無責任賛歌
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| 2005年08月24日(水) |
再度、学校という腐れた体質について/『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(武居俊樹) |
苫小牧高校野球部の不祥事の続報。 学校側の「隠蔽工作」が次々に明るみに。これはもう「温情判決」なんてしちゃったら、かえって毒だって事態になりつつあるけれども、高野連に届く投書や電話の六割は「部員は処罰しないで」という同情論だとか。 ホント、こういうアタマの悪いやつらが世間に横行していて(トバクに加担してる連中も多かろう)学校と球児を甘やかしてるから、不祥事はあとを絶たないんだよ(タメイキ)。 具体的には、教頭が被害者の部員に「三、四発殴られたくらいなら、出場停止などの処分にならずにすむ」なんて脅迫とも取れる発言をしていたとか。うわあ、マンガかドラマに出てくるような悪徳教頭。こういうやつらがマジで跳梁跋扈してるのが学校ってとこなんだね。 加害者の部長も、急に「十発くらいは殴ったかも」と前言を翻して殴った回数が増えた。これはもう、かなり殴る蹴るの暴行をしていたことは間違いのないことであろう。殴った数は、また二、三日したら増えるかもしれない。そもそもこいつは、明徳義塾の事件が起こって、高野連から暴力行為等の不祥事に関する注意が行われていたにもかかわらず、それを無視する形で体罰に走っていたのである。どう考えてもこれは高野連を「舐めて」かかっているし、「ちょっと指導が行きすぎた」程度のものではない。もしかしたら教頭あたりから「何かあってもうまくもみ消してやるから、好きにやっていいぞ」とか言われてたかも知れない。 こないだも書いたが、「部員の不祥事ではないから温情を」という主張は全くの見当外れなのである。高野連が旧態依然の「連帯責任主義」を取っていると思い込んでいる人も世間にはかなりいるようだが、これがまた全くの事実無根であって、「きちんと届出があれば」個人責任にとどめるケースの方が圧倒的に多いのである。今年も、山梨県大会中に選手の暴力行為が発覚した某校については、該当選手を外しただけで出場を認めている。 今回の件で問題にされているのは、あくまで高野連の注意すら無視し、事件の「隠蔽」が行われた、苫小牧学校の教育者にあるまじき教師連中の腐れた体質にあるのだ。高野連が事件を知ったのは22日午後に「週刊誌」の報道によってである。事件発生からは2週間が経っていた。更に苫小牧高校からの報告は翌23日の朝になる。「もはや隠し通せないと観念して」報告したことは明白だ。もしも事件が発生した時点で報告をしていれば、それこそ部員には何の落ち度もないのだから、「特にお咎めなし」になったはずなのに、なぜ隠蔽に走ったかと言われれば、「そういう学校だから」と言うしかない。 高野連の田名部和裕参事は「前代未聞の由々しき事態だ」とまで言い切っている。部員の不祥事だからたいした問題ではない、ではないのだ。苫小牧の正式な報告書を待って、審議委員会を招集し、優勝の扱いなど対応を協議することになったそうだが、今回の問題が、大会期間中の暴力行為であることに加え、はっきりと「明徳は部員、今回は部員ではない、ですむのか」という点にあることを表明している。 ネットでもこの問題を扱ったブログではすぐ「部員がかわいそう」論に流れているが、「そういう学校に入学したのが不運」なのである。こんなふうにチクリやリークで高校野球界の腐れた体質が暴露されてしまうのは、高校野球の沈滞に繋がるのではないかと危惧する向きもあるようであるが、そんな腐れた高校野球を温存することに何の意味があるのだろうか。膿はこの際どんどん出していった方が将来的には、高校野球のためになると思うのであるがどうだろうか。一時的な同情論など、本当に高校野球を愛しているのなら、軽々しく口にすべきではない。
夜7時から、『愛のエプロン』に『仮面ライダー響鬼』の細川茂樹さんがゲスト出演。 「ヤマダ電器」でDVDを買っていたので、時間に十分ちょっと遅れたが、食事タイムには間に合った。今日のメニューは泥鰌の唐揚げに柳川鍋。料理人はデヴィ夫人、鈴木紗理奈、インリン、磯野貴理子、杉田かおる(久しぶりの出演で泣いてたけど、周りが結構白けてたのが印象的)。 まあ、あまり味の方がイマイチ期待できないメンバーだが、以外に鈴木紗理奈がいい出来。磯野貴理子も味は濃かったがまあ美味しい部類。ほかはもう、どうしようもなかった。 予想通りインリンの料理は殆ど「害毒」で、鍋に泥鰌と溶き卵を流してカツブシをまぶしただけなんだから、味の方は想像もしたくない。細川さん、口に含むなり、別部屋に駆け出して行った(もちろん吐き出すためである)。外はまッ黒こげだが、中が完全にナマで、噛んだ途端にホネが膨大に出てきて、口の中に刺さるそうである。おげえ。 笑ったのは、細川さんが吐き出すたびに画面に「本当は強いライダーの活躍をご覧ください」と『響鬼』の画面が流れること。伊集院光から「このライダー弱え!」と突っ込まれていたが、魔化魍には強くてもインリンの料理には勝てないのだな(笑)。魔化魍の出没する地域にインリンの料理を置いといたら、自然に駆除できるんじゃないか。 しかし細川さん、無精ひげが結構伸びてたけれど、『響鬼』の方で山篭りするシーンでも撮っているのだろうか。
武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(文藝春秋)。 タイトルはなんだかふざけているように聞こえるだろうが、これは立派な「マンガ家・赤塚不二夫」の評伝である。今後、赤塚不二夫について何か文章が書かれることがあるとしても、その際には必ず本書が参考文献として巻末に載せられることになるだろう。それほどに本書は赤塚不二夫の本質を忠実に描いて粉飾するところがない。 長年の赤塚さんファンならば、作者の名前を聞いて、それが誰であるかを察することはできるだろう。「タケイ」と聞けば「少年サンデー」のデカバナタケイを、「イガラシ」と聞けば「少年マガジン」の「デガラシ」を思い出す。どちらも赤塚さん担当の編集者であるが、二人とも赤塚マンガにおける「マンガキャラクター」であった(ほかにも実在人物の赤塚キャラと言えば、男ドブスの水島新司・牛次郎とか、カメラ小僧の篠山紀信とかがいるが、彼らはホンモノとは全然似ていないキャラデザインである)。 赤塚不二夫のことを書ける人間はこの二人の編集者に如くはないが、五十嵐隆夫さんが『天才バカボン』一作の担当であったのに対し、武居さんは『おそ松くん』『天才バカボン(マガジンから一時的に移籍)』『モーレツア太郎』『レッツラゴン』と、そのギャグの「進化」を、身をもって語れる立場にあった。この事実は、本書を執筆するにおいて重要なファクターとなっている。すなわち本書は、一人のマンガ家の評伝としての意味だけでなく、そのマンガ家の精神史を描くことによって、日本ギャグ史を描くことにも繋がっているからである。 昭和40年前後のフジオ・プロが、赤塚さんを中心として、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、竹中健治、高井研一郎、北見健一(現・けんいち)、芳谷圭児、あだち勉らによるアイデア・作画の完全分業体制で作られていたことは当時から知られていたことである。 ストーリー及びギャグは赤塚、長谷、古谷、それに武居記者が加わって練り上げる。それを元にして、ネームは赤塚さん一人がこなし、下描き、ペン入れ、背景、仕上げを残りのスタッフに委ねるという作業過程である。 そのようなプロダクション制を取っていたためだろう、本書には次のような記述がある。「赤塚は、『赤塚不二夫』というペンネームは、自分一人のものではないと思っている。