ケイケイの映画日記
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2008年09月28日(日) 「アイアンマン」




ヤク中上がりのロバート・ダウニー・ジュニアが、現役及び永遠の中坊に送る(ということは、全世代の男向けだ!)夢とロマンとオタク心満載の傑作。グヴィネス・パルトロウ演じる秘書ペッパーのような、「ほんとに・・・。私がいないとどーしよーもないんだから、この人は・・・」とガミガミ言いつつ、それを受け入れている自分が好きな女の人(含む私)もどうぞ。同じアメコミ原作の「ダークナイト」、本当に良かったんですよ。私は今でも素晴らしいと思っていますが、でもやっぱ私、こっちの方が好きかも!監督はジョン・ファブロー。

天才エンジニアのトニー・スターク(ロバート・ダウニー・ジュニア)は、巨大軍事企業のスターク社の社長で、あらゆる戦争用の武器を作っています。新型機械の売り込みにアフガニスタンに赴きますが、そこで現地のテロリストの拉致されます。同じく捕虜のインセン(ジョン・トーブ)によって命を助けられたトニーですが、胸には磁気を集める装置が組み入れられてしまいます。テロリストから最終兵器を作る事を命じられたストークは、インセンを助手に、彼らの目を盗みつつ、脱出のためのロボットスーツを作り上げます。

後から考えりゃ、何をこんなまだるっこしいことを、と思うんですが、そんなもんぶっ飛ばしたいほど、面白い!まずトニーのキャラがとってもいいです。いい歳の大金持ちの中年なのに、妻も子供も持たず、女のお尻ばっかり追いかけているチャラ男です。大量に武器を売り、戦争に使われていることに良心の呵責を感じる事も全くなく、まさに米国イチの無責任男ぶりなんですが、その姿はお茶目で、絶妙にチャーミングです。

アフガンで自分の作った武器で、たくさんの人々が死ぬのを目の当たりにしたトニーは、命からがらアメリカに帰国後、一転して今度は、一切の武器販売を止めると言い出します。もうね、大企業の社長とあろうものが、屈託なくそんなこと言っていいんかい?という問題です。それほどショックだったんですね。トニーの性格は要約すると、「こども」なのです。トニーの良い意味で大人になれない少年っぽさが現れています。

少年ぽさと言えば、ロボットスーツ!男の子は小さい時から、アニメやらおもちゃやらで、ロボットはお友達のようなもんです。自分で操作したいな、いや中に入りたいな、自在に設計したいなと、超合金のおもちゃのロボットを手に、そんな夢を抱いた人も多いでしょう。それを目の当たりにするんですから、そりゃーもう心ワクワク胸いっぱいですよ。

スーツは1号目は廃材中心なので、垢抜けなくてゴツゴツしているんですが、これはこれで味があるのだね。「独り鉄人21号」の趣です。2号目3号目と次第に垢抜けてゆき、最終的にはクールで華やかなカッコ良さです。練習場面がまた楽しい!武道やスポーツの練習に励むストイックさはなく、人工知能やロボットを相棒に、ここでもひたすらオタッキーな熱中ぶりが、微笑ましくも笑いを誘います。なので空を飛べる様になった時は、やったね!と、こっちまで嬉しくなります。

会社の重役のステイン(ジェフ・ブリッジス)の狡猾で如才ない対応、友人の軍少佐ローディ(テレンス・ハワード)の、誠実で温厚な大人ぶりも、終わってみればトニーの愛すべき大人になれないオタッキーぶりの、引き立て役だったかも?ロボットスーツは戦争終結に活躍すんのかと思いきや、派手になる一方の画とは対照的に、物語は内輪揉めっぽくどんどん矮小化へ。スケールが大きいんだか小さいんだかわかんないのですが、この反比例も面白かったです。結局オタクに世界平和の使途は、似合わないってか?

初めはアメコミヒーローに、ロバートみたいなオジサン使って、どーすんだよ?と思っていましたが、これは酸いと甘いを噛み分けられず、酸いを甘いと思いこんだ(思いたかった)ロバートだから、こんなに味わい深く観られたと思います。ジャンキーの矯正施設で過ごした彼も、トニーといっしょで、ある意味地獄からの生還者でしょう。トニーの語る「生き残ったのには、意味がある」と言うセリフは、彼の口から出ると重みが違います。

華の少ない地味さを逆手に取ったグヴィネスも、とっても良かった!こんな手のかかる男に惚れたのが運の尽き、女として見られる事よりも、掛替えの無い母ちゃんのような存在に甘んじることは、彼女のプライドでもあるんでしょう。寝る相手になって飽きられるより、恋する人の傍に長くいたいと言ういじらしい女心に、私なんかぐっと来ました。ずっと地味だったので、一度だけ見せるシックで艶やかな姿は目に焼き付くほど美しかったです。

ラストの全く大人になれない(いや、なりたくないのか?)オチには、本当に大受けしました。いや〜、やっぱり男って可愛いわ。と素直に思わせてくれる作品です。昨今のヒーローものは、作品に厚みを増すためか、ヒーローの孤独感や葛藤を織り込んだものが多く、それはそれで良いのですが、この作品のように派手にドンパチやりながら、自分の正義感にぶれない主人公も、清々しくてやっぱりいいなぁと、心から感じました。


2008年09月25日(木) 「12人の怒れる男」




有名な元作のシドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の作品は、中学生の頃テレビで観ました。1957年制作の作品で、これがアメリカのヒューマニズムというものかと、当時の私は痛く感激。同じ時くらいに「アラバマ物語」もテレビで観賞。「暴力脱獄」を観たのもこの頃だったかしら?浴びるほどたくさん観たハリウッドの秀作から、思春期の私は、正義と勇気の定義めいたものを学んだ気がします。その金字塔的な作品がルメット版でした。こんなオールドタイプのアメリカのヒューマニズム的作品を、今のロシアを舞台に、どういう作品になるのかと興味津々でしたが、これが素晴らしい出来!リメイクした意義がきちんとあり、まぎれもなく現代ロシアを映した作品になっています。監督はニキータ・ミハルコフ。陪審員の議長として、出演もしています。

