無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記




ホームページ |プロフィール |掲示板「トーキング・ヘッド」 |メール
|藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2006年01月01日(日) 17万ヒット!/映画『キング・コング』&『乱歩地獄』

 新年、明けましておめでとうございます。

 長らく更新が滞り。
 数えてみればもう一月以上も更新がなかったわけで、お待ち頂いた方には申し訳ない限りなのだが、事情は掲示板にも書いた通り、糖尿病の悪化による突然の入院があったことが大きい。血糖値が500まで跳ね上がっちまったんだもの、医者が「入院しろ」って言うのは仕方ないわな。もちろんそれ以前から、私生活での難儀なデキゴトもやたら起こっていて、本や映画の感想など書いていられるか、という事態に陥っていたのではあるが。
 けれどもその間も、ミクシィやはてなの方は一日も欠かさずに更新をしていたのだ。そちらは身辺雑記を簡単に書くことが多いので、こちらに比べれば書くのはラクなのである。「無責任」が更新できない分、せめてそちらをご覧になって頂きたいと、ご希望の方にはメールで連絡を頂いてアドレスをお教えもしたので、一応、常連さんから「いつになったら復活するんだよ」というお叱りは頂かずに済んでいる。しかし見方を変えるなら、現在、こちらの日記を覗いている人の殆どが「通りすがりさん」なのだと推測できる。
 つか、劇団の連中もこの日記、ろくすっぽ見てないということが判明した(笑)。愛想のないヤツラばかりだということは実感しちゃいたから今更文句なんてないんだが。
 でも私の日記のメインは、たとえ更新が滞ろうとも、この「無責任賛歌」なのである。何となれば、ミクシィのように読者の「顔が見える」ところでは、どうしたって相手への「遠慮」というものが生ずる。マイミクシィに登録して下さっている方々は、私がかなり過剰なことを書いたとしても「まあそういうやつだから」と笑って済ましてくださる方ばかりではあるのだが、これは「書き手の心理」の問題であるからどうしようもない。
 よく「不特定多数の人に読まれる場合には言葉に気をつけて」と言われるが、話は全く逆なのである。どんなに細心の注意を払って書かれた文章であろうと、どこかの誰かを傷つけない可能性が皆無とは言えない。「人を傷つける言葉が全てダメ」ならば、我々はほんの一言すら発することができなくなってしまうのだ。たとえば、「人を殺してはいけない」と発言したとして、「でも世の中には過失で人を殺した人もいるのだから、そういう人を傷つけたらいけないので、そんなことは口にすべきじゃない」と反論されてしまうようなものである。そんな馬鹿な話があるわけがない。たとえ他人を中傷する言葉であろうと、「発言そのものは規制されてはならない」のは民主社会の鉄則である。発言の後に批判を受けることと、発言そのものを規制するのとでは意味合いが全然違う。
 即ち、「表現に規制をかけること自体が根本的に理不尽なのだ」という結論にどうしてもなるのである。「不特定多数の人に読まれるからこそ、表現の自由はどこまでも際限なく保障されねばならない」ことは、この国が本当に個人の「人権」を保障し希求する社会であるのならば、絶対に遵守しなければならない根本的なルールであるのだ。
 何だかんだと「人権」を振りかざす連中が、その実、他者の言動を規制する快感に酔い痴れている昨今である。自由に書ける、いや、「自由に書く」場というものを個人が確保しておくことは、これからの方がもっと必要になっていくのではなかろうか。
 だから仮に、私が「こんなヤツラはバカ」と貶したタイプの人間に、読者の皆さんが「偶然」当てはまったとしても、それは「あなたを想定して書いてるわけではない」ので、腹を立てたりするのはお門違いなのである。でもやたら多いんだ、そういうバカ。被害妄想は「バカの上塗り」をすることにしかならないから気をつけようね。


 血糖値の下がり具合もよく、元旦の一時帰宅がかなったので、病院で朝食を取ったあと、妻と二人で櫛田神社に初詣。
 今年は櫛田神社の千二百五十年祭ということで、大きな看板が立てられていたが、特に何かイベントを行うというのではないようだ。福御籤を引くと、すきやきのタレが当たる。接触している身には余計なシロモノだが、神様も「肉食っていいよ」とご託宣を下さったのであろうか。御籤自体は末吉。なんだかここ数年、末吉しか引いていない気がする。妻は以前は御神籤を引くのが趣味みたいなところがあったのだが、すっかり飽きたのか、三十円くらい出してやるよと言っても首を横に振る。
 今年の暦と札を買って、キャナルシティに向かう。