符合だと思っている。自分はその代表者だと思っている」と。しかしそれは私にとってはかなり意外なことであった。 確かにフジオ・プロがさいとう・プロに先駆けてそのような分業制を取っていることは私も昔から知ってはいたが、あの一時代を画したギャグ・ギャグ・ギャグを見せつけられていたせいで、作家性の強い人だと思い込んでいたのである。私は他のアシスタントは赤塚さんの影響下にあるお手伝い人程度にしか認識していなかったのだ。事実は全くの勘違いであった。 もちろん赤塚さん自身もキョーレツな個性の持ち主である。しかし更にキョーレツな人々が、まさに多士済々、赤塚さんの周りには群れ集っていた。何に驚いたかというと、『おそ松くん』に登場するキャラクターで、主役のおそ松たちを「食って」しまって後半の主役に躍り出た脇役たち、イヤミ、チビ太、ハタ坊、ダヨーン、デカパン、彼らはみんな古谷三敏のデザインだったのである。それじゃあ後半の『おそ松くん』は殆ど「古谷三敏とフジオ・プロ」名義でも構わないほどだ(逆に古谷さんの初期の『ダメおやじ』のストーリー、アイデア、ネームは全て赤塚さんが担当していた)。 しかも、その協力者たちが実力を付けていくと、赤塚さんは次々と独立させていく。となれば当然自分の作品のアイデアマンが減って行くわけだが、そんなことを赤塚さんは意に介さない。『レッツラゴン』の時にはもうアイデアは赤塚、武居の二人だけで担当している。そして、ネームも作らずにそのまま原稿を描いていくという殆ど「セッション」のようなスタイルでマンガを描いていくのだ。あの「ギャグの極北」のようなマンガが成立していたのは、先を考えずに連想だけで描いていっていたからだったのである。
武居さんは『レッツラゴン』の『伊豆の踊子』の中身をこう紹介している。 「馬鹿熊のベラマッチャが、学帽にマント姿で伊豆を旅していて、踊子に出会う(私注・当然ドブスである)。踊子に連れて行かれて、ベラマッチャは、旅館に泊まる。旅館の主が出てきて『学生さん』と呼びかける。ベラマッチャが『なんだね、ドストエフスキーくん!!』と答える。(中略)そこから一気に、狂気の世界に入っていく」 作中ではあとの展開が書かれていないが、言葉では説明のしようがないくらいに脈絡がない。ベラマッチャは最後にはついに夏目漱石になってしまうのである(ということは夏目房之介はベラマッチャの孫か)。
私が好きな『レッツラゴン』のエピソードはこんなのだ。 男ドブスの水島牛次郎は、ドブスのあまり、全ての存在から嫌われている。人からだけでなく、モノからも嫌われているのだ。寝ていると、布団から嫌われて朝目覚めると裸になっている。卓袱台を出そうとすると、卓袱台はヘタる。食事をしようとするとおかずは「さあ、殺せ!」と言って泣く。背広は着られてくれない。ベルトは締めてくれない。靴は履かれてくれない。ウンコはドブスの体内から出られて嬉しくてダンスを踊る。ところがそんなドブスを見ても、馬鹿熊のベラマッチャだけは、少しも嫌うそぶりを見せないのだ。けれどそれはドブスをぬか喜びさせるためのイジメだった。怒ったドブスはベラマッチャを殴り倒して自分以上のドブスにする。やっと二人は仲よくダンス。オチは赤塚さんのモノローグで、「この男ドブスは実在します」(注・確かに、水島新司と牛次郎のご面相はお世辞にも美男子とは言えない。けれど赤塚さんの描く似顔絵はホンモノの100倍もドブスである)。 この「水島新司・牛次郎ドブスネタ」は当時の赤塚漫画ではしつこいくらいに繰り返されていた。よく、水島新司と牛次郎が怒らなかったものだと思う。 文字では伝えにくいが、赤塚マンガのアナーキーさが少しはご理解いただけるだろうか。 そんな作り方をしていけば、作品が破綻していくのは目に見えている。『レッツラゴン』が赤塚さんのマンガの実質的な終点だった。それ以後の作品に見るべきものはない。それはずっと赤塚マンガを追いかけていた我々ファンにもハッキリと判った。そんな悲しい事実すら、武居さんは何一つ遠慮せずに冷徹に記していく。 赤塚さん一人で描いた『クソばばあ!』は面白くもおかしくもない駄作になった。創刊したマンガ雑誌『まんがNO.1』は長谷邦夫の個人誌と化し、潰れた。詐欺に引っかかり、ヤクザに追いかけられ、愛人を作り、最初の妻と離婚した。アル中になり、マンガも描けなくなり、アシスタントたちも全ていなくなった。まさに転落人生としか言いようがない。 ところが、それらの出来事を記す武居さんの筆致は、扇情的な暴露にも告発にもならず、またお涙頂戴の感動ドラマにもならない。そこにあるのは、まさに一つの「歴史」だ。司馬遼太郎の歴史小説である。これはとても恐ろしいことだと思う。しかし同時に、人間を描くとはまさにこういうことかとも思う。 作品作りのみならず、赤塚さんの私生活にも「密着」していた武居さんだからこそ書けたことだとは言え、この冷徹さは残酷に過ぎるほどに見える。しかし恐らく、武居さんのその残酷さも、赤塚さんとの二人三脚の中で培われてきたものなのだ。
赤塚さんが脳内出血で倒れ、昏睡状態となったのが平成十四年の四月。今もまだ赤塚さんは七十歳の誕生日を目前にして眠り続けている。 武居さんは今年刊行された赤塚不二夫傑作選の『レッツラゴン』の巻末ではその事実をぼかして書いているが、本書は評伝としての意味合いがあるので、あえてその事実を書いている。 もう赤塚さんの新作を読むことはかなわない。 その残酷な事実を書いてなお、武居さんはこう書いた。 「僕が赤塚のことを言うなら、こうかな、と思う。 『女好き、大酒を飲む子供、小心者、歩く幼稚園、泣き虫、マザコン、人情家、天才漫画家』 そして最後は『不死鳥』と結ぼう。 不死鳥だったら、立ち上がって、四文字言葉を叫んでみろよ!!」 だからこの評伝は、愛の物語なのだ。 胃の腑をえぐるほどの罵倒語で綴られた愛の物語なのだ。 読むべし。
本名・赤塚藤雄、昭和十年九月十四日、満洲熱河省生まれ。 私の父はその八日後に生まれている。母は同じく外地である台湾・台北にいた。トキワ荘の仲間たちがみなそうであるように、赤塚さんは私の両親と同時代人だ。個性的でバラバラに見える彼らに共通するキーワードはやはり「戦争」だろう。 しかし、手塚治虫も、石森章太郎も、藤子不二雄もみな「戦争」あるいは「反戦」マンガを描いていたのに、赤塚さんは殆どそんなマンガを描こうとしなかった。もちろん、そんな必要はなかったのである。赤塚さんのアナーキーでナンセンスなマンガの全てが、戦争を含む人間の下らん生き様を笑い飛ばしていたのだから。
2004年08月24日(火) 江角英明さん追悼 2003年08月24日(日) キッチュと言うか、トンデモなのかも/『爆龍戦隊アバレンジャー』第26話/DVD『キノの旅』2・3巻ほか 2001年08月24日(金) 祝! 退院!/映画『RED SHADOW 赤影』 2000年08月24日(木) たまには一人で映画を見る日もあるさ/映画『怪異談・生きてゐる小平次』ほか
| 2005年08月23日(火) |
オトナもコドモも/『彼氏彼女の事情』21巻(完結/津田雅美) |
