目次過去未来


2011年03月13日(日) 明日は我が身



 東北で観測史上最大級の地震にともなう津波が起こり大変な事になっている。今日の新聞ではマグニチュード8.8から9.0に修正したと書いていた。伝わって来る津波の映像があまりにもぶれの無い鮮明な映像だったので、これは来る事を見越して、固定したカメラから撮ったものも結構あったんではないかと感じた。被災した人々の遺骸映像がまったくないのでその悲惨さは巨大台風一過と同じような感じに思えてしまうが、これはタイなどと違って放送の上での配慮なのだろう。特撮映像でやったとしたら、わざとらしく映ってしまうような車の被害状況など、事実は小説より奇なりを地でいくような光景だった。

宮城の塩釜漁港に、海産物を届けてもらっている仲卸の商店があり、すぐに安否のメールを出したが音沙汰がない。多くの亡くなった人々のご冥福を祈ります。日本の復興力のすごさは戦後も阪神大震災でも実績がある。世界が見ている、日本の底力。それにしても、原発、最大級の地震にも二度目の直下型の地震にもよく耐えた。これは今後の安全の礎になる。
チェルノブイリ(チェルノブイリの森、メアリー・マイシオ著)潜入本などからして、一部被曝された人々は今の情報の内容だとそう深刻になる事はないと思う。


放射能と放射線の違い中部電力


管首相公式ページの7年前の書き込み
2004年10月23日 00:00 :

昨日今日と愛媛、高知の台風被災地の視察
数トンあるブロックが民家に飛び込んだ災害の視察を終えての感想

「あい続く天災をストップさせるには昔なら*元号でも変えるところだが、今必要なのは政権交代ではないか。」

その通り!!


*元号を変える。
度々最近たん譚に登場する吉良上野介、その父義冬の現役時代、世の中天変地異など頻繁におこるので、幕府朝廷橋渡し役の吉良は、後西帝(百十一代、在位期1654〜1663)に譲位を促す使命をおびて親子で京都に来て、二条関白ら公家や実父の御水尾院らと共に説得している。元号を変える事で世の出直しを計ろうとしていたようだ。在位当時、二度の江戸の大火、伊勢神宮全焼、諸国、大地震、大洪水があった。結果、在位十年で織仁天皇(後の霊元天皇)に譲位した。



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2011年02月22日(火) 鯨 太地–対峙–退治



 何日か前の新聞に、「チリ海軍は15日、同国沖を航行している日本の調査捕鯨船団の母船「日新丸」を監視、追跡中」と言うニュースが載っていた。排他的経済水域を監視しているとあったが、何でわざわざニュースとしてチリは発表したのか。
で、昨日調査捕鯨を中止するというニュースを読んだ。
オーストラリアは、海のテロ組織シーシェパードを応援している。さすが犯罪者の末裔でなる国。悪に親近感を持つDNAはしっかり引き継がれている。忘れてならないのは、日本が戦争に負けた時、日本人を一番多く処刑せよと主張したのもオーストラリアだった。水に流すわけにはいかない。

 自国で行われているカンガルーを小学生くらいの男の子と父親が、かたっぱしから撲殺するのには何の痛痒も感じず(ユーチューブに動画あり)、西洋人独特の独善でもって正当化する。自分達の牛肉食をインド人が何にも言わないことを良いことに、自国の文化にない習慣伝統を持つ民族を非難する。
オーストラリアはつい一五〇年前まで、人間狩りをしていた。19世紀まぢか犯罪者がこの島に流刑され、其れと共にやってきた軍人を先頭に主にアボリジニを狩猟の対象としたことは軍人の日記などに残っている。タスマニア人はこれによって1830年までに絶滅した。

 最近は本末転倒、正論を昔から述べている日本側の言い分より、海のテロリスト達に世界中から自分以外の文化を認めない人々、利権に絡む人々から相当な支援金が集まっている。

 鯨は小さい時から好きで今でも太地から直接送ってもらっている。
中でも,鯨の皮が刺身で美味い。皮と赤身を交互にして生姜醤油か、山葵醤油で食べる。酸度の高い日本酒によくあい、いつも日本に生まれて良かったなぁと思う。太地の鯨屋と言えばここという店の主にメールで意見と質問をしたら、その日の内に返事が返ってきた。「シーシェパードはまだいる。どうにもならない。」とのこと。

 こちらが戦後の教育で何でも話し合いで解決せよと教えられてきたがまったくまわりを見回しても尖閣竹島北方領土(本来は当然日本のものだが)何にも解決していない、軍隊が出て行くぐらいの必要があるのではないかと書いたら、同じような考えが返信のメールに書かれていた。当事者のこの悔しさを今の政府はわかっているのだろうか。

太地町はテロ組織シーシェパード、其れを支援するオートラリアと対峙して退治せよ









2011年02月16日(水) 阿波わ…。



 時は、元禄15年。所は大江戸呉服橋、赤穂の浪士に打ち入られた吉良上野介義央の屋敷横に屋敷を構えていたのが、阿波徳島藩の蜂須賀飛騨守、この頃世間では、いつ赤穂の浪士達が吉良に討ち入るのかと、期待と不安で戦々恐々、その不安に耐えかねて、阿波の殿様幕府に問うた。もし、隣家の吉良に討ち入りがあったら、拙者どうしたらいいのぢゃ!幕府答えて曰く、「捨て置け」。
この時代、隣家に何事かあれば、必ず助太刀致すのが、武家屋敷同士の暗黙の定めであった。まあ何と腰抜けの殿様だったのか。
幸いに、吉良上野介は、隠居を希望し、今で言う退官となった。退官すると武家屋敷のある江戸城郭内の呉服橋界隈には住めない。
ほどなく殆ど沼地の辺鄙、隅田川を渡った本所一つ目(これは江戸市中ではなく総州に属する)の空き屋敷に住まいを移した。これは、半ば上意下達(じょういかたつ)の体でもってそうされた。

