来ないもの。受け取っても受け取っても返せないもの。献身?そう、献身は愛がなければ行えない。そんな儚いものを人間は信じているし、それを灯にして生きていくことが出来る。

とにかくホンがすごいのだが、それを見事に舞台に立ち上げる役者陣もすごいのだ。台詞にも出てくるが、「言葉に意味はない」。言葉では伝えられないこと、でも皆が肌で知っていること。その言葉にならないことを演者たちは観客に伝えなければならない。「その言葉を知ってるだけ」で観客が帰路へと就かないように。

台詞を聴き、役者と舞台のありさまを見るのがお芝居。でも、そこには言葉で表現出来ないものがある。目に見えないものが存在する。優れた演劇にはそれがある。

長年舞台を観ているけれど、個人的には一生もんの作品だと思っています。忘れられない、忘れられない。「ありがとう。それを貰うよ」。真治の声を忘れることはないだろう。



2011年05月14日(土)
『たいこどんどん』

『たいこどんどん』@シアターコクーン

宣美の古田さんが妙にかわいらしくて、やだわこにくらしいとか思ってたんですが、いやーほんっとかわいかった。古田さんをかわいいなんて思ったの、初めてだ!以下ネタバレあります。

芝居自体の仕上がりはちょっと綱渡りな部分もありました。それでもとても面白かったんですけどね。この顔合わせ、こんなもんじゃねーだろーと思うと同時に、この顔合わせだから今この状態に迄舞台にあげられたのかなとも思い、複雑な気分になった。古田さんをこんなにひやひやして観たことってあんまりない。いやでも八面六臂の活躍だったなー、もし桃八が古田さんじゃなかったらどうなっていたか…って思ったもん。

そう、不安要素を凌駕する程、古田さん演じる桃八の人物像が魅力的だったのです。若旦那がだいすき。江戸がだいすき。若旦那のためならどんなことでもするし、若旦那をバカにするやつは許さない。若旦那と江戸に帰りたい。そのけなげさと、主人を慕うさまはまさにこいぬのよう。しかもストーリーの語り手も務め、舞台と観客の橋渡し的な役目も担っている。インタヴューで「やること多過ぎる。特別手当がほしい」つってた意味がよくわかった(笑)。しかもこれ相当な熱演なんですが、そういう暑苦しさを前面に出さずしれっとやってるふうに見せちゃうとこがすごい。

そして桃八から慕いに慕われる若旦那、清之助。これが相当なダメ人間なんだー(笑)。金遣いは下手だしすぐ騙されるし女に弱いし。こんだけダメな清之助になんで桃八はついていくのさ?と言う疑問を橋之助さんがスパッと解消してくれます。かーわいいんだーこちらもー。性根自体は善人なんだよね…小心者でさ。タチわるいわー(笑)。憎めねえバカ!あーかわいい、誰かついといてやらんといかんー!と思わせられるバカです。もうね、あー橋之助さん本人がかわいいバカなんだーとうっかり思ってしまう程でしたよ。

この愛嬌たっぷりの桃八と清之助に惹き付けられ、彼らの道中をハラハラドキドキ追って行くことになる。3時間40分の上演時間中、集中力を切らすことなく観ることが出来ました。あっと言う間だったわー。要所要所で艶やかさを振りまき、東北弁を駆使して各土地の女たちを多彩に演じ分けた鈴木京香さんも素敵でした。

もともとはこの公演、井上ひさしさんの新作を勘三郎さんと古田さんで、と言うものだった。しかし井上さんが亡くなり、勘三郎さんがお休みに入り、この演目をこのキャストでやることになった。これが偶然なんてね……。若旦那とそのたいこもち桃八がひょんなことから東北へ流され、江戸へ戻ってくる迄のあれやこれやのストーリー。数々の困難が待ち受け、ふたりはすっからかんに。九年かけてようやく戻ったふたりを待ち受けていたのは、消えた屋敷と家族、そして東京と名前を変えた江戸。

清之助は自業自得で梅毒にかかるも快癒する。一方ご主人を侮辱した賊に歯向かった桃八は片脚を失くす。病気は治っても、脚はどうやっても戻ってこない。ここらへん、人間ってどうなっても平等にはならんのなーとうっすら悲しくはなったなあ……。それでも桃八は、気落ちしている清之助にまた一からたてなおしましょうと明るく声をかけ、元気づける。どんなことにも負けるものかと言う庶民のしたたかさ、強さを描く井上さんの厳しさをひしと感じました。