ロシアの裁判所。チェチェン出身の少年が、元将校であるロシア人義父を殺したとして、裁判にかけられています。物的証拠、目撃者もいますが、少年は否定。少年が圧倒的に不利な中、12人の陪審員に判決は委ねられます。
早く済ませてしまいたい陪審員たちはほとんどが有罪を投票しますが、たった一人だけ、少年の運命を決めるのに、こんな簡単な審議でいいのかと異を唱え、無罪を投票。評決は12人一致でなければなりません。審議は振り出しに戻ります。

審議場所が学校の体育館に変更になったのが生きています。ロシア人俳優たちは皆体格が良く、元作と同じような個室なら、暑苦しくてしようがなかったでしょう。舞台的な唾が飛んできそうな熱演も、広々としたこの空間なら、観ていて充分受け入れる事が出来ます。そして杜撰なパイプの処理やすぐ落ちるブレーカー、トイレに薬物の痕跡を残す注射器が見つかるなど、ロシア社会の縮図を、そこはかとなく表現しています。

無罪を唱えた陪審員は、元作の颯爽としてハンサムで知的な、ヘンリー・フォンダのような人ではありません。おずおずと自信なさそうな様子で意義を唱える姿からは、それ故の信念と誠実さも感じさせます。そして次に無罪に投票したユダヤ系の老人の語る自分の奇跡の体験談以降、陪審員たちが皆が問わず語りに語った、自分の人生から得た体験・経験・知識を元に、有罪無罪を判断して行く様子は、とても説得力があります。

階級・年齢・職業の違いを越え、それぞれが滲ます人生のエピソードには、ロシア人として生まれついた、或いはその時代に生きたがためのものであると感じせています。時代のうねりの中で苦しみながら這いあがってきた、その人だけの哀歓と強さを感じさせ、12人全てのキャラの描き分けが出来ています。一様にロシア人と括りがちですが、当たり前ですが、違う思考であると感じさせます。それはロシアの民主化を表しているのでしょう。

討議の間に、少年がチェチェンで平和に暮らしていた様子、戦火を潜り抜けた悲惨な様子が挿入してあり、この辺の描写が秀逸。しかしむごさだけを強調せず、留置所で楽しかった子供時代に習った踊りを踊る少年からは、清廉な美しさも感じられ、それは私には彼の希望を捨てない心が表現されているように思えました。

次々と陪審員たちによって暴かれる杜撰な捜査と弁護。拝金主義に陥り、悪い意味で資本主義化しているロシアの、問題点が浮き彫りになります。自分の見たいように見ていた少年を、一人一人が我が身と置き換え審議して行く様子は、たった独りの勇気ある反対意見によって導かれたものである事に、元作と同じ「勇気と正義」を感じました。

清々しいラストで開放感をもたらしてくれると思いきや、このロシア版には重くて洒落たオチがついています。とても重大なロシアの現在の負の部分は、監督が自ら役を通して語ってくれます。全てが終わった後、「これからはニコライおじさんだ」と語る監督の言葉に、思わず自分の顔が輝くのがわかりました。今まで不本意な選択を、ロシアの人々はしてきたのではないでしょうか?これからは自分の意志で生きる、そういう強さを感じました。感動して泣くのではなく、強い心を受け取ったので、私の心も輝いたのでしょう。

体育館に紛れ込む小鳥は、少年だなとずっと思っていました。ラスト吹雪の中に自由を求めて飛び出す小鳥は、少年だけではなく、ロシアの真の民主化への風雪を感じさせます。ここでも困難がわかっていても、自由への渇望を感じます。

オールドスタイルのアメリカの正義を、ロシア的にとても上手く浄化して、硬骨なロシアの正義を見せてもらいました。リメイクとしても一つの作品として見ても、とても優れた作品だと思います。160分の長尺ですが、是非劇場で味わっていただきたい作品です。


2008年09月22日(月) 「パコと魔法の絵本」




先週の金曜日に、台風が来そうだというのに観ました(結局雨も降らず)。この作品の予告編を観て、相当引いておりましたが、監督が中島哲也ということで、いやいやながら観てきました。負ける喧嘩も行かねばならぬ男心というものが、ちょっぴり理解出来たような鑑賞前でしたが、観た後は滂沱の涙。やっぱり中島哲也は素晴らしい!

ヘンテコな洋館に住む青年(加瀬亮)の元へ、一冊の絵本が観たいと、堀米(阿部サダヲ)という老人がやってきます。堀米は亡くなった青年の大伯父に当たる大貫(役所浩司)と知り合いでした。堀米は尋ねられてもいないのに、過去の経緯を語るのでした。

ちょっと昔、変人ばかりが集まる病院に入院していた大貫は、偏屈で我がままな老人で、「お前が私を知ってるってだけで腹が立つ。気安く私の名を呼ぶな!」などど、暴言はき放題な困った患者でした。当然病院でも嫌われ者です。そんなとき、嬉しそうに「ガマ王子とザリガニ魔人」の絵本を読む、可愛いパコ(アヤカ・ウィルソン)と出会います。誤解からパコを殴った大貫は、翌日パコがそのことを覚えていないのに驚きます。パコは事故で記憶が一日しか保てないのです。後悔する大貫。思わず殴ってしまったパコの頬に手を当てると、「おじさん、昨日もパコの頬に触ったよね?」と、不思議そうに尋ねるパコ。以来悔い改めた大貫は、何とかパコの記憶に残りたいと願い、入院患者たちに、「ガマ王子とザリガニ魔人」の劇をやろうと持ちかけます

回想シーンが始まるまで、相当後悔しました。だってもぉ〜、洋館は意味無く不可思議なオブジェが散乱し、タレントの肖像画に混ざってムンクの「叫び」はあるわ、下では美しいとは言えないご婦人たちのフラダンスショーはやってるわ、ハッキリ言うと、極彩色のゴミだめみたいなわけ。しかし阿部サダオのお陰で何とか頑張ろうという気になります。極彩色のゴミだめにも負けない、唯我独尊の彼のハイテンションに救われるという、この不思議。