 これを千載一遇の好機と見た赤穂の浪士達は、この屋敷に討ち入るのである。
阿波の殿様、我が屋敷が関わり無く済んだ事に心から安堵しただろう。吉良さんの名誉のために書いておくが、後の取り調べの記録を見ると、台所奥で発見され、腹を槍で一突きされてはいたが、脇差しを抜き、立派に戦う姿勢を見せていた事がわかっている。
命乞いなどはしていない。断末魔の際に、なぜ被害者の自分が命を取られなければならないのかついにわからなかったに違いない。
我が出身の阿波徳島藩の殿様は、触らぬ神に祟りなし、多分隣に吉良がいた時に討ち入りがあったとしても見て見ぬふりをした。

 時代は下って、昭和23年(1948)年、徳島板野郡(現阿波市)出身の男が、芦田内閣崩壊後の首相にGHQから白羽の矢を立てられたのが、三木武夫であった。GHQはこの男の事をお見通しであったようだ。徳島商業野球部時代、甲子園出場のための野球の衣類道具を新調しようとバザーを開いて、資金を得たが学校側に勝手に使われたとして、ストライキを行って放校処分となり、神戸の学校に転校した。戦前から基本的に軍部には批判的だった。戦後も公職追放はされていない。こういう事をわかっている日本人の誰かが、GHQに御注進したに違いない。
がその時は、三木内閣は実現せずそれに変わって出来たのが吉田茂率いる内閣だった。後に首相になるが主張する所は、アジア太平洋構想(含 中・ソ)、護憲、まるでリベラルだった。嫁の睦子は、「九条の会」の言い出しっぺで、今は論理破綻して「窮状の魁」となっている。
 よせば良いのに、昭和五十年、八月十五日に、戦後初めて靖国参拝をしたまでは良かったが、何を血迷ったか、総理大臣としてではなく三木個人で参った(要するに私的参拝だと)と余計な事を言ったがために、後、ずっと禍根を残し、昭和天皇の靖国御親拝はこの三木参拝後の例大祭が最後となり現在に至り今上天皇の御親拝も行われていない。一国平和主義者、防衛費のGNP1%枠、武器輸出三原則など、後々禍根を残す。三木自身が自内閣を「性典の辟易」、あ、違った「青天の霹靂」と言ったそうだが、これは、次の人物にも言える。


 仙谷由人、このおっさんは、徳島の進学校から東大法学部に入った。東大法学部は現今の法曹界の大元凶となっている。東大法学部と言えば、曲学阿世の徒と言われた横田喜三郎(後に最高裁の親玉になった。誰が見てもおかしい東京裁判をへんちき論で肯定し、天皇論を書いた。後、天皇からご褒美をもらう事になるや手下を通じて日本全国に散らばった自分の本を回収して、証拠隠滅を計りめでたく天皇からご褒美をいただいた)が君臨していた。

 その歴史ある法学部を中退しているが、その意志は立派に継がれ?、社会党社民党民主党に身を置き、その曲学阿世振りはすさまじい。
 東大安田講堂を占拠した連中の兵站を受け持ち弁当などを運んでいたので、弁当屋と呼ばれていたらしい。

「武力」が嫌いで、自衛隊を暴力装置と呼んで何とも思わない。アジアのあっちこっちにとんで、日本への不満分子を焚きつけて、日本から金を盗るのを奇貨とする弁護士高木健一と懇意である。支那への配慮で、尖閣諸島で支那の偽装漁船が保安庁の船にあきらかにぶつけてきている様子を撮った尖閣ビデオをもみ消そうとするも、勇気ある海上保安官にすっぱ抜かれ、小沢と同じ支那の走狗であることがわかった。弁護士である。
弁護士でも色々いるのは、東大やスタンフォード大を出て首相になるもアホはアホなように、弁護士とて同じである。
三人とも徳島県人。この、阿波わ…の三人の共通点は共に「武力」が嫌いである。

一方、お隣の土佐高知には、坂本龍馬 板垣退助 後藤象二郎 中岡慎太郎 中江兆民 植木枝盛 山下奉文(陸軍大将)他そうそうたる人物がいる。
瀬戸内海を見て育った民と、太平洋の荒海を見て育った民の違いだろうか。

