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2004年05月30日(日) メモリアル・デー/西海岸旅行記をアップ

メモリアルデー(注)の連休。昨日はNYCから友人を迎えたり、NYCの物件を探したり。その合間に西海岸旅行記を地味に書く。その合間に大陸横断鉄道の旅を終えるところまでアップロードした。

西海岸旅行記(1):大陸横断の始点/シカゴへ
西海岸旅行記(2):シカゴ入り
西海岸旅行記(3):シカゴ2日目/ゼファー号乗車
西海岸旅行記(4):ゼファー号2日目/ロッキー山脈越え
西海岸旅行記(5):ゼファー号3日目/サンフランシスコ到着

膨大な数の写真を撮ってきたので、アップに予想より時間が掛かっている。完結まではあと数日かかるだろう。

これが終わると、次はニューオーリンズ旅行記。この旅も書くことが多い。

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(注)毎年5月の最終月曜日のメモリアルデーとは、戦没者追悼の記念日をいう。本来はCivil Warの戦没者を追悼する休日だったようだが、現在は広く一般的な戦争の死者を追悼する日とされている。






2004年05月27日(木) ニューオーリンズより帰着

6日間のニューオーリンズの旅より、フィラデルフィアへ戻る。
この一ヶ月間、卒業式のためにフィラデルフィアに戻った数日間以外は、旅ばかりしていた。

様々な驚きと、旅先での人々との出会いがあった。記憶が新鮮なうちに、順に旅行記をアップすることにする。まずは、出発の日の日記を掲載した。

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2004年05月25日(火) ニューオーリンズ旅行記(6):再来を期して


ポンタルバ・アパート

早朝に起きだして、La Madeleineへ。クロワッサンを食す。

La Madeleineの店内

ジャクソン広場の大聖堂の中にまだ入っていなかったことを思い出し、入る。教会関係者らしき人に、無料のツアーみたいなことをしてあげるよ、と言われるが、残念ながら空港に行かねばならない時間であった。丁重に断る。



その足でタクシーを拾い、空港へ。このタクシーの黒人ドライバーがまた話し好きで、ジャズの話やらなにやらで盛り上がってしまう。30分くらいの道程をずっと会話しながら行き、マルディ・グラ(注)の季節の話や、少し前に終わっているジャズ・フェスティバルの話題を色々聞いてみる。聞いているうちに、やはり来年ジャズフェスタに来るべきという気になってくる。そのCanaan(発音が独特なので、こう聞こえた)という名のタクシードライバーは、最後に名前を聞いたうえで、よし、来年のジャズフェスタで会おうぜ、と言って空港で私を下ろした。社交辞令とは判っていながら、やはり南部の人の温かみのようなものが感じられてうれしかった出来事であった。

そしてフィリーへ戻る。明日からは、NYへの引越しやらなにやらの雑事が待っている。

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2004年05月24日(月) ニューオーリンズ旅行記(5):フレンチクオーターでの一日



この日も、一日市街散策及びカフェを見つけて物書き。





昼前になって腹が減ったので、Gumbo Shopに行く。


Gumbo Shop

ここは、非常に有名なケイジャン料理の店。店に入ると、まだ正午には早かったためか、人が少ない。観光客向けのようなコンボメニューの量がどのくらいなのかウエイトレスに聞いてみると、となりに座っていた青年の食べている皿を指差す。

その青年と話をする。聞いてみると、彼はJapanese Canadianであるという。ケベック出身とのことで、フランス語と英語、日本語のどれがいいか聞いてみると、親と話すときは日本語だが、英語が一番得意でフランス語はそれほど得意ではないというので、英語で話す。

カナダのMcGill大学という名門のロースクールで学んでいるという彼は、饒舌に、ローヤーになって学費を稼いだら音楽関係の大学院に進むつもりだという。ニューオーリンズに来るところをみるときっとジャズをやるのかと思って聞いてみると、クラシックのピアノだという。ここへは、彼女と別れて傷心旅行に来ているようだった。一緒に住んでいたのだが、別れてしまったために彼女にアパートを追い出されてしまい、次のアパートの入居日がまだ先なので、その間、帰る所がないから旅行しているという。お互い一人旅なので、色々愉快に話をして長居してしまう。最後にフランス語でちょっと挨拶して、店を出る。

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ジャクソン広場

その後、ジャクソン広場で何も考えず、ぼおっとする。実に贅沢な時間の使い方をしている気がする。その後、Café du Monde。3回目。ここのコーヒーは今ひとつだが、ベニエはやはり美味しい。

三人組の男性が、無言のパフォーマンスを路上でやっていた。コミックものらしく、かなり集まった観客たちから笑い声と喝采を浴びている。彼らの後ろを通ると、日本人であると見て取ったのか、3人組のうち一人がこちらに向けて面白おかしくペコペコお辞儀する。もちろんこちらも彼のコミカルな動きを真似てペコペコお辞儀する。観客から拍手と笑い声を浴びて、気持ちがほぐれる。

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夜、またバーボン通りを歩く。
適当にbarに入ったり、人々を観察しているだけでも面白い。



いよいよニューオーリンズ最後の夜だ。

何度も通ったCanal St.もこれが見納め。

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2004年05月23日(日) ニューオーリンズ旅行記(4):ガーデンディストリクト訪問



早朝5時くらいに眼が覚める。旅に出ると、決まって活動開始時間が早くなる。さっぱりした寝具のおかげで目覚めは快適。旅行記のための備忘録を書いたり、本日の目的地について少し下調べをしたりしてから、コーヒーを飲んでホテルを出る。

友人が薦めてくれたMother’sで朝食。ここは南部の典型的な家庭料理を食べさせるレストランで、古くから有名人が訪れている。小汚い食堂といった風情ではあるが、料理は確かにいける。ソーセージが美味。グリッツというコーンのおかゆのようなものも初体験。



そこからSt. Charles Street Carでガーデンディストリクトと呼ばれるアップタウンの高級住宅地を歩く。南部の古きよき時代を忍ばせるような豪奢な邸宅が今も維持されていることに感嘆する。







ラファイエット墓地まで歩くと、Brennan氏のコマンダーズ・プレイスという有名レストランが見えてくる。ライトブルーのペンキで塗られ、ライトブルーと白のストライプのビニールの雨よけという信じがたいほど安っぽい外観。しかし、黒塗りのリムジンが何台も店の前に停車し、正装の男女が次々に店に入っていく。

にわか雨。Street Carで終点まで。終点で小銭がないことに気づく。このストリートカーは、ちょうどの金額でないと受け付けない。5ドルしかないのだが、と言って乗り込むと、車掌が「だれかこの人のために崩せる人はいないか」と聞いてくれる。親切な年配の黒人男性が、快く崩してくれる。この例に限らず、一般にニューオーリンズの住民は親切だ。サザン・ホスピタリティという言葉は、そのままここで生きている気がする。


ロヨラ大学周辺。

ストリートカーに乗っているだけでも結構楽しく時間を過ごせる。やがて雨は上がり、太陽が顔を出す。そして終点のCanal Streetへ。一度ホテルに戻り、一休みする。

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夜、Acme Oyster Houseで生牡蠣を食する。美味。


プリザベーション・ホール再び。最後まで粘り、受付の女性に色々聞く。前回に気になったソプラノ・サックスのプレイヤーの名前を聞いたところ、Mr. Goetheであるとの返事。予想通り、フランス人だった。






2004年05月22日(土) ニューオーリンズ旅行記(3):フレンチ・クオーター散策

友人たちはサンアントニオに去り、今日は一人でフレンチ・クオーター散策と決め込む。

Court of Two Sistersへ。午後1時からの予約を取り、それまでぶらぶらすることに。ここはジャズの生演奏を聴きながら食事を取ることができる店で、Royal Streetでは一番伝統があり、有名な店のひとつ。しかし、自ら店の看板に”Historical and famous”と書くのはどうかと思う。店の前でパフォーマンスをやっていた。


写真では判りにくいが、彼はこの姿勢をずっと維持している。そして視線も口も固定したまま、観客に喋りかける。

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海賊ジャン・ラフィットが隠れ蓑として経営していたという鍛冶屋を目指す。ここは現在は古びたままの姿でbarとして運営されている。灯りすら電気を使っていないとのこと。





そのあと、ボールガール・カイズハウス、ウルスラ修道院、などを巡る。午前中だというのに、既に蒸し暑い。日差しも強く、帽子を持ってこなかったことを後悔する。街を歩く人は少ない。いつもの街歩きの速度で、アイアン・レースのある洒落た家々を見て回る。瀟洒な家ばかりではなく、寂れた外観の家も見て歩くのが楽しい。

その後フレンチマーケットへ。本来はチョクトー族のトレーディング・ポスト(交易所)だったマーケットは、現在はほとんど観光客向けの市場になっている。それでも結構な賑わいを見せている。



マーケットを抜けて、リバーフロント・ストリートカーに乗る。ここでブラジルから来たという若い夫婦と話す。この夏にサンパウロの友人を訪ねて行くかもしれないという話をしたり、写真を取り合ったり。


Court of Two Sistersのパティオ

Court of Two Sistersで昼食。バフェイ形式なので、一人で行くのにはあまり適していないかもしれない。味の方は、総じて高い水準にあるニューオーリンズにしてはいまいち。しかし、パティオで木漏れ日の中ジャズを聞きながらの食事は、雰囲気としては素晴らしい。

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その後、ジャクソン広場の大聖堂脇のPirate’s Alleyという細い道を通り、フォークナー・ハウスへ。かつてフォークナーがここに住み、初めての小説を書き上げたといわれる。


