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2002年03月13日(水) 生きている人、死んだ人



春先うらら、法然院の墓地に散歩、佇み歩く。

河上肇の墓の前、

碑に「多度利津伎布理加幣里美禮者山河遠古依天波越而来都流毛野哉」
「辿りつき振り返り見れば山河を越えては越えて来つるもの哉」

 この社会主義経済学者は今ほとんど忘れ去られた。多くある社会主義関連の著書他に、「貧乏物語」というのがあるが、それを読むのだったら、ビートたけしの「たけしくん、はい!」を読むほうが貧乏がわかる。社会主義・共産主義には、自分を笑い飛ばすユーモアが決定的にない。花も線香も手入れの跡も無し。すなわち死んで久しき人。

谷崎潤一郎の墓の前、

白い花が六つの花差しにそれぞれ祀られて、この作家はまだ、現代でも忘れられていない事がわかる。著作の「陰翳礼賛」は現代の建築にも、多く考える事をさせる力を持つ。日本画家の福田平八郎夫婦と仲良く隣り合って、静かにたたずまう。 ともに、今も生きている。

九鬼周造の墓の前

 18世紀後期の江戸に発生した美的理念「いき」を、ハイデッガーの論理と方法論を用いながら、初めて本格的に学問的に取り上げた。何も、西洋の思考法を使って、だから日本固有のものだなんて言わなくってもねぇ。

「いき」は日本のオリジナルと主張した。英・独語のシックがいきと訳されているが諸事についての「巧妙」の意味をもっていた。chic の原形は schick でschicken から来たドイツ語らしい。その語をフランスが輸入して、次第に趣味についての elegant(2ヶ所のeにアクサン・テギュ)に用いるようになったようだ。

この人もほとんど忘れ去られている、江戸の粋も、殆ど失われた。この人は今危篤状態。

内藤湖南の墓の前

 シナ史学(東洋史学という学問のジャンルは、明治の後期まで依然として江戸時代の古色蒼然とした<漢学>の殻を引きずっていた。内藤湖南は在来の漢学を一変させて、人文科学的なシナ学に改革した先覚者)のみならず、日本史にも新風を吹き込んだ。江戸期の儒学、医学、国学について独創的な意見を発表し、近世文学史論を執筆している。江戸中・後期の無名の独創的思想家、富永仲基(とみながなかもと)や山片蟠桃(やまがたばんとう)を発見した。在野の学者(本業は商人)でもある仲基や蟠桃は、ものごとからその本質を抽出し、実証性を高く評価するとともに、徹底した合理的思考を展開した。

この後、宮崎市定、他が出て、現在も支那学は当の中国よりも進んでいる。学問的には生きている人、一般にはもう死んでいる人。

時折、うららかな日、ここに来て死んでいるけれども、まだ活きのある人達と語らうのである。 










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