徳島県が一時、名東県となり後高知県と一緒になりまた徳島県となったが、高知県のままでいたほうがよかった…か。











2011年01月11日(火) 今年の干支



 近くの岡崎神社に長蛇の列が出来たそうだ。岡崎神社には初詣はあまり行った事がない。歩いて一分の若王子神社に詣でて、恒例になっている焚き火の前に集まって一時過ごすのが元旦午前12時過ぎの習慣だった。今年は行けなかった。岡崎神社の長蛇の列は、ここが「子授け・安産の神として昔より信仰されていてまた室町の頃、都の卯(東)の方位にある付近一帯が野兎の生息地で、うさぎが氏神様の神使いとされ、境内の御手水の所には月の力を満たしたうさぎ像があり、水をかけてお腹を擦ると祈願が叶うと信仰を集めている。本殿前には狛うさぎがあり、うさぎが多産であることから子授け安産祈願の方を始め参拝者の人気を集めている」と岡崎神社の説明にあるから、絵馬を手に入れようと、衆生雪崩を打ってここを目指した模様。

年男(女)も熱くなって手に入れたがったかもしれない。

「私はとても熱いうさぎです」これをフランス語にすると、

「Je suis trop chaud lapin.(シュ トロ ショウ ラバン)」

で、フランス人にこれを言うと大笑いされる。
意味は

「私は ど助平です」
「精力絶倫です」
「好色漢です」

熱々うさぎの料理 「ど助平皿」 うまいで!






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2011年01月01日(土) 謹賀新年






 今年は田舎で正月を迎へた。よって年末恒例の蕎麦打ちも寒空の夜開け放った窓から聞こえて来る300(各寺の鐘重複のため)いくつ鳴る除夜の鐘も無し。変な寂しさがあった。

車があったので初詣は、おあさはんと呼ばれている大麻比古神社に詣でた。ここは不思議な神社で、大麻比古神と猿田彦大神の二人の神さんが祭られている。
ここの参道には巨大な楠の古木があって胴体にぽっかりあいた1メートルはあると思われる洞(うろ)に沢山の賽銭が投げ込まれていて、その下の参道にもこぼれ落ちて石畳のようになっていた。お金を踏んで歩かなければ先に行けないので仕方なしに踏んで通った。

 徳島の鳴門にして、交通整理が必要なほどの自家用車の列。近くにドイツ人捕虜収容所跡があるが、正月早々あいているとは思えない。開いていても多分そちらは閑古鳥が鳴いている。テキ屋も今が稼ぎ時なのだろう、参道からはみ出したところにも屋台が出来て繁盛していた。
三ヶ日で数万人が訪れると聞いた。
行きも帰りも車だったので、多くの人達が帰省ラッシュを経て故郷にたどり着くしんどさを経験した。当分日本では車を運転しない事にした。


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2010年12月31日(金) ー1通の報告書ー



07年の大晦日の今日、槍平にて雪煙雪崩で逝ってしまった故市川啓二君の最後の報告文章を読み返す。


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      ダウラギリ登山を終わって
                     市川 啓二

平成18年の1月でした。
「忘年会でダウラギリに行こう、ということになった。一緒にどうで?」とジョインの富永さんから誘いがありました。以前に「8000m峰なら行ってもいい。」と公言していました。しかし、まさか、徳島からチームを出せるとは、正直、夢にも思っていませんでした。
すでに参加の意志を表明していた人が数名いたようです。

一も二もなく「行く。」と言ってしまってから、「さてどうしたものか。」と悩んでしまいました。
ダウラギリという山に関して、私の知っていた情報は、8000m峰で最後に登られた山(解禁されていなかったシシャパンマを除く)、8000m峰では難しいほうから数えて5番目の山(私の個人的な考えです。順にk2、カンチ、マカルー、ナンガ、そしてダウラと思っていました。)、ラインホルト・メスナーが 3回目の挑戦でサミットした山、といったものでした。
登るのに簡単ではない山という印象だったのです。
しかも、仕事の事情や家族の必要など、解決しなければならない出来事が山積みでした。
しかしながら、コマーシャルエクスペディションに参加するのではなく、徳島からチームを出せる、というのは大変な魅力でした。
悩んだのは、ほんの少しの間で、自分勝手な私は、結局、誰に相談することもなく、参加することを決めてしまったのでした。

こういう場を提供してくださった、鶴木さんと中村満芳さんには本当に感謝しています。

行くと決めたら、次はロープパートナー捜しです。上部では一人旅になる公算が高いとはいえ、信頼できるパートナーがいるといないとでは、登り方が大きく変わります。
まず、頭に浮かんだのは、ときおり一緒に県内で山登りを楽しんでいた木村くんでした。
当時、彼は雪山の経験がまったくありませんでしたが、その卓越した身体能力は眼を見張るものがあり、1年半の間、一緒に山行をともにすれば、登頂は十分可能と思ったのです。
ネパールにも何回か渡航して、トレッキング経験の豊富な彼ですが、8000m峰は勝手が違うでしょう。無理とは思いましたが、恐る恐る計画書を渡してみました。
しばらくして、「行ってみます。」との返事がもらえたときは、本当にびっくりしました。
同時に、私は、「この男をどんなことがあっても生きて日本に連れて帰る。」と強い決心をしたのでした。

こうして、始めてのダウラギリ登山隊の準備会が、平成18年2月20日に開かれ、鶴木氏、中村満芳氏、中村功氏、朝日氏、西井氏、木村氏、そして私の7人が参加の意志を明らかにして、「2007徳島ダウラギリ主峰登山隊」の発足となりました。
以後、ミーティング、準備山行などを重ねました。
平成19年5月に、2名(鶴木氏、西井氏)が、家庭の事情により、参加を取りやめましたが、残る5名で登山隊は維持され、登頂への意欲もそがれることはありませんでした。