現在は書店になっている。

夜までぶらぶら。長く滞在するのに適した静かで落ち着ける喫茶店を探してみたりして日が暮れる。日が暮れると、またバーボン・ストリートへ。



夜は更けゆく。

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2004年05月21日(金) ニューオーリンズ旅行記(2):ブレナンズで朝食を


オークアレイ・プランテーションにて

昨晩の約束どおり、早起きしてBrennan’sで友人たちと朝食を取ることにする。Brennan’sは、1946年創業のクレオールとフレンチのレストランである。故ブレナン氏は、全米的に有名な料理人で、このレストランが発祥となった料理は数多い。そのひとつが、半分に切ったバナナにブラウンシュガーを加えバナナリキュールでフランベしたバナナ・フォスターである。

サーブしてくれるウエイターの対応が非常に親身で良い。運転する予定があるので、アイ・オープナー(目覚めの一杯)は取らず、サザンブレックファストのセットメニューのみ。デザートとしてバナナ・フォスターを選択。観光客にありがちなチョイスであるが、事実観光客なのだから仕方がない。

料理、サービスともに素晴らしい。アメリカの料理は一般に不味いが、ニューオーリンズは例外である、と誰もが言う。アメリカでもっとも料理の美味しい場所であるという評判に間違いはなかったと実感。バナナ・フォスターは、目の前で調理を実演してくれる。フランベされると青い炎がたち、香ばしい匂いがあたりに漂う。


Bananas Forester

充実した気分で店を出る。実際、満腹になり、夜まで全く空腹を感じなかった。

その後、レンタカーを手配し、リバーロード沿いにミシシッピ川を遡る。プランテーションをいくつか回るためだ。リバーロードに降りてしまうと交通量は少なく、曲がりくねる道を快適に走る。

リバーロード沿いに最初に目に付いたLa Blancheというプランテーションに入ろうとするも、Privateなプランテーションなので、事前の許可がないとだめと言われてあきらめる。友人が受付と話をしているうちに猫が一匹出てきて、いきなり甘え始めるので、少し遊んでやる。



次に、フレンチ・クオーターから最も近い(といっても一時間くらいはかかる)公開されているプランテーションであるデストレハンへ。受付を済ませると、まず20分ほどプランテーションの歴史を解説したビデオを見せられる。その後、ガイドの女性がサザンベルという当時の衣装を着て現れる。かなりしっかりとした教育的配慮に満ちたガイドツアーで、1時間半くらいは時間を取られるのを覚悟して行かれたほうが良い。





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リバーロードを遡っていくと、周りに何もない場所に裁判所と鄙びた感じの商店があるのが目に付いたので車を止めてみる。裁判所では、ちょうど出てきた女性の弁護士に色々話をうかがう。この女性の英語は、南部訛りはあるもののまだ聞きやすいほうだった。それでも、我々3人とも意思疎通が難しく感じられたことには変わりない。



ニューオーリンズに来て驚いたのは、本当にこちらの英語が通じない(あるいは言っていることが判らない)ということだ。私のスピーキング/リスニング能力の問題もあろうが、友人たちも同様に感じたということは、南部の訛りがよほど聞きにくいものなのだろう。なにしろ、ニューオーリンズが「ノーリン」という発音になってしまうくらいだ。その弁護士は、辛抱強く色々親切に説明してくれ、帰りの道はここではなく別ルートの方が早いということまで教えられる。意外だったのは、フレンチ・クオーターのホテルに泊まっていると話したとき、「フレンチ・クオーターは本当に危険な場所だから、くれぐれも気をつけて」と何度も言われたことだった。

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その後、本日の目玉であるオークアレイというプランテーションへ。ここは、名の通り、巨大なオーク(樫)の木の並木のある小道が有名である。ここでもサザンベルを着た年配の女性がガイドしてくれる。

オークの並木の小道は独特の様式の建物に続いている。バルコニーが広いのは、陽射しを遮り、室内を涼しく保つためらしい。ベンチでくつろぐ。結婚式の予行演習をしているらしく、ウェディングドレスを着た女性がポーズをつけてもらっている。




オークの木陰で遊ぶ少女

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帰りは、例の女性弁護士に教えられた道を行ってみる。どこまでも続く一本道に、ところどころ車に轢かれたwild kill(野生動物の死骸)が落ちている。ほとんどはラクーンのようだが、中には小型のアリゲーターらしき死骸もあった。

バトンルージュ方面から市内に到る道は、かなりわかりにくい。アメリカの道路を走っていていつも思うのは、標識が極めて不親切ということだ。いくら地図を頭に入れていたとしても、標識を見ると混乱する。一見すると矛盾するような/ミスリーディングな標識も多い。散々迷って、何とかフレンチ・クオーターへ戻る。既にAvisの営業時間は過ぎており、車の返却は明日にすることに決める。

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夕食は、昨日予約を入れておいたNOLAへ。NOLAという名前は、New Orleans Louisianaを意味する。ここは、アメリカの料理番組で頻繁に出場するカリスマシェフ、Emerilの店で、料理はヌーベル・クレオールというジャンルであるとのこと。サーバの女性は非常に気さくで、料理の紹介も楽しめた。



Sea Scallopのappetizerが最高。ソースが深い味で、一口食べて未体験ゾーンにいきなり連れ込まれたような感じがした。一皿の料理に傾向の異なる2種類のソースをさりげなく使ってあって、そのひとつはフルーツベースなのにケイジャンスパイス入りというもの。それぞれの味が絶妙に調和していて、喧嘩してないのが不思議だ。カリスマシェフの店であるにもかかわらず、値段もリーズナブルだし、サービスも行き届いているし、完全に虜になった。

(追記)帰宅してから、フィラデルフィアにもNOLAという店があることを発見。ここもケイジャン料理を標榜しているが、よく見るとクレオール&イタリアンと書いてあるので、全く別の店であると思われる。

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2004年05月20日(木) ニューオーリンズ旅行記(1):空路、ニューオーリンズへ。


Decatur Street

空路、ニューオーリンズへ。ニューオーリンズは日本人観光客にはあまり馴染みがないが、米国ではポピュラーである。米国滞在中に一度は訪れたいと願う場所のひとつであった。

ルイジアナ州ニューオーリンズは、アメリカ南部を代表する都市のひとつで、人口は約48万5000人。いわずと知れたジャズの聖地である。ルイ・アームストロングがここで育ち、その後のジャズの歴史を変えたことが、この街をいまだに有名にしている。日暮れとともに、どこからともなく正統派のジャズが聞こえてくるという街だ。アマチュアのジャズ・プレイヤーも街角に立って演奏している。ジャズのみならず、ブルースやロック、それにZydeco(ザイデコウ)と呼ばれるルイジアナの音楽が通りのあちこちにあるBarやレストランから流れ始める。

***

ルイ・アームストロング空港に降り立った瞬間から、熱気と湿気が襲う。蒸し暑い東京の夏に近い。ここで、係員の訛りが強い英語に閉口しながら何とかシャトルバスに乗り、フレンチ・クオーターの西端に位置するSheraton(注)へ。

チェックインを済ませると、早速街に繰り出す。フレンチ・クオーターの中心にぶらぶらと歩を進める。歩き回っているうち、小腹が空いたのと暑さのため喉が渇いたので、ジャクソン公園近くのCafé du Mondeへ。お決まりのベニエとチコリー入りのカフェオレを注文する。



Beignetとはfritterの総称であるが、このカフェでは四角いドーナツを意味する。ドーナツ自体は甘くない。粉砂糖が揚げたてのドーナツに絶妙にからんで美味しい。Café du Mondeのメニューはこれとコーヒーだけ。日本にも支店があるらしいが、行ったことのある友人は、味が全く違うと言っていたことを付け加えておく。

一足先に来ている友人たちと電話で連絡を取り合い、夕食をともにすることに決める。

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夕方、友人たちと再会。友人たちは昨日ここに来て、既にこの街を見て回っている。この街にかなりの期待を抱いている私を気遣ってか、「フレンチ・クオーターは意外に狭く、数時間で回れてしまう。街の雰囲気は洗練されておらず、shabbyと思われるかもしれないので心するように。」と予告しておいてくれた。実際には、私の期待は裏切られることはなかったが、彼らの作戦が意識下で効を奏したのかもしれない。

ジャクソン公園の脇を抜け、セントルイス大聖堂の脇の細い道を通り、いよいよバーボン・ストリート(注)へ。まだ日没前ということもあって、それほど混雑はしていない。プリザベーション・ホールはまだ閉まっている。


オープン前のPresavation Hall

ここには夜に来ることに決め、いくつかのレストランの様子を伺う。最終的にMr. B’s Bistroに決める。ここは、ニューオーリンズの有名な料理人であるBrennan氏の系列のレストランである。日曜日のサンデー・ジャズ・ブランチが有名であるとのことである。ここではクレオール料理が「洗練」された形で提供される。いわば、アメリカ人向けにアレンジしたクレオール料理といったところか。それなりに美味しくはあるが、やや味が濃い。しかし、Brennan’sの秘伝のレシピで作ったというブレッド・プディングは、一口食べて感動した。まず、甘くない。次に、微妙で複雑な味わいを理解する人間が作っていることが明らかである。一皿しか頼まなかったが、3人であっという間に平らげてしまった。



デザートに満足して、通りに出るとすでにあたりは暗い。バーボン・ストリートのネオンサインの数々が、夜はこれからであることを示唆している。まず、お決まりのプリザベーション・ホールへ。プリザベーション・ホールは、もともとギャラリーであった古い建物をそのままジャズの保存という目的で使っている。ニューオーリンズのシンボルであり、ここを訪れない観光客はいない。ここがあるから、ニューオーリンズがアメリカ人に人気の観光地たりえていると言っても過言ではない。毎夜、クラシックなジャズのセッションが開かれている。30分ごとの入れ替え制ではあるが、一人5ドルで何時までも聴いていられる。

