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2021年05月10日(月)
配信の『S/N』についてのメモランダム

Dumb Type『S/N』@Normal Screen/Visual AIDS


私は夢見る、私の性別が消えることを。私は夢見る、私の国籍が消えることを。私は夢見る、私の血が消えることを。私は夢見る、私の権利が消えることを。私は夢見る、私の価値が消えることを。私は夢見る、私の偏見が消えることを。私は夢見る、私の人種が消えることを。私は夢見る、私の財産が消えることを。私は夢見る、私の様式が消えることを。私は夢見る、私の恐怖が消えることを。私は夢見る、私の義務が消えることを。私は夢見る、私の権威が消えることを。私は夢見る、私の権力が消えることを。

真夜中にひとり、PCの画面を通して『S/N』を観る。今、世界のどこかで誰かが(私と一緒に)『S/N』を観ている、と想像する。そんな時間も楽しいものでした。“LIFE WITH VIRUS”、それは今のことでもある。

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・ダムタイプの代表作『S/N』、5月9日までオンラインで世界初配信中┃Tokyo Art Beat
“今回のオンライン配信を企画したのは、東京を拠点に実験映像やアニメーション、ドキュメンタリーなど幅広い映像企画を行ってきた「ノーマルスクリーン」と、今なお続くAIDS問題に向き合うため活動するニューヨークのアート非営利団体「Visual AIDS」。古橋が、生前好んで訪れたニューヨークでの時間にフォーカスしたイベント「“LIFE WITH VIRUS”:Teiji Furuhashi in New York」の一環として上映”

・“LIFE WITH VIRUS” Teiji Furuhashi in New York┃Normal Screen
・溝口彰子さん [ S/N ] イントロビデオ日本語原稿の公開┃Normal Screen
“作品が、「カミングアウトしたゲイを受け入れ、応援する」といった次元にはまったくとどまっていない。「S/N」が扱う問題系は人種やボーダーや科学の申し合わせなど幅広いが、セクシュアリティという要素ひとつをとっても、その複雑さに踏み込んで、ひとつの答えを出すのではなく、思索し、分け入る、その意味で刺激的だ。ゲイの肯定的な表象を作り出すことはもちろん大事。だけど、そもそもゲイって何?”

・Teiji Furuhashi┃Visual AIDS
AIDSで亡くなったアーティストとHIVと生きるアーティストのデータベース[Artist+ Registry]に、今回古橋さんのページが追加されたとのこと。

イヴェントや上映会などは断続的に行われていましたが、『S/N』が全世界、つまり、エリアの制限なく(まあインターネット自体が制限されている地域もあるが)配信されるのは初めてのことだそうです。

東京初演当時、「観たいな」と思った記憶がある。しかし、観られなかった。そのときもっと優先したいものがあったこと、経済的な面でも。古橋さんが亡くなり、「しまった」と思った。その後ICCでの上映(いつだったか忘れてしまったが、サイト情報を参照すると多分『ダムタイプ:ヴォヤージュ』(2002年)だと思われる)を観て、ますます「しまった」と思った。しかし、もう遅い。今はただただ映像が残されていること、こうして配信の機会が設けられたことに感謝するばかり。

オープン乍らもクローズドな形式(メールで問い合わせ、配信URLを取得する)をとったことにも作品への敬意が感じられました。権利関係のこともあると思いますが、“野次馬”は近づくな、というステートメントとも受け取りました。今回改めて作品を観て、その内容が古びていないことと同時に、ゲイやセックスワーカーが受ける差別や迫害の状況があまりにも変わっていないことに衝撃を受けました。では、自分が“野次馬”にならないようにするにはどうすればいいか。きちんと当時を振り返り、考え続けていこうと思います。そのためのおぼえがき。おぼえがきなので全然整理されていません。ホントにとりとめのない、メモランダム。

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リフレイン、映像と身体の見せ方、音楽の使い方。クラブカルチャーとの結びつき。リフレインについてはテクノクラートの『ドナドナ(doner-doner)』(1993年)が思い出されたが、これは影響というより同時代的なものだろうか。テクノクラートは、HIVを含む(とされる)50リットルの血液を剥き身で展示した『カミング・アウト』(1993年)という作品も発表している。マームとジプシー、吹越満演出の『ポリグラフ─嘘発見器─』(2012年)はここからの影響があったのか、それとも……ダムタイプが日本の「舞台芸術」に及ぼした影響について思いを馳せる。

忘れてはならないのが、全編にわたるユーモア。後述の『memorandum』で、古橋さん本人が「関西の血」、浅田彰が「吉本(興業)思想」と発言している。今となっては吉本興業のイメージも変わってきているが……とにかくこのユーモアが、ヘヴィーなテーマに柔らかさと優しさを加えている。当事者を憐れむな、というこれまたステートメントにもなる。HIVは神からの罰ではない。

ブブ・ド・ラ・マドレーヌさんが「LOVE SONG」の対話シーンについて「古橋悌二が提案したイメージは『友人どうしの、クラブのトイレの前のヒソヒソ話』でした。」と仰っていて、すごく合点がいった。防音が利いていないトイレ前ではヒソヒソとはいってられないね、大声になるよね、なんてクスリとしたり。今作はゲイカルチャー、クラブカルチャーとは切っても切れない関係にある。