目標とするルートは、初登ルートの北東稜です。
出版物やインターネットで、ルートの概要を調べ、必要な技術の感覚を養ったことで、テクニカルノートは、早くに頭の中に入りました。
同時に自分の技術なら、問題なく登攀できるという確信もできました。
自信のない体力面でも、十分勝負できるのではないかと思いました。
しかし、8000mの高度が自分の体にどのような影響を及ぼすのかは、まったくの未知数です。思い悩んでも、仕様がないので、できることだけはやろうと考えました。

登頂に向けて、一番の問題は、天候、次に高度馴化となります。調べるにつれ、この二つさえ順調なら、必ず登頂できる、という確信を持つようになりました。

タクティクス上、最大の山場は、やはり、登頂日です。
その日の計画は、C3を朝、出発、C4に夕方到着し、仮眠して午前0時にリスタート、午前10時に登頂、その後、夕方までに一気にC3へ下降する、というものでした。
つまり、36時間を1つの単位として行動する、という考え方です。
無謀なようかもしれませんが、逆に、このプラン以外は登頂の可能性が少ないと感じました。
ですから、練習もこの行動を頭に入れてプランを作りました。
午前3時にスタートし、長距離周回するという山行の睡眠時間は、概ね2時間以内としました。
少しずつ、36時間という行動に自信が持てるよう、練習を重ねていったのです。

関空の出発ロビーに立ったとき、あれもできていない、これもまだだった、と思わないよう、できることはしておこうと考えていました。次のチャンスは無いと思っていましたから。

ぎりぎりになってのエージェントの変更、金額の交渉、食料や装備の購入、荷物の発送など、仕事が矢継ぎ早にやってきます。6月から出発までは、ほとんど思ったような練習もできませんでした。
しかし、隊員全員で、いろんな問題を解決できたことは、非常に達成感のある仕事となりました。

そしてようやく8月16日、出発の日を迎え、ダウラギリ登山が始まったのです。(登山期間中の経緯については、隊の公式ブログサイトに詳細に述べられていますので、そちらをご覧ください。)

私がもっとも感動したのは、BC入りの日にフレンチパスからダウラギリを眺めたときでした。
その姿は本当に気高く、力強く、あくまで高く、質感あふれる山容は見るものを圧倒します。
「これから、この山を登るんだ。」という意識が沸々と湧いてでた瞬間でした。
その時は、「ダウラが俺を呼んでる。今、行くぞ。」と応えるのみで、必ず登れると確信していました。
それ以外にも、その雄々しく、荒々しい景色の数々は、私の心を底から揺さぶるものでした。
残念ながら、私のつたない写真では到底つたえることができません。

結果、頂上に登ることは叶いませんでした。
ご存知のように、何年ぶりかの大雪に、思いは簡単に打ち砕かれたのでした。
1年半かけた情熱は、わずか1週間の雪で火が消えたように、終焉を迎えました。くすぶり続ける火種を、再び焔にすることもできませんでした。

誰よりも、誰よりも、ダウラに登りたかったのは、BCで雪に降り込められ悶々としていた隊員です。

私たちにもっと強い意志があれば、もう一度、C2へ登りかえすことができたかもしれません。
韓国のキムさんや、スロバキアのドドのように、頂上稜線まで達することもできたかもしれません。
しかし私たちのダウラギリは、今回の結果がすべてなのです。

なまなましい思いは、もう少し時間が経過し、客観的な見方ができるようになれば、文章に残したいと考えています。

山登りというのは、山と人とが関わりあって、はじめて、できあがる行為です。
山と人のグレードはそれこそ千差万別ですから、その結果も同じものは絶対にありえません。
例えば、ジグソーパズルのように、最後まできっちりとピースが入ることはないのです。大きかったり、小さかったりするピースをつなげて、自分なりの完成品を作らなければならないのです。
ですから、同じ山に同じ時期に登ったとしても、決して同じものとはなりません。
適当に登り、そして無事に下りてくる、ことが、もっとも重要なのです。

適当という言葉は、悪いことのような印象を与えますが、実際は、適切に当たる、という意味で、すべてを総合的に判断し、その場で結論を出さなければいけません。つまり、本当のプロにしか許されない行為なのです。

今回、私は、また、山から多くのことを学びました。学んだことを、常に、人生にフィードバックしたいと考えていますが、それもまた、なかなかできません。
いくつになっても山から教えられることばかりです。少しでもお返しができればいいのですが、その方法すら、なかなかわかりません。

最後になりましたが、応援してくださった方々、こころよく送り出してくれた職場の皆さん、留守を守ってくれた家族には心から感謝しています。
本当にありがとうございました。

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みぞれ雪混じりの大晦日、徳島にて記す。


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2010年12月16日(木) 一通の手紙



 今の時期になると、必ず新聞には赤穂浪士討ち入りが、記事やコラムに登場する。産經新聞でも二日続けて話題にしていた。

以下は仕事で京都滞在中の父が娘にあてた手紙である。
 
一筆申入まいらせ候、まつく相替事これなく何も御そく才のよし承りよろこひまいらせ候 いよいよきけんよく候や きかまほしく存まいらせ候さくらたにて御は"様 喜平次との御きけんよき通り数く御うれしくそんしまいらせ候……。以下略  