中は薄暗く、狭い。その上、汚い。だが、またそれが味わいを深める結果にもなっている。座席は20人も座れば一杯になってしまう。にも関わらず常に行列ができているから、みな地面に直接座るか、壁際やホールの後ろの方に立って聴いている。



曲は、基本的にはその日のバンドマスターのチョイスであるが、リクエストも受け付けている。スタンダード・ナンバーが2ドル、その他は5ドル。ただし、The Saintは、リクエストされすぎて弾き飽きたから、という理由で10ドルとなっている。

演奏は、トランペットがリードし、それぞれのソロのインプロヴィゼーションが入り、トランペットの演奏者が歌うという典型的なスタイル。客を楽しませることを忘れない。ルイ・アームストロングのスタイルである。いずれのプレイヤーも(一部を除き)レベルが高い。特に凄いと思ったのは、ソプラノ・サックスのフランス人の親爺さん。(名前聞き取れず。)インプロヴィゼーションでは、独創的でメロディアスなフレーズをどんどん繰り出す。観客の拍手も一際大きかったような気がする。


Maison de Bourbonで

その後、近くのMaison de Bourbonというジャズ・バーへ。非常に混雑していて、外で演奏を聞いている客もいる。遅くまで酒を飲み、ジャズを聴き、深夜にホテルに戻る。

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(注)フレンチ・クオーターと呼ばれるダウンタウンの一画にある特に有名な通り。ジャズ・バーやレストラン、キャバレーや土産物屋が密集しており、夜ともなれば人で溢れかえる。ちなみに、バーボンという酒が名前の由来ではなく、ブルボン家が由来である。フレンチ・クオーターの通りの名前には、Conti、Chartres、Burgundy、Orleansなどフランスの名家にちなむものが多い。Rue Contiなどと呼ぶ。
(注)ここのSheratonは、非常に豪華な作りのホテルである。受付も感じが良く、部屋のリクエストにも応えてくれる。6日間も滞在するのだから、ホテルは重要であるが、ここは良かった。何よりシーツと枕の感触が最高に良い。

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2004年05月17日(月) これが最後の卒業式


東京大学に入学した18歳のころ、自分が東京から遠く離れたフィラデルフィアの地で、ガウンを着てキャップを被っている姿は想像すらできなかった。ましてや、Master of Lawの修士号を受けるなど、馬鹿げた御伽噺だった。18歳の自分に、誰かが「お前はフランスに文学研究のため留学することはなく、アメリカで法律の修士号を受けることになる」と告げたとしたら、ありえない話として一蹴しただろう。

が、現実に、こうやって一年間の苦楽をともにした学友たちと、Academy of Musicの壇上に上がり、自分の名が呼ばれるのを待っている。

もちろん、これは、ステップのひとつに過ぎない。これから何をしていき、何を積み重ねるのかが大切だ。そして最終的に、日本という国のために、そこに住む人々のために、微力ながら何が自分にできるのかが問題だ。しかし、今は、教授に、LLMの学友たちに、事務所の先輩後輩に、かけがえのない友人たちに、支えてくれた家族に、そしてさまざまな形でお世話になった多くの人々に、ただただ感謝を捧げたい。

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2004年05月14日(金) 西海岸旅行記:旅の終わり


最終日は、朝早くからガスステーションに行く。ガソリンを満タンにしてレンタカーを返却する。のんびり支度をし、食事をしてからホテルをチェックアウト。空港までのタクシーを拾い、フィラデルフィアへの空路に。3時間の時差もあって、夜に空港に着く。ペンシルバニア州―ニューヨーク州―オハイオ州―インディアナ州―イリノイ州―アイオワ州―ネブラスカ州―コロラド州―ユタ州―ネヴァダ州―カリフォルニア州―ネヴァダ州―ユタ州―コロラド州―ニューメキシコ州―アリゾナ州―ネヴァダ州という大陸横断の旅は、こうして終わった。

今回の旅行は、かつてないほど充実したものであった。普段会えない友人たちにも会うことができたし、旅先で様々な出会いもあった。大陸の広大さと自然の雄大さを肌で感じることができた、という紋切り型の台詞を吐くことも、今ならできそうな気がする。

明後日は、卒業式である。胸を張って参加してこよう。

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2004年05月13日(木) 西海岸旅行記:Valley of Fire/荒野を走る


Elephant Rock at Valley of Fire

朝早く起床。シャワーを浴びて行動開始。まずホテルのコンシェルジュに電話してレンタカーオフィスの所在を確認。オフィスに赴いて、適当な車種と保険を選択。ホテルのValet Parkingでピックアップできるとのことであるので、連絡を取って友人たちと落ち合い、ピックアップに向かう。しかし、ホテルが広すぎて指定された場所に辿り着けない。ようやくValet Parkingに着いたが、ここは違うとの返事。同じホテル内に別系統のParkingがあるようだ。道順を教わってそこに向かうが果てしなく歩かされる。見知らぬ土地でのドライブで迷うなら話は判るが、ドライブ出発前にホテルの中で迷うというのはシュールな事態である。

30分ほどの探索ののち、ようやく該当のparkingを発見し、係員に車を持ってきてもらう。チップを渡し、乗り込む。車自体は大きめの車種を選んだので、快適である。Stripと呼ばれる目抜き通りからI-15 Northに乗り、加速する。



Valley of Fireの看板を見て右折。NV-169 East。ここからは、砂漠の一本道だ。ナバホ族の経営するストアに立ち寄り、軽く飲み物を買う。なぜか花火が大量に売っている(注)。小さなCasinoが併設されていることにある種の感慨を覚える。後に、ここでもう少し水と食料を買っておかなかったことを後悔する羽目になるが、それは後述する。

そのストアからは何もない道をひた走る。家もなく、典型的な西部の無人の荒野である。対向車もほとんどない。その一本の道を、時速90マイルくらいで飛ばす。車も、予想より加速性能が良く、アクセルを踏み込んでもちゃんと反応してくれる。いつもより快活になっている自分に気づく。20分ほど車を走らせると、目的の場所に到着。



Valley of Fire州立公園は、観光客にはそれほどポピュラーではない。ラスベガスから約1時間強という至便な場所にも拘わらず、他に見るべき場所がありすぎるのが原因であろう。我々も、Rock Artを除き、期待はあまりしていなかった。しかし、いくつもの不思議な造形の景観を眼にするにつれ、これは「当たり」かもしれないと思い始めた。

観光客は少ない。静かである。我々が沈黙すれば、ほとんど何も聞こえない。陽射しは強いが、乾燥しているためか、岩陰に入ると涼しささえ感じる。空は果てしなく青く、はるか上空を飛ぶ戦闘機の機影と、時折ブルーインパルスの訓練機が残す白いスモークの軌跡が見えるものの全てだ。一日を費やして、全てのポイントを見ることに決めた。

まずは、写真を。







主要な目的であるrock artを見ることができるポイントはいくつかある。そのうちのひとつが、Mouse's Tankと呼ばれるトレイル・ポイントである。Rock artは、4000年ほど前のものからAD1400年代のものまで色々あるが、ここのRock Artは相当古い部類に属するらしい。帽子をかぶり、ペットボトルの水を持ち、トレイルを歩く。足元は細かく白い砂で、やや歩きにくい。

看板には、ここはネイティブ・アメリカンが立てこもって英国軍を悩ませたことで知られているとある。なるほど、急峻な岩山の頂上から弓矢を持ったアナサジ・インディアン(注)が現れてもおかしくない雰囲気である。

肝心のrock artは、期待を裏切らないものだった。黒く変色した岩の斜面に、いくつもの人間、ヘビ、太陽、シャーマンなどの原始的形象が独特の配置で書かれている。不思議なことに書かれている斜面は方角が決まっており、日陰になる西側には一切書かれていない。





このトレイルの入り口付近でハミングバードに遭遇。蝶くらいの大きさの鳥が空中で静止しているのを目撃する。このほか、砂漠特有の動物にもあうことができた。小さなリザード(とかげ)は多い。カラフルな緑色である。トレイルから少し外れた、人があまり入り込まないだろうと思われる高い斜面に足を踏み入れたとき、岩の間に居た20センチはあろうかと思われるつがいのリザードと眼が合ったときは心が震えた。ちなみに、この斜面には、rock artに適する黒い表面の岩が多くあったのに、何一つ書かれていない。ひょっとすると、rock artが書かれた遠い昔には、立ち入りを禁じられている場所だったのかもしれない。その斜面の上からの景色は素晴らしかったが、何か禁忌を犯しているような気分になった。

***

ポイントめぐりをしているうちに、水が乏しくなる。ビジターセンターでは、水も食料も売っていない。水や食料の手に入る最も近い街まで車で20分から30分くらいかかる。喉が非常に渇く上、トレイルで体力を消耗するので、非常に難儀した。これからこられる方は、水は多めに、何がしかの食料も買い込んでおいた方がよいだろう。

やがて、全てのポイントを制覇し、余りの空腹に耐えかねて、近くの村へ。ここもナバホの村であるが、マクドナルドがあったので入る。その後、レイク・ミードへ立ち寄るが、日が暮れ始める。街灯など灯りは一切ないので、完全に日が暮れてしまうと道が見えなくなる。日没と競争でValley of Fireの道をひた走る。ほとんど車は見当たらない。時速100マイルくらいで日没間際の奇岩が立ち並ぶ、無人の荒野の中を走り抜ける。素晴らしい体験。