夏映画の興行収入予測が概ね出揃ったようで、1位は『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』で、最終的に110億円前後になりそうだとか。もっともこれは『エピソード1 ファントム・メナス』を上回るのはちょっと難しそうだということで、完結編だというのに客の伸びがイマイチだったのは、やはり1、2、3、通した映画の出来がまあアレだったせいがあるんじゃないのかな。 ノベライズ版を読んで、毎回思うことだけれど、『スター・ウォーズ』シリーズは小説の方がよっぽど人物描写が濃密でキャラクター心理が深く心に迫ってくるように感じてしまう。要するに映画の方は役者の演技力が不足しているということなのである。もちろんそれを引き出せない監督の演出力の方により問題があることは論を待たない。悪役好きの私としては、なんでドゥークー伯爵やパルパティーン評議委員長をあんな単細胞な深みのないキャラクター(あれじゃせいぜい中ボスレベルだ)に演出してくれたかと歯噛みする思いだ。無駄アクションシーンも退屈さを増すばかりだし、全シリーズを通して見られた殺陣がダース・モールとCGヨーダだけってのはあまりにレベルが低すぎるんだが、もともと殺陣の良し悪しなんて分かるわきゃねえアメ公に期待する方が間違いってことかね。 2位は『宇宙戦争』だが、1位に拮抗するほどの成績ではなく、60億円程度になりそうだと言う。『NEWTYPE』の今月号で、ゆうきまさみが本作を絶賛していたのだが、世間の悪評紛々たる状況を見て「オレの目はフシアナなのか!?」と頭を抱えていた。まあフシアナなんではないですかね(笑)。いや、最後にあっさり火星人(とは全く明記されてないがあえてそう書く)が細菌でやられちゃうのが拍子抜け、という批評については「原作がそうなんだから」という反論もあるようだが、アレは驕り高ぶった人間に対する文明批評としての寓意なんだからね。それを現代に生かすための工夫ができていないと言うか、原作の精神を全く正反対に演出しちゃってると言うか、その点でやっぱりマトモな評価は下せないんである。 ハリウッドの馬鹿映画が1位、2位だってのはまあしゃあないことではある。もともとヒットする映画の最大要素は、馬鹿馬鹿しさにあるからね。ただ、もいっちょ突き抜けてない中途半端さが見ていてどうにもイラつくんだけどさ。 3位は定番『ポケモン』の40億円、もちろん例年成績は落ち続けているのだけれど、それでもこれだけ稼いでいるというのはさすがだ。なかなかしげが付き合ってくれないのでテレビで後追いで見ることしかできないけれども、そこそこな出来ではある。アニメファンも中高生になるとこういう児童アニメを馬鹿にするようになっちゃうけど、そういう姿勢がアニメファンを視野狭窄に陥らせてる一因なんだよね。 4位は『電車男』で、これは夏映画というよりは春からのロングラン映画。オタクの初恋っていう「特殊性」(笑)を除けば中身は他愛無い恋愛モノなんだけれど、それが35億円まで行っちゃうんだから、日本人の潜在的な「癒されたい」願望はそんなに根深いものになっちゃったのかといささか情けなくはなるね。 5位は『亡国のイージス』で25〜30億円見当とか。渋い男臭い役者ばかりで、ミーハー人気はあまり望めない映画なので、これは純粋に作品内容の力だろう。枝葉末節の揚げ足取りや、原作との単純比較に過ぎない的外れな批判はあるけれども、夏映画では一番普通のエンタテインメントだった。 6位は『マダガスカル』、『星になった少年』が20〜25億円あたり。相変わらず動物モノは強いってことかな。でも私がランディに会えるのはこの分だとテレビになりそうである。 しかしもう何十年も「大人が見る映画が少なくなった」と嘆かれて久しいけれども、確かにこのラインナップの中で「大人」が心惹かれそうな映画が『イージス』くらいしかないってのは、残念なことである。でまた若い連中の中には「『イージス』面白いよ」って勧めたって、「難しそうで分かんない」とか言いやがるやつがいるんだよな。「知識」がなくたって、「映画を見る力」が素養として備わってれば、映画は大人も子供も関係なく面白く見られるんだよ。Yahooの映画評とか見てると、「この映画は大人向け、これは子供向け」と選別してるやつほどガキだって状況があって、しかもそんな批評とも言えない感情の垂れ流しがもうすっかり蔓延してしまっている。 なんかもうね、日本人の映画鑑賞眼を底上げするためには、小中高校で週一回、必ず「映画の時間」とか設けて、国内外の名作映画を見せてくくらいのことをしなきゃならんのじゃないかと思うけれども、そういうことを考えるだけの度量がそもそも文部科学省にカケラもないってのが、一番の問題だと思うんだけれどもね。
「GTF グレータートウキョウフェスティバル」の映画部門として、8月12日〜18日まで開催されていた「トーキョーシネマショー」の最終日に、最も優れた日本語タイトルのつけられた作品を選ぶ「筑紫賞:ゴールデンタイトル・アワード」に、韓国映画の『箪笥』が選ばれたというニュース。 審査委員長の筑紫哲也は、「『海を飛ぶ夢』か『北の零年』にしようと思っていたが、若い学生に意見を聞いたところ、『箪笥』の評価が高かった。原題(「二人の姉妹の物語」)と全く異なる邦題のほうが、この作品の怖さが伝わる点を評価した」と選出理由を語っていたって言うんだけれど、筑紫さんはこの邦題が半村良の怪談小説『箪笥』から取られてるってことに気づいてないのかね? 配給会社は「いや、このタイトルはオリジナルでそんな短編なんて知らない」としらばっくれるかも知れないけれど、映画中、件の「箪笥」は重要アイテムの一つではあるけれども、映画全体のタイトルとしてふさわしいかどうかはちょっと疑問がある。だいたい怪談短編の傑作と言われ、白石加代子の『百物語』の演題の一つとしても語られている『箪笥』を知らないというのは不勉強と言われたって仕方がないのだ。 多分、配給会社の方は知っててこの邦題を付けたのだろうけれど、筑紫哲也は全く知らなかったのに違いない。つか、周囲に誰もそのことを指摘してやるスタッフがいなかったということか。筑紫さんにどれだけのブレーンが付いているのかよく知らないのだけれど、こんな初歩的なミスを犯しているようじゃ、たかが知れていると思うのである。 けど、タイトルはともかく、『箪笥』はよく出来た映画である。どこがよく出来ているかはネタバレになっちゃうので詳しくは言えないが、「ホラー」を期待して見ると全然違う映画なので、そこはちょっとご注意とだけ言っておこう。
天野ミチヒロ『放送禁止映像大全』(三才ブックス)。 どこぞからの抗議やら自主規制などで、再放送、再上映やソフト化がされなくなっている映像作品をなんと全263作品も紹介した日本映像史の裏面史とでも言うべき本。その分量の多さには驚きもするし、資料の収集、調査にはかなり苦労をしたものと思われる。その努力には素直に敬意を表したいとは思うのだが、どうしても先行する安藤健二の『封印作品の謎』の後追い企画のようにしか見えないところが本作の弱点ではある。 確かに、これだけの作品量を『封印』はカバーはしていないが、各関係者への取材、インタビューを通じて、作品への抗議、告発の根拠のなさ、自主規制のいい加減さなどの熾烈な追求においては、『封印』の方が充実している。『放送禁止』の方はどうにも表面的な「なぞり」だけに終わっている感が強いのだ。 一つには、天野ミチヒロ氏の映像作品に対する素養が著しく低いことも関係しているだろう。つか、一般的な常識もあまり持ち合わせてはいない人のようで、記事のあちこちに間違い、勘違い、情報の偏りが見受けられる。取材不足というより、常識を知らないための誤謬がやたら多いのだ。 知識がオタク方面に偏っているだけならご愛嬌ですむのだが、『アパッチ野球軍』を紹介する項目で「アパッチ」という語句を「ネイティブアメリカンの蔑称」と記載していたのにはのけぞった。言うまでもなく、「アパッチ」というのはそのアメリカ原住民の一部族の名前であって蔑称でも何でもない。自主規制や用語規制の歪さを告発する本が、かえって差別的な誤解を広めるようなウソを書いてどうするのかね。 まあ、一応、封印作品の資料としては使えるけれども、どうしてその作品が処分を受けることになったのか、その事実関係の検証は不十分なものが大半である。斜め読みするだけであまり内容を信用し過ぎないほうが無難だと思われる。