回想シーンになっても、画像のキャストは皆めっちゃめちゃ作り込んだ扮装と演技です。物欲の塊ナースの小池栄子なんか、絶対わかりません。大貫の扮装もリア王みたいだし、おかまの国村隼、瓶底メガネでもじゃもじゃ頭の医師・上川孝也、栄光から滑り落ちた元子役室町・妻夫木聡などなど、いつもはアクを感じない人まで、すんごいアク。でもこういう舞台的感覚の作品では、このくらい思いっきりやってくれた方が、断然作品にマッチするのですね。毒を持って毒を制すとゆーわけか。この辺から目と心が慣れてきたのか、段々と面白くなってきて、いっぱい笑います。

「クリスマス・キャロル」っぽい方向で大貫は改心していくわけなんですが、ここはあっさり改心します。そこで耳に残るのは大貫が語る「自分は独りで生きて来た」のセリフ。これ私の親父の口癖でもあるわけで。うちの親父は孤児同然でして、会社を始める時、私の母方の祖父母にお金を借りたそうです(自分じゃ言わない)。四人いた妻(私の母は三番目)が支えてくれたろう事も、商売やってて助けてくれたであろう人も、色々いたはずですが、そんなことは露ほども娘には語らず、如何に「自分は独りで生きてきたか?」と、年寄り特有の美化入り混じりで、己の人生を語る訳です。なので私は、大貫も孤児だったのではないかと想像しました。

私はこれを悪いと言っているのではありません。他に支えてくれた人を忘れてしまうほど、「親がいなかった」というのは、本当に辛いことなのだと思うのです。なので大貫を「おじさん」と呼ぶ浩一(加瀬亮 二役)はいますが、私は遠縁の子なのだと想像しました(うちの父親も一人っ子。いとこアリ)。なので記憶の事だけではなく、事故のため孤児の身の上になるパコに自分を重ね、彼女への思い入れが加速したのだと感じました。これが男の子なら、大貫は人生で初という涙は流さなかったのじゃないかなぁ。自分のように強くあれ、と思うでしょうし。

ヘンテコな患者たちにはそれぞれヘンテコな背景があり、ヘンテコなペーソスを漂わせます。それにしんみりしていると、ドリフ風のコントあり、「魅せられて」を歌うおかまの国村隼ありと、ずっとしんみりさせてはくれません。でも面白いんだなぁ。若い子はこんなのわかるのかなぁ?と思っていた時、ヤンキーナース・タマ子役の土屋アンナの室町への説教を聞き、なんと私の心の浮かんだのは、あの美空ひばり。

以前観た美空ひばりの特集番組である投書が読まれました。

集団就職で都会に出てきたが、辛いことばかりで自殺をしようと思った。そんな時いつも心の糧にしていたひばりさんの歌が流れてきた。私に自殺するな、頑張れば良い事があると励まされるような気がした。以来辛い時には彼女の映画を観て歌を聞いて、頑張ってきた。今では息子夫婦と孫に囲まれ幸せに暮している。

こんな内容でした。これを聞いた時ほど、心底美空ひばりはすごい人だと思ったことはありません。だって見ず知らずの人の自殺を思い止まらせたんですよ?きっと投書主のような人が、他にもたくさんいたのでしょう。昔はファンの人生を支えるスターが、たくさんいました。タマ子にとって室町は、彼女の美空ひばりだったんだなぁと涙していた私は、あぁここの病院の時代は、昭和なんだと初めて気づきます。トリッキーな作りなので、わかりませんでした。さっきから数々のエピソードで私が泣いて笑って流していた涙は、昭和の哀歓を見せられていたからなのですねぇ。「嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」で、父ヒロシの臭い靴の匂いで、走馬灯のようにヒロシの生い立ちが流れる時に流した涙と、似た涙でした。

阿部サダヲが歌う「人間なんて」も、「大人帝国の逆襲」の時に流れていた同じ吉田拓郎の、「今日までそして明日から」を意識したのかしら?歌詞の内容が真逆なのですね。「今日までそして明日から」からは希望が見出せ、「人間なんて」は不透明な今の時代を映し。

涙の止まらない大貫が、「私はこんな弱い人間ではなかったのに」と語ると、医師は「弱いとダメなんですか?」と問いかけます。これは前を向き勝つことだけが命題だった、昭和には無かった答えです。頑張っても報われることが少ない現代に向けての言葉だと思いました。

CGと扮装した患者たちが合体した「ガマ王子とザリガニ魔人」の場面は、非常に見応えあり。躍動感とユーモアに富んでいて、子供達は大喜びするんじゃないでしょうか?CGと生身の人間との境目もあまり感じられず、上手くつないであります。日本のCGはチャチな感じのものが多いですが、これはハリウッドのものと、遜色ない出来だったと思います。

舞台を思わすアクの強い演技で頑張るキャストの中、とにかくパコ役のアヤカ・ウィルソンが超可愛い!子どもなりの透明感を漂わせ、とても素直な演技です。「パコ、今日が誕生日なんだよ!」を聞く度、涙がボロボロ出ました。

パコの記憶に残りたいと思った大貫の心は、きっと彼の残りの人生を豊かにしたでしょうね。誰かのために何かをしたいと思う気持ちは、結局は自分の支えになるんだと、このヘンテコな人たちに教えてもらえます。予告編で引いてしまった人は、騙されたと思って観て下さい。「こどもが大人に読んであげたい物語」というのは本当です。子供たちに連れて行ってもらって、懐かしい時代の香りを嗅いで、先行き不安な今の時代を乗り切りましょう。ゲロゲ〜ロ!