 病人であることを忘れて、ユナイテッドシネマで映画『キング・コング』。せっかくの映画の日に映画を見ないのは損である。もう少しからだを大事にしたらと仰る向きもあろうが、私の目もそう長くは持ちそうにないので、こればかりは忠告を聞くわけにはいかない。
 もはや映画史上の古典であるオリジナル版『キング・コング』であるから(だからこれから書くことはかなりネタバレを含んでいるのだが、このお話を知らないことは既に恥でしかないので、そんなバカのことは想定しない)、たとえCGが発達した21世紀であろうと、生半可な映像化ではそんじょそこらの映画ファン、特撮ファンを唸らせることは不可能である。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのピーター・ジャクソン監督は積年の夢を叶えるためとは言え、ある意味「無謀」に挑戦したわけであるが、これが実に小気味よい快作に仕上がっていて、三時間の長尺が殆ど気にならない。
 冒頭に流れるアル・ジョルスンの歌声と、1930年代のニューヨークの風俗、これだけでも心が躍りだすのだが、思わず画面を食い入るように見てしまったのは、当時のスタンダップ・コメディの芸の数々が「再現」されたからだ。チャップリン風の芸人が「何人も」登場してくるのを見て、ジャクソン監督、よく分かってらっしゃると、ついほくそ笑んでしまうのである。あの浮浪者スタイル、チャップリンのオリジナルじゃなくて、当時の「道化」のスタンダード・スタイルだということは知ってる人は知っている。
 このあたりはオリジナル版にはない「時代背景」の説明描写だが、これが全く説明的になってはいないのが見事である。ヒロインであるアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)が、ただのダンサーではなく、コメディ・ダンサーだという設定が、あとで彼女がコングを「和ませる」伏線として効いてくるのだ。芸は身を助く、と言うか、巨猿と美女との心の交情をスムーズに見せるために、タップダンスや側転、お手玉が役に立とうとは!
 もちろんこれは監督のブロードウェイや映画の歴史に対するオマージュであるのだが、正直、「やり過ぎ」の感がないわけではない。カール・デナム(ジャック・ブラック)が初め映画の主役にフェイ・レイを使おうと考えていたのに、メリアン・C・クーパーに取られてしまったとか(もちろん、この二人は、オリジナル版『キング・コング』のヒロインと監督である)、映画会社の首脳たちが、お蔵入りしかけた映画でもユニバーサルなら買うから売っちまえと発言したりとか、主演男優ブルース(カイル・チャンドラー)がクラーク・ゲイブルの顔マネをしたりとか、多分、特に映画ファンでもない人たちには気にもならないだろう小ネタが、これでもかこれでもかと繰り出されて行くのである。それは舞台がスカル・アイランドに移ってからも同様で、オリジナルはあくまで『キング・コング』のはずなのに、どこかで見たようなシチュエーション、構図、展開、これは『駅馬車』か『ガンガ・ディン』か、といったシーンが続出するのだ。映画の中で、主人公たちが危難に陥るたびにイングルホーン船長(トーマス・クレッチマン)が助けに来るのがご都合主義かつ頻繁でウンザリすると思われる方もあろうが、あれは「騎兵隊」なんであるから、「危険が迫った時に限ってしょっちゅう来るのが可笑しくて面白い」のである。水戸黄門だって最後にしか印籠を出さないし、ウルトラマンだって三分経たなきゃスペシウム光線を出さないんだから、文句を付ける方が「分かってない」のである。ターザンよろしくツタにぶら下がって文字通り「飛んで」来るんだから、あれがルーティーン・ギャグだってことに気付かないといけないのだ。
私は「お約束」なシーンのたびに笑いを堪えるのに精一杯だったのだが、劇場に詰め寄せたお客さんがたはまるで反応がない。今に始まったことではないが、日本の観客は映画を殆ど見ないから本当に鈍感になっちまっているのである。むりやり日本映画にたとえて言うなら、これは『シベリア超特急』のように、「意味も脈絡もなく往年の名画のシーンが再現されて挿入される」という、思いっきり趣味「のみ」に走ってる超オタクな映画なのだよ。『キル・ビル』に例えてもいいんだが(笑)。
 もちろん笑えるだけじゃなくて、ほかにも見所は随所にある。大蛇しか出て来なかったジョン・ギラーミン版『キングコング』(間に「・」が付きません)と違って、スカル・アイランドにはオリジナル版同様、多数の恐竜たちが登場する。これが素晴らしいのは、単に前世紀の生物が生き残っているという設定になっているのではなくて、恐竜たちが「独自の進化を遂げた」形になっていることだ。だから、コングを襲うのも、実際には羽ばたけないことが分かったオリジナル版のプテラノドンではなくて、羽ばたくことのできるテラプスモルダックスに変更されているのである。
 しかもオタク仕様の設定やパロディだけに凝っているのではなくて、ストーリーラインも揺るぎがなく、最後はキッチリと感動もさせてくれるのだからたまらない。朝青龍が大泣きしたと言うのも納得で、何よりコングがストイックでハード・ボイルドな「男」なのがいいのだ。今回のコングは一切笑わない。ギラーミン版『キングコング』のように、ヒロインのオッパイポロリを見てニヤケるようなナンパな描写は皆無。コングはひたすらアンを守り、アンのために戦うのだ。だからこそ、「美女と野獣」の悲劇がオリジナル以上に際立つことになるのである。
 ああ、もうハッキリと言ってしまおう、我々はこの映画に一つの奇跡を見ることができたのである。即ち、既に伝説となっているオリジナル版を凌駕するほどの傑作が生まれてしまったということだ。あり得ないと仰る方は映画を愛するすべを知らない不幸な人間だと断定してやる。恋愛、アクション、謎と怪奇、恐怖と笑い、スリルとサスペンス、センス・オブ・ワンダー、骨太のドラマ、文明批評、映像美などなど、映画のエッセンスがこれほどぎっしりと詰め込まれている作品は滅多にあるものではない。
 だから、田中芳樹が担当したノベライズ版でのあのラストは噴飯ものの蛇足でしかなく、映画がデナムのあのあまりにも有名な「野獣を殺すのはいつも美女なのだ」で締めくくられたことに私は安堵を覚えたのである。


 映画が三時間を越えていたので、朝から見たのに帰宅は1時近く。
 しげが張り切って作ったというおせちに雑煮をいただく。地方によって雑煮の作り方は違うようだが、福岡の場合、雑煮と言えばたいてい、澄まし汁に餅やかまぼこ、鰤に鰹菜を入れる。実は今朝の病院の朝食もそれだったのだが、しげが作ったものも殆ど同じである。よくやったものだと感心。おせちも海老(頭付きのやつを探すのに苦労したと言っていた)にかまぼこ、鮭の切り身にかしわ、昆布巻きにキュウリのイクラ乗せとなかなか豪華である。ついつい箸が進みそうになるのを押さえたが、しげの料理でこんなに美味しいと思ったことは一度もない。私がまたまた入院してしまったもので。少しは気遣う気持ちを見せてくれたものか。


 夕方から今度は、シネ・リーブル博多駅に『乱歩地獄』を見に行く。
江戸川乱歩の短編『火星の運河』『鏡地獄』『芋虫』『蟲』の4篇を、浅野忠信だけを共通して配役し、4人の監督が別々に撮ったオムニバス。……と言っても、原作通りに仕上がっているものは一作もない。各話のタイトルと基本設定やアイデアを借りただけのオリジナルと言った方がよいのだが、それはそれで小説の映像化のスタイルとしては一つの方法であり文句はない。ただねえ、出来上がりがどうにもねえ、一人よがりに過ぎるものばかりなのがちょっとねえ。
 乱歩はともかく熱狂的なファンが多いから、映画作家としては映像化の意欲を掻き立てられる気持ちは分かるのだが、思い入れが強すぎて抑制が効かなくなると言うか、「やり過ぎて」しまうことが多々あるのである。まあその「やり過ぎ」が石井輝男の『恐怖奇形人間』のレベルにまで行っちゃえばギャグというかその稚気に微笑ましさすら感じてしまうことになるのだが、この映画のように「気取って」しまうと、どうにも鼻に付くばかりなのである。

『火星の運河』(監督竹内スグル)
 原作が乱歩の夢想を綴った散文詩みたいなものだから、映画もイメージビデオみたいなものである。男(浅野忠信)が荒野をさまよって小さな沼を見つけ、そこを覗きこんだら、自分がかつて陵辱した女(shan)になっていたというだけのお話。他愛ないと言えば他愛ないのだが、殆ど音のない無声映画に近い作りが面白かったし、何より5分少々と短いので、あまり腹も立たないうちに終わったというか。でも初手から「これのどこが乱歩?」という雰囲気は既に漂っていたのである。

『鏡地獄』(脚本薩川昭夫/監督実相寺昭雄)
 『屋根裏の散歩者』『D坂の殺人事件』に続く脚本・監督コンビなので、原作を大胆に脚色した本格ミステリー仕立てにし、内容的にも犯人の美少年・齋透(成宮寛貴)によりスポットライトの当たったシリーズ第三作の雰囲気を前面に打ち出している。原作には登場しない明智小五郎(浅野忠信)と小林少年(中村友也)が狂言回しになるのは前作を踏襲しているわけだが、それならこの二人も嶋田久作と三輪ひとみコンビでやってもらいたかったところである。ロンゲの明智って、あんたねえ。
 殺人トリックに、マイクロ波を放射するサラジウムを表面に施した鏡を使う、というのは乱歩というよりも海野十三っぽいが、これはどちらかというと実相寺監督の『怪奇大作戦/京都買います』の仏像消失トリック(カドミウム光線)にオマージュを捧げたものかもしれない。本格ミステリー仕立てとは言ったが、もちろんこんなトリックは現実にはあり得ないので、事件の解明などに主眼は置かれていず、無意味なくらいに随所に置かれている鏡の映像に、『市民ケーン』のような映像美を見出すのみである。映画としては4本中一番マトモな作りになってはいるが、犯人の透をナルシストにしてしまったおかげで、原作の鏡にとり憑かれた男の妄執はさほど伝わってこない。一応、例の「球体」は出てくるんだけど、扱い薄いんだ。浪越警部役の寺田農に部下の刑事役の堀内正美は、実相寺作品常連組で、今回もいい味を出している。