マンガ、津田雅美『彼氏彼女の事情』21巻(完結/白泉社)。 長編マンガはやはり終わってみなければ具体的な評価はしにくいものだけれど、まあ実質的な物語は全巻までで終わっている。最終巻は後日談も含めてキャラクターの整理編、と言った印象。 正直な意見を言わせてもらえれば、有馬の心の闇の謎とやらをやたら長い間もったいぶって引いていたので、いったいどんなに悲惨な運命に弄ばれてきたのかと、ちょっとハラハラしながら読んでいたのだが、結末は「えっ? この程度のことでアンタ、自分のことを不幸って言うの? それ、人生舐めてない?」と言われても仕方がないくらいありふれたものであった。ジャリん子チエが聞いたら「不幸ぶってるんやないで、あほ」と一刀両断されてしまうだろう。 まあ、このマンガの珍しいところは、少女マンガにしては一切ヤンキーや不良が出てこないという点にあった。まあ、これまでのマンガがあまりにも不良を美化したものばかりだったので(ヒーローはバイク野郎でたいていはバンドをやってたりする)、そういうものに対するカウンターカルチャーとして機能していたとは思うが、だからと言って、登場人物が殆ど全て一流の才能の持ち主ばかりというのは設定に無理がありまくりである。多分作者はヤンキーマンガが嫌いでこんなムチャクチャな設定で押し通してきたのだろうけれど、作者自身の「優等生臭さ」(本当に優等生かどうかは知らない)がそのままマンガの「臭さ」にも直結してしまっていたのが、マンガがどんどんつまんなくなっていった原因であるように思う。 こういうとファンは怒るかも知れないけれど、登場人物を「天才」に設定したいんだったら、ちゃんと天才としての行動、実績をマンガの中で描かなきゃいけないわけね。口で言ってるだけでやることなすこと「凡人」だったら、ハッタリかますだけにしかならないの。有馬も雪野もごくフツーの人間なのになぜか「天才」ってことになってるのは作者が自分で「天才」を描けるだろうと思った自信の現れなんだろうけれども、SFとかファンタジーならともかく、基本的にリアルな学園ドラマでそれやっちゃうと、結果的に作者の「非才」を露呈することにしかならないのだね。現実に「天才」なんてそうそういるわきゃないのである。 これで完結だと言うのに、あとがき等でアニメ化のことについて作者が全く触れていないのも何かワケアリだね。よっぽど賛否両論の騒ぎが鬱陶しかったものか。これは続きのアニメ化はまずないな。
2004年08月23日(月) 第10回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ……『頭山』! 2003年08月23日(土) 恋から自由であるということ/映画『呪怨2』 2001年08月23日(木) What is Okyuto?/『新暗行御史』(尹仁完・梁恵一)ほか 2000年08月23日(水) 若いって、イタいことなのよん/『エノケンと呼ばれた男』(井崎博之)ほか
| 2005年08月22日(月) |
「優勝」の意味はどこに帰属するのか/『アニメーション監督 原恵一』(浜野保樹編) |
何ヶ月前だったかねー、全世界の話題になってた「謎のピアノマン」。 まるで現代のカスパー・ハウザーのような騒ぎになってたけれども、案外つまんないオチが付いたようである。 イギリスのデイリー・ミラー紙によると、「ピアノマン」の正体はドイツ人の同性愛者で、パリで失業して、イギリスに来たのは自殺目的だったという。一言もしゃべらなかったのは医師らをかつぐための芝居だったとか。ピアノの絵を描いたのも「最初に思いついただけ」という、なんじゃそりゃ? な結末である。 つかさー、今更かもしれないけれど、記憶喪失の身元不明者って、そんなに話題にしなきゃならないことだったのかねえ。病気の人の人権侵害になる危険だってあったわけだし。身元確認のために情報公開したというのは分かるのだけれども、それにしても大々的に過ぎたように思うんである。発見されて報道されるまで、たいして間がなかったよね? その前に身元不明者の照会とか、警察に連絡するとか、そっちの方が先にやるべきことだったんじゃないのかな? この事件が大仰になってしまったのは、やはり、本人の背景に「何かある」ことを期待した野次馬連中の「盛り上がり」の影響の方が大きかったんじゃないかなあ。でも、本当にピアノマンに公表しがたいような事情があったら、どうなっていたのだろう。カスパー・ハウザーの場合は、謎の死を遂げているのだよ。 穿った見方をしたがる世の雀たちは、この「オチ」にも何か陰謀があるのではないかと騒ぎ立てるのではないかと思うが、火のないところに煙を立てるようなマネは、いい加減でやめてほしいものである。それをあえてするのがマスコミだと言われればそれまでなんだけれどもね。
こないだ日記で、明徳義塾高校の甲子園大会出場辞退問題について「どうせほかの学校だって似たような不祥事があるんじゃないか」と書いたのだが、予想がドンピシャと当たったような出来事が。それもなんと優勝校である駒大苫小牧高校にである。 22日夜に、苫小牧高校で開かれた同校校長の会見によると、野球部の部長(27歳)が三年生の部員に、「態度が不真面目である」という理由で、二度にわたって暴力をふるったという。加害者である部長は、現在、謹慎処分中。 問題となるのは、被害者の保護者から学校に通報があったのが8月8日、甲子園大会の三日目だったのだが、その時点で苫小牧高校は高野連に事情の報告をしなかったということである。明徳義塾の事件が既に明るみになり、「学校の報告が遅延したこと」が問題視されている最中であるにもかかわらず、不祥事の発表を優勝決定後に伸ばしたということは、それだけ苫小牧高校の方がより「悪質」だったと考えざるを得ない。 多分、今回も、「優勝は取り消しになるのか、次の大会に出場はできるのかどうか」、この点が論議の対象になるとは思うが、恐らく、世論の多くは「努力してきた部員には関係がないのだから、優勝を取り消さないでほしい」と同情論が幅を利かせることになると思う。しかし果たしてそれは「正しい」判断だろうか? まず、公表が遅れたということは、即ち学校が事件のもみ消しを図ったということである。即ち、この件がもしバレたなら、問題になるということを学校側はしっかりと自覚していたということなのだ。これだけでも苫小牧高校に同情してやらなきゃならない余地は全くない。 「問題なのは部長の方で、部員は無関係だから処分すべきではない」という意見は、筋が通っているように見えるが、ただの感情論で、冷静に教育の本義を考慮したものだとは言えない。問題が教育者である部長の方にあるのならばなおのこと、学校は、「生徒を監督する義務を負うものの責任として」、事後報告などという薄汚い行為をするべきではなかったのである。 高校野球における「優勝」とは、野球部員個々人の努力だけに与えられるものではない。それぞれの学校の「教育の成果」に与えられるものである。部活動が教育の一環であることを忘れてはならない。「不祥事にはほっかむり」なんて学校の姿勢を評価できるわけはないではないか。教育の本分を考えるならば(特に明徳義塾が出場辞退をしている状況を鑑みるならば)、「優勝取り消し」が最も妥当な裁断である。優勝旗を苫小牧高校に与えたままにしておくなら、実質、学校に責任を取らせることを完全免除したも同然である。 もし「優勝取り消し」となれば、野球部員たちは悔し涙に暮れるだろうが、結局は部長の暴力を看過した部員たちにも責任のあることだ。これは泣いて頂くしか仕方のないことなのである。ちょっと考えてみれば、部長の暴力行為を他の部員たちが知らなかったはずがない。「優勝しちまえば、そんなに簡単に処分なんかできないだろう」と部員たちが高を括っていなかったとどうして言えるだろうか。 そうは言っても、高野連は、結局は世論に流されて(昔から世間は他の部活動には冷淡だが、高校野球にだけは甘い)、既に部長が処分されたことでそれ以上の追求はしないような気がしてならない。本来これは、事実を隠蔽しようとした校長が自ら引責辞任をしてしかるべき事態なのである。しかしその権限は高野連にはない。高野連にやれることは一つしかないのだ。 高野連が本気で高校野球界から暴力を追放しようと考えているのなら、この際、大鉈を振るうべきだと思うが、そんな度胸はあるまいね。だって高野連の連中自身が、これまで「そういうこと」を平然とやってきたやつらだろうから。既に「明徳義塾とは事情が違う」と、処分を流すための伏線も敷いているのである。 しかしここでハッキリと断言しておくが、これで処分が軽いものですんでしまえば、もう高校野球界では「バレなきゃいい」が常識化するぞ(まあ、もうなってるから、苫小牧も緘口令を布いてたんだろうがね)。そこまで考えずに平然と高野連に情状酌量を嘆願する連中は、全くのお天気野郎なのである。
