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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
「終戦のローレライ」完了報告

【未読注意】福井晴敏「終戦のローレライ」その他、アリステア・マクリーンやダグラス・リーマンの第二次大戦海洋小説に関するネタばれを含みます。既読の方にはわかるように未読の方にはわからないように、できるだけ抽象的な表現にとどめますが、どうしても限界はあるので、未読の方はお気をつけください。また既読の方は、どの小説のどこのシーンを言っているのか、おわかりだと思いますが、あえて表現をあいまいにしていますので、おわかりにならない方はお問い合わせください。

ひとつ思い出話をさせてください。
私が海洋小説を知って2年目か3年目の年は、春の来なかった春でした。
「女王陛下のユリシーズ号」。ミステリマガジンの冒険スパイ小説ベスト投票で、海洋冒険小説部門だけではなく総合でも1位となったアリステア・マクリーンの処女作を読んだ春のことです。
読み終わって、そのあまりのインパクトの強さに、1ヶ月ほかに何の本も読めなくなった小説は初めてだったことを記憶しています。
何を読んでも、このユリシーズ号の前には上滑りしてしまう。
この本を読んだのは春のはじめ、日いちにちと暖かくなり春の花が開いていく季節だったのですが、私の頭だけは凍てついた北極海から帰ってくることができず、春が来なかった。ユリシーズ号はある意味、読んだ側も傷を負う小説、一生忘れられない小説の一つです。

さて私が「終戦のローレライ」を読むのを4月まで待っていた理由は、実はこのユリシーズ号の記憶があったから。
�鬼�の冒頭を読んだ時点で、重い展開になることは十分に予想できたので、これは年度末で仕事が多忙を極め、時間的にも精神的にも余裕のない状態で読む本ではないと思いました。
結果的には仕事が一段落してから読んで良かったと思います。読みながら考えて、ときどき本を閉じてしまって、1冊読むのに予想外の時間がかかりましたから。
そして、良い意味でユリシーズ号のようなことにはなりませんでしたが(今は次の本にかかってます)、やはりこの小説、ある意味で忘れられない1冊にはなるのだろうなと思います。

福井氏は、日本のアリステア・マクリーンではなくて、ダグラス・リーマンですね。
私は以前にリーマンを、「非情の世界の情」を描く作家と紹介したと思いますが、終戦のローレライにも同じテーマが流れているように思います。
視点となる登場人物が多数存在することとか、その結果艦内の人間模様が多面的に様々な角度から描かれている、端役や下っ端の水兵にもキラリと光る忘れられないエピソードがある、敵や司令部にも視点となるキャラクターが存在して全体像も立体的に明らかになる、…などなど小説の作劇法がリーマン流ではあることも勿論なのですが、もう一つ共通のテーマがあるのです。
戦争を描き、作中では多くの人間が死んでいきますが、その中で「人間の再生と復活」も描かれていることです。

戦争という非情の世界に巻き込まれ、過酷な体験にさらされるうちに心が麻痺し、人間性を失ったキャラクターが、艦の仲間や陸上で出会った情愛をもつ人たちのちからによって、ふたたび人間として再生する。
…というテーマを内包した小説が、ダグラス・リーマン作品には往々にしてあって(「掃海艇の戦争」のある大尉の再生など)、ゆえに私はリーマン作品を追いかけるのを止められないのですが、「終戦のローレライ」の中にも、伊507に乗り組んだことで、またこの潜水艦に関わったことで、人間として再生され、むかしの人間性を取り戻し、生きる意味を見いだしていく人たちが複数登場します。
多くの死者を出しながら、この小説が最後まで前を向いているのは、そして後味の良さを出しているのは、この「再生」によるものではないでしょうか。

今にして思えば、以前の日記(4月16日付中間報告参照)で指摘した悩める主人公たちというのは、この再生に向けた伏線だったのだと気づきます。
そしてこの伏線に綺麗な答えが出るからこそ、この小説は後味よく、そしてエンタティメントとしてとても良く出来ている。
「もらったぞ、先任」は忘れられないし、田口とフリッツのエピソードは心に染みるし、潜水艦なのに負傷者は空を見ることが出来るし、出来過ぎだと言って良いくらいよく出来ているんです、この小説。
ここまで書かれてしまったら、この先これを超えるものが出てくるのはかなり難しいのではないか?と思うくらいに。