『芋虫』(脚本夢野史郎/監督佐藤寿保)
 なぜかこれも明智小五郎ものに改作。けれど小林少年は『ピストルオペラ』『誰も知らない』の美少女韓英恵に変更。つか、髪が長いままだし、てっきり文代かマユミかと思ったよ。
 お話はもう、なんだかなあという出来で、原作での芋虫こと須永中尉(大森南朋)とその妻・時子(岡元夕紀子)の関係だけはあるものの、二人のセックスシーンを怪人二十面相(松田龍平)が「屋根裏の散歩者」になって覗いているし、切断された須永の手の指がホルマリン漬けになったままぴくぴく動くのは『指』からのイタダキだし、二十面相の本名が「平井太郎」ってのは江戸川乱歩の本名だし(原作の二十面相には「遠藤平吉」という本名がちゃんとある)、二十面相の師匠が「菰田」ってのは『パノラマ島奇談』だしで、適当に乱歩の原作を繋げ合わせて、それでいてただ鬱陶しいばかりで石井輝男のようなキッチュな面白さは微塵も生まれてこない。乱歩の映像化で「これやっちゃ失敗するよな」ってのを全部やらかしちゃった印象である。監督の佐藤寿保って人、以前『藪の中』で、犯される真砂になぜか騎乗位やらせたヘンな人だからなあ。なんかまあ、いろいろやりたかったんでしょうねえ。

『蟲』(脚本・監督カネコアツシ)
 なんかもう、書くのも辛くなってきましたが(笑)。
 時代を現代に移して、女優の木下芙蓉(緒川たまき)に懸想した柾木愛造(浅野忠信)が、彼女を殺してそのままの姿で保存しようとするけれども、失敗して蟲が湧いちゃうというお話。愛造には科学的な知識も何もないから、血抜きも失敗するし、右往左往して死体に絵の具を塗ったくったりするという(緒川たまき、時々苦しくて瞬きしたり息が上がって胸が上下したりしてたぞ。役者なら気張らんかい!)、コメディ仕立て。
 これだけふざけてくれればかえって原作とかけ離れていても腹が立たないくらいだが、無意味に時間軸が交錯したり、芙蓉の恋人を浅野忠信が二役で演じているのでどっちがどっちか迷わされたりして、作りはいかにも青二才の背伸び。実際、監督さん若いんだけど。本職はマンガ家さんだそうだが、私は読んだことがない。

 4本見た感想はともかく「疲れた」である。

 帰宅して、『相棒』『ウィーンフィルコンサート』『華麗なるミュージカル ブロードウェーの100年』などを見て寝る。
 初夢は、女優さんから「膝枕してあげる」と誘われたけれど「僕には妻がいますから」と断る夢。冗談みたいだが、ホントに見たんだから仕方がない。

 明日にはまた病院に舞い戻るので、また更新が途絶えてしまうが、どうせよんでるの通りすがりさんだけだから(結構ヒネているのである)。17万ヒットしたけど、キリ番報告もやっぱりなかったもんなあ。ぐっすん。

2003年01月01日(水) オタク夫婦は新年に何を買ったか/映画『狂った果実』/映画『幕末太陽傅』/『おせん』其之五(きくち正太)ほか
2002年01月01日(火) ぬかるみとミッフィと腐れた餃子と/映画『スパイキッズ』/『降魔法輪』(さとうふみや)ほか
2001年01月01日(月) 2001年元旦スペシャル


2005年11月28日(月) ミクシィの穴/映画『奇談(キダン)』

 ミクシィ内でも、巧妙な手口のスパムメールや迷惑広告、詐欺的商法が広がりつつある、という話をヨナさんの日記を読んで知る。具体的には、以下のような手法だそうだ。

〉簡単なプログラムを組んで不特定多数のミクシィ会員の「自己サイトエリア」に足跡をつけまくったり、特定のコミュニティ(特定のテーマを語り合う掲示板、グループのようなもの)のメンバーリストを抽出してそのメンバーに片っ端から「マイミクシィ」登録をしてほしいというメールを送りつけ(中略)、多くの「足跡」「プロフィール」を経由したユーザーは、そのプロフィールに書かれてあるURLを参照し、広告なり勧誘なりのページに誘導されてしまう。
   
 「足あと」というのは、ミクシィの特徴であるアクセス解析のことである。通常のアクセス解析は、経由してきたURLは表示されても、必ずしも誰が覗きに来たかまでは分からないものだが、ミクシィの場合は、会員の名前もアクセスしてきた時間もちゃんと表示される。だから、「足あと」に見も知らぬ人の名前があれば、「この人はどういう繋がりで、なぜ私のところにやってきたのだろう?」と、足あとを辿って相手のページに行くことはごく自然な流れだということだ。
 私はミクシィに参加してはいても、その「足あとさん」のページに載っているURLをクリックしたことはないので、今のところ、危ないサイトに誘導されたことはない。とりあえず詐欺には遭わずにすんでいる。しかし、それは単なる僥倖に過ぎないかもしれない。たいていの詐欺事件の場合、特に振り込め詐欺などについては、私は「なんでこんな単純な手に引っかかるのだ」と多少高飛車なモノイイをしてしまうのだが、今回はそれも言いにくい。実際、これは、「SNSであるミクシィ内だからこそ、被害を受ける可能性が大きくなる」点で、詐欺野郎の方が我々よりも一枚上手だなあと思うからだ。
 普通のホームページ等と違って、ミクシィ内では「足あと」を残すことに誰も違和感を感じていない。私などには平気で見も知らぬ人のところに足あとを付けまくる人間の方が常識を忘れてしまっていると思うのだが、紹介でしか会員になれないというシステムが、自然と「ミクシィ同士の連帯感」みたいなものを作り上げていて、警戒心が薄らいでいるように見えるのである。トモダチのトモダチのトモダチはみなトモダチだっていう幻想。世間一般ではそんなのは殆ど絵空事でしかないのだが、ミクシィ内ではそれはまだ「有効」だと信じられていたようなのだ。しかし、SNSとて所詮は「現実」である。中には、カネ繋がりでトモダチになったやつだって、いておかしくはない。幻想を持っている人間ほど、現実の人間関係に疲れてミクシィに「癒し」を求めて参加した人間ほど、この手の詐欺に引っかかりやすいように思う。そしてそういう人々は、かなりの数、ミクシィ内に存在しているのではないか。
 無作為に同内容のメールが何百通と送られているような状況があればそれを速やかに察知し、排除するようなプログラムをミクシィが開発すればこの騒動はいったんは休止するだろう。けれどもこういうネット詐欺の手口は、緒戦は取り締まる側と取り締まられる側とのイタチごっこに終始する。きっと、また新しく巧妙な詐欺の手口が生み出されることは火を見るよりも明らかなのだ。結局は、「個人での防衛」を考えるしかなくなる。一番効果的なのは「ネットから遠ざかる」ことだろうが、これができるユーザーが果たしてどれだけいるものか。
 これは決して冗談で言っているのではなく、「今はハマッていても、いつでも自分は止められる」という「見極め」がないと、人間はそのモノに取り憑かれて、陥った「穴」から抜け出せなくなるのだ。いわゆる「妄執」に取り憑かれる、というやつである。オタクはそういう点で明らかに精神的なビョーキなんだね。
 「ミクシィ内の情報だって、結構外にだだ漏れ」ということは、ミクシィ日記を始めてから感じていたことだ。「足あと」を参照すると、しょっちゅう覗きにくる見知らぬ人がいて、かなり気持ちが悪い。一度ミクシィ日記でそのことを漏らしたら、「気にしなくても大丈夫ですよ」というコメントをたくさん頂いた。確かに私のマイミクシィに登録してくださっている方々は、そんな怪しいやつとの付き合いはないようであるが、ガードが甘いなあという気はどうしてもしてしまう。日記をミクシィ内に全公開している人もいるのじゃないかな?
 今のところ私は「友達の友達まで公開」という形をとってはいるが、更に「友達まで」に限定しなければならなくなるかもしれない、と感じている。トモダチのトモダチの中には、どうやら私と面識のある方もいらっしゃるようなのだが、何を恥ずかしがっているのか、私の日記を覗きには来るのだが、「自分ごときがおこがましくて」とかで、マイミクシィ登録を申し込めないでいるようなのである。でもただ覗いてるだけって、ミクシィ内ならともかく、一般社会なら一種のストーカー行為だから(笑)。マイミク登録したいならさっさとしちゃいなさい。ってこっちの日記は見てないか。見ない方がいいかもしんない。