浜野保樹編『アニメーション監督 原恵一』(晶文社)。 十年前ならばいざ知らず、もはや「原恵一」の名前を知らないアニメファンは、アニメファンの名に値しないだろう。 分かっている人にはもう充分分かりすぎていることであるが、宮崎駿、富野由悠季、押井守、大友克洋、庵野秀明、今敏、etc.世界にその名を知られたアニメーション監督たちに比しても、原監督の演出力は一頭地を抜いている。 『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』が公開されたとき、『キネマ旬報』の映画評論家諸氏は殆どこの傑作を無視したが、数年後、「アニメーション・オールタイムベストテン」を選出したときには、ベストテンの上位にランクインされていた。プロの評論家と称する半可通はいつだってこんなもので、自分の目で本当に面白いものを見抜く目を持たない。常に他人の批評を気にし、評判が高いと知ると誉めそやし、不評が多いと口汚くののしる。いつだって他人の尻馬に乗るばかりだ。そんな批評に関係なく、『オトナ帝国』(それ以前の『クレヨンしんちゃん』映画もそうだが)を評価し得たことは、「シロウト」である私の誇りである。 後追いで「しんちゃん映画」に出会った人たちは、「『クレヨンしんちゃん』なのに」、という表現をよく使っていた。『クレヨンしんちゃん』をよく見もしないで馬鹿にする連中がやたらいたころだから、そういう無遠慮な言葉遣いにもあまり目くじらを立てないで看過するようにはしていたが、本当は『クレヨンしんちゃん』だからこそ、あれだけの傑作が作れたのである。「なのに」なんてふざけんじゃねえ、だ。
本書の編者である浜野氏もそんな「後追い」の人なのだが、自らの不明を恥じてなのだろう、まるで汚名返上とばかりに原監督の旧作を片っ端から見返し、「原恵一」をどこまでフィーチャーできるかというコンセプトのこんな大部の本を作ってしまった。 原恵一監督へのロング・インタビューに始まり、監督の担当した絵コンテ、樋口真嗣・荒井晴彦・田口ランディ・五十嵐太郎各氏のエッセイ、矢島晶子・湯浅政明・茂木仁史各スタッフ・キャストのインタビュー、曽利文彦・中島かずき・中島信也各氏へのインタビュー、海外からのレポートなど、様々な角度から「原恵一」の映画監督としての能力を照射するための記事をこれでもかってくらいにぶちこんでいる。 浜野さん自身、原監督との直接対談や評論の中で、小津安二郎、木下恵介の系譜の末裔として原監督を捕らえ、『クレヨンしんちゃん』前期の監督である本郷みつる監督のSF嗜好・ファンタジー嗜好と対極にある「日常性」を追求する原監督の映画の特徴を高く評価している。 けれどもまあ、昔からのしんちゃんファンにとってはそんなことはもう今更言わずもがなの自明のことなので、このあたりの熱い語りにも、浜野さんの後追いの焦りが感じられて、ちょっと微笑ましくなる。
浜野さんが、執拗なほどに食い下がって聞き出した原監督の「好きな映画」。
デヴィッド・リーン『アラビアのロレンス』『ドクトル・ジバゴ』『旅情』 木下恵介『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾年月』『野菊の如き君なりき』『永遠の人』『楢山節考』『笛吹川』 小津安二郎『秋刀魚の味』『東京物語』『麦秋』 タルコフスキー『ノスタルジア』『ストーカー』 ヘルツォーク『フィッツカラルド』 塩田明彦『どこまでもいこう』 井筒和幸『岸和田少年愚連隊』 山本政志『ロビンソンの庭』 チャウ・シンチー『少林サッカー』 沖浦啓之『人狼』 湯浅政明『マインド・ゲーム』 宮崎駿『風の谷のナウシカ』 杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』。
何年か前、ある作家さんとメールをやり取りしていたときに、その方が「原監督は昔の映画はあまり見てないと思う」とか、どういう根拠でモノを言っているのかよく分からないが、かなり乱暴な書き方で決め付けていたことを思い出した。このリストを見るだけでも、それがただの思い込みに過ぎないことがお分かりいただけると思う。 当然、どんなに実力のある映画監督でも、無から有を生み出すことはできない。影響を与えた先行作というのは常にあるのだ。このリストを見て、その「趣味のよさ」が原作品を「映画」にしているのだという事実を感じ取っていただければ幸いである。
原監督の次回作はもう『しんちゃん』ではない。矢島晶子さんなどは原監督に再び戻ってきてほしいと対談で懇願していたが(そりゃ、今年の『三分ポッキリ』なんてヘボ映画に出演させられてちゃ、嬉しくはないだろう)、未だに「しんちゃんなのに」と言いたがるエセ評論家が跋扈している状況に足元を掬われない、自由な環境で作られた原監督の新作を見てみたいものじゃないか。 ああ、それから、本書中でも批判されてたけど、『オトナ帝国』や『戦国大合戦』がオトナに受けたからと言って、やっかむように「子供は退屈していた」とか反作用的にワルクチいうのは止めようね。これも「馬鹿批評」の典型で、大人が映画を見て賛否両論に分かれるように、子供だって、感想は二つに分かれるのである。全ての子供を満足させる映画なんてありゃしないし、私が劇場で見る限り、『オトナ』も『戦国』も、子供にだってちゃんと受けてたよ。たまたま自分の近くにいた子供がアクビをしていたからって、それで全てが図れるわきゃないのであるよ。
2004年08月22日(日) どんなふうにイジったかはヒ・ミ・ツ♪ 2003年08月22日(金) 病院尽くし/『炎の転校生』1巻(島本和彦) 2001年08月22日(水) オタクの花道/同人誌『オトナ帝国の興亡』ほか 2000年08月22日(火) とんこつラーメンは臭い/『ここだけのふたり!!』8巻(森下裕美)
| 2005年08月21日(日) |
終わらない歌を歌おう/映画『リンダ リンダ リンダ』 |
『仮面ライダー響鬼』二十八之巻 「絶えぬ悪意」。 こないだからチラッと出ていた和服姿の謎の男(村田充)と女(芦名星)、まあ童子と姫と同じ人が演じてるんだけれども、どうやらこちらが「ホンモノ」らしい。男も女も自分の声で喋ってたし。黒服に白服の「クグツ」(「傀儡」という意味かな)も同じ人だったから、つまりはこの二人が作り上げたクグツが更に魔化魍を作り出すというシステムになってねみたいね。このヒトたちは、先祖代々そういうことをやっとるんかねえ。それともこいつらはヒトではないのか、正体は武内宿禰か?(もちろん諸星大二郎のね) 今回、試験管の中に蜘蛛と液体を入れて「土蜘蛛」を作り出していたけれども、えーっと、この方式だと、ヤマアラシとかテングとかどうやって作ってるんだろうね? ドロタボウとか、元は何なんだよ。もちろんこういうツッコミは怒っているわけではないので誤解なきよう。 今週も勢地郎は出なかった。下條さん、ただの夏休みだよね?