・誰がDJカルチャーを破壊してきたのか?┃FUZE
“今となっては日本におけるその源泉が80年代後半の英国レイヴ・カルチャーにあったのか、70年代NYのゲイ・クラブ、パラダイス・ガラージにあったのか、ベルリンのテクノ・シーンにあったのか、英国やジャマイカのサウンドシステム・カルチャーにあったのか、そこは正確には定義できないと思うんですよ。でも、少なくとも90年代当時は、そこで流れる音楽がテクノであろうが、ハウスであろうが、ドラムンベースであろうが、たとえロックであったとしても、何かしらそこから派生した共通の価値観をシェアしようという気運が間違いなくあった。DJにもクラウドの側にも。”
“クラブ・カルチャーというのは、それくらい社会に影響を与え、社会について考えさせる文化”
“不特定多数の市井の人々の意識を培って、これから先の社会をよりよくしていく基盤を用意するのは文化なんだ、という事実がどうにも忘れられがち”

“かつての文化がどんな風に変節したか、その事実を知ること、それについて考えることというのは決して無駄ではないと思うんです。”
振り返るのに良い記事。タナソーが「荷が重い(略)俺が話せるのは、すごく限定された歴史観でもあると思うんですね。そこはまずきちんと強調しておきたい。」っていってるけど、確かに……当時の現場を知るカルチャーマガジンは『remix』もだけど、『loud』が重要な資料になると思う。手放してしまったのが悔やまれる。

・1995年までの日本ヒップホップ年表┃[radiodAze]
自分の夜遊びデビューは90年代初頭のインクスティック周辺で、窪田晴男〜S-Kenの流れだった。東京ソイソースが起点かなと思うくらいで意識していなかったけど、あれはヒップホップシーンだった…のか……? 振り返らないとわからないこともあるものだ。その後Yellow(何がきっかけだったっけ、U.F.O.から? レピッシュかな……)に行くようになって、FUZEの記事でいわれているような「90年代中盤に本格的に誕生したクラブ・カルチャーの現場」に行き始めた。正に1995年くらいから。そう思うと、古橋さんのクラブ活動とは丁度入れ違いだったんだなあ。京都メトロについて話を聞いたのもずっとあとの話。

まあそもそも、エイズ禍でアーティストたちがバタバタと亡くなっていく頃、自分は宮崎の片田舎にいたのだった。音楽誌もだけどマンガ雑誌のカルチャーコーナーから知ったことも多い。上條淳士がHIVをモチーフの一つとして描いた『FLOWERS of ROMANCE』を発表したのは1987年、単行本化されたのは2010年(!)。カナリアとしてのマンガの役割を思う。

「“LIFE WITH VIRUS”:Teiji Furuhashi in New York」では、ZOOMを使って古橋さんの友人たちによるトークイヴェントも行われました。数日後にVimeoで観た。後日字幕付きで編集されたものがアーカイヴされるようですが、当時の関係者も多数参加していたチャットログは残らないんだよね、ぬかった…ZOOM登録に手間取って(……)リアルタイムでは観られなかったんだよ……。とはいえ、貴重な話がたくさん聞けた。古橋さんはじめダムタイプのメンバーの、アクティヴィストとしての姿を知ることが出来た。ブブさんは、「パブリックアートとダンスパーティーはセットであるべきだ」といった。

トーク中、東京で地震があった。司会を務めていたNormal Screenのディレクター、秋田祥さんがそのことを伝える。そうか、オンライントークだと揺れは伝わらないか、と変なところに感心する。そこから展開した話が興味深かった。

1995年1月、『S/N』東京公演直後に阪神淡路大震災が起こる。メンバーは西へ戻れず、会場だったスパイラルにしばしとどまることになった。そして3月、サリン事件が起こったことを彼らは海外ツアー先で知る。インターネットなどまだ普及していない時代。友人からFAXが送られてきたそうだ。古橋さんがどんどん弱っていくなか無我夢中だったけど、今思うと「非常時にアートは可能なのか」と常に突きつけられているようだった、とのこと。

当時を振り返り、記録として残す作業は絶対に必要なのだ。『M』を観たときにも思ったことだが、エイズ禍はアート(いや、そういった枠組みに限らず)に甚大な喪失をもたらした。HIVは今も根絶されていないし、今後もそうだろう。パトちゃんのことを思い出した。

・日本のHIV/AIDS啓蒙の土台を作ったDJパトリック、日本で頑張った20年間┃g-lad  xx
・【訃報】日本のHIV予防啓発に多大な貢献をしたDJパトリックさんが亡くなりました┃g-lad  xx
医療が発達し、発症を抑えられる薬も出来た。すると今度は、治療を続けるための経済力が必要となってくる。前進するのなら、社会は変わっていかなければならない。

そして、ブブさんがいうように「故人に今のことはコントロール出来ない」。それを忘れてはならない。

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・『memorandum メモランダム』古橋悌二、ダムタイプ
出版されたのは2000年、昨年4刷と息の長い重刷。必要とされ続けているのだと実感、出版社の志にも感嘆。
ポリコレについて、クィア・パフォーマンスについて、カミング・アウトについて。1980〜90年代の文献なのに、2020年代のことを読んでいるような気分になる。

・『日本の小説とHIV/エイズ』大池真知子 広島大学大学院総合科学研究科
こちらの方のツイート(有難うございます)で知った論文。当時はどうだったけと思い出してみている。
PARCO劇場は80年代から『真夜中のパーティ』『トーチソング・トリロジー』を上演していたけど、あれは青井陽治さんが持ってきたものなのかな。

・2006年に観た『トーチソング・トリロジー』
“初演された80年代はゲイがやっと自分のことを語り出した、語れるようになってきた時代だった。その後AIDSの存在が大きく影を落とし、また新しい壁が出来る。環境はどんどん変わる。それでもこの作品が現在に伝えるものは沢山あり、だからこそ多くの観客に愛されるのだと思う。”
この思いは今でも変わらないが、今この作品が上演されたら新しく思うこともあるだろうな。