 これを作家の清水義範が 全訳したものがある。

一筆申しあげます。まずはおかわりなく、お元気であるときいており、喜んでおります。その後もご機嫌よくしていますか。お便りをほしいと思います。桜田(の上杉屋敷)の御母様も、喜平次殿(父方から養子に入った綱憲のこと)もご機嫌よき様子で、何もかも嬉しく思っております。私の方も無事に御用を務めています。今度の御用は、人の出入りが多くてなかなか暇がなく、忙しさの様子を御推察下さい。この二十七、八日頃には、おいとまをいただけるとの御沙汰がありましたので、それまでは首尾よきように務め、やがて帰省した折にいろいろお話をいたしましょう。さて、この鼻紙袋のきれと香包みは、御所向きの品とききましたので、お送りします。大切に愛用して下さい。お阿(三女の阿久里姫のこと)にも、小さな人形を三つお送りします。

これは何だ?
慈愛に満ちたまるで母親が書いたような文章である。
書いたのはあの討ち入りでの悪役吉良上野介義央(こうづけのすけ、よしひさ −残された花押から−)
書いた時期は、延宝元年(一六七三)、霊元天皇に姫宮の誕生をお祝いするために幕府と皇室の橋渡し役の吉良が幕府の使者として上洛し滞在中にしたためたものと言われている。



上の文(ふみ)から感じるのは素朴で実直な性格性向で、 浄瑠璃の仮名手本忠臣蔵に出て来る、高師直(こうの もろのう 吉良に相当する)や、多くの討ち入り小説映画の吉良上野介の小賢しく狡猾なイメージはない。

また逆に、浪士達が忠を尽くした浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、貞享四年(一六八四)二十一歳の時、江戸で「放火容疑の母娘を幕府に無断で殺し、赤穂への帰国が差し止められた」という風聞文章史料が土佐藩の山内家から見つかっている。

この二つの挿話から、まるで正反対の不思議な感慨にとらわれた。主君に最後まで仕えた赤穂浪士達には何の罪もないが、複雑な気持ちになる。


 浅野と吉良の確執はいろいろあるが、吉良の家は高家肝煎(こうけ・きもいり。四つの階級があり、表高家、高家見習、高家、高家肝煎)で、その仕事は朝廷幕府の橋渡し役の他、今風に言うと勅使(東山天皇の)を迎え入れる際などに、それを受け持つ饗応役(大名)に作法テーブルマナー、礼法を通じて教える総指揮監督業であったと考えられる。

 フランスでもルイ14世(ブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643−1715)に反旗を翻したが、後に王の信頼を再び取り戻すために大宴席を画策したコンディ公に仕え、それを仕切ったよく似た職業を持ったヴァテルがいた。予算獲得に始まり宴会のテーブル配置から料理の一品までの何から何までの総指揮をすることだった。このヴァテルは後に、メニューの魚が届かなかった事に責任を取り、自害している。
 だが、勅使を招くというのはコンディ個人の画策とは次元が違う。
勅使を招く接待準備を浅野と伊達の両大名が受け持った。その折の各大名の予算提出や、接待場所の屋敷設えを巡って接待日ぎりぎりになって畳縁に皇室由来の繧繝縁を採用していなかった(浅野が予算削減理由で独断)りで、京都から帰って来た吉良がそれを知り厳重注意する。朝廷勅使接待に対して慣例通り型を変えずにやりなさいと嗜めたのだ。それを逆恨みされたのかどうか。

 現在の京都の御所前にある畳屋を訪ねたとき、御所畳を初めて見た。普通の暑さの二三倍はある。縁も繧繝縁(うんげんぶち)という縁意匠(デザイン)で特殊なもの↓である。






 吉良が賄賂を取っていたと言うが、コンディ公に仕えたヴァテルと同様、その作法、仕切りなどを教える事は貴重な自家(禄高四千、娘は薩摩藩大名にお輿入れの際に余りの禄高違いをどうにかしようと上杉家から嫁に出してもらっている)の収入源となっていたと考えられる。
一方浅野の方は五万石の堂々たる大名であった。

 吉良が討たれて後、事件を知った東山天皇は嬉々としていた(関白近衛基熙の日記)らしいが、幕府側の思惑と朝廷の思惑と、幕府と朝廷の間に立つものに取っては、どちらからも恨まれる存在だと考えるのは自然だろう。現代の中間管理職の面々どころではない。

この吉良の几帳面さは、後に数少ない古文書の中に、「膳の上に料理を並べるその並べ方までも図解したもの」が残されている事でも分かる。
四十九年間殿中に出仕、二代の将軍(四代家綱五代綱吉)に使えている間、実に年賀の使いが15度、幕府の使いが9度、計24度宮中に参内している。当時新幹線はない。東海道五十三次の頃の事である。

 さらに、自分より身分の低い朝廷中級役人よりの贈答品(お香)に対しても即座に丁寧な礼状をしたためている。律儀で気配りがあった。

 『山の境界線をめぐる紛争の解決を、寺に依頼されたこともあった。これには「私が内通しても寺社奉行は思うようになりません」と断っており、芝居や映画のように権力に任せて振る舞った上野介とは違う姿が見られる。どの書簡も「なおなお書き」と呼ばれる追伸が添えられ、相手への気遣いが感じられる。』
(上野介の書簡9通を現代語訳した『吉良に残る吉良さんの消息(手紙)(問)吉良町教委生涯学習課発行 )

