HOME ≪ 前日へ 航海日誌一覧 最新の日誌 翌日へ ≫

Ship


Sail ho!
Tohko HAYAMA
ご連絡は下記へ
郵便船

  



Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
カノン・カトラス・カタロニア(1)

英国のデイリーテレグラフ紙は、昨年11月、M&Cの英国公開に合わせて「Cannon, cutlasses and Catalonia」という旅行特集記事を掲載してくれました。
タイトルを日本語に訳してしまうと、最初のCが消えてしまうのですが、Cannonというのは、サプライズ号などに装備されている大砲のこと、Cutlassesは船乗りが船の上での戦闘に使う幅広の剣、Cataloniaはカタロニア、スペイン北部のマチュリン先生の故郷です。

記事内容は、マット・バナーマン(Matt Bannerman)というテレグラフ紙の記者が、オブライアンの小説の舞台を訪ねてスペインを巡る…というものでした。
以下、記事の一部を翻訳してご紹介します。

なお文中のカタロニアの地名の中には、ガイドブックで確認できないものもありました。一応スペイン語に近い読みを入れてありますが、現地での発音は異なるかもしれません。ご注意ください。


「カノン・カトラス・カタロニア」
by マット・バナーマン


「私は18世紀の目をしているんですよ」
とフランク・ポンス=マントナーニは言う。彼の瞳はメノルカ島の住民としては典型的な、しかしスペイン人にしては珍しい、深い青をしている。
「この瞳の色は、英国海軍がこの島に残していった数多くの遺産のひとつなのです」と彼は説明する。
これ以外の遺産とは、今なお島の方言に残る「please」や「bottle」と言った単語。「Victory」にまつわる名前が圧倒的に多いこと。我々が今現在、座っているこの家も、スペイン風の開き窓や鎧戸でありながら、英国風の扇型の明かり取り窓があり、玄関ポーチは柱廊と英国人好みに作られている。

メノルカ島は、オブライアン巡礼の旅の出発点としては最適の場所のように思えた。なぜならオブライアンが物語の書き出しに選んだ舞台はここ、19世紀英国占領時代のメノルカ島である。
フランクはこの巡礼の案内役として最適の人物だ。彼は書棚にオブライアン全巻を備えているだけではなく、かつてのコリングウッド提督(訳注:トラファルガー海戦時の次席指揮官として有名)の邸宅を購入し、修復した人物だからである。

にもかかわらず、彼は意気揚々とやってきた私の巡礼計画を、やんわりとたしなめた。
「私は、この国でオブライアンの小説に登場した場所を探し出そうとして、失敗しているのです。いくつかはオブライアンが作り出した架空の場所ですよ。所詮はフィクションなのです」

そんな言葉に臆したりはしない。私はミシュランの地図を広げた。フランクの指は、ジローナ(Girona)の北のあたりで止まった。フランスとスペインの国境が海にぶつかるあたりである。
「ここらへんの何処かじゃないかと思うんですが、」
フランクは言う。だが疑わしげな口調で。

シウダド・デ・バレンシア号がポート・マオンから出航すると、本場の「トラモンタナ(訳注:船乗り言葉で地中海の北風)」が吹き付けてきた。乾燥した涼風は、モラ岬の崖の方向にその指をのばし、甲板で日光浴をしていたフランスのバス・ツァー客の帽子をつまみあげた。胸に入れ墨をし、節くれ立った大きな指をポキポキ鳴らしていたスペイン人の建設作業員たちがその様子に眉をしかめる。
バルセロナ行きのフェリーは、船室にも余裕のとれる船体で、ぴりぴりと神経をとがらせた副長ならペンキについた1〜2カ所のひっかき傷が気になるかもしれない。乗客のトラック運転手たちがハム・バゲットをぱくついている船室は、艦長室というより士官候補生居住区を思わせる。
だが彼女(バレンシア号)は陽気な船で、メノルカ島の西岸をかわし一路北へ長いうねりをかきわけて進み始める頃には、乗組み士官全員とおぼしき人数の高級船員たちが染みひとつないぱりっとした服装でバーに現れ、チップスとビールを手にして談笑を始めた。

難しい操船技術が求められるような事態が発生していないのは明らかである。太陽にじりじりと照りつけられたそれからの8時間の間、私は小さな漁船一隻しか見かけなかった。私は通気筒の陰にはすに入り込み、なんとか目を覚まし続けていようと努力していた。ドクターに敬意を表して、何とかクジラを発見しようと見張っていたのだ。

オブライアンはヴォーヴォワールの詩も翻訳するなど多様な著作活動をしていたが、サー・ジョセフ・バンクス(キャプテン・クックの探検旅行に同行した自然科学研究者)の伝記を記してもいる。そしてこの小説においても、自然科学に対するマチュリンの情熱、喜々として蘭やオランウータンを追いかけ回すその様は、嵐や戦闘の合間にも常にマイルドな喜びを与えてくれる。

しばらくして私は、舷側に出ていたフランス人に起こされた。「Nous sommes pres」(もうじきですよ…という訳でいいのでしょうか?:フランス語だから自信ない)。ナント出身だという老船員は、紫にかすむピレネー山脈を指さして言った。