で、蜷川さん。絶対“今”をぶっこんでくるだろうなーとかなり気持ちを引き締めて席に着いたのですが……あの幕開けとあの幕切れに、あえなく撃沈されました。舞台の在り方に現在を込める演出家の面目躍如。戯曲を決してカットせず、改変せず、あの光景を舞台に立ち上げた。そこに立ちまっすぐこちらを向く出演者たち。美術、音響と役者たちの顔。言葉を使わず、幕末の時代を今に繋げた。一瞬ざわめくような空気が劇場に満ち、ほどなく割れんばかりの拍手が沸き起こった。舞台上にも、客席にも、人間に対する畏敬の念が溢れていた。

月刊伊藤ヨタロウ状態の、ヨタロウさんの音楽もよかった!来月は出演者として楽しみにしてますよ。

よだん:劇場内のビュッフェメニューに東北名物どんどん焼きが。すごいいいにおいがロビーに…ナイス物販、食べたかったよー



2011年05月07日(土)
『港町純情オセロ』

『港町純情オセロ』@赤坂ACTシアター

じゅんさん華麗に復帰です、よかった!台詞の端々にも帰還を祝福するような含みがあって、青木さん粋なことする〜、有難うと言う感じ。シェイクスピアの『オセロー』ですから、序盤はオセローがデスデモーナと結ばれる迄の幸福な空気に溢れていて、楽しい滑り出し。そうそう、頭のおかしい青木って作家が…と言うくだりはこの日もありました>ぴーとさん

1930年代、関西架空都市でのヤクザ抗争に舞台を移し、オセローはブラジル人と日本人とのハーフと言う設定に置き換えています。これがうまいことハマッていた。オセローは黄色人種でも黒人でもなくどこに行っても差別され、愛情に飢えている。散々手を汚してこの地に辿り着いた。だからこそデスデモーナの無償の愛に有頂天になり、だからこそ自分が本当に愛されているのかと言う不安を拭いきれず、イアーゴーの浅い策略にいとも簡単に陥れられる。

そうそう、最後に捕らえられたイアーゴーが受ける罰はかなり残虐なもの。原作同様直接の描写はなく台詞だけで説明されるシーンだけど、ちょ、怖!それあり!?と思わせられるその罰はヤクザの世界ならあるある、とすんなり思わせられるところもよかった(ひぃ)。

興味深かったのは、イアーゴーの妻エミリアにあたる人物をふたりにしたこと。イアーゴーの妻とその弟(ゲイ)と言う設定になっていました。オセローと同様、愛に飢えていて、望む愛が成就することがないと言う諦めを抱えて、それでも愛することを止められない。居場所をずっと探している。このオセローとエミリアの弟の共通性を強調した分、エミリアの役割がちょっと薄くなった感じもしました。このバランスは難しいなー。

弟を演じた大東くん熱演でした。登場序盤、大東くんの台詞にキラキラポロロンな音響をシンクロさせていたスタッフワークもよかった。新感線のこういう細かい仕事だいすき(笑)。で、前半がオカマキャラならではのキャッキャしたキャラクターだったので、終盤の感情の爆発が活きましたねー。

『オセロー』と言えばイアーゴーが言葉を駆使しひとを操ると言う重要な(おいしい)役。哲司さん『浮標』に続き膨大な台詞量です。『浮標』を演じきったのだから台詞に関しては心配していなかったのですが、アクション、新感線ならではの明るい歌やダンスがどうなるかなーと思っていて…しかし役柄からして周囲から一歩退く人物だったのでそんなに違和感なかった。意外とショウ的なシーンにも馴染んでました。そうこのひと、NODA・MAPに出たときにもあれっと思ったけど、意外と身体動くんですよね…普段がほわーんとした雰囲気なので、実際ビシッとアクション決められるとビックリする(失礼)。劇場サイズに合わせてのことか?新感線を意識してか?皀謄鵐轡腑鵑魄飮しっぱなしだったようには思いました。

そ・し・て!じゅんさんですよ。いやもうこれ程「純情オセロ」って言葉が似合うキャラクターいねーだろー!それがじゅんさんズッパマリだろー!前述したとおり愛に飢え愛を疑い愛に対して純情そのもののオセロがもーせつなくてせつなくて。だいたいシェイクスピアの『オセロー』ですからして、結末がどうなるか知っているうえで観ているひとも多い訳ですよ。で、知ってるからこそつらいってのもある訳ですよ。観客は神の視点を与えられているけど、何も出来ないからな!見ることしかな!で、そんな見ることしか出来なくてジリジリしている観客の気持ちをガッシと受け止め悲しい人生を辿るオセロの一代記を見せつけてくれたじゅんさん天晴です。妻殺害迄の激情と自害する寸前の凪、死によって安息を得られるかのように妻の膝枕に顔を寄せるその緩急と言ったらもー、泣いちゃったじゃねーかー!