 父からまた「年末で仕事辞めるぞ」との電話。
 「もう疲れてしもうた。姉ちゃんと気持ちよう仕事がでけんごとなったったい」
それはもう何度も聞いたので、正直、私は、「どっちでもいいよ」という感想である。だもんで、「店は潰すんね。それとも姉ちゃんだけ辞めさせてお父さんだけ仕事続けるんね」と聞いてみたら、「それが迷いようとたい。顔剃りはもうしきらんもんなあ。髪つむだけの店でもよかて、昔からのお客さんが言うてくれようけんなあ」と未練タラタラなのである。
 「何でこげんことになったとか分からん。俺が姉ちゃんに何か要らんこと言うたとかもしれんばってん、それが全然思い出せんとたい」と言うのだが、つい何ヶ月か前、父は、中身は明かさなかったが、「姉ちゃんに要らんこと言うた」とはっきり言っていたのである。要するに、父がボケたことが父と姉の確執の一番の原因だろう。姉も融通を利かせられるタイプではないので、ボケ始めた父をうまくあしらえなかったのだろう。カタストロフィは必然だったということか。
 「お前には言うだけ言うとかないかんと思うたけんな」と言って父は電話を切ったが、言われたところで私には何の手も打ちようがない。多分、私が何を言っても、それが父にとって都合のよくないことであれば、父は数日でサッパリとそのことを忘れてしまうのだ。そのうち父は私の存在自体、忘れてしまうだろう。緩慢な別離が進行しているのである。


 しげのダウナー、ようやく回復の兆し。仕事も「辞めたい辞めたい」と言っていたのが、「前ほどには辛くなくなった」そうだ。
 「こないだイッセーさんの芝居を見て、ホッとしたんよ」としげは言う。
 「どういうこと?」
 「ワークショップに参加したころからおかしくなってたんだけど、イッセーさんの舞台見てたら、『ああ、自分はこっち側にいていいんだ』って思えるようになって」
 「それは、『舞台に立たなくていい』って思えたってこと?」
 「そうかな」
 「つまり、イッセーさんと一緒に舞台に立つことがプレッシャーになってたわけだ」
 「うん」
 「でも、それは逆に言えば、自分が傲慢になってたってことだよ。イッセーさんに対抗しなきゃなんないなんて、下手な『プロ意識』を持ってたってことなんだから。……できるわけないじゃん!」
 「そうだけど……」
 「俺は、森田さんが『シロウトって凄いよ。イッセーさんに絡んじゃうんだから』と仰ってたのを聞いて、ホッとしたんだよ。『ああ、自分はシロウトだから、何やってもいいんだ』って開き直れてさ。うまく芝居ができなくったっていいんだよ。ヘタに『うまく立ち回らないと』なんて思うから失敗するんだよ」
 「うん……」
 結局、生活も含めて、しげは全般的に、「完璧でないとダメだ」と思い込むクセがあり、これが自分を追いつめてしまっているのだ。おかげで「どうせできないんだったら最初からやらなきゃいい」で、引きこもって何もしなくなってしまうのである。そういう自己暗示が、「舞台に立たなくていい」と思ったことで、少し解けたのだろう。「仕事自体がイヤ」と言っていた状態からは何とか脱却したようだ。
しげはともかくマイナス暗示にかかりやすい。その暗示は偶然解ける場合もあるが、殆どの場合、その「洗脳」は簡単には解けないし、しげ自身、心にブロックを掛けていっかな解こうとしない。天の声のように、洗脳解除が自然にやってくるのを待つのはいつになるか見当も付かず、その間、しげに振り回されることになる周囲にとっては、この状態は大迷惑なのである。何とかセルフコントロールできるようになってほしいのだが、昔からの「甘えんぼ」体質が抜け切れないので、いつまでも同じ失敗を繰り返す。
 私がしげに「仕事続けないなら出ていけ」と厳命したのは、いささかす厳しすぎるように思われる方もいらっしゃるだろうが、際限なく甘える人間に対して、表面上の優しさだけで付き合ってなど行けないのである。でも、暗示が解けて気が楽になったら、またしげの家事は適当になってきたんだよなあ。頼むからもうちょっと脳みそのシワを増やしてほしいよ、全く。


 仕事を終えて、キャナルシティへ、久しぶりに映画を見に行く。
 「ラーメンスタジアム」の沖縄ラーメン「通堂」で、「黒こがしおとこ味ラーメン」。なんだか凄いネーミングだが、こってりとんこつ味である。何を「焦がし」てるんだかはよく分からないが、スープ自体、油をそのままズルッと飲み込むような感触があるので、好みはかなり分かれるだろうと思われる。しげは「旨塩おんな味ラーメン」を注文、男でもあっさり味好きの人はこっちの方を選んだ方がよさそうだ。ちょうどサービス中で替え玉がタダだというので、二人揃って注文。あとでしげが「体重が増えてなくてホッとした」と言ってたが、だったら替え玉を頼まなきゃいいのである。庶民は「タダ」には弱いねえ。