2008年09月18日(木) 「おくりびと」




昨日のレディースデーに観てきました。モントリオール映画祭でグランプリ受賞で前評判もすごく高いので、万が一があってはならずと、仕事帰りにラインシネマでチケットを予約して、一旦帰宅。その後劇場に向かいましたが、予感的中。超満員で(客席100ほどですが)立ち見の出る大盛況でした。最近ラインシネマにたくさんお客さんが入って、本当〜〜〜〜に嬉しい!八尾にMOVIXが出来て以来、目に見えて観客が減っていたので、私が映画的産湯を浸かったようなこの劇場のこと(正確にいうと前身ですが)、すごく心配していました。劇場側のサービス向上や努力も感じられ、それが実を結んだのですね。でも一番は良い作品を提供することです。この作品も少しひっかるところはありますが、泣けて笑えて心に染みて、そしてとてもわかりやすい、上質の作品でした。監督は「陰陽師」などの滝田洋二郎。

チェロ奏者の大悟(本木雅弘)は、所属していた楽団の解散で、妻美香(広末涼子)と共に故郷の山形へ帰ってきます。チェロ奏者の道をあきらめた大悟は、新聞の求人チラシで見つけた会社へ面接に行きます。そこは死体を納棺する会社で、戸惑う大悟をしり目に、社長の佐々木(山崎努)は半ば強引に採用していしまいます。妻には言い出せぬまま、冠婚葬祭の会社と偽り、大悟の「納棺師」としての毎日がスタートします。

親を三人見送りながら、恥ずかしながら納棺師という仕事を知りませんでした。葬儀屋さんの仕事だと思っていました。実母・舅姑は病院で亡くなったので、看護師さんの手で、いわゆるエンゼルケアをして頂きました。なので湯灌というのは、この作品で初めて観ました。

冒頭粛々と進められる湯灌の儀を、こちらも居住まい正して観ていると、思いがけなく、声を出して笑ってしまう展開に。こうやってずっと、人の死という重たい題材を扱いながら、肩の力を抜いて、その尊厳について考えられるように作ってあります。そう言えば一族郎党集まる通夜や葬式は、泣くだけではなく、昔話に花が咲いたり笑ったり、結構賑やかなものですよね。

たくさんの納棺のシーンが出てきて、誰が死んだかによって、当たり前ですが周りの空気が全然違います。やはり孫がいるような年齢になってから亡くなる方が、なごやかな空気が漂います。それなりに長生きすることは、意味があるよなぁと感じます。

私が印象深かったのは、山田辰夫演じる男性の妻が亡くなった時の納棺です。妻は私くらいの年齢でしょうか?妻を亡くしたやり切れなさを、大悟たちにぶつける夫。しかし口紅がきっかけとなり、その思いは自分自身にぶつけるべきものだと悟ったのでしょう。もっと大切にすれば良かったとの悔恨の思いが湧いたのでしょうね。それが「今までで一番綺麗な顔だ」という、心からの感謝の言葉で表われています。他は奥さんや愛人(多分)、女の子の孫から、キスまみれにされていたお爺ちゃんの遺体が微笑ましかったです。私の想像通り愛人なら、妻といっしょに送ってもらえるなんて、すごい甲斐性だわ。

そうと言ってもやはり納棺。各々の場面で、何度か涙が止まりませんでした。場内は女性を中心に年齢層が高く、私のように身近な身内を亡くした人も多いのでしょう。当時の記憶が鮮やかに蘇りました。

段々仕事にやり甲斐を感じ始めた大悟に向かって、幼馴染み山下(杉本哲太)の心ない言葉や、予告編にも出てきた妻の無理解や「汚らわしい」の言葉が、大悟を悩まします。この辺の納棺師への偏見の強さに、ちょっと疑問が湧きます。若い美香はともかく、山下は父も見送り、葬儀の際の葬儀屋さんや納棺師の有り難さは身に染みているはず。それが町で出会った妻子に、「挨拶するな!」はないでしょう。のちのちの展開の伏線になっているのはわかりますが、この他にも訳ありの余貴美子扮する事務員女性の唐突な告白や、美香が納棺師の仕事を初めて理解する件など、ちょっと持って行き方が強引です。普通ならあの場に美香は同席させてはもらえないはず。私なら一度会ったか会わない人が、ああいう極々プライベートな場にいられたらいやです。

この辺脚本がもう少し練られていたらとも思うし、あとの展開の後味の良さを考えれば、不問にした方がいいのか、私の中で悩ましいです。

納棺の様子がとても見応えがあります。その様子は観てのお楽しみですが、とても厳かで美しいです。その様子は佐々木は力強く、大悟は優雅と個性が現れます。両方あの世への旅じたくとしては、とてもふさわしく感じます。思わず私も湯灌してもらって送って欲しいと思いました。

モックンがとってもいい。チェリストは想像するに、潰しの利かない仕事のはず。世渡りも下手そうな、でも誠実そうな大悟が、佐々木社長の口車の乗せられて、あれよあれよという間に一人前になって行く様子は、大悟の素直で純粋な性格が現れていて、良い意味で世間知らずは強いと感じさせます。チェロの演奏は吹き替えでしょうが、演奏姿は様になっていて、きっとたくさん練習したんだと思われます。

初めての強烈な死体処理に居た堪れない心地の大悟が、妻の体を求めるシーンが官能的です。夫婦のセックスは日常のことです。非日常の死を目の当たりにした大悟の戸惑いと苦しさは、妻の体を求めることで癒されたかったのでしょうね。素敵なシーンでした。

大悟がチェリストに夢を抱いたのは、チェロを弾くように指導した父への思いが、潜在的にあったと感じました。自分を捨てて行った父親を否定したい気持ちが、彼にそれを認めさせなかったのでしょう。表面的には静かでしたが、物語の中で顔の見えない父親の存在は大きく、死と表裏一体の生についても、血の繋がりを通して深く考えさせてくれます。この部分が効いているので、ラストは本当に泣かされました。子供に会いに行かないのではなく、会いに行けなかったのですね。本当は会いたくて堪らないのに、どの面下げて・・・という思いは、子供を置いて出奔した人皆が抱いている、と強く思いたいです。

出演者は全て良かったです。上に出て来ていない人では、吉行和子と笹野高史が印象深いです。広末涼子は評判悪いみたいですが、私は世間知らず同士の、素直で可愛い似たもの夫婦だと思って観ていたので、そんなに文句なかったな。良い奥さんぶりでした。