夜、キャナルシティで映画『リンダ リンダ リンダ』。 ファンタジーやSFの好きな人の中には、リアルな物語、日常の物語を必要以上に毛嫌いしてしまう人がいる。曰く、「映画や小説の中でまで、現実を見ていたくない」。 その気持ちは痛いほどに伝わってくるのだが、完全に現実性を拒否した物語が面白いかというと、そうでもないからことは簡単ではない。徹頭徹尾「作りもの」だと、今度は荒唐無稽すぎて感情移入がしがたくなるものだからだ。リアル:ファンタジーの割合は、5:5から7:3くらいまでがちょうどよいように思う。
まあ、なんで、こんな話を前フリに置いたかというと、「文化祭前日に、突如バンドを組むことになった女子高生四人が、ブルーハーツをコピーして猛練習を始める」というストーリーが、粗筋だけはよく似た『スウィング・ガールズ』と違って、「適度に作りものめいたところの少ない」物語になっていたことに驚いたからだ。 説明するのが難しいのだが、「リアル」だということは、できるだけ虚構を排することである。しかし、虚構を排すれば、確かに現実的にはなるものの、物語としての面白さを減殺してしまうことだってある。実際、この映画は「ドラマチックな要素」を極力削除しているために、全体的なストーリーや個々の描写は、かなり「つまらない」のだ。では、この映画を私が「駄作」だと考えているかというと、決してそうではないので、話が難しくなるのである。日常的な退屈な描写が続くのに、少しも退屈ではないのだ。 似たようなことをしげも感じていたようで、見終わったあと、「つまんないけど面白い」と、なんじゃそりゃ?な説明をしていた。しげは以前見た鴻上尚史の舞台『リンダリンダ』に不満を持っていて、それとの比較も念頭にあったようである。
主人公の四人がバンドを組むようになったのは、全くの偶然である。 もともとは恵(香椎由宇)、凛子(三村恭代)、萠(湯川潮音)、望(関根史織)、響子(前田亜季)の五人がバンドを組んでオリジナルの曲で出場を予定していたのだが、ギターの萠が左手に怪我をして参加できなくなった。凛子がそこで代役を立てようとしたのだが、そこでその冷徹さに反発した恵との間で諍いが起こり、バンド自体が空中分解する。恵は、望と響子にそれでも出場すると言い張り、「ブルーハーツのコピーならあと三日でも何とかなる!」と、もう一人のメンバー・ボーカルを探し、練習を始めるのだ。 物語が転がり始める前のここまででも、この映画は数々の「リアル」を積み上げて構成されている。女の子同士が、この程度のつまんない理由で諍いを起こしてしまうこともそうなのだが、周囲の人間たちが(教師も含めて)彼女たちの関係修復に手をこまねいている、いや、手を出したがらないでいるその人と人との「距離感」がまずリアルだ。 彼らはみな、仲がいいような、けれどもそれほど親密でもないような、微妙な関係にある。実際に、高校時代の友達関係なんて、この程度の「擬似友人」みたいなものが殆どではなかろうか。実のところ、本映画中で語られるとおり、喧嘩をしている恵と凛子の方が、「魂」は近かったりするのだ。似たような性格の者同士が反発してしまうのも現実によくある話である。 これらの設定は、物語の後半になるにつれ、じわじわと「効いて」くることになる。それは、彼女たちが演奏曲に「ブルーハーツを選ぶ」という「リアルさ」において、この映画の成否が決定してしまったと言ってよいほどの効果を生むことになるのだ。
ブルーハーツをやる、と言い張る恵に、凛子が「やって意味あるのかな?」と疑問を呈する。これは「ブルーハーツが嫌い」というよりも、「コピーバンドに意味があるのか?」という問いかけだろう。 ところがこれに恵は「別に意味なんかないよ」と返事する。意地っ張りでそう言っただけだろうが、「意味がなくてもバンドする」というこの姿勢もまた実にリアルだ。言っちゃなんだが、高校生なんてみんな馬鹿である。しかしこれは単純なワルクチではない。馬鹿が取り得のようなもので、馬鹿だから何も考えずにやりたいことをやれるし、意味なんてなくても気にならない。無茶も無謀もし放題である。そこにあるのは「熱さ」と「勢い」だけだが、それで全然構わないのだ。 しかも選曲があの「ブルーハーツ」だ。 ブルーハーツは、本人たちが歌ってるのを見ると、これはもうただの不良ソングで、これにハマるやつらもたいていはただのヤンキーだ。 ところが、そんなブルーハーツを誰かがカバーすると、これが不思議なことに俄然「いい曲」になってしまうのである。オリジナルは耳障りな雑音のようにすら思えるのに、他の歌手が歌うと、あるときは勇気凛々、あるときは哀切、またあるときは狂おしいほどの人間賛美、様々な「顔」を見せることになる。 かく言う私も、カラオケでしげが『TRAIN TRAIN』を歌ってるのを聞いて、「あれ? これってこんなにいい曲だったっけ?」と驚いたことがあるのだ。
「終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため 終わらない歌を歌おう 全てのクズどものために」
ブルーハーツが歌うっているのを聞いていても、このフレーズはナルシスティックにしか聞こえない。世界を勝手に「クソッタレ」なんて決め付けるな、「クズ」って俺たちのことを言いたいのか、ふざけるな、クズなのはお前らだけだ、傲慢なこと言ってやがるんじゃねえ、と、反感すら抱いてしまうのだが、ひとたびブルーハーツの手を離れると、そんな歌い手の自己陶酔的なムードがきれいサッパリと消えてしまうのである。「クズども」は我々を貶める言葉ではなくなり、全世界に広がって「みんなクズでいいじゃないか、みんなのために歌おう」と、我々の歌のように聞こえてしまうのである。 これはいったい何なんだ、私の錯覚か、と思っていたのだが、パンフレットで、この映画のプロデューサーがこんな発言をしているのを読んで、ああ、これは私だけの感覚ではなかったのだと合点が入った。「魅力的なカバーは、下手なオリジナルよりインパクトがある」「文化祭ライブで『リンダリンダ』をやると異常に盛り上がるとはリアルな実話であったし、ブルーハーツならば、急遽2、3日でコピーできたとしても全然変じゃない」 要するにブルーハーツはヘタなのである。たいした音楽ではないし、たいした曲でもない。しかし、「熱さ」と「勢い」だけはあって、才能も目的も意志も持ち合わせてはいないけれども、何か心の中にわだかまりだけはある我々クズにとっては、これはまさにドンピシャのソウル・ソングになりうるのだ。 劇中では誰の曲を歌うかで恵と響子が頭を悩ませるシーンがあるのだが、そのときに名前を挙げられた歌手たちが、ジュディマリ、椎名林檎、デリコ、パフィー、ユニコーンなどである。ブルーハーツが選ばれたのも実にリアルな選択であったということがご理解いただけるだろうか。 鴻上尚史の『リンダリンダ』の失敗は、初めは「勢い」だけだった物語が、次第に世の中の不正とか矛盾とか不条理に対する「怒り」にスライドされていくその「思想性」にあったと言える。そんな「思想」はブルーハーツには最も縁遠いものだ。そこが鴻上尚史にはまるで理解できていない。