最初に立ち寄ったストアが見えてきたとき、完全に日が暮れた。

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ラスベガスに戻ってからは、食事をし、ラスベガスで最も高いストラトスフィア・タワーに上ったりというごく普通の観光。ちなみにこのタワーの上には3台の絶叫マシンがある。もちろん、気の小さい私は試さなかった。



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(注)アナサジ・インディアンについては、こちらのページに概説的な説明がある。ナバホについては、ここが詳しい。

(注)後で聞いた話であるが、ナバホ族はfireworksが好きな人が多いらしい。






2004年05月12日(水) 西海岸旅行記:モニュメント・ヴァレー/砂嵐によりデジカメ故障


(前日からの続き)
砂嵐の影響で、ホテルのロビーも砂っぽい。乾燥した砂の摩擦により、空気が帯電しやすくなっているらしく、金属に触れると必ず静電気を感じる。砂嵐の中、好奇心からデジカメを持って外に出てみる。もちろん、コンタクトを外し、濡らしたハンドタオルを持って。



日暮れ近くなって、ガイドから連絡が入る。どうやら砂嵐が収まってきたので、今から急いで行きましょうとのこと。愛用のデジカメだけをとりあえず持って出かける。

どこまでも一直線に続く道路を走る。日暮れが迫る。現地に着くと、砂嵐など影も形もない。車で悪路を通り、日暮れと競争するように進む。モニュメント・ヴァレーは煙草のマルボロのTVコマーシャルで有名であるが、もとはといえばジョン・フォード監督が「駅馬車」を撮影した場所として有名になった場所である。今や、アメリカ西部を代表する光景のひとつとなっている。そのジョン・フォードが愛したというポイント、ジョン・フォード・ポイントでついに日が暮れてしまった。





透き通った風が心地よい。不思議なほどの静寂があたりを包んでいる。見渡す限り、我々以外には誰も居ない荒野だ。

再びKayentaの街に戻る。この街は数年前までは何もない街で、数年前に街で初めての信号が設置された。そのとき、ナバホの人々が集まって、伝統的な衣装に身を包み、「信号ができたお祭り」をしたそうだ。遠くに住んでいるナバホの人々も集まってきて、それは盛大な祭りであったとのこと。

***

翌朝、モニュメント・ヴァレーの日の出を見る。夏だというのにかなり寒い。残念ながら、太陽の方角が少し曇っている。

撮影のためカメラを取り出して電源を入れるが、電源が入っていることを示すLEDは点灯するものの液晶画面が正常に表示されない。それでも何とか撮影だけはできるだろうと思ってシャッターを切るも、作動しない。どうやら砂嵐はここにも深刻な影響を残したようだ。液晶部分だけでなく、本体も完全に動作しない。しばらく試した後、回復が不可能なことを悟る。

3年近く愛用したデジタルカメラ(Exilim S-1)が壊れたことはかなりのショックだった。念のため、もう一台Exilim S-3という比較的新しいカメラを持ってきているが、こちらのカメラは、レンズが暗く、シャッター速度が遅いため、手ぶれしやすい。そのため、夜間撮影に適さず、撮影場面が限定される。画素数が2倍以上多いにもかかわらずほとんど使っていないのはそのためである。思えば、S-1は画素数が1.2メガピクセルしかない初代の古いモデルではあるが、色彩、レンズの明るさ、立ち上がりの早さ、携帯性の高さ、バッテリの持ち、のいずれの要素も満たす、素晴らしいカメラだった。旅先で頻繁に人から聞かれたのが、「そのクールなカメラはどこの製品か」「どこで、いくらで買えるのか」ということだった。そのたびにこれは日本のカシオというMakeで今買うと200ドルくらいだ、と胸を張って答えていた。日本のメーカーの高性能な製品を、自信を持って薦められるのは、日本人として誇らしかった。様々な想い出が頭の中で渦を巻く。





愛用のカメラ故障のショックもあって、日の出の写真はそれほど美しく撮影できなかった。この後撮影した写真が、いずれもあまりピンと来ないのは、そのためである。如何に自分がカメラの性能に依存していたかが判った出来事だった。

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El Tovarフロント付近

その後、そのままグランド・キャニオン国立公園へ。グランド・キャニオンは二回目ということもあって関心も薄く、割愛。名ホテルと言われるエル・トバルに立ち寄ったことと、コンドルが飛行する雄姿を目撃したことが印象に残るのみ。



グランド・キャニオンを楽しむなら、2、3泊はして谷底トレッキングをするべきだと思う。今回は日程の都合上、そこまではできなかったが、いつかやってみたい。

***

帰り道にルート66の名所、セリグマンに立ち寄る。ルート66はアメリカの古いTVドラマで有名な場所だ。年に一度、この街でクラシック・カー愛好家によるパレードが行われるというが、普段は静かな場所である。静かというより、むしろ寂れているというべきかもしれない。以前は床屋だったみやげ物屋に立ち寄る。



この寂れた雰囲気は味わいがある。観光客も我々以外誰もいない。





911以降、急速にここを訪れる観光客は減少しているとのこと。女主人がほぼ完璧な発音の日本語で挨拶をしてくれるところを見ると、以前は日本人観光客が多かったのだろう。床屋だった部屋の壁一面にここを訪れた人々のビジネスカードが貼ってあるが、日本人と思しき名刺が結構あった。



***

帰りの車の中で、ラスベガスの観光ビジネスの現状と未来についてガイドと雑談する。ナバホのピクトグラフ(絵文字)や岩絵に興味を持ったので聞いてみる。これは、NYCで現代美術史を研究する友人が、ナバホの砂絵に関心を示していたことに影響を受けたためもあるが、ザイオンのビジターセンターで原始的で力強い絵に惹かれて購入したRock Artsという本に、いくつもの魅力的な岩絵が載っていたことによるところが大きい。ガイドによると、ラスベガスからほど近いValley of Fire州立公園で、Rock Artを多数見ることができるとのこと。明日、早速行ってみることを決意する。


帰途の車窓より

ラスベガスに戻り、ホテルにチェックインする際、携帯電話に着信があることに気づく。ちょうど同じ時期に、ラスベガスに来ている友人からだった。明日Valley of FireにRock Artsを見に行くことを話すと、特に明日はプランが無いとのこと。私の運転するレンタカーに同乗することに。少しカシノに行ってスロットマシンをするが、あまり勝てそうにないので、早々に切り上げる。明朝も早い。
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2004年05月11日(火) 西海岸旅行記:印象的な出会い/忘れえぬアンテロープ


翌朝、早朝5時にお願いしたはずのモーニングコールが何故か来ず、ガイドに文字通り叩き起こされる羽目になる。慌てて着替えて飛び出す。ブライス・キャニオンのSun Riseが見れるか微妙な時間になってしまう。


何とか間に合った。期待通りの素晴らしい光景。早朝の太陽光線による、hoodoosの微妙な色彩の変化が美しい。



ナバホ・トレイルと呼ばれるトレッキングポイントに行く。道が幾重にもカーブしていて、なかなか楽しい。見上げると、早朝の空が赤いhoodoosと絶妙のコントラストを成している。



ナバホ・トレイルからの帰り途、朝日を拝んでいるリス君に出会う。こちらが近づいても逃げるでもなく、ただただ魅入られたように太陽の方角に向かっている。小さな手がまるで拝んでいるように見えるから不思議だ。



アルチュール・ランボーの「イリュミナシオン」に、「大洪水の後で」という詩がある。その中で、ウサギが虹にお祈りを捧げるシーンがあるが、それを思い出した。「「大洪水だ」との思いが収まるとすぐに。野うさぎは、イワオウギと揺れるツリガネソウにかかる蜘蛛の巣を透かして、朝日にお祈りを捧げた」という一節である。


彼(彼女?)はいったい何を考えているのだろう。

***

ブライス・キャニオンに別れを告げ、モニュメント・ヴァレーに向かう。途中、ガイドが旅程にないアンテロープ・キャニオンに立ち寄ることを薦めてくれる。旅に出る前に見たガイドブックの写真が頭に残っており、即座にお願いする。これが大正解の判断であったことは、すぐに判明する。

アンテロープ・キャニオンは、4州にまたがるナバホ族の居留地の中にある。特に公園に指定されているわけではない。特に宣伝されているわけでもない。ナバホ族が近くに小屋を立て、そこで入場を管理しているだけだ。これは教えてもらわなければ立ち寄れなかっただろう。

アンテロープには、UpperとLowerの二つの渓谷がある。時間帯からしてLowerが良いとのアドバイスに従って、そこに入場する。ガイドが一言二言ナバホ族の管理人にいうと、とたんに入場料が割引になった。ここは、かつて観光客が増水により死んでいる。その石碑が建っている。11人の死者の国籍を見るとほとんどスイス、フランス、ドイツの人々ばかりだ。なぜアメリカ人が居ないのか不思議に思うが、後でその理由は判明する。


入り口?