魂の器である肉体に、最後の尊厳を施す納棺師という職業を通じて、生と死、親子や夫婦の結びつき、人の縁など、人生について考えさせてくれる、肩の凝らない秀作でした。全く知らない方から、「あなたの好きな内容の充実した娯楽作とは、具体的にどういう作品ですか?」と尋ねられました。私が送った返事は、「わかり易くて面白く、様々な感情が刺激されること。平たく言えば感動です。観た後色々語れる作品ですかね?」でした。そういう作品です。


2008年09月16日(火) 「ウォンテッド」




先行上映で、夫といっしょに観てきました。ローカルシネコンである我がラインシネマで鑑賞なので、余裕で良い席が取れるだろうと小一時間前に到着すると、何と前から三列目から前しか空いてない!な、なんと!まぁ三か月前から予告編をバンバン流してましたしね、娯楽大作はこういう努力が大切と思われ。ツッコミ満載ながら、夫婦ともども大変楽しみました。監督は「ディ・ウォッチ」のロシアのティムール・ベクマンベトフ。如何にもハリウッド的な娯楽作ですが、内容の割に大味感がないのは、監督のセンスのお陰かな?

イケテない毎日を送るサラリーマンのウェスリー(ジェームズ・マカヴォイ)。仕事では嫌な上司に絡まれ、プライベートでは同棲相手が自分の同僚と浮気していて、ストレス満載な日々を送っています。鬱々としながら、自分を抑え込むため、パニック障害の薬を買いに行ったウェスリーは、そこで自分が標的にされた銃撃戦に巻き込まれます。救ってくれた謎の美女フォックス(アンジェリーナ・ジョリー)から、ある場所を紹介されます。そこは神に代わり世の中の悪人たちを暗殺する組織「フラタニティ」でした。リーダーのスローン(モーガン・フリーマン)から、彼の父が一員だったこと、彼にも他の人にはない優秀な素質を受け継いでいると教えられ、一員になる運命だと言われます。悩んだ末自分の運命を受け入れたウェスリーは、父の敵クロス(トーマス・クレッチマン)を追いかけます。

冒頭の、えっ?あなたエージェント・スミスさんですか?的アクションシーンで、「マトリックス」の亜流かとも思わせましたが、あの手の「コミックで語る哲学」っぽい雰囲気はありません。

前半は、平凡な若いサラリーマンの最大公約数的悩みに苛まれるウェスリーの描写が、非常にリアル。本当は仕事に行きたくない、恋人とも別れたい、嫌な上司や自分を小馬鹿にした同僚もぶっ飛ばしたいと思いつつ、その後どうなるかと考えると、あきらめたり先延ばしにしてしまうこと、ありますよね?この部分は共感できる人が多いと思います。ウェスリーがパニック障害だと誤解している、ストレスや緊張感がマックスになる時の描写は秀逸で、こっちまで血管が切れそうなくらい、ハァハァします。なので彼が「運命」を受け入れる時、とっても爽快感がありました。

ウェスリーの特訓場面を観て、何故R15か納得。パク・チャヌクも真っ青な流血ぶりです。でも流血観ながら笑える描写だったと思うのは、私だけか?荒唐無稽だけど、資格取ったけど実践では全然使えなかったよ、という経験がある人も多いでしょう。なので「理論より実践」がモットーの訓練ぶりには、妙に納得します。

時空が行ったり来たり、夢か幻か?もスピーディですがわかりやすく、傷を癒してくれる万能温泉(?)もあって、なかなか楽しいです。ちょい「X-MEN」を連想させるような曲がる弾丸シーン以外は、取りたてて斬新なアクションシーンはありませんが、アクションは興奮させてハラハラさせてなんぼのもん、という認識が私にはあるので、これも楽しかったです。アクション場面は観る方も動体視力が要求されるのが多く、中年の身には前から三列目は辛く、それがちょっと残念でした。

これが後半になって、盲目的な殺しの掟に疑問が生じ、幾らなんでもこれでは無茶苦茶だろうと思っていたら、これには裏がありました。ある人物が殺しのリストに上がり、その直後キーパーソンとして大物俳優テレンス・スタンプ登場で、私のもしかして?の勘は大当たり。夫はスタンプ氏を知らないので、あっ!!!と驚いたそう。なので知らない人は、顔など検索しないように。

暗殺者たちの盲目的な従いぶりは、自分は善き事をしているんだという、暴走する宗教に似たものを感じました。ここでも洗脳の怖さを感じさせます。人が人の命を決めるなど、神意外そんなことは出来ません。その手伝いをして、初めは謙虚な気持ちだったはずが、いつしか自分が神にとって代わった様な、そんな傲慢な気持ちが生まれたんでしょうね。こういうことまで考えなくてもいい作品かも知れませんが、ラスト近くに見せるフォックスたちの安息の顔には、心打たれるものが私にはありました。

「つぐない」も「ペネロピ」も見逃した私、千秋の思いで待ち焦がれたマカヴォイ君には、大変満足致しました。ヘタレ青年が必殺の殺し屋になるまでの、希薄なはずの現実感も、彼が演じることで納得感が出ます。彼の無色透明な好青年な雰囲気は変幻自在で、社会派から文芸モノ、女子好みのロマンスまでなんでも来いです。初のアクションものでも吹き替えやCGに助けられてはいるでしょうが、他のお歴々と遜色なく肩を並べています。生後間もなく別れた父恋しの描写も、母性本能をくすぐります。

母性本能と言えば、アンジー。尖がっていのは今は昔のお話。実子以外にもアジア人黒人の養子も持つなど、今や「世界の母」の彼女。目の覚めるアクションシーンや形相でライフルをぶっ放しても、強く印象に残るのは、ウェスリーを見つめる、母性溢れるまなざしです。キスシーンも愛と言うより、彼の男を上げたいがための母心のようなもの。たった一度の嘘にも、フォックスの心情が忍ばれます。自分の人生が生き生きスクリーンに跳ね返る、本当に素敵な女優になったなと、感心してしまいました。