「ブルーハーツをやろう」、ここまでは実にリアルな展開である。 そして、これからがこの映画の中で唯一「虚構」と言える設定が持ち込まれることになる。 残るメンバーの一人、ボーカルに「韓国人留学生」のソン・ミヘ(ペ・ドゥナ)が無理やり加入させられるのだ。 その過程は、この映画で最もユーモラスなシーンの一つで、恵たちは、日本語のよく分からない彼女に「ハイ、ハイ」と言わせて(言う方も調子よすぎだが)、殆ど強引に仲間に引き入れているのである。恵は意地になっているから、ソンがブルーハーツを歌えるかどうかなんてとこまで考えていない。いや、そもそも拒絶される可能性すらまともに考えてはいない。 けれど、『リンダリンダ』のカセットテープを聞いたソンの頬を涙が伝ったところから、促成バンド「パーランマウム(韓国語で「青い心」)」は、本格的に動き始めるのである。文化祭最終日まで、わずか三日……。 しかし、「作りものめいた展開」はせいぜいこのあたりまでで、あとの展開はやはり非ドラマチックなものになる。 響子が練習に遅れて恵がむかつくとか、徹夜で練習し過ぎて居眠りこいて文化祭に遅刻してしまうとか、そういう「ありうるような」トラブルはいくつかあるが、それで友達同士の仲が壊れるとかいうこともないし、仲間外れになった凛子が復讐をたくらむとかそんな少女マンガ的大映ドラマ的展開もない。 ライバルバンドも出てこないし、ソンがやっぱり歌えないと泣きじゃくるとか、「韓国人が日本語の歌を歌うな!」とほかの韓国人が乱入してくるような『チルソクの夏』的展開もない。 ただ、みんなで練習して、初めは全然形にならなかったのがいい感じになってきて、最後に『リンダリンダ』と『終わらない歌』を熱唱して終わる。殆ど癖がないと言ってもいい。それだけの映画なのに、やっぱり最後は盛り上がるのだ。それはいったいなぜなのだろう。 ちりばめられた小さなギャグの可愛らしさ、それが物語をダレさせることを防いでいるということもある。 他人の恋愛にはすぐ首を突っ込みたがるソンが、いきなりコクられてキョトンとし、全く意に介しないシーンなど、画面から漂ってくる「間抜け感」は、そういうギャグの分かる人にはもう欣喜雀躍したいところだろう。ソンを演じたペ・ドゥナ、実はもう高校生なんておトシではないのだが、こういう高校生のぽやーっとした雰囲気を天然じゃないのかという感じで見事に演じている。ギャグ担当はもっぱら彼女の独擅場だ。 もちろん、ラストの彼女の熱唱、伸びやかで癖のない声、その素晴らしさ。これ自体がドラマであることは言を待たないだろう。 しかし、やはり歌われる曲が「ブルーハーツであること」これが最大の魅力であると見るしかないのではないか。ブルーハーツ自体が「熱い」のだから、それまでのドラマがいかにも虚構で、非リアルな世界であっては、物語と歌が相克の関係になってしまう。「リアル」は、ブルーハーツを「ハレ」の舞台とするための必要条件であったのだ。 映画は文化祭最後のステージの熱狂で終わる。 それを見ている我々にも感動が押し寄せてくるのは、そこに、我々がかつて経験してきた「文化祭前&文化祭期間中」のあの何とも言えない濃密な空間が再現されているからだ(現在高校生である人たちにとっては、まさに映画と現実とがシンクロして感じられるだろう)。 そしてその「濃密さ」にはブルーハーツの無意味なくらいの「熱さ」が、似合い過ぎるほどに似合っているのである。 私はカラオケで一度もブルーハーツを歌ったことがないのだが、この映画を見て初めて『リンダリンダ』を、『終わらない歌』を歌いたくなった。それは、「無意味な熱さ」への共感なのである。
2004年08月21日(土) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」4……打ち止め。 2003年08月21日(木) ぼーくーは、ないちっち(^o^)/『BLACK JACK ザ・コンプリート・ダイジェスト』(中野晴行編) 2001年08月21日(火) 台風の日は病院で寝転んで/『偶然が残すもの 記憶鮮明�供戞米�渡早紀)ほか 2000年08月21日(月) 一日経つと記憶が消える。……年か?/ドラマ『柳橋慕情』ほか
| 2005年08月20日(土) |
メイドさんがいっぱい/DVD『金庫室の富豪刑事』 |
昨日の「水野晴郎ショック」で(笑)、あっちこっちのサイトを覗いて、映画の感想などを拾い読みしてみる。 もちろん、マトモな映画好きからは酷評を食らっているのだが、こういうときほど「批評の有効性」というものについて考え込んでしまうことはない。本気で怒っている人も多々あるのだけれど、アノ映画に怒ってどうなるんだという気がしてしまうのね。 面白かったのは、故・深作欣二が「三田佳子はどうしてオレの映画を蹴って水野晴郎の映画に出るんだ」と怒って『シベ超3』を見に行ったあと、「天然には勝てないな」と述懐したというエピソード。深作監督だってかなり天然が入ってる人ではあるが、その人にすらこう言わせてしまうというのが、マイク・ミズノ・フィルムのものすごさである。評価の埒外にある映画を評価することくらい徒労なことはないよ。 映画にはそれぞれの「見方」があるんで、ピーマンにステーキの味を求めるのは見当違いも甚だしいということをこの日記でもしょっちゅう書いているのだけれども、視野狭窄な人間にはそのへんのことが全然分かんないんだねえ。誰ぞが書いていたが、これはもう「映画」として楽しむのは間違いで、『シベ超』という一つのジャンルとして楽しむのが正解だろうと思われるのである。 ま、そういう見方をすれば『スター・ウォーズ』だって『スター・ウォーズ』という映画とは別物だと考えれば何も腹は立たないのだが。
明治時代に製作されたと思われる(恐らくは現存する日本最古の)アニメーションと思われるフィルムが、京都市の旧家で見つかったとのニュース。これまで日本最古とされるアニメーションは、1917(大正6)年の下川凹天作『芋川椋三 玄関番の巻』とされていたので、それを更に10年程さかのぼる可能性があるという。 もっとも発見されたのはわずか50コマで、ループ状にのりで繋いであったということだから、上映したとしてもせいぜ3秒。単独の映像作品というよりは、「驚き盤(フェナキスチスコープ)」のような、繰り返しの動きを楽しんだもののようである。 記事を読むと、これが「日本最古」とされる理由は「製作方法や一緒に見つかった映写機の製造年代から」というから、根拠としてはかなり薄弱であるように思う。それに、『芋川椋三 玄関番の巻』は曲がりなりにもフィルム一巻をかけた「映画」であるが、それとこのタイトル無しのフィルムとを同列に扱うのには疑問が残る。 もしかしたらこの程度の「オアソビ」としてのアニメーションフィルムなら、同時期には他にも結構あったのではないかという気がするのである。同様のものが今後発見されないとも限らない、いや、「そんなんならうちにもあるぞ」と言い出すやつが出てくることだってありうると思うのである。 別にこの発見にケチを付けたいわけではないが、日ごろマスコミの「針小棒大」な報道姿勢には腹が立つことが多いので、正式発表がまだの段階でこういう大々的な報道をするのはどうか、という疑問を呈しておきたいのである。