 キャナルシティのシネマコンプレックス、先月から「AMC」が「ユナイテッド・シネマ」に買収されたために、「ユナイテット・シネマ キャナルシティ13」と名前が変わっている。内装も看板などが変更されているが、駐車場の無料割引が、これまでの2時間から3時間に延長されたのはありがたかった。たいていの映画が2時間を越えているので、これまではどうしてもアシが出ていたのである。
 更に配給の系列が変わったので、福岡には来ないと思っていた『奇談』や『銀河ヒッチハイク・ガイド』も急遽公開が決定した。今日はまず、『奇談』の鑑賞である。
 『新世紀エヴァンゲリオン』をご覧になったことがある方なら、使徒が倒されたあと、十字架状の光芒が立つのをご記憶されていると思うが、あのイメージのオリジナルが、諸星大二郎のマンガ『生命の木』のラストシーンである。庵野秀明監督が魅せられて流用したように、煎じ詰めれば、この作品のキモは、そのラストシーンを見るためだけにあると言ってもいい。問題は、さて、そこに至るまでの展開をどう持っていくか、という点にある。何しろ原作は30ページほどの短編だから、長編映像化にあたっては、かなりの力量が要求されるのだ。
 脚本も兼ねた小松隆志監督の演出、これは決して下手ではない。原作の主人公を男性から女性に変更し、かつて少女のころに物語の舞台となる「隠れキリシタン」の村で神隠しにあったとし、その時の記憶を取り戻すために再び村を訪れる、というのは充分に必然性のある設定になっている。主人公の佐伯里美を演じた藤澤恵麻、切実な表情を作るのがうまく、物語をよく牽引してくれている。しかし如何せん、原作に忠実に映像化されたラストシーンのインパクトが強いだけに、この「必然性のある設定」が「ありふれた設定」に見えてしまうことも事実だ。
 村で偶然出会った稗田礼二郎(阿部寛)と行動をともにするのだが、見覚えのある教会を訪ねたり、村の老婆の証言を聞きに行ったりはするのだが、肝心の「はなれ」にはなかなか出向こうとはせず、モタモタした印象を受けてしまう。善ず(やべけんじ/声・三ツ矢雄二!)の死以外には事件らしい事件も起こらないので、「地味」な感じは拭えない。もうちょっと何とかならなかったのか、ともったいなく感じていまうのだ。原作では敬虔な信徒であるあまり、事件の隠蔽工作に走った神父(清水紘治)も、映画では右往左往するばかりでいてもいなくてもいい存在になっている。これは明らかに脚色上のミスではないか。
 ノベライズ版を読んだときに危惧していた「おらと一緒にぱらいそさ行くだ!」のセリフの変更(「行くんだ!」と標準語化)もやっぱりあった。これなどは何のための変更なのか、脚本の意図がまるで分からない。
 『生命の木』の映像化としては、かなり不満も残るのだが、見所もないわけではない。オリジナルキャラである神隠しの少女・静江(ちすん)の美しさは息を呑むほどであったし(だからこそ、活躍しないのがまたもったいないのだが)、重太(神戸浩)、洗礼のヨハネ(白木みのる)は、これ以上はないというほどの適役である。批判はあろうが、少なくとも、前作『妖怪ハンター ヒルコ』より仕上がりの後味感はよい。諸星大二郎ファンなら、一応は見ておく必要のある映画だろう。
これがきっかけになって、『海竜祭の夜』や『死人返り』とかも映画化されてほしいんだけれど、ヒットしてないみたいだから無理だろうなあ。今回も私たち夫婦のほかはお客さん、一人しかいなかったものなあ(涙)。ジャパニーズ・ホラーもかなり頭打ちなのである。

 帰宅して、DVD『機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者』を見る。
 改めて、情報量の多い物語を難解に描くのではなく、観客の想像力をうまく喚起させるように編集している演出の妙に感嘆する。これを「難しい」とか「退屈」とか「テレビシリーズを見てないと分からない」とか言ってる連中は、「映画を読む力」を無くしてるんだろうな。

 今日、読んだ本、ササキバラ・ゴウ編『「戦時下」のおたく』(角川書店)。
  賛同する点、多し。
 マンガ、諸星大二郎『稗田のモノ語り 妖怪ハンター 魔障ヶ岳』(講談社)。
  稗田シリーズとしてはイマイチの出来。
 マンガ、現代洋子『社長DEジャンケン隊』1巻(小学館)。
  野田義治社長は巨乳だけの人ではなかったのだな(笑)。

 もう本の感想はこの程度しか書けないけど、ごカンベン。

2004年11月28日(日) 「地雷」がいっぱい(^_^;)
2002年11月28日(木) 再爆走�ぁ新�をとっては/『恋愛出世絵巻 えん×むす』1巻(瀬口たかひろ)/『ウルトラマン画報』上巻
2001年11月28日(水) ひと月早いぞ誕生日/DVD『キカイダー01』第1巻/『マジンカイザー』2巻ほか
2000年11月28日(火) 〆切はゴムのように延びる(^o^)/『蟲師』1巻(漆原友紀)ほか


2005年11月27日(日) さりげなく復活。

 かなり更新が滞ってきたので、もう途中をすっ飛ばして、今日の分から書く。この間、会津若松に旅行したりまた九国に行ったりといろいろあったのだが、気が向いたら書くね。これまでの例だと書けないままで終わるパターンが殆どなんだが。
 でも、この間、「ミクシィ日記」と「はてな日記」は休まず継続しているのだ。あっちは、ホラ、短く書くこと可能だから(こっちしか読んでない人には事情はよくわかんないでしょうがすみません)。
 やっぱり、三つ並行の更新はキツイよ。……って、自分でそうなっちゃう事態を招いてるんだけど、どうしてそうなっちゃったのか、自分でもよく分かってないのである。まあ、ともかく、行けるとこまでは行こう。


 昨日行った、九州国立博物館で買ってきた『針聞書』(安土桃山時代の医学書)に出てくる「蟲」グッズ。シールになっている20匹ほどの想像上の「蟲」たちの、そのユーモラスなフォルムを眺めていると、ムカシの人たちは「病気」とどんなつき合い方をしてたのかなあと想像が広がっていく。
 この「妖怪たち」のデザインの面白さは、言葉ではとても説明できないものなの で、ぜひ九州国立博物館においで頂きたい。ホームページで一部の「蟲」たちは紹介されているので、妖怪マニアの方はぜひご一読を請うものである。
 http://www.kyuhaku.com/pr/collection/collection_info01_02.html



 『仮面ライダー響鬼』四十一之巻 「目醒める師弟」。
 ついに明日夢君(ついでに桐矢君も)がヒビキさんの弟子入りに……って、でもあきらちゃんがもしかしてこの回でリタイア? どどどどうして!? 秋山奈々ちゃんがいてこそのヒビキではなかったのか!?(←妄想) 脚本家交代の問題なんて些細な問題だ、奈々ちゃん降板の方がずっと大問題じゃないか!(←我田引水)。いや、これも脚本家が井上敏樹に代わったせいでそうなったのか、だとしたらオレは井上敏樹を許さんぞ!(←逆恨み) アンチ井上敏樹の諸君、俺が悪かった。やっぱり『響鬼』の脚本家は大石真司でなければならなかったのだ。(←変節)奈々ちゃんカムバーック! ミ・アモーレ!(←処置なし)
 とまあ、わざと狂乱してお見せしたが、要するに「30話問題」で怒り狂っていたヤツらの真似をしてみたらこうなった(笑)。『特撮エース』を見てたら、とり・みきさんやはぬまあんさんもかなりイタい反応を示されていたが、結局は、「自分の気に入らない展開になったことで怒ってる」程度の、レベルの低い反感に過ぎないのである。
 でも、あきらちゃん目当てで見てたことは事実だから、楽しみが一つ減ったことは事実なんだよなあ(苦笑)。……で、あきらの鬼としての名前は付けられないままか。今までの健闘を讃えて、「名誉称号」を与えるとか、そういうことしてほしいよなあ。