無用に人が死に過ぎる、たった六週間であんなに凄腕になるか?など、いっぱいツッコミもありますが、それ以上に魅力的な部分がふんだんにあったので、今回は不問に致します。続編の噂がありますが、マカヴォイ君以外はキャスト一新なはずなので(そうなんですよ)、次回を予想すれば、シャーリーズ・セロンとサミュエル・L・ジャクソンに千点。他のキャストでも観に行きます。


2008年09月14日(日) 「コレラの時代の愛」




いや〜、満足満足!あらすじを読んだ時、こういう語り口で描いて欲しいなぁと思っていたところへ、そのまんまの、それも上質のものを見せられたんですから、嬉しいっちゃ、ありゃしない。監督はマイク・ニューエル、原作はノーベル賞作家のガルシア=マルケス。しかし何と言っても作品の成功の最大の功労者は、主役のハビちゃん(ハビエル・バルデム)でしょ!

19世紀の南米コロンビア。貧しい郵便配達人のフロレンティーノ(ハビエル・バルデム)は、裕福な商人の娘フェルミーナ(ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)に一目惚れします。何度も何度もラブレターを出し、遂に彼女の心を射止めたのも束の間、娘は名家に嫁がせたい父親ダーサ(ジョン・レグイザモ)の手によって、引き裂かれます。一年後家に戻ったフェルミーナは、ツキものが落ちたようにフロレンティーノへの愛も冷めていました。そんなとき、コレラ撲滅に力を注ぐ青年医師ウルビーノ(ベンジャミン・ブラッド)から見染められ、結婚を承諾します。失意のフロレンティーノ。しかし彼はその時から51年9か月と4日、ウルビーノが死去するまで、フェルミーナを待ち続けるのです。その間、660人以上の女性と閨を共にしながら・・・。

ねっ、変な話でしょ?普通に主人公の男の純愛を生真面目に描けば、気持ち悪くてしかたなかったはずです。しかし監督ニューエルの母国であるイギリス風の、ちょっとシニカルに洗練されたユーモアと、哀歓に彩られた語り口は、私にはとても楽しめるものでした。加えてラテンの陽気で生き生きとした、そして土着のたくましさを感じさせる暮らしぶりや音楽は、物語に鮮やかな色どりを添えます。

恋愛とは、自分の作り出した「幻想」、或いは自己愛の変形ではないでしょうか?事実若き日の二人は、デートするわけでもなく手を握る訳でもなく、会話と言ったらたった一度のプロポーズだけで、あとは手紙のやり取りだけ。しかし燃え上がる若き二人の「恋に恋する様子」は、誰しも身に覚えのあることで、フェルミーナの父の取った娘への「頭を冷やせ」の行いは、大人の知恵でもあるわけです。

実態のなかった自分の作り出した「幻想」であるフロレンティーノに、再び出会った時のフェルミーナの言葉は、「幻想」から脱皮し「現実」を見出したのでしょう。彼女は大人になったのです。このときにフロレンティーノ役は、紅顔のそれなりに爽やかな少年であったウナクス・ウガルデから、ギトギトに濃くて悪党面のハビちゃんに変わります。フェルミーナの「あなたが私の思っていた人だと違うと、たった今わかったわ」と言うセリフに、ものすごく納得してしまう私。悪党面から不気味な純情さをまき散らすハビちゃんからは、キモいオーラが全開です。現実性に長ける女と、いつまでも夢から覚めない男の違いを一瞬に表現し、監督の技ありの演出に唸ってしまいました。

フロレンティーノは自分の恋愛について全て母に相談し、母は失恋のため傷心の息子を見かねて、果ては女をあてがうなど、超ド級のマザコンです。ここでもキモさパワーアップ。しかしその要因が、女たらしのフロレンティーノの父親から結婚以前に捨てられて、母一人子一人の環境だというのが明らかになると、マザコン息子と母の滑稽さの中に、納得と哀れを見出してしまい、痛く二人に同情します。

フェルミーナのため、男の操を守ろうと思っていたフロレンティーノは、偶発的なアフェアで、言わば「強チン」のような形で童貞を失います。失ってからの挙動不審な様子がコミカルで、この辺から終始クスクスと笑える描写が続出。しかしいやらしさはなく、この辺からフロレンティーノに段々情が移ってしまった私には、脂濃い顔とは正反対の、彼の精神的な純情さを愛しく感じ始めます。

とにかくハビちゃんが上手過ぎです。何度も出てくるげ「幻想」という言葉は、この作品のキーワードで、フロレンティーノは「何度顔を観ても思い出せない」「影のようだ」と称されるくらい、印象の薄い人です。それがどの作品でも存在感マックスのバルデムが演じて、出色の好演なのです。気持ち悪い勘違い男から、永遠の恋の囚われ人であるロマン溢れる男性へと観方が変化するのは、監督の手腕とハビちゃんの演技であるのは、間違いありません。

一番謎だった、51年以上愛し続ける人がいるのに、何故600人以上の女性と関係を持ったのか?という理由も、しごく納得出来るものでした。たくさんの女性と関係を持った彼が、ラスト近くのとあるキス場面で見せる、瑞々しさと恥じらいの籠った至福の笑顔は、精神的な愛は、肉欲を勝るものだと表現しています。

フェルミーナの結婚生活は、あらゆる角度から結婚というものの本質を浮き彫りにします。ウルビーノは彼女を愛していたのではなく、妻として見染めたのでしょう。自分の社会的地位に見合う美しさとそこそこの教養、そして成り金と言えども親には財力もあります。そこにはフロレンティーノのような恋心はありません。しかしながら、長きの間の結婚生活で、「妻への愛」は充分に感じさせるのですから、男と女の仲は、本当にややこしくて難しい。

姑のいびり、夫の浮気。その時々に、夫は妻の願う言葉はかけてくれません。「結婚に幸せは必要ではない。大事なのは安定だ」と本心を妻に語る夫は、浮気を妻に問い詰められると、あっさり白状します。だから別れたのに、何故妻が許してくれないのかがわからない。正直とは誠実とイコール感のある言葉ですが、結婚生活を維持する上で、正直だから誠実だとは言い切れないのだと、強く感じます。それが恋愛とは違うところなのでしょう。