浪士達の討ち入りそのものについては当時の世間はどう見ていたか。
幕府の大学頭林鳳岡(はやしほうこう)は浪士が主君の仇を討ったことは「忠義」であり、武士道の鑑であるとして浪士擁護論を展開。
これに対し儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)は浪士の行為は公儀の判決をするものであり、決して「忠義」などではない、これを認めれば天下の法は権威を失う(法を規範とした新武士道)という。「義」をとるか「法」をとるか侃諤の議論がされた。
この時期、旧武士道から新武士道の変わり目でもあった。

 一番不思議なのは、事件の後、襲われた側の吉良の孫(養子。討ち入りの際応戦し重傷を負っている)吉良義周に、領地没収の上、信州諏訪高島城に幽閉という処分が下った事である。何故か重罪の扱い(大目付より「当夜の働き不届至極」?)で諏訪に送られ、爪を切る事もいちいち幕府に問わねばならず、自刃防止のため剃刀の使用もならず、一室に幽閉されて下着すら変えられず垢まみれになりシラミにたかられ、小便が出なくなり体がむくみ死んだ。享年21歳。
 この間、実父の上杉綱憲、上野介の妻で綱憲の実母の富子が死んだ。この時点で結果的に吉良家は断絶した。
この事は、当時の世間に迎合した幕府が喧嘩両成敗としたとしても何とも理解できない。

 昔ほどではないけれど、毎年師走が来ると赤穂浪士討ち入りが必ず話題になる。だが本当の所はどうであったのか。芝居や映画が一人歩きしている。師走を迎える度、あの、慈愛に満ちた母のような手紙を我が娘に送った吉良上野介義央を、その家(家系から大石内蔵助と吉良家は本人達は知ってか知らずでか遠縁にあたる事が分かっている)を思うと、ちょっと切なくなるのである。





参考文献…鈴木悦道著 実像吉良上野介。新版吉良上野介 中日新聞社
清水義範…上野介の忠臣蔵 文芸春秋
岳真也…吉良の言い分 真説・元禄忠臣蔵 KSS出版 小学館文庫



→2001年の今日のたん譚













2010年12月04日(土) どっ血や、血島とウイルヒョウ  3/3 完



…遡る、十七世紀に、コルク(ワインの栓などに使われているあれ)の顕微鏡観察により、その最小単位を「細胞(セル)」と呼んだのが細胞概念の始まりで、その後、十九世紀に、生物は細胞から構成されていると提唱、近代細胞学の基礎となった。
ラマルクが細胞分裂説を唱えて、それに続いてウイルヒョウが分裂説を確立した。その影響下、今日、発生学・遺伝学の権威、エジンバラ大学のワジントン教授の作った、一個の卵細胞が分割し、ついにオタマジャクシ誕生にいたる顕微鏡観察映画が、多くの人々の脳裏にある細胞分裂の知識の元となっている。
卵割の図、教科書などに載っている、あの細胞分裂の写真である。

 ところが、この権威が名古屋大学に講演した時、当時健在だった千島博士が「私は、卵黄球の塊から分割球が同時に多数の細胞新生によって生じるのを観察しているが、あなたは実際に細胞分裂によって細胞が新生するのを観察したのか」という問いに、はっきりと「確認していない、細胞分裂で分割球が増加するかどうかは明言することができない」と言っている。


ようするに、あの教科書などに載っている細胞分裂映像は現象の端々をくっつけて作り上げた結果現象で、それを私達は事実であるがごとく学生時代に教え込まれたのである。

 本人が見とらんと言っている。ワジントン教授は千島博士の方がよくご存知でしょうとまで言っているのである。
がん細胞を観察すると、この分裂説で行くと、オリジナルAがん細胞が、分裂するとしたら、A(オリジナルは存在し続ける)→A'→A''→A'''とコピーされるはずであるが、実際は各細胞は全然違う個性がある上に、何十万種類に及ぶという事実は、細胞は分裂して増えて行くのではない事の証明になる。
この時すでに、千島博士は赤血球から生殖細胞が分化するのを顕微鏡観察で確かめていた。

ここで、顕微鏡観察の話。
現代、よく使われる電子顕微鏡は透過型と走査型があり、標本に電子線を照射して防腐処理をしたり、乾燥させ蒸着装置で試料に金皮膜を掛けたりして後に、観察する。
ようするにいくら解像度がよくてもこんな過程を経てみる標本は全て死んだ状態のものしか観察出来ないのである。千島博士がアナログ顕微鏡観察したような、生きた状態のものは観察出来ないと言う致命的欠陥を持つのがこの顕微鏡である。
驚くべき事に死骸の幻影を見ているということである。この事は、この顕微鏡での観察は、するめいかから生のイカを、鰹節から鰹を類推するに等しいと何かの本に書いてあった。
結局、日常において、細胞分裂を見た人は未だなく、その仮定に基づいて「がん細胞は増殖」していると推理し、がん細胞は転移すると推定した。
結果、現代の癌治療はどういう状況になっているか。転移増殖を防ぐために切り取る。そこに人体が耐えられないような放射線をあて続ける。体内には抗がん剤をいれる。そうすると大体、被曝と免疫力の低下で、五、六ヶ月で死んでしまう。医師の余命幾許かの宣言は、人体の放射線被曝と抗がん剤へのぎりぎりの抵抗 の結果である。だからあたるのは当たり前とも言える。