 庶民は「パニック」が好きである。
 建築疑惑事件が起きれば、うちのマンションは大丈夫だろうかと、姉歯事務所の設計でもないのにあたふたするし、政治家は政治家で、そのパニックを更に煽るように「大問題」とぶち上げる。
 鳥インフルエンザ流行のおかげで、製薬業界にもまた「パニック」が起きている。
 インフルエンザに効果的な治療薬として、タミフル(一般名オセルタミビル)の需要が増えているようであるが、インターネットによる個人輸入代行では、本来の薬価の10倍近い、1箱(10カプセル)につき3万円もの高額で取引されるケースも出ているそうである。去年まではほとんど注文はなく、8000円(それでも通常の病院で処方してもらうなら、ひと箱3000円程度だ)で販売していたというから、いったいこの高騰の様子は何なんだ、という感じである。思い出しませんか、オイルショック時のトイレットペーパー騒動を(あれはそんなでもなかったという説が今は有力であるが)。
 今月に入って新型インフルエンザに関する報道が増えて、国がタミフルの備蓄を強化する計画を発表すると、途端に注文が殺到し始めたというから、「自分たちだけ助かりたい」という庶民の「バーゲンセール現象」は、ここでもしっかり発動しているのである。
 ……だからそんなにインフルエンザが怖いのなら、予防接種をなぜ受けないかね。第一、タミフルだって、A型、B型インフルエンザのノイラミニダーゼにのみ効くので、A型、B型インフルエンザ以外のインフルエンザには全く無効なのである。更には、効くのは発症後二日以内と限られている。
 庶民が「パニック」になっていると判断できるのは、そんなことにも気がつかなくなっているからだ。
 ついでながら、アメリカでは、タミフルの特許を所有しているギリアド・サイエンシズ社の株が急騰中で、その大株主の一人であるラムズフェルド国防長官は、どうやら短期間で資産を100万ドル以上も増やしたらしい。穿った見方ではあるが、この「タミフルブーム」にも、「仕掛け人」がいたのではないかというきな臭い感じがやたらする。
 こういうパニックがなかなか収まらないのは、こんなふうに「タミフル買ったって意味ないよ」ってことを具体的に証拠をあげて見せても、「でも、その証拠もデマだったらどうするのか」という、「自分の根拠のない不安の方を行動原理にしてしまう」傾向が、日本人のメンタリティとして定着してしまっているからではないのかといいう気がして仕方がない。不安を煽られると、日本人はともかく「もしかしたら」という固定観念を排除できなくなってしまうのだ。それを排除するためには「別に死んでもいいじゃん」くらいの開き直りが必要になるのだが、庶民にはそれはちょいと難しいことである。あーもう、糞庶民は勝手に好きなだけ散財して、薬屋さんを儲けさせときなさいな。
 医学系トンデモ本の流行にも、「パニック好き」な日本人の国民性が如実に現れているように思う。「ハレー彗星飛来時のゴム買占め」騒動の昔から、日本人は少しもメンタリティが成長してないのね。


 あまりにこの日記の更新が遅れているので、「読んだ本の感想を書いてったらキリがないから題名だけでいいんじゃない?」とグータロウ君から言われた。
 ミクシィを始めて思ったのは、殆どの読者の方が名も告げない「通りすがりさん」であるこちらの日記よりも、お客さんが限られていも「顔が見える」ミクシィの方が、自然に日記書きの中心にならざるを得ない、ということである。
 感想をもう書かないとまでは言わないが、確かに、読んだ本を全部書いていったら、時間がいくらあっても足りないので、これからはそうしようと思う。

2004年11月27日(土) お客が来ても樽の中。
2002年11月27日(水) 再爆走��/鬼が笑っちゃってひきつけ起こして寝る話/『燃えよペン』(島本和彦)ほか
2001年11月27日(火) 癒されたいの?(-_-;)/DVD『ウルトラQ』6・7巻/『ギャラクシー・クエスト』
2000年11月27日(月) 活字の本が読み進まない/『カスミ伝△(さんかく)』1巻(唐沢なをき)ほか


2005年11月09日(水) ミクシィ狂想曲/『ユート』3巻(ほったゆみ・河野慶/3巻)

 ミクシィ日記、順調に更新。
 当初は三日にいっぺん書けるだろうかと思っていたのだが、本職明かして書くのがこんなにラクだとは思わなかった(笑)。もちろん、職種を明かしてるだけで、職場の名前や住所は隠したままだし、本当にヤバい話は書かないでいるのだが、それでも一日の半分は職場にいるわけだから、ネタには全く困らないのである。
コミュニティにはどこにどうやって参加したらいいものか見当が付かなかったので、しばらく空白のままであったのだが、「イッセー尾形とフツーの人々」でご一緒したじり子さんの紹介で、「イッセー尾形」のコミュニティに参加した。初めてなので、すごく恥ずかしいのである(笑)。
 こんなふうに書くと、この日記を読んでる人で、ミクシィに参加している人には、探せば私の職業がなんであるかはバレてしまうわけであるが、ネットのセキュリティなどは、結局はそこに集う人間の良識に期待するしかない。何度も書いている通り、こっちの「無責任」日記は別人格で書いているのであって、言わば役者が役を演じているようなものである。そこに突っ込むような野暮はしないでほしいなあと願うしかないんだね。
 ミクシィがだんだん楽しくなって来ているので、しげはやっぱり「パソコンに夢中やね」と寂しそうなのであるが、もちろん現実逃避してしげのことを忘れているわけではない。コメントも付け易いし、しげにももっと積極的に参加してほしいと考えているくらいなので、あまりヤキモチは焼かないでほしいのである。
 しげは私の日記を読むためだけにミクシィに参加しているので、コミュニティに参加する気もないようであるが、近藤芳正さんやダン・エイクロイドのコミュニティとかもあるし、20人くらいしか参加者がいないので、参加すりゃいいと思う。私も一緒に入っていいのに。

 昨日、東京のあやめさんから「天文手帳2006」が届いたので、早速カバンに入れて携行。まだ今年の手帳が残っているので、私のカバンには今、二冊の天文手帳が入っている。実は先日の「イッセー尾形とフツーの人々」の舞台に出るに当たって、この天文手帳を持っていたことが偶然にもものすごく役に立った。世の中にはこんな奇遇もあるものなのだと感動しているのである。
 あやめさんがいらっしゃる東京には足を向けては寝られないのだが、今のところこちらからお返しをする余裕がちょっと無い(苦笑)。全く非礼なことこの上ないのである。
 

 先日亡くなった本田美奈子.さんの告別式の様子をテレビで見る。
 南野陽子が、亡くなる直前に本田さんに面会したということで、「あんなに人は苦しむものかと思った」とコメントしているのを聞くだに、胸が痛んで仕方がない。
 神は残酷だ。


 先週あたりから再放送の始まった『まんが日本昔ばなし』、今日はよくぞこれを再放送できたなという「こぶとりじいさん」。
 と言っても今やこぶを取ることくらい手術で簡単にできるので、巷にこぶのある人を見かけなくなったから、サベツだの何だのと騒ぎ立てるヤカラもいないのだろう。
 
 続けて『愛のエプロン』、今日はコーヒーゼリーにシュークリームのお菓子対決。
 先週、「特エプ」を取れなくて「引退」勧告された磯野貴理子は、今度は賞味役で出演。どうせこんなことだろうと思ったよ(笑)。うまく調理できなかった時の言い訳がうるさいけれど、本質的には料理上手な人なので、『愛エプ』に磯野さんはなくてはならないキャラだと思う。できればもう一度(つか何度でも)特エプに挑戦してほしいんだが。
 出演者のみなさん、コーヒーゼリーは何とかなったものの、シュークリームを作れた人はただの一人もいなかった。多岐川祐美も、味はともかく、形はぺしゃんこで膨らんでなく、ただのクレープなのである。お菓子作りは女性は日頃からいろいろやっていて得意なんじゃないかと思っていたのだけれど、そうでもない、ということなのだろうか。
 「はてな」日記で下村嬢とコメントのやり取りをして、しげが以前作った「牛乳にレモンを混ぜただけヨーグルト」を紹介する。下村嬢は「佐藤を入れれば」と言ってくれたが、レモンと牛乳の割合が半々なので、その程度でどうにかなるとは思えない。
 しげがお菓子作りをした経験と言えば、毎年のバレンタインチョコ作りくらいのものだが、これもまあ、毎回「実物大パラソルチョコ」とか恐ろしいものを作ってくれるから、しげに「たまにはデザートにお菓子も作ってよ」なんて言う勇気はなかなか出ないのである。