近くに来ても、いったいどこに渓谷があるのか判らない。ここだ、ここから入る、とナバホ族の若者に指差されるが、余りにも細く、人が入れるスペースがあるのか、と半信半疑。恐る恐る細い階段を降り始める。



アンテロープ・キャニオンの中に入って唖然とする。谷底は、きわめて狭いが、滑らかな曲線で構成された壁がどこまでも続いている。自然の造形とは思えない、まるで彫刻家の作品のようだ。言葉を尽くすより前に、写真を。








余りに素晴らしい光景の連続に言葉が出ない。120枚撮影できる我が愛機のデジカメのメモリーを使い切ってしまったのが惜しいくらいであった。

アンテロープの中で会う人々は、狭いので声を掛け合いながら進む。ほとんどフランス語やドイツ語で、英語は聞こえてこない。道は徐々に険しく、狭くなっていく。狭い場所は一人の片足がようやく下ろせる程度しかない。太った人は、ここは通り抜けられないかもしれない。何となく、おぼろげにアメリカ人観光客があまり入らない理由がわかるような気がしてくる。

フランス語を使っていたスイスから来たという夫婦と挨拶し、久しぶりに使うフランス語で、この先はどうなっているのか、とか、進むのが難しいかとか色々聞いてみる。その夫婦いわく、進むのはそんなに難しくはないが、行き当たりは階段になっていて、かなり急だったので引き返してきたとのこと。

***

忘れえぬ光景を引きずりながら、モニュメント・ヴァレーに最も近いKayentaの街へ向かう。ここはナバホの街である。途中から砂嵐に遭遇。初めての経験である。前が見えない。





砂嵐の吹き荒れる中、Kayenta唯一のホテルに到着する。車からホテルのロビーに行くまでのわずかな間に眼や鼻、口から耳に至るまで、細かい砂塵が入り込む。ホテルの部屋に行くと、作動中のエア・コンディショナーから砂が入りこんでいる。慌てて止めるが、砂は依然として入り込んでくるので、タオルを濡らし、吹き出し口をふさぐ。

砂嵐が酷いので、様子を見てサンセットを見るかどうか決めるとのガイドに従って、しばらく休息。コンタクトを外して無謀にも出歩いたりする。こんな街にもマクドナルドがあるのを見て感心する。

この後、日暮れ直前に砂嵐が収まるのだが、長くなったので、続きは明日。
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2004年05月10日(月) 西海岸旅行記:ザイオン国立公園/ブライス・キャニオン国立公園


早朝、ラスベガスを出発。ザイオン国立公園、ブライス・キャニオン国立公園、モニュメント・ヴァレー、ナバホ居留区を経てグランド・キャニオンという2泊3日のスケジュールである。今日は、まずザイオンを回り、ブライス・キャニオン近くのRuby’s Innという老舗ホテルで宿泊する予定。

***

全てガイド付きの車で移動する。当初は、自分でレンタカーを借りて運転して回ろうと思ったのだが、砂漠の真ん中で車が故障すると生命にかかわるだろうと思ったことから、ガイド付きのツアーを利用することにしたのだ。結果から言うと、これは正解だったといえる。やはりずっと平坦な道を運転していると眠くなるし、風景もあまり楽しめない。給油のタイミングも心配する必要がない。ガイドが知っている裏道などを利用したりして、通常では入り込めない場所に入ってみたりすることもできた。人数も少なかったことから、ある程度フレキシブルに日程を変更してもらい、途中でスケジュールに組み込まれていなかったアンテロープ・キャニオンという場所にも立ち寄ることができた。後に詳しく書くが、アンテロープ・キャニオンは、本当に素晴らしく、この旅で一番印象に残った光景のひとつとなった。

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車はネヴァダ州からユタ州へ。3時間ほど走り、ユタ州の南西部に位置するザイオン国立公園へ。

ザイオン国立公園は、日本では余り知られていないが、こちらでは誰もが知っている名所である。この国立公園の開拓にも、モルモン教徒が深く関わっている。ここをシオンの丘に擬えてZionと名づけたのも彼らである。こちらのサイトが詳しい。

ヴァージニア川の浸食が、この峡谷を作りあげたのだが、とても自然に出来たとは思えないほどの景観である。さすがにツアーなので、自分のペースに合わせて見て回るわけには行かないが、見所はおさえてくれる。

ヴァージニア川は、ここ数年の降水量の減少から、水量が乏しくなっているとのこと。そのため、Weeping Rockと名づけられたトレイル・ポイントも、以前の景観とは異なってしまっているようだ。それでも、名称の由来である涙を流すかのような岩を見ることはできた。



次のトレイル・ポイントは、ヴァージン・リバー・ナローズと呼ばれるもの。今にも崩落しそうな頭上の岩を眺めながら約30分ほどの道程を歩く。革靴で来たことをやや後悔していたが、ここは道が良いので、途中までは問題なく歩ける。野生のリスが多い。トレイルの終点、というか道の終点に到着。



本来はここからがNarrowsの始点である。しかし、5月初めは水量が多く、この先を進むには時期が良くないとのこと。夏にはここを歩いてさらに上流の方に行けるそうだ。そこはNarrowsの名の通り、かなり細い峡谷になっていて、是非見るべきポイントであるとのことである。何人かの観光客が川に入って先に進もうとしていたが、水量が多く難儀しているのを見て、引き返すことにした。



写真左側は、チェッカーボード・メサと呼ばれる岩。写真では判りにくいかもしれないが、縦横にラインが走っていて、まるでチェッカー・ボードのようであるところから名づけられたとのことである。このような縦横に走る地層は世界的にも珍しいとのこと。

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昼食後、ザイオンを離れる。車は3時間ほど砂漠の道を走り、やがて午後遅い時間にブライス・キャニオン国立公園に最も近いRuby’s Innへ到着。一度荷物を降ろし、足を伸ばして休息。車の旅は自分が運転していなくともそれなりに疲れる。自分の運転でないために、逆に余計に気疲れしてしまう。夕暮れ近くなり、ブライス・キャニオンへ。

Bryce Canyon(ブライス・キャニオン)国立公園は、同じくユタ州にある国立公園で、1924年に国立公園に指定された。砂岩が水流により侵食され、凍結し、また水流により侵食というプロセスを気の遠くなるほどの長い時にわたり繰り返して、現在のような複雑な地形を作り上げた。Hoodoosと呼ばれる塔のような岩が無数に谷底から突き立っている姿は、文章による描写に適さない。サーモンピンクのような赤い岩と白いLimestoneとが交互に織り成すhoodooは、まるで、岩の彫刻か何かのようにも見える。





個人的には、これを見るのが、このグランド・サークルと呼ばれるツアーの主たる目的であったと言っても過言ではない。非現実的な光景に、ただ眺め入る。

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2004年05月09日(日) 西海岸旅行記:ラスベガス入り


移動日。正午近く、サンフランシスコ国際空港からラスベガスに発つ。Americas Westの機体が滑走路にランディングすると、途端に機内にまで熱気が入り込む。砂漠の熱気だ。この熱さには覚えがある。Las Vegasは実に15年ぶりだ。

空港からホテルまでのタクシー・ドライバーと気が合って、色々会話をする。記憶の中にあるカシノ・シティの姿と、現在の姿を重ね合わせるが、上手くイメージが結びつかない。タクシー・ドライバーによると、この数年のラスベガスの発展はめざましく、人口がこの10年で2倍になったとか。すでに全米第5位の都市になっているということであったが、フィラデルフィアの人々が全米第5位と言っているのと矛盾するのではないかと思ってみたりもする。まあ、シカゴの人々もシカゴこそが全米第5位と言っているので、統計の取り方次第で何とでもなるのだろう。

ホテルに着くと、早速活動開始。何も下調べをしないで来ているが、ここはエンターテインメントの街。適当に過ごせるだろう。それにここを起点とした国立公園めぐりの旅が終われば、またここに戻ってくる。タクシー・ドライバーに教えてもらった安売りチケット売り場も気になるが、ショーを見るにはちょっと疲れている。のんびり歩くが、あまりに暑く、水分補給をしながらいくつかのホテルの中を通り抜ける。Bally’s、Paris、etc., etc.ホテルひとつひとつが巨大すぎて、ひとつのホテルの別の出口から出るだけでもかなりの時間がかかる。くだんのタクシー・ドライバーに言わせると、これだけ大きなホテルが乱立しているにも関わらず、客室の満室率は、平均で90%に近い数字だという。

明日からは、ザイオン国立公園、ブライス・キャニオン国立公園、モニュメント・ヴァレー、ナバホ居留区を経てグランド・キャニオンという強行日程である。朝早く出発することもあって、あまり夜更かしはできない。それでも、数ブロックは歩いてみる。夕食を食べ、いくつかのカシノを冷やかして、MGMの生きたライオンを見る。

あとは、ベガスの夜の雰囲気を楽しむ。





結局、カシノは今回ほとんど行かなかった。明日以降、買い物が自由に出来なくなるので、水や服などを少し買ったのみ。

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2004年05月08日(土) 西海岸旅行記:坂と霧のサンフランシスコ再び


今日は、当初の予定では、カーメルやモントレーに行くつもりであったが、予想よりだいぶ遠いということを聞き、休養日とすることに決定。サンフランシスコの街を散策することにする。朝早くからホテル近くのLaundromatで洗濯乾燥をして、その間にノブヒル周辺をひたすら歩く。スターバックスで簡単な朝食。久しぶりにネットに接続する。ここまでの日記をアップしようとも考えたが、まだ余韻を楽しむ時期ではない。アップは帰宅後にすることに決める。


お約束のケーブルカー。California St.の始点から終点まで乗車。

昼食にYank SingというDim Sum(飲茶)の店に行く。一口食べて、余りの美味しさに感動する。どれを食べてもハズレがない。6年ほど前に訪れた香港でも飲茶をして感動したが、この味は、ひょっとすると香港のそれを超えているかもしれない。店員の愛想、サービスもよく、片言のMandarinで話をしたり。(余談になるが、しばらくしてもここの料理の余韻が残っており、同じくSFに旅行に来ている友人に思わず電話をして、絶対に立ち寄るべきと力説してしまった。この台湾人の友人とは、後にラスベガスで会うことになるが、台湾のDim Sumのレベルと比べたうえで、やはり絶賛していた。それを聞いて我が意を得たりという気分になったことは言うまでもない。)