 今日、日本ではジャンボジェット二機が、毎日確実に落ちて全員が死んでいると例えられている。ジャンボジェット機二機分とは、1日900人にあたる。
何の数字かと言うと癌で死んでいる人数である。こんなに仰天するような数が死んでいるのに,誰もおかしいとは思わない。年間だと実に三十万人、癌だけで死んでいる。昔四人に一人と言ってたのが最近は二人に一人!である。

 これがもし、がん細胞の成り立ちから、前提が間違っていてそれに従った間違った方法で医療をしているとしたら、医師達は合法的に殺人をしている事になる。
今年化学の分野でまたノーベル賞が日本人に与えられたが、本当は、赤血球から細胞が分化新生しているとコペルニクス的転回の学説をもう何十年も前から唱えていた千島博士の業績こそ、ノーベル賞に値する。

 千島博士は具体的には癌の治癒法は示していないが、血液をよく理解し(血液中には窒素などを始めとした、化学的な成分だけだと思いがちだか、なんと、炭、食物かす等が含まれる。これを取ってみても、非常時以外髄の中で造血は行われない事が分かる)、癌は恐るに足らない病気だと認識して、食養生によって血を綺麗にするよう生活し、免疫力を高めて、放射線治療(ピンポイント)や抗がん剤を使わないようにするのが最善だと思われる。

 医学は、臨床医学と基礎医学に別れていて、現場で切った貼ったをやるのは臨床医で、研究は基礎医学でされている。
臨床医は大学を卒業した時点で、その頭は固まっていると見てよい。では、具体的な治癒法としては何があるか。

 南フランスの天才生物学者G・ネサーン(存命)が、フランスで独自の顕微鏡を使い、血の秘密(細胞よりもはるかに小さな有機体を発見した。そしてそれを「ソマチッド」と名付けた)を解き明かし、それに基づき癌(それも主に末期がん)治療を人々に施し、放射線抗がん剤をやっていない人に限って、ほぼ治癒率百%に近い結果を出したが、生物学者が治療を行った事で、フランスで医師会から訴えられ裁判になった。二度起こされて、ついにフランスにいられなくなって現在カナダケベック(フランス語圏)に住んでいるが、藁をもつかみたい世界中からの末期がんの人々が集まって来て、また、高い治癒率をあげた。これを見たカナダの医師会も同じように一生物学者が、治療行為を行ったとして裁判に訴えた。

 まさに正念場投獄寸前におかれたG・ネサーン博士だったが、たまたまカナダの人気テレビキャスターが、この博士の治療で末期がんが完全に消失した事実を裁判で証言した。
また、世界中で末期から生還した人々が、証言し無罪を勝ち取った。
勝ち取ったとしてもやはり治療行為は出来ないので、この簡単な治療(リンパの流れで、体の 右上半身半分に疾患がある場合は舌下錠、その他は、鼠蹊(そけい)部にリンパ注射)は自分で行う事が前提となっている。
何ら怪しいものではなくて、カナダの製薬会社と結んで、ちゃんと医薬品として買う事が出来る。日本でも関西では和歌山県に扱う*病院が出来ている。

 理屈は簡単で、がん細胞は血液中の窒素成分を食べるが、当然その折に白血球が攻撃して来る。だからがん細胞は、その白血球を檻に閉じ込めるような成分を出して白血球を閉じ込めてしまう。そうすると、人体は免疫力を失い、あらゆる細菌からの攻撃を受け,死に至る。ここで、ネサーン博士は「敵に塩を送る」事を考えた。血液中に、窒素成分を大量に与えると、がん細胞は、豊富に餌があるために、檻を作る必要が無くなる。従って免疫力低下は無くなり、がん細胞は自ら縮小して行く。やがて跡形もなくなり治癒が完了する。

それが714Xという薬だった。この名の由来は7はG・ネサーン博士の頭文字Gがアルファベットの7番目、同Nは14番目にあたり、Xは24番目で1924年、自分の誕生年にちなんでつけられた。

千島博士とG・ネサーン博士の共通点は共に癌は血液の病気だとしている事だ。癌は不治の絶望的な病気ではない。

世の中には、TVなどに出演し人気を取っているくわせもん医者がいる。
「健康問答2 本当に効くのか、本当に治るのか? 本音で語る現代の「養生訓」」と称した本があって、一時期の人気作家五木寛之と帯津良一医師との共著だが、この帯津のオッサンが食わせ物で、G・ネサーンの714xに危うくだまされるとこだったと書いている。ところがこのくわせもののおっさん、カナダまで訪ねたのは良いが、短時間で博士のもとを去り、 (訂正加筆→ホテルモーテル)で714Xをよく理解せずに「ワインを飲みながら」インターネット上でも売られている714Xの注射の射ち方ハウツービデオを見て、日本に帰り患者に自分で射った、あれは聞かないというような事を書いている。

正しくネサーン博士の講義を受けて714Xを理解していれば特効薬などではなく、免疫力を高め、自己治癒力で治療することである事は素人がその関係の本を読んでも明々白々で、基本的な事を理解していないと思われる。ワインを飲みながら云々は、不謹慎にもほどがある。

*和歌山の医療法人  要(かなめ)外科・内科→ホームページ

参考文献
「完全なる治癒』」クリストファー・バード
「ソマチッドと714xの真実」稲田芳弘
「ガン呪縛をとく」稲田芳弘
「隠された造血の秘密」酒向猛
「千島学説入門」忰山 紀一