 ドラマ『相棒』第5話 「悪魔の囁き」。
 先週からの続きの後編、自殺したシリアルキラー・村木重雄(小日向文世)の跡を継いで津人を犯したのは誰か、という展開だけれども、前編を見ていて「犯人がこいつだったら面白くないなあ」と思っていたやつが犯人だったので、ちょっと残念だった。
 ミステリ初心者がよくやる失敗だけれども、意外な犯人を作ろうとするあまり、動機や展開に不自然さが生まれてしまうのである。
 今回は、ダミーとなる犯人を魅力的に描いてしまったおかげで、真犯人が「小粒」に見えてしまったのだね。即ち、村木がもっと犯罪を続けたいと思うのならば、「あんな脆弱なやつ」を後継者に選ぶはずがないのである。
 でもそれはミステリに対してかなり厳しい見方もしているわけで、例えば高木彬光の『刺青殺人事件』も真犯人はダミーの犯人よりもまるで人間的魅力に欠けていた。今回の後半のストーリーは、かなり『刺青殺人事件』に影響を受けている様子があるが、悪い点まで真似てしまった感がある。
 とは言え、このダークな雰囲気作りは、『相棒』シリーズの中でも見応えがある一編である。村木が呟く「ウィン・パティオ」という謎の呪文、これがラストシーンまでその雰囲気を持続させるのに効果を上げている。アップを多用した画面作りも実にいい。、
 重要なキャラクターとなった精神科医・内田美咲(奥貫薫)にはぜひ再登場してもらいたい。実際、こんなにひたむきな瞳で「悪の魅力」を語られたら、こいつが魔性の女だと分かっていても、男は惹かれちゃうよ(笑)。


 マンガ、ほったゆみ原作・河野慶漫画『ユート』3巻(完結/集英社)。
 これだけ面白いマンガの人気投票が低くて打ち切りってんだから、やっぱりジャンプシステムはオカシイと思ってしまうのだが、逆に「打ち切られた」という現象から、「この作品が『面白くない』と今の読者に判断された原因は何か」ということも考えないといけないと思うのである。
 まず、ストーリー・設定においての問題点はなかったかどうか。スピードスケートというスポーツが珍しくて、読者に馴染みがなかった、という点は多少はあるかもしれないが、本質的な問題ではないと思う。ほったさんの前作『ヒカルの碁』だって、碁の打ち方の全く分からない読者にまで浸透していったのだ。要は演出次第である。
 それよりも主人公がスピードスケートが特に盛んなわけでもない東京に引っ越してきたという当初の設定が、性急な読者には「物語の停滞」と映ったのではないだろうか。ユートの前には「スピードスケート(ロング)」ができないかもしれない逆境が次から次へと襲い掛かってくる。東京という「スケート不毛の地」(まさかこの設定が東京人の反発を買ったわけでもあるまい)でのショートの練習しかできない状況、父親の反対、監督の功名心、など、私などはその「リアルさ」に息を呑んでしまうのだが、まあ『ワンピース』などに比べればこれが「地味」と受け取られても仕方がないかとも思う。
 以前の日記にも描いたかと思うが、絵に華がなかったことも大きいと思う。今巻、最初の設定画が紹介されているのだが、やや年齢を高めに描かれたキャラクターたち、こちらの方が今の絵柄よりずっと魅力的なのである。実際の作画に入ってからは、年齢を下げたことで、キャラクターの表情が単調になってしまった感がある。こういうキャラクターの深みを表現しなければならないドラマの場合、河野さんの絵はあっさりし過ぎていたのではないだろうか。
 けれど正直な話、アンケート結果が低かったのは「組織票に負けただけ」という気がしてならない。最終話、これからの展開の名場面を列挙した『超光速ガルビオン』のような終わり方を見るにつけ、どこか他誌でもいいから続きを書いてくれたら、と思う。そのときこそ、『ユート』の真価が世に問われることになると思うのだが。

2004年11月09日(火) 『笑の大学』余燼/映画『80デイズ』
2002年11月09日(土) 探偵って卑下しなきゃならない商売なのかね/映画『トリック 劇場版』
2001年11月09日(金) いちまんななせんえんの幸福/『GUN BLAZE WEST』2・3巻(和月伸宏)ほか
2000年11月09日(木) だって猿なんだもん/『グーグーだって猫である』(大島弓子)ほか


2005年11月08日(火) コメとライスは別のもの/『アキバ署! AKIHABARA POLLICE-STATION』01(瀬尾浩史)

 しげが「今度の米、パサパサやろ」と言う。
 確かに、これまでの米はかなりモチモチとしていて、水の加減を間違えるとべちゃべちゃになってしまっていた。弁当に詰めてもらうと、昼時になってフタを開けようとすると、水分が蒸発して収縮したせいだろう、押しても引いてもビクともしないくらいであったのだが、最近は比較的開けやすくなっていた。味は確かにさほど甘くなく、「これは米です」と主張しているだけという感じがする。
 「中国の米なんで安かったんよ」と言うので、ああ、舌に合わないのはそのせいか、と思ったが、同時に「安全性は大丈夫かなあ」と思ってしまったのは、やはり中国に対する不信感をかなり刷り込まれているのである。
 コメの自由化は結局、他国の文化への偏見を増大させただけのように思う。日本のコメにだって美味いコメ不味いコメはあるが、これ以下はちょっとという下限が作られてしまっている。稗と粟だけ食ってた昔を思い出せったって、そんな時代を知ってる人間が絶滅してしまってるんだから、そんなのはただの精神論にしかなっていない。贅沢だと言われようが、日本人は日本のコメしか食わないのである。
 だから、中国米を好んで食べる日本人がいれば、逆に偏見の目で見られることもあると思う。そういう偏見はよくないと言われても、どの国にも固有の文化はあって、それ自体は悪でも何でもないのだが、そこにやはり「壁」は存在しているのだから、その壁を無理やり壊そうとすれば、何らかの諍いが起きるのは必然なのである。
 「変えていったほうがいいしきたり」と「触れちゃいけねえしきたり」とを識別することはなかなか困難なことだけれども、自給自足の面から考えても、日本のコメ文化を簡単に壊しちゃいけないよな、と思うのである。
 とりあえず次から中国米はもういいや。