昨日か一昨日だったか、深夜番組を漫然と見ていたら、何かのコーナーで、「九州初上陸! メイドカフェ!」とかいうのを放送していた。 天神のビルの一室で営業しているらしいのだが、場所は「まんだらけ」や「とらのあな」からも近いらしい。なんかどんどんあのへんがオタクスポットと化しつつあるな。 ドアを開けて一歩入ると、メイドさんが「いらっしゃいませ、ご主人様」と出迎えてくれる。ここで即座に「主人モード」にココロを切り替えられることが、この店が楽しむためのコツなのであろう。 メイドさんは口調がメイドさんなだけで、あとは普通の喫茶店のウェイトレスさんと特に変わったところはない。その点、いかがわしい期待はしちゃいけないよ。別にずっとそばにいてくれるわけじゃなさそうだから。 食事はオムライスがお勧めらしいが、値段も700円前後で普通と言ったところだろう。ケチャップでオムライスの上に好きな文字を書いてもらえるそうで、そこでどんな字を書いてもらうかでオタクのセンスが問われるところだと思われる。間違っても「君の○○○○○○○○○○」とか書かせちゃダメなんである。 開店してまだ十日ほどで、働いているメイドさんはまだそんなに多くないようだ。ルックスはどうかという点についてはまあかわいいんじゃないですか、と言っておこう。別に適当にごまかしているわけではなくて、思い入れのない女性の美醜というものは、私にはよく分からないのである。うちの劇団の女の子ならみんな可愛いと自信を持って言えるのだが(ヨイショ)。 まあ、お客さんは(来てたのはだいたい二十代くらいの男どもだけである)メイドコスの女の子がかしずいてくれるシチュエーションが嬉しいんだろうから(レポーターの若い男は「萌え萌えー!」を連発していた)、スタイルとかご面相はそこそこでも充分なんじゃなかろうか。スカートは結構短い。本物のメイドはそんなにスカート短くないと思うんだが、やっぱそれがオタク仕様ってやつですかね。 まあ、私はメイドさんにもコスプレにもたいして興味はないのだか、こういう店の存在は面白いと思う。需要がなければ供給もないわけで、オタクも二次元世界に閉じこもってばかりいるわけではなくて、こういう「コスプレ」とか「ご主人様とメイドの擬似関係」いう「クッション」があれば、ナマの女の子にアプローチもできるのだ、という見方もできなくはない。寂しいけどな。 実際、どんなところか確かめてみたい気はするのだが、さすがにこの歳だともう無理がある。かと言って、劇団の男どもに突撃レポートを頼んで見てもなあ、誰に頼んでもそれぞれの立場でいろいろとイタい思いをして帰ってきそうでなあ。 まあ、どこの何という店か知りたい人は、ネット検索で何とか探し出してみてくださいな。私も教えるにやぶさかではありませんが、そっちの方が手間がかからんで簡単に見つけ出せると思います。
DVD-BOX『富豪刑事』。 未放送シーンも含めた完全版、及び新作ミニドラマ『金庫室の富豪刑事』まで特典映像としてついているなかなかサービスのよいボックスである。ミニドラマと言っても各巻5分強、全5巻合わせれば30分にはなる堂々たるものである。長さだけは(笑)。 放送終了後にキャストを集めたために、スケジュールが合わなかったのだろう、レギュラー出演者は深田恭子(神戸美和子)、山下真司(鎌倉熊成)、鈴木一真(猿渡哲也)、載寧龍二(西島誠一)の四人のみ。鈴木一真とか、どうやら現在はヘアースタイルが放送当時のカーリーヘアではなくなっているらしく、それを誤魔化すためかアフロのカツラを付けていた。違和感ありまくりである。 お話の方は本放送に負けず劣らずの珍トリックで、「こんなもん、密室トリックなんて言えるかあ!」と卓袱台をひっくり返したくなるような、もはやギャグとして見るしか仕方がない、あまりにデタラメなものである。 デタラメ過ぎて、つい説明してしまいたくなるが、それでも一応、ネタバレは避けてあげよう。殆ど小学生向けの「推理クイズ」の粋を出てはおらず(つか頓知クイズとか意地悪クイズに近いな)、そんな密室、警察が調べて気が付かない方がどうかしてるんである。 ちなみに、被害者が残したダイイング・メッセージは、こんなのだ。 「足 毛 園射」 (足・毛で一文字、園・射で一文字。答えは一文字じゃありません) さあ、みんなも解いてみよう! (笑) 多分、このド手抜き脚本、書くのに一日もかかってないんじゃないかな。エンドクレジットには脚本家の名前が出てこなかったのだが、客から非難されるのを恐れたせいのように思えてならない。私はもう今更怒らんが(笑)。 そのあたりの事情を勝手に憶測すると、脚本家がプロデューサーから「明日までに脚本書いてよ。キャスト集められるの明日一日しかないから」とか“撮影前日”に言われて、ふざけんなよとは思いつつも開き直って徹夜して、朦朧としたアタマでなんとか完成させたのはいいけれど、あまりにムチャクチャな出来になっちゃって、提出したあとで「しまった」と思ったけれども全ては後の祭り、せめて名前だけは消してくれと懇願した……とか、そんな事情じゃないのか。 もしホントにそうなら同情し申し上げる。名無しの脚本家さんには、ミステリ映画史上「最もしょーもないで賞」を差し上げたいと思う。 それにしても気が付いたら『下妻物語』のDVDも買ってしまっているし、これではまるでフカキョンのファンみたいである。いや、一応、『リング2』も『死者の学園祭』も『Friends フレンズ』もDVDまでは買ってないけど一応見てるし、役によっては使える人だよなあと思ってはいるのだが。年を取らないうちに『下妻物語2』を作ってほしいなあと思ってはいるのだけれど。
DVD『ゴジラ FINAL WARS スペシャル・エディション』。 何とかゴジラシリーズを全作見返せた。 何かと貶しちゃいるが、結構面白いシーンもあると思ってはいるのである。でもやっぱり北村龍平監督の自画自賛のコメンタリーを聞いてると、いちいち腹が立って仕方がない。やたら「このシーンはハリウッドでは受けた」を連発するんだけれども、当然、「日本では受けなかった」ことの言い訳である。案内役のアナウンサーが「でも日本人は感情を表に出しませんから、内心では面白がっていたと思いますよ」とフォローしてるんだけど、フォローしきれてないよな、これじゃ。 北村監督の「昔のゴジラシリーズの特撮のいいところと、CGなどの新しい技術を合わせようと思った」という言葉は立派なんだけれども、それが「ただのパクリ」にしか見えないことに気が付いてないんじゃ、やっぱりこいつはダメだってことにしかならないのである。言うに事欠いて、「次は『ゴジラ FINAL WARS2』だ」とか抜かしてやがるぞ、こいつは。どうしてくれようって感じだよな。 でも、海外サイト「IMDb」とか見てみると、この『FINAL WARS』のユーザー評価が全シリーズ中、ダントツで高いのな。アチラの連中が『ゴジラ』シリーズをどう見てたかってことがよく分かるね。 映像特典の「スピリッツ・オブ・ゴジラ」のインタビューは必見。中島春男氏を初め、歴代ゴジラ役者を中心に、特技監督ほかのインタビューを織り交ぜて全シリーズを振り返っている。50年前の当時を知る人たちって、本当に中島さんを含めて数えるほどになっちゃってるんだよなあ。
夜、CS放送で『.hack//SIGN』全28話連続放送。 人気はそれなりにあったみたいだけれど、本放送の時には今ひとつ引っ掛かりがなくて見逃してたものである。ファンタジーかと勘違いしてたけど、バーチャル世界の御話だったのね。 全体的になんだか『AVARON』のアニメ版、悩める少年少女向けバージョンって感じでどうにも辛気臭い。伊藤和典さんの脚本にしては、ありきたりで「流したセリフ」が目立っていて、アクチュアルな感じがしない。せっかくの貞本義行のキャラクターデザインも、アニメートされた途端にパターン化されしかもその種類も少ない表情ばかりになっていて、その魅力を失ってしまっている。 つか、登場人物全員に「さっさと現実に帰れ」と言いたくなるアニメだ。最後まで付きあって、徹夜で全部見ちゃったけど、頭痛が痛い。だって、録画してもあとで見返すかどうか分かんないし(馬鹿である)。
2004年08月20日(金) そんなに世間は病人に優しくない。 2003年08月20日(水) びっるーのまっちーにがおー!/『金色のガッシュ!!』12巻(雷句誠) 2001年08月20日(月) クルーゾー再び/『パンプルムース氏のおすすめ料理』(マイケル・ボンド)ほか 2000年08月20日(日) 眠い日/『大江戸化物図譜』(アダム・カバット)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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