ただ、あまりにも出来が良すぎるゆえに、逆にユリシーズ号や、それからジャック・ヒギンズ「鷲は舞い降りた」のような、読み終わった後に読者の心に残る傷が、少なくなってしまっているかもしれません。
「鷲は…」の最後で、悩めるドイツ人シュタイナがアイルランド人のデブリンに尋ねるセリフがありますよね。「究極的には君がゲームそ支配しているのか?それとも虜になっているのか?やめたかったらやめることができるのか?いつまでも同じことを続けて行かざるをえないのか?弾をくらってどぶに横たわる日まで」
この問いに納得できる答えが無いからこそ、「鷲…」という小説は読んだ人の心の中に澱を残し、忘れられない戦争冒険小説になっているのでしょう。

ところがこれとは対照的に、「終戦のローレライ」の主人公たちの多くは、生きる目的(ある者にとってはそれは死ぬに値する目的であり、またある者にとっては戦後を生きていくのに値する目的となる)を見いだす。
これをハッピーエンドと言うと語弊があることは百も承知ですが、しかしある意味でこの結末はハッピーエンドを内包し、死んだ者にも生き残った者にも救いがあります。
でも実際はたぶん違うのではないか?と私は思うのです。戦後生まれの現実を知らない私がこれを言うのは不遜かもしれませんが、でも「聞けわだつみの声」を読む限りにおいては、あの当時、伊507の乗組員たちのように「生きる目的」を得ることが出来た人たちは限られた少数だったのではないかと。それが60年前の真実であったのかどうかはわかりませんが。

またもう一つ、これはダグラス・リーマンがインタビューの中で語っていたことですが、人間は小説のようにドラマチックに死ぬものではないということ。戦場ではもっとあっけなく、何の意味もなく死んでしまうものだそうです。
これは私見ですが、マクリーンのユリシーズ号があまりにもドラマチックなのは、おそらくマクリーン自身には海戦の経験がないからだろうと私は推察しています。本当に経験のある作家(レイナー、モンセラット、リーマン、ポープ、文官ではあるが乗艦経験のあるフォレスター)の描くものはある意味あっさりしており、そしておそらくそれが現実ではないかと私は推察するのです。

何やらほめているのかけなしているのかわからない評になっていますが、結論は「『終戦のローレライ』は海洋小説としては素晴らしい。この小説、自信をもってお勧めします。でもたぶんこれは60年前の実際ではないでしょう」ということでしょうか?
妙な話ですけれど、もし私が日本人ではなくて、翻訳小説としてこれを読んでいたら、素直に「この小説はエンタティメントとしてベスト!」と書くと思うのです。
けれども、中間報告で書いた通り、戦後生まれの私でも日本社会の負った傷の中で育ってきたわけですから、この小説を完全にエンタティメントとして突き放して読むことが、やはり出来ないんですね。

でもその反面、この小説は日本人でなければわからない良さを数多く内包している小説でもあります。
英国の海洋小説にはない、日本人(もしくは東洋人)独特の情感のようなもの。上手く言えないのですが、英国の海洋小説を読んでいる時と比べて、ローレライを読んでいて感じるのは「あぁこちら側の小説だなぁ」ということ。
翻訳小説に比べると主人公たちの感受性や反応が手にとるように「わかる」し、共感しやすいのです。

そうそう、一つ面白いことに気づきました。
ローレライは自然描写が多いのですよね。夏の日差しや木々の緑、空気のあじ、空の青や海の青。心地よい自然の感触。
英国の海洋小説って、考えてみるとこのような触感的な、心地よい自然描写が少ないように思います。いや彼らは厳しい自然描写は上手いんですよ。酷寒の海だとか灼熱の太陽だとかは、でも…。
このあたりがやはり、国民性と感受性と価値観の違いでしょうか?そういえば食べ物に関する描写も、あの食べ物の無い時代なのに、英国海洋小説の水兵さんたちよりローレライの乗組員の方がこだわっているような。

さて、大幅に世間さまには遅れていますが、これから映画を見に行く予定です。
映画のローレライは全く別の話と聞いているので、楽しみにしています。


2005年05月03日(火)