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2016年08月09日(火)
飴屋法水 本谷有希子 Sebastian Breu くるみ

飴屋法水 本谷有希子 Sebastian Breu くるみ@VACANT

「こんにちは、本谷有希子です」。

語りはじめるのは飴屋さん。芥川賞を受賞して変わった自分の身のまわり、夫について、こどもについて。取材の際に受けたなんともいえない扱い、それを自分のなかでどう処理すればいいかの戸惑い、出産の描写。いつのまにか語り手は本谷さん自身になっていく。本谷さんが語る自分とこどもの関係性、出産のとき「つかみそこねた」ものについての言葉にひっかかりを覚える。終盤、飴屋さんはその部分について本谷さんをとことん追及する。「僕やくるみを巻き込まないでくれる?!」と飴屋さんは叫ぶ。その激しさに気圧されたかのように、本谷さんは言葉につまり、発語が怪しくなる。舞台中盤、くるみちゃんが唄った「(本谷さんが)焼肉屋でバイトしていたとき失語症になりかけた、いや、どもるようになった」歌がフラッシュバックする。か、か、カルビ。き、き、キムチ。ま、ま、マッコリ。

自分が書いた台詞を自分で発することを選んだ本谷さん。舞台に立つのは初めてだ。役者を通さず、自分で話す。そんな彼女は飴屋さんとのマイクバトルでぺしゃんこにされる。言葉を扱うことの怖さ、それを書いて生きていくことの怖さ。その姿を舞台上で晒したことすら彼女の作品についてよく評される「肥大した自意識」を感じたのは事実だが、実際に(おそらく)傷付き涙を流す姿迄観客の前で晒したことには、書き続ける腹が据わったのだろうなと思い、演劇に対する意欲(飴屋さんいうところの「熱」)が感じられるものであった。同時に、彼女がまた舞台に立つことはあるだろうか? と思った。

「フリードリヒ二世の実験」については初めて知った。「孤児」「二年以内に死亡」と言及があったので、このリンク記事によると劇中紹介されたのはルネ・スピッツが行った実験とミックスされたものであると思われる。芥川賞は茶川賞になり、本谷さんのこどもの名前は「なに」になる。このあたりの混同は意図的かもしれない。(誤読や混同も含む)コミュニケーションを一切排除すると生きものはどうなるか、という話でもある。母語が日本語ではないセバの話す言葉が心に沁み入るのは何故なのか、セバが双子の兄と話すふたりだけにしか通じない言葉が、しばらく離れると通じなくなったのは何故なのか。「チュッチュのはむはむにて」をくるみちゃんが知らないのは何故なのか。

親離れ、子離れの話でもあるなと思った。常々飴屋さんが言っていることから全くぶれていない。いつのまにかくるみちゃんはいなくなっていて、飴屋さんはくるみちゃんより早く死ぬ。「絶対」に受けとめるから目を閉じたまま飛び降りて、という飴屋さんの言葉にくるみちゃんは動かない。飴屋さんはその言葉を発し乍ら「絶対」に受けとめられる場所にはいない。セバが受けとめるというとくるみちゃんは飛び降りる。セバはしっかりとくるみちゃんを抱きとめる。動物は「今日から私たちは別々に生きていきますよ」なんて宣言しない。ある日突然目の前から消えてしまうのだろう。こどもについて「はじめて自分につながるものが出来た」(記憶で起こしているのでこのままではありません。ニュアンスとしてはこんな感じ)と表現した本谷さんは、こどもとどうやって別れていくのだろう。

タイトルはないが、このひとたちの名前がタイトルだともいえる。言葉の話、名前の話。言葉を使うことでコミュニケーションを図る、ということ。どんなにそれが困難でも、そうするしかないということ。言葉は死んでいく。使うひとがいなくなることと、忘れられることで。飴屋さんは、死んでいく言葉たちを葬るための穴を掘る。いくつかの言葉を「これはまだ使いたい、残したい」と選別していく。そんな言葉と名前を、信じてみること。「絶対」と「かもしれない」を追究しつづけていくこと。言葉を使うことでコミュニケーションが生まれ、他者を信じてみることが出来る。

企画は昨年二月に生まれたようだ。本谷さんのお子さんが生まれたのは昨年十月、芥川賞を受賞したのは今年一月。この作品は今年八月にしか出現しえない作品になった。VACANTの空間がまた忘れがたいものになる。本谷有希子が参加した『教室』のようでもあった。

当日パンフには大きく「ようこそ」の文字。終演後、外に出ると八月の雪。くるみちゃんが退場する観客たちを「ありがとうございました」と見送ってくれる。ようこそ、ありがとう。生まれてきたものへの祝福と、おもてなし。