その後、街を散策。風が強く、少し寒い。数日前にサンフランシスコに滞在したときも風は強かった。タクシー・ドライバーに聞いたところ、ここ10日ほどかなり冷え込んでいるが、風はいつも吹いているわけではなく、時折風が強くなるときがあるとのこと。この都市の気候はmicroclimateで、一日のうちでもsporadicに風が強くなるとか、色々ドライバーが話しているのを聞いて、なんとなく感心する。

ひたすら街歩き。ケーブルカーに乗り、ユニオン・スクエアを始点に急斜面の坂道を上り、グレース大聖堂を見学。坂道の向こうに海が見える。



その後、ノブヒルの上にある大聖堂の近くのホテル、マークホプキンスへ。普段、Intercontinental系列をよく使うのだが、ここは予約が取れなかった。



アフタヌーン・ティにはやや遅い時間だが、最上階のラウンジでお茶をする。ハイ・ティとでもいうべきか。高所からの街並みの眺望は、素晴らしいの一言。

その後もジャパンタウンに立ち寄る。寂れた感じは否めないが、久しぶりの日本の雰囲気を味わう。日本の商品も手に入れやすい。近くのスーパーマーケットで日本の風邪薬とうがい薬を購入。サンフランシスコには日本人(または日系人)が非常に多いようで、ジャパンタウンのみならず至る所で日本人らしき人々を見かける。フィラデルフィアとはだいぶ趣が違う。ラーメン定食を食べてホテルへ戻る。

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2004年05月07日(金) 西海岸旅行記:ヨセミテ2日目/SFに帰還

ヨセミテ2日目。朝早く起床し、アワニー・ホテルで朝食。アワニー・ホテルは、日本で言えば軽井沢の万平ホテルのようなもので、アメリカ人は一生に一度はここに宿泊してみたいと思うらしい。後に聞いたガイドの説明によれば、ヨセミテ国立公園内のホテルはどこでも予約を取るのが困難だが、ここは予約が特に取るのが困難であるとの由。もちろん、今回はここに泊まっているわけではない。アワニー・ホテルの全ての建材はヨセミテ公園内の木材や石を使っている。外観は意外に素朴であるが、内部は重厚。古くはあるが、管理は行き届いている。万平や川奈あるいはエル・トバルのような伝統ある観光地の上質のホテルと共通のものを感じる。





朝食は、バフェイ形式を最近取り入れたとのことだったので、それを試してみる。メニューは典型的なアメリカのバフェイであるが、どれも美味しいし、果物も新鮮である。サービスも申し分ない。雰囲気はもちろん素晴らしい。アワニー・ホテル滞在客でなくとも食事をすることはできるので(予約なしだとランチやディナーは厳しいかもしれないが)、ヨセミテに滞在する際には、是非一度行くことをお勧めする。

その後、ヴァリー・フロア・ツアーに参加。これは、オープンバスを使ったツアーで、パーク・レンジャーが解説してくれるというもの。解説は面白い。最初に参加者がどこから来たのか聞く。アメリカ国外から来た者に挙手させるが、「テキサスを含むforeign countriesから来た人」と言って笑いを取る。テキサスは別の国、というのはアメリカ人にとって一種の典型的なジョークなのだろう。もとは別の国立公園でレンジャーをしていたという彼は、幼い頃からヨセミテのレンジャーになることを夢見てきたという。昨年9月にその夢がかなって、大好きな祖母に伝えたところ、「ああ、じゃあお前は金持ちになることはなくなったね」と言われたと苦笑いしていた。もっとも、真面目な話も多く、特にここに住んでいたインディアンを追い出した話(涙なしには語れない)や、最初の開拓者たちの話、ヨセミテを愛した研究者の話など、本格的な興味深い話をしてくれる。


エル・キャピタンの絶壁。

エル・キャピタンという断崖絶壁に挑むロッククライマーを指差しながら、ロッククライミングはヨセミテ国立公園の中でもっとも安全なスポーツであるという意外な話(トレッキングの事故が多いらしい)、どうやってロッククライマーがトイレをするのかという話(基本的にごみは全て持ち帰る。ただしエマージェンシーケースを除く。)なども聞けた。





このツアーは、ほぼくまなく車で見て回れるところは見て回るので、時間のないかたにはお勧めかもしれない。ただし、5月とはいえ、日差しが強いことと、砂塵やスギ花粉のために眼が痛くなるので、帽子とサングラスなどは必須であろう。コンタクトを常用される方は目薬も持参で。



ツアーを終えて、のんびり昼食を取り、帰りのバスへ。もう少し日程に余裕があれば、行ってみたいところがあったのだが、たった一泊の予定だったため、本格的なトレッキングは別の機会に取っておくことにする。それでも十分堪能できた。


帰りの車窓から。

バスでサンフランシスコに戻るも、なぜか不機嫌なバス運転手に間違った場所を教えられ、しかもそこが治安の悪い場所だったので憤慨する。荷物を抱え、怪しげな人々のたむろする夜の道を右往左往する羽目になった。あわてて元の場所に戻ってタクシーを拾い、事なきを得る。あんな運転手にチップを払ったことが悔やまれる。全ての運転手がそうではないと思うが、ツアーバスの運転手にはこういう性質の悪いのもいる。念のため、注意しておいたほうがよい。

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2004年05月06日(木) 西海岸旅行記:ヨセミテ国立公園へ

朝早く目を覚ますと外は霧である。名物だけあって、霧は結構深い。近くのStarBucksで昼食用のサンドイッチを買い込み、ヨセミテへのバスに乗り込む。

ヨセミテまでは、約6時間。途中でバスを乗り換えて、午後1時ころに国立公園ゲートを通過。絶景が展開し始める。景観ポイントは点在しているようで、最終目的地のヨセミテロッジまで、要所で降車して見せてくれる。

以下は写真のほんの一部。






ハーフ・ドーム。

ヨセミテロッジに到着しチェックインが終わると早速、活動開始。バスを拾って、有名なミラーレイクへ。ミラーレイクまでは簡単なトレッキングコースになっている。約1時間。道は途中まで舗装されている。渓流沿いを歩く。奥入瀬を思い出す。やがてミラーレイクに到着。ミラーレイクは、鏡のように山々の景色を反射するのでこう呼ばれている。


ミラー・レイク。

奥の方まで行こうとしたが、どこまでも続いているようであるし、足場が徐々に悪くなってきて革靴では歩くのが難しくなってくる。時間を考えて、適当なところで引き返す。帰り途、女性が車を降りて森の中で写真を撮っている。何かと思ってみると、エルク(鹿の一種)である。それも三頭。足音を忍ばせて近づき、何枚か写真を撮る。彼らはしばらくして森の奥へ消えていった。

またバスを拾い、今度はカレービレッジへ。ここからの断崖の眺めも素晴らしい。ここにも鹿が数頭居た。どうやらどこでも簡単に見られるようである。



奈良公園の鹿と異なるところは、彼らが野生であるというところだろう。どこでも見られるスクワーレル(リスの一種)にさえ、餌を上げる不逞の輩はほとんどいない。アメリカの国立公園で素晴らしいと思ったのは、人間の影響を極力減らそうとする試みが徹底しているところだ。もちろん、人間が自然の中に観光のために入っていくのであるからそれにも限度はあるが、何もしないよりましである。その意味でのマナーは、小さな子供にも行き届いている。教育の賜物だろうか。

カレービレッジでピザを食す。観光地の飯といえば競争がないために不味いものと相場は決まっているが、ここのピザは非常に美味しい。このレストランは、相当の老舗のようだ。旧式のソーダファウンテンを備えたこの店の旧い写真が飾ってあった。この付近は夜、ブラック・ベアやグリズリーが出現することもあるそうだ。付近のキャンプ場には、熊よけのための、食料品を保管する鋼鉄の箱がいくつも備えてあった。

***

夜が来る前に、一度ロッジに帰り、ヨセミテ滝の下流まで歩く。日暮れが近いためか、誰も居ない。



滝つぼに近づく。強い風。水飛沫が霧の固まりとなって襲い掛かってくるようだ。飛沫の勢いが余りに強いので、息苦しくなる。木製の橋が架かっているが、水に濡れて滑りやすそうである。誰も見ていないところで足を滑らせようものなら、まず間違いなく死ぬだろう。どちらかといえば原始的な、畏怖に近い感情を覚える。



夜は星空を見ようと思ってカメラ片手に外に出るが、ロッジの付近は照明があって見えにくい。少し待ってもう一度外に出ようと思ったが、いつの間にか寝入ってしまったようで、結局見逃してしまった。

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2004年05月05日(水) 西海岸旅行記:サンフランシスコにて友人たちと


朝早く起床。部屋のベッドが心地よかったためか、疲れは残っておらずすっきり目覚める。喉は相変わらず痛いものの、熱は下がったようだ。まだ頭の奥の方には列車から見た夕焼けの風景が残っているが、サンフランシスコの冷たい朝霧が、それを想い出の方角へと押しやる。



早速フィッシャーマンズ・ワーフまでタクシーで行き、予約してあったアルカトラズ島ツアーのチケットの交付を受ける。時間が余ったので、近くの湾から聞こえる奇妙な声の正体を確かめに行く。実は、友人のサンフランシスコ旅行記を読んでいたので、その正体はわかっている。シーライオンだ。無数のシーライオン(あしか?とど?)が、木製の筏の上で日向ぼっこしている。



どの筏にも、必ず巨体のオスが居て、そのオスは自らの力を誇示するかのように、鼻先を天高く掲げている。どうやら、それが彼のテリトリーにおける重要な仕事のようだ。あの姿勢を長時間維持するのは大変だろう。一夫多妻制のオスも楽ではない。