はー、じゅんさんが観客に愛される根拠が端々に見える舞台でした。これからも元気でいてね。身体をだいじにね。

石原さとみちゃんもかわいかった!舞台映えするねー、右近さんばりに声通る(笑)。伊礼さんは初見でしたが二枚目インテリなのにアホキャラでかっとばしてて面白かったです。哲司さんと並ぶとどちらも長身で絵になってました。

パンフレットのいのうえさんの言葉が印象に残ったな…「ただのエンタテインメント」にどれだけのひとが笑顔になり、つらいことを一瞬でも忘れることが出来るか。じんわり沁みるごあいさつでした。



2011年05月04日(水)
『まほろ駅前多田便利軒』

『まほろ駅前多田便利軒』@新宿ピカデリー スクリーン8

じんわりよかった……。「人はどこまでやり直せるのか?」

原作未読、きっとこれから読みます。脚本も立兄ィが手掛けていました。『ゲルマニウムの夜』『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』ときて、この作品。驚きつつも、どこかで納得しているような気もする。どれにも家族やひととの関わりが出てきて、そのどれもがうまくいかない。とりかえしのつかないことが起こる。そのあと、どうするか。

行天は「人はどこまでやり直せるのか?」と言う台詞を吐く。バツイチ男ふたり、家族に捨てられたいぬ、親に見捨てられているこども。それぞれがちょっとずつやり直す。まだ途中だ。死ぬ迄途中なのだろう。でも、やり直そうとしている。やり直したいと思っている。まほろ(モデルは町田)の風景、そこに住むひとたちの淡々とした暮らしとさざ波のような変化が繊細に描かれる。

瑛太も龍平もよかった!ひとくせもふたくせもあるキャストが揃っていたのも楽しかったなー。片岡礼子さんに鈴木杏ちゃん、松尾スズキさん、高良くんに柄本の兄ちゃんに一徳さんにおーもり家(笑)。

皆どっかが欠けている、脛に傷がある。多田が行天に言う「おまえは全て持っているのにそれに気付いてない」イメージに龍平は合ってたなー…持ってるけど、本人には大きな穴が空いているので、それが必要かどうか解らない。だからなんでも気前よくぽんぽん与えてしまう。一方多田はどうやっても取り返せない失ったものにどう折り合いをつければいいか迷ったままで、活路を見出せない。

それでもいいんだと思う。取り戻すことは出来ないのだ。でも、やり直そうとすることは出来る。それが諦観になるか、達観になるか。ああ、じんわりくる。励ましもないし、勇気づけられることもない。でも、心がほっと息をつく。

あ、あと、行天のひらひら走りがよかったな(笑)。原作はその後続編が書かれているようで、映画も同じキャストでシリーズ化されればいいなと思いました。



2011年05月01日(日)
『欲望という名の電車』2回目(東京公演千秋楽)

『欲望という名の電車』@PARCO劇場

リピート、東京公演千秋楽。一度目はかなり前の席だったので、登場人物が床に座り込む場面になると前列のひとの頭に隠れて見えなくなってしまったり、セット全体や映像が見渡せなかった。あと戯曲を読み直してから(ウチにあるのは小田島雄志訳だが)確認したいところも出てきた。しかし何よりやはり演者が魅力的だった、どうにもこうにも気にかかる。もう一度あのキャストでの『欲望〜』を観たくなった。初見の翌日にチケットを確保しました。

前半観たときとは観客の反応が格段に違った。このライヴ感は嬉しい。やはり前半は堅かったのだ、観客も演者も。3.11から一ヶ月後、ちょっと落ち着いたかな、と思った頃大きな余震がまたあって、その翌日に開幕したからなあ……。そして、その観客のノリによって腑に落ちたシーン、気付いたことがより増えた。印象が変わったところもある。無理矢理笑わそうと言う演出じゃないのだ。以下ネタバレあります、未見の方はご注意を。

プログラムでの松尾さんによれば、「嫌味みたいに」ト書きに忠実にやっている。そして、ト書きにないところに、松尾さんならでは(と言うか、それが演出家の仕事のひとつでもある)の解釈を反映させる。例えば今回ミッチはハゲヅラ着用だったのですが、そのミッチが初めて帽子を脱ぐところがブランチの「世の中わからないことばかり…」と言う台詞の直前。これはずるい(笑)。しかし本筋からは逸脱していない。終盤の看護師がとった行動も、前半観たときより違和感がなくなっていた。動きが慣れてきたのかも知れない。

笑わそうと言うより、「一歩退いて見れば、この状況は滑稽でしょう?」と言う提案。その滑稽さが呼ぶ悲劇。笑えるのに泣ける、胸を押しつぶされる思いで笑う、これはもう松尾さんの演出以外のなにものでもない。名シーン「あなたと俺では?」以降のミッチとブランチの美しさとせつなさは、他では絶対に見られないものだったと思います。皆さっき迄ミッチの姿や挙動見て笑ってたくせにー!私もな!あのとき観客はステラと同じように「ミッチとブランチがうまくいけばいいのに」と思っただろうよ!ああ人間って愛おしい。いやもうオクイさん素晴らしかった。あのいでたちで涙を誘う、観客の心眼を開かせる役者さんですわ。恐ろしい……!

