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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
ラッキー・ジャックと不運な3隻の艦(前編)

今回のサブタイトルは「虚構と史実のあいだ」…とでも。
なんだか格好いい副題ですが、中身は気軽なおしゃべりなので、このテキストを間違っても資料とされませんように。

さて、ジャック・オーブリーは、「ラッキー・ジャック」と呼ばれるほど幸運がついている(いた?)筈の男ですが、5巻以降災難続きで「これで本当にラッキー・ジャック?」って思われますよね?
6巻に至っては、確かに自分はラッキーにも生き残ってしまうんですけど、便乗した艦が次々に沈んで…、本人はラッキーかもしれないけど、便乗された側にとってはこの人、疫病神以外の何者でもないんじゃないかと。

インドネシアからの帰り、ジャックが最初に便乗させてもらったのは、チャールズ・ヨーク艦長の20門艦ラ・フレシュ(La Fleche)号、この艦は火災を起こして沈みます。
命からがらボートに分乗して逃げ出し、漂流していたジャックを拾ってしまったのは、38門艦ジャワ(Java)号のヘンリー・ランバート艦長。
ところがこの時既に、アメリカとイギリスの間には米英戦争が勃発しており、途中アメリカ海軍最新鋭55門フリゲート艦コンスティテューション号に出くわしたジャワ号は奮戦するも及ばず降伏、アメリカ軍の命令でジャワ号の船体には火がかけられました。

重傷を負ったジャックと付き添いの軍医スティーブンはその他の将兵とともに捕虜となり、二人だけはボストンに移送されますが、いろいろあった挙げ句にボストンから大脱走(こそこそ逃げたから小脱走か?)、この二人を拾ってしまったのが、同じく38門艦シャノン(Shannon)号のフィリップ・ブルック艦長。
さりながらこのシャノン号はアメリカ海軍のチェサピーク号と戦闘になり、相手を降伏に追い込み、今度は沈まなかったものの多大な死傷者を出し艦長のブルックは重傷を負いました。

とりあえずジャックとスティーブンが無事ボストンから逃げ出して、めでたしめでたしの6巻ですが、でもその他のひとびとは?
パトリック・オブライアンはこういうところが、意外と冷たいですよね?
5巻で病に倒れ、重症のまま南米の病院に移された副長のトム・プリングス。すでに10巻を読んでいる皆さまは、プリングスが回復してまた元気に海に戻っていることをご存知でしょうけれど、発行順に読んでいくと、これがわからないんですよ。
6巻には何にも書かれてなかったでしょう? レパード号と別れて南アフリカに向かったミスタ・グラントや、バビントンの犬の運命はわかるのに、プリングスのその後がわからないんですよ!非道いと思いません?!
プリングスの無事がわかるのは7巻なんですが、私はそこまでたどりつくまで、彼が南米で下船するシーンを読んでから5ヶ月かかりました。あぁもう!ずっと密かに心配していたんだから、ちゃんとフォローしてくださいよ〜。

今回の6巻も気になりますよね?
ジャックに関わった彼らがその後どうなったか?
でも実は読者が知ることができるのは、ジャックの幼なじみ(という設定になっている)フィリップ・ブルックのその後のみで、それもかなりたってからのことです。
まぁジャックもスティーブンも、引き続き7巻でも波瀾万丈の運命で、他の人の心配をしている暇がないのも事実ですが。

というわけで、自力でなんとかすることにしました。
パトリック・オブライアンがまえがき(著者覚書)で述べているように、ジャックが立ち会ったことになっている二つの戦闘は史実なので、調べればそれなりに記録が残っているのです。
というわけで、まずはジャワ号の乗組員のその後について。

ジャワ号とコンスティテューション号の戦闘は1812年12月29日のことでした。コンスティテューション号は5日後の1813年1月3日に、ブラジルのサルバドールに入港しました。
オブライアンによれば「ジャックは重症だったので、陸に移送することができなかった」ため、そのままコンスティテューション号に残り、必然的にスティーブンも残ったので2人はそのままアメリカに行くことになりました。

その他の英国人たち(重傷のジャワ号艦長ランバート、副長のチャド、などの士官たち含む――おそらくはバビントンも)はブラジルでコンスティテューション号から降ろされました。
オブライアンも書いている通り、重傷のランバートは上陸の2日後の1月5日に容態が悪化してサルバドールで死去、この港町のサン・ペドロ要塞に葬られました。
副長のチャド以下残りの士官たちは、しかし長くは留め置かれず、その年の春までには英国に戻っていました。

ジャワ号喪失に関する軍法会議は1813年4月23日に開かれましたが、副長のヘンリー・チャド以下士官たちは艦喪失の罪を問われませんでした。
チャドはその後、新たな指揮官を与えられ、海尉艦長に昇進しています。

バビントンもおそらく、チャドたちと一緒に英国に戻ったのでしょう。
ジャックたちがボストンを脱出したのは、5月末のことなので(シャノン号とチェサピーク号の戦闘が1813年6月1日)、バビントンの方がジャックたちより先に英国に戻っていたというわけです。

ジャックたちがボストンにいたのは1813年の1月末〜5月末くらいの間でしょうか?
それじゃぁ1812年の夏にボストンに収監されていたアダム・ボライソーには会わなかったわね(笑)。

アダムもこの米英戦争に関しては似たような目にあっています。彼が当時、指揮していたのは38門フリゲート艦アネモネ号。
船団護衛を命じられた彼がジャマイカを出航した時はまだ戦争が始まっていませんでしたが、洋上で戦争が勃発。
そしてあの時代にはよくある話ですが、なにせ無線も電話も無い時代なので、戦争が始まっていることを知らずに不意打ちをくらってしまうことがままあります。
開戦を知らぬままに、アダムの船団が襲われたのは10日後の1812年6月末、自らを囮に船団を逃がすことには成功しますが、アネモネ号はジャワ号同様の損傷を受け、自ら船体に火をかけ海に沈みます。重傷を負った艦長のアダムはボストンに移送され、ようやく起きあがれるようになるまで回復したのが9月、そして英国からの移住者の手を借りて脱走。
叔父の艦にたどりつき、英国に戻ったのが1812年11月末で、アネモネ号喪失の軍法会議が1813年1月3日。
帰国後軍法会議までが、ほぼジャワ号と同じタイムテーブルですね。今にして思えば、アレクサンダー・ケントも、ジャワ号のケースをアネモネ号の参考にしたのかもしれません。38門艦という設定も同じですが。

今回の話題は来週につづきます。後編はシャノン号とラ・フレシュ号について。
虚実とりまぜたおしゃべりがつづく…予定。


2005年11月20日(日)