***



アルカトラズ島は、観光スポットなので、その紹介は余りにtouristicになる。したがって詳細は割愛。

監獄の独房に入ってみたが、あれはたとえ短時間でも精神にこたえるような気がする。ましてや、死刑と決まっている囚人が長期間監禁された日には、気が狂わない方がおかしい。



アルカトラズの3人の脱獄囚についての説明も面白かった。英語のテープガイド付きであったが、日本語のガイドがあることを知ったのは全てが終わってからだった。

ひとつ言えることは、ここに監獄が無ければ、実に居心地の良い、素晴らしい島であっただろうという事実だ。複雑に入り組んだ冷たい海流がなければ、脱出不可能な監獄という伝説は生まれなかっただろう。が、その海流は表面上は見えない。注意深く見れば、海面が数種類の色に斑に塗り分けられているのが判る程度だ。島の上空には島の歴史を知らない海鳥がゆっくりと舞い、日差しと海風が心地よい。監獄の建物外のベンチで、対岸のサンフランシスコの街を眺めながら、くつろぐ。



陸に戻り、再びフィッシャーマンズ・ワーフへ。UCバークレーに通う友人夫妻と会食。眺めが良いレストランでのんびり食事。



その後、ユニオン・スクエアに戻り、衣料品など明日からのヨセミテ旅行に備え最低限の買い物を済ませる。

夜になり、SFの法律事務所で働く同僚と食事。ベトナム風シーフード料理のCrustaceanというレストラン。二年近く会っていなかったが、会えば昨日も会っていたかのように内輪話に花を咲かせる。その後、ユニオン・スクエア近くのbarで飲みながら、SFの法律事務所の話や知財関係の話。充実。

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2004年05月04日(火) 西海岸旅行記:ゼファー号3日目/サンフランシスコ到着



深夜に列車が停まったので目を覚ますと、ちょうどソルトレイクシティに到着したところだった。

ユタ州の州都ソルトレイクシティは、モルモン教の総本山があるので有名な街だ。冬季オリンピックが開かれたことでも有名である。到着した駅は市内からは遠く、ただの仮駅舎のようだ。自動販売機と待合室のほかは、実になにもない。深夜12時なのでタクシーも停車していない。大学の寮に帰るという若者を地元民らしき人が乗せていってあげると提案している。どういう文脈か判らないが「ここで大学といえばもちろんブリガムヤング(モルモン教の創始者の名前を冠した大学)だよね」とか何とか言っているのが耳に入る。駅の周辺には本当に何もないので仕方なくプラットホームと列車を撮影する。

やがて「発車するぞ」という車掌の声が汽笛とともに響く。車内に戻る。列車はゆっくりと滑り出す。深夜で就寝している客に配慮してか、その始動は繊細で緩やかだ。一歩街を外れると、灯りもないただの砂漠が広がる。何も見えない。ベッドに潜りこみ、文章を書き始めるが、あっという間に意識を失し、眠りの底へ。

***

朝日が昇ったばかりの鉄道ターミナル。穀物を運ぶ貨物列車が停車している。列車は徐行していた。



朝起きると喉が痛い。車内は乾燥しており、送風口からの冷気は止められない。昨日余りに寒かったので文句を言ったが、あまり改善されていない。風邪を引く予感はあったが、本格的に風邪に移行しつつある。調子があまり良くないので、朝食は部屋まで運んでもらった。このあたりは結構融通が利く。



食事をして、風邪を治そうとオレンジジュースなどを大量に飲む。しばらく寝ていると午前10時頃Reno(リノ)の街に到着。リノは温泉があることもあって、古くからの保養地だ。今はカシノがあるので、それなりに栄えているのかと思いきや、風情は熱海のような感じ。心なしか降車する人もご老人が多いような気がする。




ゼファー号の車掌。

リノでしばらく停車。その後、シエラネバダ山脈に差し掛かる。この山脈を越えると、ネヴァダ州からカリフォルニア州に入ることになる。もう列車の旅も終盤だ。High-Sierraのルートについて、ボランティアのガイドによる解説が車内のスピーカーを通じて流れはじめる。この区間だけは、なぜかこのようなサービスがあるようだ。





雪解け水が流れている光景も眼にする。解説によるとこのあたりは熊が出るそうで、消防隊員が頻繁に遭遇するそうだ。写真はLake Tahoe。



ここからの光景はひたすら平原となる。砂漠よりは単調でないものの、どれも似たような牧草地が広がっている。点在する建物が、牧場の生活を忍ばせて興味深い。アメリカ人には、金を稼いで引退後、牧場をしたいという人が少なからずいると聞くが、このような光景を見ていると何となくその気持ちも判るような気がしてくるから不思議だ。



ただ、個人的には、引退後はどちらかといえば、キャンプカーでも買って旅をして暮らす方が性に合っているように思う。実際、この旅の最中、巨大なキャンピングカーを何度も見た。そのようなキャンピングカーは、小さめの車を後部に牽引しているものも多い。おそらくはひとつのキャンプサイトでしばらく住むので、小回りの利く車が必要なのだろうと推測。

***

午後5時09分にエメリヴィルに到着するはずの予定が、サンフランシスコが近くになるにつれ、州都Sacramento、Davis、Martinezの駅で理由も無く1時間くらい停車したりして、時間通りに着きそうにない。アテンダントに聞いてみるが、どこかでMakeupするから大丈夫という実にいい加減な回答。Makeup?ショートカットが可能なわけでもなし。午後5時ごろに再び聞いてみたら、後30分くらいで着くと思うとのたまう。が、どう少なく見積もってみても、あと3時間はかかりそうである。Amtrakはこれがある。ある意味悪名高い。時間は余裕を持っておいた方がいい。まあ、あれだけ広大な大陸を横断するわけだから、このくらいの誤差は仕方がないと考えるべきなのであろう。それにしてもCA州に入るまではほぼ完璧なTime Table通りの運行であったことを考えると、CAで何か問題があったのであろう。



エメリヴィルに着いたのは、結局午後8時半ころ。そこから無料のトランジットバスに乗り換えて、サンフランシスコのほぼ中心にあるユニオンスクエアそばのホテルへ。Handleryという名のホテルだが、実にcozyで良いホテルである。アメニティも結構いいものがそろっているし、シーツもピローもさっぱりして寝心地がいい。部屋を変えてもらったり、コンシェルジェに何度か無理を言ったりしたが、全て対応してくれた。

街に繰り出す気力はなく、近くで飯を食ってすぐにホテルに戻る。意外に列車の旅は疲れるものだ。久しぶりに揺れない客室で夢も見ずに睡眠を貪る。

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2004年05月03日(月) 西海岸旅行記:ゼファー号2日目/ロッキー山脈越え

6時30分に目を覚ました。朝食の時間は6時から6時半と、7時ころから8時30分ころに設定されている。食堂車に向かうが、10分遅かったね、と給仕に言われ、客室に引き返す。ベッドを直したり、荷物の整理をしたりしているうちに、コロラド州デンバーに到着。少し早く着いたようで、1時間ほど停車した。ここからは、この旅のクライマックスと言われるロッキー山脈越えだ。



デンバーを出発したあたりで食事をすることにする。食事を取っているうちにロッキー山脈に差し掛かり、列車が急角度で曲がるようになってくる。素晴らしい眺め。残念なことに食事の時間が終わってしまったので、ラウンジに行くも、既に満席。客室に戻る。コーヒーを飲みながら、何度もシャッターを切る。遠くには雪の残る高峰、近くにも時折残雪。そして渓流。赤い岩肌。テン・カーブと言われる急角度のカーブをいくつも曲がる。テン・カーブとは、鉄道の規格で列車の通過できる最大の角度のカーブを指すようだ。右に、左に、減速して曲がる。そのたびに列車の先頭と最後尾が見える。



アナウンスが流れる。「列車は、これからまもなくモフットトンネルを通過します。この鉄道トンネルは、今回の行程で最長のトンネルで、通過するのに約6分間掛かります。客室内は完全に暗くなりますので、トンネルに入ってパニックにならないように、今のうちに室内灯を点灯させておいてください。このトンネルを抜けるとWinter Parkに停車します。」

確かに長いトンネルだ。モフットというのはデンバーの実業家で、このルートを開拓した人物のようだ。車掌の解説によると、このトンネルができるまでは、さらに細かいカーブを経て山を越えるルートしかなかったようである。トンネルを抜けると予告どおりWinter Parkという安直なネーミングの駅に停車する。冬はスキーリゾートになるようで、ゲレンデにはまだ雪がかなり残っている。古びた木製のジャンプ台が雪の衣装を剥ぎ取られて物哀しい。



しばらくは山の中の光景。コーヒーを飲みつつ、写真撮影に没頭。残念ながら、窓の外側は雨風にさらされているためか、透明度が高くない。窓を開けることも出来ない。素晴らしい景観に出会うたび、窓が開けられたなら、と何度思ったことか。

***

Granbyというプラットホームだけの駅で一人降りる乗客があり、停車する。降りられるかとアテンダントと車掌に聞くが、ここは正式な駅ではなくすぐ発車するので降りられないとの返事。次はGlennwood Springsという駅なので、そこでは降りることができるとのことであった。総じてアテンダントは親切で、サービスは行き届いている。



