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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
裏切りのサーカス

ジョン・ル・カレ原作「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」(ハヤカワ文庫NV)が映画化、「裏切りのサーカス」という邦題で先週から公開されました。
この映画、11月にイギリスで、12月にアメリカで公開、米ノートン社のパトリック・オブライアン・フォーラムではずいぶんと話題になっており、私は密かに期待していたのですが、

確かに、これは映画「Master and Commander」が好きだというタイプの人には「傑作」だと思います。
あの複雑で緻密で「行間を読ませる」ル・カレの小説を、プロットを整理しわかりやすい娯楽作品にまとめながらも、カメラワークと俳優の演技によって、見事に「行間」を見せ、原作の味をほぼ再現したこの映画は、ほんとうに見事によく出来た作品だと思いました。
ジョン・ル・カレのファンはしあわせでしょう。
8年前に私たちパトリック・オブライアンのファンが、「この原作をここまで再現した映画化が出来るとは思わなかった」、と歓喜したように。

今回は基本ねたばれなしで、これから見に行く方のために、(英国海洋小説ファン的…ちょっぴり偏見もあるかもしれない)見どころなどを。

オブライアン・フォーラムでこの映画の公開時に問題にされていたことは、「英国人以外にこの映画がわかるのか?」でした。
この問題提起に多数の「RE:返信」がついて、アメリカ人、フランス人、カナダorオーストラリア人の意見を読んだのですが、実際に自分で映画を見に行って思ったことは、

確かに、当事者である英国人以外は「内通者の哀しみ」には共感できないかもしれない。
でもパトリック・オブライアンや、フォレスターのホーンブロワー・シリーズやケントのボライソー・シリーズ、バーナード・コーンウェルのシャープ・シリーズなどを読んだり見たりしてきた人たちならば、主人公のスマイリーを初めてとする登場人物の多くの価値観を理解できるだろうし、これまでに見てきた読んできた多くの映画や小説のシーンがクロスオーバーすると思います。

以下、謎の解き明かされる順番が映画とは異なりますので、第一段階のみネタバレがあります。(この部分は映画の予告編で明らかにされていることなので、問題のないネタバレだと思いますが)
それ以上のネタバレには進みませんので、第一段階までなら許せる方は先に進んでください。

一切のねたばれは読みたくないという方は、ここから先は映画をご覧になってからに。

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1970年代、まだ冷戦真直中のイギリス。
英国情報部MI6の長官:コントロール(ジョン・ハート)は、自分の組織の高次元(おそらくは幹部クラス)から、東側への情報漏洩があることに気づく。
彼は実働部隊の指揮官であるジム・プリドー(マーク・ストロング)に、「ハンガリーに潜入し、英国が手なづけた東側の内通者から、MI6内の裏切者は誰かを聞き出してくるように」要請する。

プリドーはブタペストで撃たれて重傷を負い、東側に連行され、事件は外交スキャンダルに発展、
長官であるコントロールは責任をとって辞任、長官の右腕であった本映画の主人公ジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)もまた長官とともに情報部を辞する…この辞職シーンから映画は始まり、スマイリーが謎を解き明かしていくに従って、すぐ上に書かれたジム・プリドーのハンガリー行きの謎から内通者がいるかもしれないこと等が、解き明らかにされていきます。

組織の中に裏切者がいる。
国の組織であれば、公務員であれ情報部員であれ軍人であれ、国と組織に忠実(loyalty)であることは義務(duty)である筈なのに、誰かがソ連に内通しており、その裏切者によって組織が破壊されつつある。
誰が信用でき、誰が信用できない(疑いの目を向けなければならない)人物なのか?
そのような中で、一人ひとりの登場人物にとって、個人とはloyaltyとはdutyとは何か?

敢えてloyaltyとdutyを英語のまま残しているのは、これが映画の字幕に言う「忠誠」とか「任務」とかいう日本語では説明できない意味を抱えていると私には思われるから。
組織内の裏切者を暴くというのは、仲間の誰かの罪を暴くということで、「警察が悪者の犯人を突き止めて捕まえました」めでたしめでたしというような簡単な話ではありません。

スマイリーがプリドーに「なぜハンガリーに行った?」と尋ね、プリドーは「それがdutyだから」と答える。字幕は「任務だったから」となっていますが、実際のところは任務という理由だけでは説明できない事情がある。
これは字幕が悪いと言っているのではなく(私もあの字幕の字数制限の中で「任務」以外の適切な訳語があるとは思えません)。ただ、字幕を見ながら英語のセリフを聞いている時に、dutyと言われると、私には字幕以上の世界が広がる…それは、プリドー役のマーク・ストロングの無言の芝居から読み取れる部分だけれども、それが読み取れるというのは、おそらく、今まで海洋小説やらシャープ・シリーズやらいろいろ見たり読んだりしてきて、別の状況でこのセリフが使われるシーンをいろいろ見ているからなんでしょう。
たとえば、TVドラマ「ホーンブロワー」第三シリーズの「二つの祖国」の原題は「Loyalty」、「ナポレオンの弟」の原題が「Duty」。

今まで接してきた多くの小説や映画の中で、様々な主人公がこの岐路に立たされる。
プリドーの場合は、組織内のソ連内通者のせいで、ハンガリーで孤立無援になり、組織から見捨てられた(裏切られた)立場に陥る、それでも彼は最後まで守ろうとしたものがあった。
それは、18世紀の世界の果ての海(far side of the world)で、孤立無援のフリゲート艦が守り通そうとするものと、有る意味同じ類のものではないかと思うのですが、いかがでしょう?