良い夫だったと言いながら、問題の多い夫婦生活だったとも語る老境のフェルミーナ。夫に尽くし良き妻で合った彼女は、夫を本当に愛していたのかどうかわからないと、吐露します。彼女が「夫」を愛しているであろう場面は出てきます。それは長く暮らした夫婦の情の深さを表した場面でした。「夫」ではなく、一人の男性として愛していたのか?彼女は自分に問うたのではないでしょうか?私も誰よりも夫を愛していますが、それは妻としてです。女として夫を愛しているのか?と言う時、まだ男と女として現役の今なら、その迷いも払拭できますが、もしかしてそれは、「夫婦の情」と混濁しているからなのかも知れません。夫と言う名の男性は、この手の葛藤はないと思われ、恋愛だけではなく、結婚生活においての男女差も上手く描けています。恋愛とは違い、結婚すると男はリアリストになり、女は愛と言う名の潤いを求めるのですね。

なのでフェルミーナの51年目のプロポーズの返事は、今の私にはあり得ないことですが、妻という仕事をやり遂げた後の彼女なので、とても納得の出来るものでした。ジョバンナ・メッツォジョルノは大変美しく、51年ひとりの男性から愛し続けられるのも納得でした。一人で十代から七十代までを演じ分け、演技的にも健闘していたと思います。

どういう風に着地するか、皆目わからなかったのですが、ゴールは普遍的でもあり目新しくもあり、とても幸福感に包まれたものです。少し変わったテイストの作品ですが、登場人物の全て、隅々の描写まで味わうことが出来て、私は大好きな作品です。










2008年09月09日(火) 「next」(DVD鑑賞)

先日のオフ会で、ピンク映画の巨匠・池島ゆたか監督のサポーターを自認されている、お友達の北京波さんよりいただいたDVDで鑑賞しました。「何でも観るなぁ」と、映画友達からはあきれらている私ですが、ピンク映画というカテゴリーは全く未見です。あちこち情報を集めていると、ピンク映画に秀作ありとはよく耳にしていたのですが、当然ながら、劇場に行くのが怖いわけでして・・・。

日活がロマンポルノに衣替えしたのが、私が小学生の頃です。それから数年も経たないうちに、キネ旬他各種映画祭で、ロマポ作品はベスト10の常連に。そうこうしているうちに、ドラマでもロマポ出身の女優さんたちが顔を見せるようになります。ぽっと出のタレントとは違うしっかりした演技に、私が感心の言葉を口にすると、亡くなった母は、「どんな映画も映画は映画。裸見せて、世間から格下に見られても、映画とテレビは違うんや。映画の水で鍛えられた人は、みんな一味違う」と答えました。母の言葉はとても意外でした。何故なら母は何事にも偏見が強く、まさかこんな言葉が返ってくるとは思っていなかったからです。娘からすると問題の多かった我が母なのですが、それだけに重みのあるこの言葉は、以降私の映画鑑賞の際の座右の銘となります。

という訳で、監督と北京波さんに敬意を表するため、僭越ながら感想を書かしていただきます。私には合わなくても、感想は書こうと思っていましたが(それが敬意)、素敵な作品で、正直ほっとしています。

ピンク映画に長年携わってきた老監督。今は死の淵にいる彼が、自分の人生に深く関わった三人の女性を絡めながら、回想する様子を描いています。その回想の仕方が、若かりし青春時代は叙事的に、老いては詩的にファンタジックにと、その強弱が上手い。映画と言う「夢」に賭けた一人の男性の生き様が、好意的にこちらに伝わります。

脚本もとてもしっかりしていました。青春時代の夢と挫折、そこからの再起、制作現場での意気込んだ様子などを無駄なく織り込み、死の床の老人を主軸に据えているにも拘わらず、私には「人生は長い青春だ」という風に感じられました。

単なるアダルトビデオとピンクの違いは、如何にセックス場面に人の心を表すか?ではないかと思われます。いや想像なんですが。その点その時々の場面で、セリフより雄弁に登場人物の心を語っており、女性でも観にくいことはありません。ただ私は、一般映画でも性愛場面はあまり好みではないので、ぼかしがあんなに薄いと、ちと恥ずかしいです。ただしピンクの主な観客は男性でしょうから、それは致し方ないかも。猥褻さで言えば、18禁ですが昨年一般公開された、「人が人を愛することのどうしようもなさ」の方が、上でした。

AVとの違いは、この作品でも上記の事を表すようなシーンが出てきて、若かりし頃の監督は屈辱を感じています。そしてその怒りが、彼を発奮させて、夢である映画監督にさせるという筋はなめらかでした。その他印象に残ったのは3Pシーン。コミカルな導入でしたが、終焉は哀愁漂うものでした。自分の放出後、好きな女性が長年のパートナーとの営みで、そこに愛を見せつけられる時ほど、哀しいものはないでしょう。私はピンク映画で、こんな哀しい男心を見せられるとは思っていなかったので、とても感心しました。

女優さんは、いわゆる美形ではありませんが、皆とても美しく撮れています。ピンクというカテゴリーからは当然なのでしょうが、私はもっと裸の姿ばかりが協調されていると思っていましたが、服を着ている時の方が、女性の私には魅力的に観えました。清楚でイノセントな監督のミューズ、長年の公私に渡ってのパートナーで、艶やかな大人の色香を漂わす妻、キュートで小悪魔的な青春時代の恋人と、描きわけもきちんと出来ており、それぞれの女優さんにファンがついているだろうと思わせるチャーミングさでした。個人的に妻役の人が表情や仕草など、演技的に一段格上を感じさせました。

映画が完成した時、監督はいつも開脚した股から逆さまになった世間を観ます。この癖は初心忘れるべからず、ということでしょうか?ラスト近くの白紙の台本ともに印象的です。100本以上撮った今でも、更なる飛躍を誓う、池島監督の気概のように感じました。

