2003年10月19日(日)  100年前の日本語を聴く〜江戸東京日和

100年前の日本語を聴く」というポスターに興味をそそられ、江戸東京博物館へ。パリ万博の際に世界各国から集まった人の声を録音したものを公開する試み。スクリーンに映し出されたレジュメをもとに研究学者の方が解説をし、それに添って録音を再生していく形で、言語学学会を聴講させてもらっているようなアカデミックな内容だった。

「パリ万博で人気を博した日本の五重塔が六重塔になっていたのは、フランスでは1階を0階と数えるから、5階建ての塔を作ろうとして6階になったのでは」といった興味深い話も聞けた。百年前、緊張してマイクに向かった人達の声を今の日本で聞く不思議。大昔のように感じるけど、言っていることはちゃんとわかる。タイムマシンに乗って百年前の人に会うことがあっても、話は通じるぞ。パリ人類学協会の厚意により、ネット上で一部公開されているので、興味のある方はこちらの下のほうにある「パリ録音(1900)の見本」をクリック。

ついでに企画展「東京流行生活展(11/16まで)」をのぞいたら、これがまた食べるものと着るものが大好きなわたしのハートを鷲づかみ。

竹久夢ニの小説「恋愛秘話」(1923 大正13年)の一節《昔は、見そめる、思ひそめる、思ひなやむ、こがれる、まよふ、おもひ死ぬ、等等の言葉があった。今は一つしかない。「I LOVE YOU」》にしびれたり、考古学ならぬ考現学を提唱し、今を生きる人々が何を身に付けどのように行動したかを観察し、まとめ上げた今和次郎(こん・わじろう)という学者を知ったり(この人の描いた「銀座のカフェーwaitress服飾特集」や「丸ビルモダンガール散歩コース」などのスケッチは、「散歩の達人」にそのまま使えそうな今っぽさと味がある)、昭和40年代の大東京土産「空気の缶詰」に印刷された「汚れた空気の缶詰 田舎では得られない珍品」のコピーに吹き出したり、昭和47年に康康・蘭蘭が来た頃のパンダブームの頃のぬいぐるみを見て、「わたしも持ってたー」と懐かしくなったり、一人百面相をしながら大正から昭和を駆け抜ける。

映像ホールでは昔の映像を無料公開。昭和30年代に作られたという東京の最新観光事情をまとめたフィルム。当時の東京観光の人気ベスト5は「皇居 東京タワー 羽田空港 霞ヶ関ビル 浅草」。「交通ラッシュも高速道路も観光対象」だったらしい。観光とは日常を離れた体験をすることなので、東京の人にとっての観光は「前衛演劇」であり、そこで「芝居よりも若者の風俗を見ていた」そうな。うーん、あなどれない奥深さ。江戸東京博物館はかなり遊べるぞ。着物体験なんてのもやっていた。

夜は駒込にある旧古河庭園へ。秋バラの季節で10/1〜19の10日間だけ夜のライトアップを行っている。足を踏み入れたのは初めてだったが、洋館とイギリス風の庭園と日本庭園が共存する夢のような場所で、行き交う人々の表情もどことなくうっとり。外国の庭を歩いているような夢見心地を味わう。特設テントではビーフシチューの前に行列。グラスワインを売っているのも気が利いている。期間中の土日だけコンサートを行っていて、今夜はマリンバの合奏。軽やかな音色のハーモニーが広い庭を満たした。今年は江戸開府400年。歴史のある街に住むのは面白い。

2002年10月19日(土)  カラダで観る映画『WILD NIGHTS』


2003年10月15日(水)  このごろの「悲しいとき」

黒いスーツに身を包み、真顔でファイティングポーズのまま「悲しいとき……」と身の回りにあるトホホな出来事を淡々と訴える二人組『いつもここから』。彼らのネタを聞いていると、悲劇と喜劇は背中合わせだなあと身につまされる。取り返しのつかない惨劇は別だけど、本人が「悲惨だったよー」と半分笑って振り返れるぐらいの災難は、同情よりも笑いを誘う。わたしの場合、受けを狙ってギャグを言っても無視されるか叱られるのがオチなのに、わが身にふりかかった悲しい話はやたらと受ける。というわけで、今日は、「最近の悲しいとき」特集。

【悲しいとき1 地震で胸だけ揺れなかったとき】
先日東京で震度4の地震があり、職場の高層ビルにいたわたしは入社以来最大の揺れに震え上がった。その夜、ダンナに「怖かったー」と報告すると、「それでも揺れなかったんでしょ、君の胸は」。なんせ低層ですから……。