でも、やっぱりミッチとブランチはうまくいかない訳ですよ。ブランチの言動は嘘と虚飾で固められたものですが、あのときのミッチとの会話は何ひとつ嘘ついてなかったと思うのね。アランの話をする彼女は自分を取り繕っていない、そんな余裕はない。そして序盤ちらっとしか触れられないけど、ミッチとブランチが話すきっかけにもなる煙草ケースをプレゼントした少女の死――ミッチが「あなたと俺では?」と言う根拠でもある――がふたりを繋げる訳で、そうなるともうなんと言うか、死者を媒介とした共依存になるのは目に見えている。そうなると「あ、やっぱきっとうまくいかない」とは思う。

それなのに、あのキスシーンはとてつもなく幸福に映る。一瞬でも、ふたりはうまくやっていけるかも、と思わせられる。テネシー・ウィリアムズは刹那の情景を美しく切り取る。それはとても冷徹で、ひとの心を弄ぶもの。そしてそれが感動を呼ぶという皮肉!怖い!いやー酷いよテネシー、鬼!

そしてラストシーン。戯曲でのステラは「満ち足りた感じさえ見」せて「存分に泣きじゃくる」とあります。鈴木勝秀演出では、ステラは泣くのをやめ、スタンリーの腕から離れ、ある種の決心を抱いたと思える凛とした表情でまっすぐ前を向き退場する。ユーニスもこれに続く。蜷川幸雄演出では、泣きじゃくるステラにユーニスが泣いている赤ん坊を渡す。赤ん坊はステラの腕の中で泣きやみ、ステラも泣くのをやめる。そこをスタンリーが抱き締める。

映画版(エリア・カザン監督)では、ステラは赤ん坊を抱きしめて「もう二度とここには戻らない」と家を出て行くが、元鞘に納まるのではないかなと言う印象も残る。今迄が今迄だし、ここでの暮らしはこれからも続くと暗示させられるのだ。鈴木演出でもステラは家を出ていくのではないかと思わせられるのだが、こちらは本当に出て行くんじゃないか、と言う予感が強い。現代的な演出だったとも言える。

松尾さんの演出は全くのト書き通りだった。そう見えた。この「満ち足りた感じ」と言うト書き、ずっと引っかかっていたのです。うっすら気付いてるけど気付いたら人非人かなーみたいな。ここが今回ハッキリしました、と言うか自覚せざるを得なかった。厄介者が出て行ったが故の安心感なのです、これ。実の姉妹でも、厄介払いが出来たことにホッとしているのです。残酷だが真実だ。ぬぬ、ステラ…ブランチに勝るとも劣らぬ少女で淑女で処女で娼婦だ。やっぱりこのふたりは姉妹だわ…鈴木砂羽さんのステラは色気、強さ、はかなさが同居するおんなのなかのおんなだった。最高。

ミッチとブランチの会話、ステラの最後の行動。この二箇所、今回すごーーーく明確になった。松尾さんの演出で観られてよかった。この作品、ブランチとスタンリーは勿論ですが、ステラとミッチの解釈の違いを見比べるのがすごく面白いのです。個人的にもこのふたりのキャラクターは大好きなのだ。

2002年上演時に気になった箇所があった小田島恒志さんの訳も、細部が更新されていてより理解が深まりました。「おねえさん」の部分は変わっていなかったけど、アランはゲイだったってくだりはきちんと話されていた。その他プログラムにも解説があったので、これを読んでからリピート出来たのはよかったです。しかしステラがブランチのことを「おねえさん」と言うのはやっぱりひっかかる(まだ言う)。

ヨタロウさんの音楽もよかった。閉幕の曲は「レモンティー」だった(!)これは松尾さんの選曲なのかな。ここでこれを持ってくるってのがまたすごい。

カーテンコールは一度だけ。拍手が鳴り止まないところ、松尾さんの「えー、カーテンコールはないのです。節電とお客様の安全を考慮しております」とアナウンス。笑いとともにもうひと盛り上がりの拍手があり、閉幕となりました。

稽古時から本番迄、困難なことも多々あったと思います。舞台上の役者さん方の真摯な姿、秀逸なスタッフワークを目の当たりにし、この時期この作品をこの座組で観られて本当によかったと思いました。これから大阪と名古屋公演。無事大楽を迎えられますように。