少し苦言を呈せば、監督のミューズが「エロい」という言葉を発しましたが、彼女の設定では、その言葉は知らないと思います。それより以前に、彼女にこの言葉は似つかわしくなく、単に「いやらしい」で良かったと思いました。男優さん達はそれぞれお芝居は上手でしたが、女性の視点では、女優さんに比べて、少し物足らなさが残ります。劇団の演出家、医師役の人などハンサムだったように思いますが。それと3Pの部屋に大きな液晶テレビが壁にかかっていましたが、あれも十数年前の回想場面だと思うので、映ったのは失敗だったかと思います。

しかしピンクの現場は、撮影は三日間と聞きました。それで60分の尺を撮るのは、大変な苦労があると想像に難くありません。なので、私の苦言もピンク初心者の戯言だと思って下さって結構です。

なかなか手応えのあるピンク初見作品でした。しかしそうは言えども、やはり劇場まで足を運ぶかというと、これはやっぱり難しいなぁ。私はレスリー・チャンがポルノ映画監督役で、映画への熱い情熱をたぎらせていた、「色情男女」がとても好きなのですが、池島監督で一般公開の日本版を、観たいなと思いました。


2008年09月07日(日) 「敵こそ、我が友〜戦犯クラウス・バルビーの三つの人生〜」




いつも仲良くしていただいている、しらちゃんさん御推薦の作品です。いや、本当に感謝します>しらちゃんさん。推薦がなければ、パスしていたところです。私は教養豊かな人間ではありませんが、さりとて人並みの知識は持ち合わせているんじゃないかとは思っていました。しかしクラウス・バルビーなる人、名前も初めて聞き、こんな数奇と言うか、どえらい人生を歩いた人がいたとは、全く知りませんでした。無知を恥じると共に、この歳になっても、世の中知らないことばっかりだ、です。私のような市井の人間も、生きている限り勉強だなぁと、実感したドキュメンタリーです。監督は「ラスト・キング・オブ・スコットランド」のケヴィン・マクドナルド。

戦時中ナチスの親衛隊として、多くのユダヤ人を収容所送りにしたバルビー。その残忍さは桁はずれで、戦後は戦犯必死でしたが、その知識を冷戦時代のソ連との戦略に使いたいアメリカは、彼を雇います。そして更なるバルビーへの指令は、南米ボリビアの軍事政権を成功させるため、影の立役者となることでした。

ナチス親衛隊としてのクラウス・バルビー、アメリカ陸軍諜報部(CIC)で働くエージェント・バルビー、そしてボリビアでのクラウス・アルトマンとしての生活と、彼は三つの人生を歩みます。敵こそ我が友、というのは、敵の敵は味方、ということらしいです。ややこしいですが、ナチス親衛隊として反共主義で戦ってきたバルビーは、米VSソ連→ソ連VSナチス、ナチス❤アメリカ・・・ということだそうで。なんともはや。

それぞれの時代の証言者や歴史学者が出てきて、当時の話を検証していきます。バルビーは拷問のスペシャリストだったらしく、直接手を下した人も大変な人数だったようで、その生き残りの人々の証言は、本当に生々しく彼の鬼畜ぶりを物語ります。なかでも44人の孤児院のユダヤ人の子供たちをガス室送りにした件が、彼の残忍さを物語る上で、重要な鍵となります。その証言の数々に、説得力を持たせるのが当時の記録映像や写真です。死体の山や戦慄の映像を目の当たりにすると、作り物ではないので、底冷えするような人間の残酷さを感じます。

「父は悪い人ではない。教養豊かな優しい人だ」と、何度もバルビーの娘の証言が流れます。彼を最後に弁護したのは皮肉にも共産主義のベトナム系フランス人弁護士でした。「バルビーのしたことは、決して許されるものではない。しかし時は戦時中。彼は国の方針に沿って任務をこなしたのだ」と、擁護します。これでもかと、バルビーの非情な怪物ぶりを見せられて、彼を罵る生き残りの人々の涙ながらの証言に同情しつつ、でも私は不思議にも、この弁護士の言葉に頷きたくなります。

「蟻の兵隊」で、同じ様に自分が戦争中中国人を殺したことを忘れた老人の、「戦争がさせたんだよ・・・」のつぶやきに、自分の罪を全て戦争のせいにするのかと、嫌悪感を抱いた私ですが、バルビーに関しては、納得してしまうのです。何故なら彼は一貫した反共産主義者で、自分のしてきたこと全てに、揺るぎない信念を持っています。ボリビアでユダヤ人と間違われた、バルビーの隣人の証言は、とても良い挿入で、とても端的にバルビーという人の、「永遠の思考」を感じさせます。

これほど残忍に殺戮を繰り返すことに、一片の罪の意識を持たないこと。これこそ政治思想の洗脳の怖さではないかと感じます。そして誰もが嫌悪を抱くナチスの思想がその残党によって、驚くなかれ90年代初頭まで様々な国に関わって活動していたという事実。私が怖かったのは、バルビー個人よりその事でした。様々な国で、利害関係が一致した「需要と供給」があったということです。

このドキュメンタリーでは、戦後のドイツ・アメリカ・フランス・ボリビアを舞台にしたお話ですが、「敵こそ、我が友」という、国と国との繋がりは、脈々と続いているのです。最近では「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」でも、形を変えて描かれていました。

この作品を観てつくづく、今度のアメリカ大統領選挙では、オバマに勝って欲しいと思いました。テレビの報道番組を観ていたら、それはアメリカを外から見ている人は、失地回復にはオバマしかいないとわかるのだが、アメリカ、それも地方の人々は、全くそう思っていないとか。すごく意味の深い解説でした。

フランスでパルチザンとして英雄視されていた人も、絞首刑送りにしたバルビー。このドキュメントは、そのフランスで作られています。身の毛もよだつバルビーの人間性をこれでもかと表現しながら、誰が何が、こんな人間を作ったのか?という問いかけ、そして政治思想の洗脳と言う恐ろしさを浮かび上がらせた、とても公平でわかりやすい秀作であったと思います。



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