→2001年の今日のたん譚

→2005年の今日のたん譚









2010年11月05日(金) 尖閣海保漁船?衝突ビデオ



11月05日午前四時半過ぎにYouTubeにて発見転載。






↓当てたシーンの動画


↓「みずき」にあてた動画



 下2つがYou Tube より削除されている場合は→こちら









2010年10月09日(土) 槍平弔い山行 2/2



 槍平小屋に向かう途中、無人の穂高平小屋の前で今回はここまでと言って休憩していた老人と少し話した。土地の人だった。弔いに槍平に行くのだと言ったら、あれと同じちょっと考えられない所、わさび平の辺りでも今年雪崩が起こったと言った。
行って分かったのだか、今年二月槍平の小屋も再び雪崩で、二階建ての小屋二階左部分の窓枠が吹っ飛ばされていたようだ。
 
 新穂高ロープーウェイ横の沢の大規模な工事は何かと聞いたら、毎年の雪、それが沢を根こそぎ持って行く。まったく徒労の毎年毎年の繰り返し、果てしなき治水事業だといった。
これを聞いていて、ドイツの画家、フランツ・V・シュトックが描いている「シジフォスの岩」、シジフォスの神話を思いだした。現界で兄弟間の王位継承を発端に問題を起こし、黄泉の国の者となるが、言葉巧みに三日だけ現界に戻してくれと頼んで戻って来るも、帰るのを拒み現界に居座るが、連れ戻され罰を与えられる。
それは、巨大な石を山の頂まで運び上げる事だが、山頂付近で其の石は麓まで転げ落ちてしまう。これを時空を超えて永遠にやり続ける話で、これを読んだ時のぞっとした感じは、永遠に生きるという事を考えた時の感じと似ていた。また、そんな事はこの世にあり得ないと思っていたが、老人が言ったこの毎年の徒労とも言うべき、日本が続く限り続くと思われる治水事業はまさに「シジフォスの神話」そのものだと思った。
 
 いつだったか田舎の冬山で、「いつか二人で冬の北鎌尾根(「伝説の単独行者と言われた加藤文太郎が、めづらしく友人と共に目指したが、遭難。30才の生涯を閉じた。」の影響を受けていた)を一緒にやる事を約束してくれ」と半ば脅迫まがいに言われた事や、和歌山の徳島行きフェリー乗り場で心臓発作で倒れ、後輩と病院を訪ねたら、病室に居ず,探したら病院の細い通路の両壁を*チムニーに見立てて攀じ登っていた事などが思い出される。その後、結婚し男の子二人に恵まれ、二人を連れての山行きが楽しいに決まっている筈で、京都国体に徳島からの参加の指導員として選手?達と我が家に訪ねてくれたのを最後に、約束は実現しないままに音信も途絶えて、そのままあっちに逝ってしまった。

 故市川啓二君との一番の思い出は、鯛でもその潮の流れの激しさで、脊椎に瘤が出来ていると言われるほどの鳴門海峡真っただ中、大鳴門橋の第1号橋桁上、二人きりで海流計測、図面に書き込む四国道路公団のアルバイトをした事だった。

 早朝、海の凪(な)いだ時間に小舟で桁に置き去りにされ、帰りの海が凪ぐ夕方までいる、計測は三時間毎、機雷状の計測器を海中に沈めデータを取る他はする事がない。
暇を持て余した市川君は小中の渦が無数に巻いている時速十数キロ超で流れる鳴門海峡に、ザイルを着けて三メートル上の桁から飛び込んだ。
が、水泳部出身で自慢の泳ぎも、自然の海流には屁の突っ張りほどの抵抗にもならず、桁とつないだ其のザイルは立ちまちピンと張ったまま、全力のクロールにもかかわらず後輩はザイルにつながれた哀れな丸太と化した。この時、自然に丸腰では絶対勝てない事を悟った。


 さて、反戦山小屋と化した山小屋での夜、明日の早立ちのため、腕時計の目覚ましを四時すぎにセットし、午後七時には床についていた。
 ピッピピ…となる目覚ましに薄暗闇の中、家人を起こし、準備をせいと合図し階下のトイレに立った。普通なら早立ちの人が一人や二人はいるのに玄関付近に全然気配がない。怪訝に思って小屋玄関の時計を見るとはなしに見たら午前十二時十分くらい前だった。一瞬寝ぼけているのかと思い、もう一度よく時計を見た。やはり十二時前だった。其の途端はっとした。市川啓二君他がこの小屋の斜め前で遭難、雪崩で埋まった時間が元旦まぢかの午後十一時半から午前零時頃だった事を思い出し、きっとそれを知らせたんだろうと思い、「わかってる、知ってる。成仏して下さい」とその場であらためて手を合わせた。
 これを書いている時に、日本のベテラン名山岳ガイドがダウラギリで行方不明のニュースが流れた。あらためてダウラギリで死なずに、槍平で死んでしまった後輩の不条理を思った。

合掌。

*チムニー (Chimney) …本来は煙突のこと。 登山用語で、人が全身を入れられる程度の幅をもち上下方向に走る岩壁上の割れ目のこと

→2007年の今日のたん譚


→2009年の今日のたん譚
















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