翌朝、私はバルセロナからフランス国境へ向かう高速道路を走っていた。このルートは古代からの幹線道路でドミータ街道と呼ばれていた。ハンニバル将軍も象を連れてこの道を進んだ。国境をはさむように位置しているカタロニアの町は、戦略上の要地にあり繁栄していた。私が昼食に立ち寄ったのは活気のあるフィゲーラス(Figueres)の町、そこで私はイカとアヒルと羊のチーズの料理を堪能した。

この町にも城塞がある。広大なサン・フェリペ城塞だ。城塞の案内人パブロは、英国に留学したこともある海事史の研究者だった。オブライアンの名を出すや彼は、小説に登場した作戦行動と、実際のカタロニア沿岸の港や砲台と関係がどうなっているかについて、次から次へと説明してくれるのだった。
マチュリンの城について尋ねると、彼は北を指さした。陽炎のたつ平原の果てに山脈がそびえたっている。

正直に言えば、アルベラス(Alberas)は山脈と言えるほどの山々ではない。ピレネー山脈が海に落ちる前にひとあがきしているだけの山にすぎない。峻険ではあるが規模は小さく、岩肌と草原という頂上付近の稜線をのぞけば、山肌は森に覆われている。北側の斜面はルウジリヨン(Rousillon)平原、南側の斜面はエンポルダ(Emporda)平原だが、野生の小麦の混じる草原はやがてブドウとオリーブの畑にとってかわり、さらに下ると、松の実をとるための松も植林されている。北の国境地帯から吹き下ろす風を防ぐために、耕作地はイトスギの防風林で大切に守られている。
風をよけるように村は高台の南側にかたまり、奇妙な景色をつくりだしている。南を見ると何もない不毛の平原が広がっているのに北に目をやると赤いタイルの屋根瓦のかたまりが点々と目に入るのである。

さらに登っていくと、平原はアスペラ(Aspera)呼ばれる暑い乾燥地帯に変わる。ほこりっぽい藪のところどころに青々とした葦や青草が点々としていて目を引く。雨水がたまり天然の貯水池となっているのだ。ところどころに先住民のメンヒルやドルメンが残っている。

この地でガイド役を務めてくれたバーソロミューは、パトリック・オブライアンの名を耳にしたことはなかった。我々はカンタロプス(Cantallops)村(カタロニア語で狼の唄の意)を後にした。トヨタ車はガタガタ揺れながら、きつい悪路をのぼっていった。標高が上がるについれコルク樫の森がブナに変わり、我々は垂直に切り立った谷の片側を登っていった。プイグ・ネウロス(Puig Neulos:地名)の脇の下の位置にあたる。フランス側のラジオ塔が木々の間にちらちらと見え始めた。

ここはかつて密輸業者が使っていた道だと、バーソロミューは私に教えてくれた。第二次大戦当時、フランスに不時着した連合軍のパイロットを密かに逃がすルートであったとも。
目的地は近いと私は確信していた。マチュリンの城について明確な記述があるのは、「勅任艦長への航海」における超現実的なエピソードのみである。マチュリンとオーブリーは虜囚の運命を逃れるために、熊踊りの一行に身をやつし、ツーロンから逃げてくる山々を越えてスペインへ自由をもとめて。

トヨタ車は身を震わせて止まった。突然さしこむ陽の光、足下には高い小さな鋸歯状のカーテンウォールのような岩山。バーソロミューはドアを開け私を、すきま風の抜ける暗い通路に導いた。そこはツバメのさえずりに満たされていた。そして突然、私たちは谷の上にそびえたつ累壁に出たのだった。

もはや妨げられるものが何もないトラモンタナ(北風)は、累壁の狭間をごうごうと吹き抜けていた。どこかで牛の鈴が鳴っている。
手びさしで太陽光をさえぎって見ると、カタロニアのすべてがそこに広がっていた。キャプ・ド・クレウス(Cap de Creus)、ローズ湾(the Bay of Roses)、スティーブンが目にした光景だ。
私の後ろではバーソロミューが風に負けないように叫ぶような声で教えてくれた。これらの累壁や塔は当時のものではないこと、退屈した孤独な貴族が、エドワード7世の時代(1901-10年)に建造したものなのだと。

だが私は、2羽の金鷲が風に乗って空高く舞い上がっていくさまを目を追っていた。その話は聞かなかったことにしようと思った。
何にせよ、これはフィクションの世界の話なのだ。


バナーマン記者の旅は、このような形で終わり、結局のところ彼は「スティーブン・マチュリンの城」を見つけることができなかったわけですが、この広い世界には、そう簡単にはあきらめない方たちが大勢いらっしゃいます。
以前にちらっとご紹介した、オーブリー&マチュリンの英文フォーラム「Gun Room」のメンバーの皆様がそれです。

そして、膨大な「Gun Room」の過去ログから、マチュリンのお城に関する記事を探し出し、日本語でまとめてくださった方もいらっしゃるんです。「Dangerous Shoals」というサイトを運営していらしゃるまつもとさんです。

それではここから、スティーブンのお城に関する探求の旅は、まつもとさんのサイト(ここをクリック)にバトンタッチ!
素敵なお城の写真がたくさん紹介されています。
「pickup」というコーナーをクリック、一番上の「スペインのお城」という記事です。

なお、バナーマン記者の記事には、この他の巻の舞台について簡単な紹介記事が続きます。
これについては日を改めて、引き続きご紹介したいと思います。


2004年08月09日(月)