 『1リットルの涙』第五話。
 亜也(沢尻エリカ)の病気のことが、ついに妹や弟にも明かされる。伝えるのがちょっと遅すぎたんじゃないかと思うが、家族に真実を伝えるものかどうか逡巡している両親の心の葛藤を描いているようでいて、実は単にドラマ展開の都合で、ここまで「引いて」ただけってのが見えるから、どうにも胸糞が悪い。
 亜也に身障者手帳を取らせるかどうかで一悶着あるのも、どうにも薄っぺらい。母親の潮香(薬師丸ひろ子)に向かって、父親の瑞生(陣内孝則)が「国の世話にはならねえ」「娘にレッテルを貼りたいのか」と言って激高するのはいかにもわざとらしく、「作りすぎ」である。仮に内心、そのように思っていたとしても、娘の病状が日一日と悪くなっていく様子を見ていながら、父親としてなおもそのように体裁に拘るようなことがありえるのかどうか。陣内孝則をキャスティングした時点で間違いだという考え方もあるかもしれんが(笑)。
 脚本家はもちろん「善意」からこのドラマを書いているのだろう。しかし善意の作品というのは往々にして押し付けがましく、説教臭くなりがちである。あるいはその説教の青臭さゆえに時には「お笑い」と化してしまう場合もある。
 薬師丸ひろ子が身障者手帳の理念を「すべての身体障害者は自ら進んでその障害を克服し、その有する能力を活用することにより、社会経済活動に参加できるように努めなければならない」と説明するシーンなどは、感動的なシーンであるにもかかわらず、「そんなセリフを暗唱できるお前は何者か」という不自然さの方に笑ってしまうのである。


 『鬼嫁日記』に『タモリのジャポニカロゴス』を見た後、録画しておいた、『ドラマコンプレックス』版の『理由』を見る。寺田農をレポーターにして、報道ニュース番組仕立てにしたのは面白い編集だったが、オリジナル版を見ていない人には「そっちの方を見てよ」と言いたくなる仕上がりである。基本的に大林宣彦監督って、自分の「思い付き」に振り回されるタイプの人で、自分の演出の効果までは考えずに撮ってる人だから、あまり「巨匠」なんて呼んじゃいけないと思うのである。


 マンガ、瀬尾浩史『アキバ署! AKIHABARA POLLICE-STATION』01(講談社)。
 警察官の凸凹コンビもの……と言ったらもうそれだけで食傷気味なほどにドラマでもマンガでもありふれている設定なのだけれど、タイトルにある通り、舞台を秋葉原にしている点がまず凡百の「コンビもの」と一線を画している。電脳とオタクの街を舞台にして、どんな犯罪が生まれ、どんな警官が必要とされるのか、それをシミュレーションしたのが本作、というわけだ。なるほど、日本でそういう「街の特殊性」を活用して刑事ドラマが作れるとしたら、魔界都市(笑)新宿を除けば、秋葉原に如くはないかもしれない。
 もちろん、秋葉原を舞台にするからには、作者は「電脳とオタク」に詳しくなければならないし、更にはそれを「電脳とオタクに詳しくない人々にも面白く伝える技術」にも長けていなければならないわけだが、その困難な条件を軽々とクリアしていることに舌を巻いた。
 そのためには、主人公がどれだけ魅力的であるかがポイントになってくるのだが、この二人のキャラクターの設定が見事に秋葉原という街にマッチして機能しているのである。
 方やMIT出身で情報通信局技術対策課の“元”ホープ、キャリア技官のメガネっ娘警部補・久遠あまね。
 方やヤンキー崩れ、機動隊崩れで未だに秋葉原のバンチョー(笑)という、ハイテクはからきしアウトのアナログ刑事・伊武一弥。
 物語は、「外神田警察署」に、「ハイテク犯罪相談室」が新設され、そこにあまねが「飛ばされて」赴任するところから始まる。あまねの「現場教育係」としてコンビを組まされたのが伊武なのだが、コンピューターなんて全く扱えず、「IT」を「DDT」とか「ライチー」とか言い間違える自分がどうして配属されたのか、その理由が本人には全く分からない。もちろんそこには、キャリアであるあまねが場末の警察署なんぞにトバされてきた「相応の事情」ってやつが大きく関わって来ているわけである。署長が伊武に告げる一言がイイ。「彼女を暴走させるな」。
 即ちあまねのスキルがハンパじゃないってことなんだね。一歩間違えれば、というよりもこれはもう「ハイテク版必殺!」と称してよいほどにあまねの性格は「目には目を、ハイテク犯罪にはハイテク犯罪を」って思想の持ち主なのである。まあ実際、現実の犯罪は警察の手に負えないほどに複雑化、ハイテク化が進んでいるわけで、それに対応しようってことになれば、あまねのようなスキルと「正義感」の持ち主にしてみれば、「非合法行為」に走るのも当然ってことになるのである。
キレイゴトが言いたいそこのキミ、あまねのこのセリフをちょっとじっくりと考えていただきたい。Hムービーをネット公開されてしまった女子高生のために、そのファイルをデリートするためのウイルスをばら撒いた後で、あまねは伊武に向かってこう叫ぶのである。
 「ニュースはあっという間にネットに浸透しますヨ。どうなると思います? それこそ何十万、何百万っていうユーザーが、あのムービーをダウンロードし始めるんです。それを警察が防げますか? 数十万件の令状を取ってムービーを回収しますか? そんなの無理じゃないですか!? セキュリティホールだらけなんですヨ、この国の法(コード)も! 社会(システム)も! それを使う人間も!! そんなのにただヤミクモに従うだけじゃ、救えないじゃないですか! 目の前にいる、たった一人の女の子の心だって」
 現実にこんな被害に遭っている女性は多分たくさんいるだろう。犯人を逮捕したところで、一度撒き散らされた画像が回収できるわけではない。逆に警察がおおっぴらに動くことで、そういった画像を「宣伝」してしまうことになりかねないのが「IT革命」とやらを経た日本の現状なのだ。
 警察や国が無力であることは「本当に」こう考える人々が必要になってくるということである。あまり他人事と笑ってられない事件をこのマンガは扱っているのである。
 もちろん、あまねの「暴走」にも問題は多々あるわけで、そこでコンビの伊武さんの存在が重要となってくるわけだが、普通のキャラクターならば、あまねの前記のセリフに言い返すことができなくて、警察の、自分の無力さにショボンとしてしまうところである。ところがこいつはそんな殊勝な刑事ではない。あまねに向かってニヤッと笑い、「ようやく聞けたな、お前さんの本音が」と、これまでの「挑発」が、あまねの人格を見抜くための「引っかけ」であり、あまねが自分と本気で組める相手かどうかを確認するための「手段を選ばない」罠であったことを明かす。「なんかやる時は、俺も共犯にしろ……つってんだよ」いやあ、青二才には絶対に言えないセリフだ。
 こういう「食えない」やつが、アタマはいいけど直情径行、猪突猛進なあまねみたいなやつの押さえ役としては最適なのである。これが古典的な「コンビドラマ」のセオリーってやつなのだね。だからハイテクに詳しくない読者にもこの物語が面白く読めるようになっているのである。
 惜しむらくは、絵柄に華がないことであるが、2巻、3巻と続いていくうちにそのへんは改善されてくんじゃないかな。「最近面白いマンガが少ない」とお嘆きのあなた、それは単にあなたのマンガアンテナが壊れてるだけかもよ。

2004年11月08日(月) 最後のお小遣い/映画『笑の大学』
2002年11月08日(金) ウチもベストカップルだと言われることはあるが(-_-;)/『アフター0 著者再編集版』7・8巻(岡崎二郎)
2001年11月08日(木) エロに偏見はありません/『伊賀の影丸 邪鬼秘帳の巻(上)』(横山光輝)
2000年11月08日(水) チンジャオロースって漢字変換できねー/『家出のすすめ』(寺山修司)



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)