午後Glennwood Springに到着。そこからしばらくは緑の牧草地帯が続く。いくつかの小さな街と多くの牧場や、かつて牧場であった土地を通り過ぎる。Grand Junctionのあたりで、あたりの景色が変わってくる。赤い岩肌の峡谷が姿を現す。地図をチェックすると、ちょうどアーチーズ国立公園の端のあたりのようだ。コロラド川の峡谷であることがわかる。Glennwood Canyonという名前がついている。何層にもわたって断崖が展開する景観は素晴らしい。列車からこんな光景を眺めることができるとは思ってもみなかった。







しばらくはコロラド川の浸食によってできた赤い岩肌の峡谷が続く。川ではオレンジ色のボートでラフティングをしているのが見える。

徐々に峡谷の光景は去り、車窓の反対側に白いなだらかな小山の連続が見えるようになってくる。地面は乾燥しきっており、ところどころに白い塩の結晶のようなものが見え始める。




***



やがて砂漠の夕暮れ。実に素晴らしい。

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2004年05月02日(日) 西海岸旅行記:シカゴ2日目/ゼファー号乗車



翌朝、寝不足にもかかわらずシカゴ観光のため市内を一周するバスに乗ろうと早起きする。ペン大の友人も一緒だ。カリフォルニア・ゼファー号の出発は午後2時30分なので、事実上午前中しか残された時間がない。市内を2時間ほどで回るバス・ツアーに参加。

シカゴは様々な建築様式のスカイスクレイパーが有名で、建築好きには興味深い街と聞いていたが、実際、市内観光バスのビュースポットは建築物ばかりだ。我々のバスのジョーク好きのガイドは、解説の合間にジョークを言っている時も決して笑わず、こちらが本気にしているとジョークである旨解説してくれる。整えていない長髪及び髭を生やしたこのガイドは風貌だけ見ると実に怪しいが、見掛けによらず建築について異様に詳しい。こちらはシカゴといえばフランク・ゲーリーの野外音楽場とバウハウス、ネオゴシックくらいしか知識がなかったが、図らずもポストモダン建築について色々と聞くことができたのは有用であった。



友人と昼飯を食って、再会を約し、ユニオンステーションへ。ラウンジに到着したのは出発予定時刻の1時間ほど前。寝台車は1等扱いなので、「高級」ラウンジで無料のコーヒーやソフトドリンクなどを飲みながらくつろぐことができるとアムトラックの冊子では解説されていたが、実際には調度品は普通のアパートのロビーより見劣りがするうえ、必ずしも清潔ではない。しかも、スペースが限られているとかで、荷物をチェックインせねばならず、無闇な荷物の移動を強いられる。30分前くらいに入れば十分であった。

やがて列車の番号がコールされ、長いプラットホームを移動し、指定の寝台に入る。



California Zephyr(カリフォルニア・ゼファー号)は、シカゴからサンフランシスコ近郊のエメリヴィルまでの約2,438マイル(約3,923km)の行程を約51時間で走り抜けるアムトラックの寝台列車である。シカゴ発西海岸行きの寝台列車は、California Zephyrだけでなく、他に3本ある。Empire Builderというミネアポリス経由シアトル行きの列車、Southwest Chiefというアルバカーキ経由ロスアンジェルス行きの列車、Texas Eagleというセントルイス/サンアントニオ経由ロスアンジェルス行きの列車である。いずれも人気があるが、ゼファー号はロッキー山脈を越える風景の美しさから非常に人気が高く、寝台は3ヶ月前から予約が入っている。シカゴ発なので、厳密には大陸横断鉄道とは言えない。しかし、レイクショア・リミテッド号でNYCからシカゴまで乗り継いでいるので、一応今回の旅は大陸横断と位置づけてよいと思う。

NY-シカゴ間の寝台はスタンダード寝台だったため非常に狭苦しい思いをしたが、今回はデラックス寝台だけに余裕がある。寝台を希望される方で余裕のある方は、少々高いがデラックスをお勧めする。なお、デラックス寝台はスタンダードと異なり、各コンパートメントにトイレ兼シャワールームが備え付けてある。ただし、シャワーの温度は38度に保たれていて、変えることができない。共用のシャワーも試してみたが同様。率直に言って、ぬるい。お湯の量も十分とは言えない。冬場はどうするのか心配になる。清潔さという点でも問題がないわけではないが、許容範囲。まあ、仕方がない。鉄道の旅とはそういうものだ。

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シカゴを出るとまもなくアテンダントが回ってきてディナーの予約を聞いてくる。何か質問は無いかと言われるが、すでに一晩乗っているので勝手はわかっていると返答する。

30分もすると、景色が一変する。都市から田園風景へ。田園の景色は日本の田舎と余り違わない。その畑以外になにも見えないほど広いという点を除けば。しばらくは車窓からの景色を見ていたが、友人と遅くまで飲んでいたためもあり、まもなく睡魔が襲ってくる。仮眠。

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しばらくして活動再開。午後4時頃、ためしに展望車(ラウンジカー)に行ってみる。タイミングが良かったことは後から判る。ちょうどミシシッピ川を通過するところだったのだ。ちょっとした見所のひとつに数えられている。「まもなくミシシッピリバーを通過します」というアナウンスとともに列車は徐行し始めた。人がラウンジカーに集まりだし、満席になる。赤錆びの浮く鉄橋にさしかかると、幅の広い水面が顔を出す。数艘の運搬船が実にゆっくりと河をさかのぼっている。この船は、鉄板や鋼板を運んでいるらしく、重さで喫水がかなり低くなっている。



ミシシッピリバー自体は透明度が高くなく、たいして美しいものではない。しかし、アメリカ人にとっては、この河は郷愁を誘う河である。「父なる河」という呼称が、その愛着のほどを示している。この鉄橋を渡るとイリノイ州からアイオワ州に入ることになる。

アイオワ州側ではカーギルの貨物列車のある車庫をとおりいくつかの古風な尖塔のある街に入る。そこでしばらく停車。名前も知らぬ街。



まるでゴーストタウンのようだ。人影が無い。眼に入る商店は、入り口が固く閉ざされて、人の居る気配すらない。今まで見てこなかったアメリカの側面を見るような気がした。

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やがて列車は動き出し、街を抜けて再び加速を始める。

やがて、「次はMt. Pleasant。後5分少々で到着予定」とのアナウンス。平原ばかりのこの場所を見ているので、(Mt. Pleasant?)とそのネーミングに首を傾げる。先ほどからの小雨は上がり、陽光が差してきた。到着した駅の周辺を見回しても山があるわけではない。結局駅名の謎は解けないままMt. Pleasantを後にする。



やがて夕食の時刻になる。典型的なアメリカンダイナーだが、それなりに美味い。

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平原に沈む夕陽の美しさを何に喩えるべきか。



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日が暮れて、早めにベッドに入る。窓の外は、いくつか街灯のオレンジ色の光があるほかは、なにもない。完全な闇だ。眠っている間にアイオワ州からネブラスカ州に入ったようで、深夜にオマハで目を覚ます。広告のネオンが輝く高層ビルが、遠くにいくつか見える。しかし起き上がる気力はなく、そのまま何時しか再び眠りの底へ。

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2004年05月01日(土) 西海岸旅行記:シカゴ入り

目を覚ますとまだ夜明け前である。霧のかかった湖畔を列車は走っている。名も判らない駅に差し掛かるあたりで写真を一枚だけ撮り、そのまままた寝台へ。



気がつくと既に朝食の時間である。サザンブレックファストを選択し、そうまずくない朝食に満足する。寝台は全て3食込みの料金であり、お金を払う必要はないが、金額が入ったメニューを渡されるので、それを参考にtipを置く。

列車はしばらく都市部を走り、ほぼ時刻表どおり朝9時にシカゴに到着。5月初めのシカゴは予想よりもはるかに寒い。上着を用意してあったので助かった。

シカゴでは、昔は有名であったというかなり旧いホテルにチェックイン。調子の悪かったトランクの車輪が完全にスタックしてしまったので、車輪付キャリアを買うため、近くのミシガン・アヴェニュー沿いの旅行用品店を覗いてみる。すると、店員に日本語で話しかけられる。アジア系の顔立ちではないのに、非常に発音が上手いので、どこで日本語を学んだか聞いてみる。すると、岩手県の大迫(オオハサマと発音する)という町にいて1年間英語の教師をしていたことがあるとのこと。こちらも修習で岩手県盛岡市に1年4ヶ月ほど居たことがあるので、大迫は当然知っている。しばらくローカルな話題で盛り上がる。岩手の方言で県外の人には発音が難しいとされる「なはん」という言葉を綺麗に発音していたのがなんだか微笑ましかった。


シカゴ・アート・インスティテュート前

その後、しばらく街を散策。シカゴ美術館を見学。コンテンポラリーの充実ぶりが目を引く。ちなみに写真は翌日早朝に撮影したものなので人がほとんど居ないが、普段は賑わう場所である。

次にミシガン湖沿いの高層ビルのJohn Hancock Observatoryに行き、市内からミシガン湖を一望する。


Magnificent MileのWater Tower

夜になって、落ち合う約束をしていたシカゴ大に通う友人から電話。ホテルのロビーで待っていると、驚いたことに、ペンLLMの別の友人に遭遇する。彼も、このホテルに泊まるらしい。結局、その友人も連れてシカゴ大の友人と一緒に飲みに行くことに。

深夜ホテルに戻ると、隣の部屋が騒がしい。週末の夜ということもあってか、パーティの後に部屋で盛り上がっている感じである。複数の男女の喧しい声に加えて何度も電話が鳴り響く。部屋が古く、壁も薄いようだ。うるさかったものの、疲れていたこともあってベッドに入る。朝方になってようやく何人かが去り、静かになったと思ったら、カップルが成立していたのか(行為が)始まってしまった。男の声が実にうるさいが、布団をかぶり、えいと無理やり就寝。

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