これがおそらく、パトリック・オブライアン・フォーラムで話題になっていた「英国人にしかわからないもの」と「英国人以外でも共感できる部分がある」の正体のような気がします。

「英国人にしかわからないもの」については、確かに、私も英国人ではないので、本当の気持ちはわかりません。
でも手がかりはいろいろある。

「裏切りのサーカス」の内通者は、主人公であるスマイリーに「何故このようなことをした?」と問われて「私は何か大きなことをしたかった」というのような内容のことを答える(このセリフをまるごと覚える英語力は私にはないので、間違いがあったらごめんなさい)。

理由がこれだけだと、外国人には「???」のみが残り、21世紀の1億総ストレス状態の日本に暮らしていると、仕事に疲れて破壊衝動にかられたのでは?とも解釈しかねない。
けれども原作では、この理由はもう少し詳しく語られる。
「アメリカは海外に勢力拡大を求め、西欧は終焉ではなく過食と便秘により末期を迎える」
「1956年のスエズ動乱で、自国(イギリス)の立場の無意味さと、なにひとつ貢献できぬくせに歴史の進歩を阻むイギリスの剛腕を思い知った」
と内通者は語るのですが、

原作ではもうひとつ、スマイリーが元情報部分析員のコニー・サックスを尋ねるシーンでコニーがジョージに伏線を示してくれる。
「世界じゅうで獣みたいな連中があたしたちの時代をだめにしているのよ。そんな彼らにどうしてあなたは手を貸すの?」
「かわいそう。帝国のために訓練して、四海を支配するために訓練して、ぜんぶなくなってしまった。ぜんぶ持って行かれてしまった。あなたが最後の一兵よ、ジョージ」
というくだり。
しかしこのあたりも映画には登場しません。

パトリックオブライアン・フォーラムでもここが話題になっていて、
つまりは、このあたりの背景は全て、イギリスはあれだけの血を流して第二次大戦に勝利したのに、大英帝国は落日をむかえ、一方アメリカはますます世界に君臨する…当時の世界情勢にあるだろう、と。
身も蓋もなく言ってしまえば、「彼ら(イギリス人)はアメリカが嫌いだろうし、かと言って映画でそれはスッパリ言えないだろうし」という意見を書き込みしたのは「私はアメリカ人でもイギリス人でもない」と言う方でしたけど、カナダ人かオーストラリア人でしょうか?

ル・カレのこの原作は、ソ連に亡命した実在のMI6高官キム・フィルビーの物語を下敷きにしている。
当時はフィルビーの他に4人の政府高官がじつはソ連の協力者だったことが明るみに出て、全員がケンブリッジ大学の出身者だったためケンブリッジ・ファイブと呼ばれました。
そのうちの一人、外務省高官で在ワシントン英国大使館の書記官だったガイ・バージェスをモデルとしたのが、1983年の映画「アナザー・カントリー」で、ここで言う「別の(アナザー)国」とはソ連から見た英国のこと。
「裏切りのサーカス」の解説パンフレットに指摘がありますが、今回の映画でスマイリーが最後に内通者とかわすセリフは、じつは「アナザー・カントリー」の冒頭で、モスクワにインタビューに来たアメリカ人の記者に、英国から亡命した裏切り者が理由を語るシーンのセリフと対になってるんですね。

そうやっていろいろ調べて掘り下げていくと、外国人の私はようやく、「英国人でなければわからない」と言われていることの一部分を探り当てることができるけれども、でも本当のところ、第二次大戦後に、拡大していくアメリカを横目に見ながら自国の凋落を止めることのできなかった英国人の哀しみというのは、私たちにはわからないだろうと思います。
日本とドイツには1945年に全てを失って、そこから復興したという歴史があるから、同じ西側諸国でも20世紀後半の受け止め方が全く違うでしょう?
もちろんアメリカ人にはわかる筈もないし、
同じ道をたどったフランス人だったら、もう少しは英国人の気持ちがわかるのかなぁとも思いますが。

でもル・カレが1970年代に執筆した原作で内通者の口を通して言わせた「西欧は過食と便秘によって末期をむかえる」という予言は、21世紀の現状を見ると当たっているような気がしないでもないですね。
明らかに今の世界は、一部がメタボになっていて、混乱をきたしている状況のようですし。

解説パンフに翻訳者の村上博基氏が一文を寄せていらっしゃいます。
これが、翻訳文ではないのに、ル・カレ原作調で素敵です。


2012年05月05日(土)