【悲しいとき2 お化粧したら病人にされたとき】
貧血のため会社を午前半休。回復したので午後になって出社すると、同僚たちが「大丈夫? やっぱり顔色悪いよ」。血の気が戻るまでの間、ヒマなので珍しくしっかりお化粧しただけなのに……。

【悲しいとき3 しおれたポインセチアと一緒にされたとき】
職場の窓辺に置いたポインセチアがしおれていた。水はあげてるのになぁ、と男性社員たちが首を傾げていたので、「霧吹きをしたら元気になるよ」と教えると、「そっか、空気が乾燥してるのかぁ」と納得、感心される。調子に乗って「ほら、わたしもどんどんしおれてるでしょ」とボケてみると、「なるほど」と納得されてしまった。そんなことないよ、と軽く突っ込んで欲しかったのだけど、霧吹きが必要なのはポンンセチアよりわたしだったか……。

この手の話は同情を煽れば煽るほど、聞き手の笑いのツボを刺激して,ドツボにはまる。それもまた悲しい。


2003年10月12日(日)  脚本家・勝目貴久氏を悼む

■「おじさんが亡くなりました」と友人のカツメからメール。「おじさん」とは、脚本家の勝目貴久(かつめ・たかひさ 本名吉彦=よしひこ)氏のこと。姪の友人(つまりわたし)が脚本を書いていることを聞き、「だったらシナリオ作家協会に入ったほうがいいよ」とすすめ、入会の際の推薦人を引き受けてくださった恩人だ。脚本家としては、新人映画シナリオコンクール(1990年より新人シナリオコンクール)の第6回(1956年)に「血友家族」で当選を受賞。第5回までは佳作または選外佳作受賞者しか出ていないので、コンクール初の当選だったようだ。「うなぎとり」(1957) 「素敵な野郎」(1960) 「情熱の花」(1960) 「小父さんありがとう」(1961) 「太陽を射るもの」(1961) 「山男の歌」(1962) 「われら人間家族」(1966) 「ともだち」(1974) 「アフリカの鳥」(1975) 「四年三組のはた」(1976) 「新どぶ川学級」(1976) 「残照」(1978) 「お母さんのつうしんぼ」(1980) 「仔鹿物語」(1991) 「小さな仲間」などの映画のほか、テレビドラマも多数手がけられていた。享年69才。3か月前にお会いしたときの元気な姿が記憶に新しいので、訃報はあまりに突然だった。■「おじさんをいまいに紹介するまで実はあまり交流がなく、『幻の叔父』だったんだけど、いまいの事で(シナリオ協会に入る時とか)電話を掛けてきてくれたり手紙をくれたりして、身近な人になったの」とカツメのメールには書いてあった。シナリオ作家協会に入ってからは、姪の彼女よりもわたしのほうが勝目氏と頻繁に会い、言葉を交わす機会に恵まれていた。とても面倒見のいい方で、協会の集まりでお会いすると、知り合いのいないわたしにせっせと人を紹介し、「姪の友人で、将来有望なライターなんですよ」と持ち上げてくださった。カツメにもわたしのことをうれしそうに話してくれていたのだという。カツメのメールは続く。「いまいの記事が載っていた月刊シナリオ(だっけ)を郵送してくれたお礼を延ばし延ばしにしていて(なおかつおじさんはその事を気にしていて)結局お礼が言えなかった…後悔」。わたしも勝目氏に期待されたり心配されたりしながら、何にも応えられないままのお別れとなってしまった。いつも「どうやったら日本の脚本家の質と地位が向上するか」を真剣に考え、「今井さんも自分のことだけじゃなくて、後に続く脚本家のことを考えてほしい」とおっしゃっていた大先輩。わたしのうれしいニュースを一緒に喜び、悔しい出来事にはわたし以上に怒ってくれた心やさしい人。そんな風に仲間や後輩と関わりあえる脚本家になりたいと思う。カツメのおじさん、ご冥福をお祈りします。

2002年10月12日(土)  『銀のくじゃく』『隣のベッド』『心は孤独なアトム』


2003年10月11日(土)  わたしを刺激してください

■「わたしを刺激してください」。三年前、わたしが初対面の年上の男性に言った台詞である。言った本人は覚えていなかったが、言われたほうは衝撃的な一言としてしっかり胸に刻んでいた。「いきなり面白いことを言う人だなあとびっくりしましたよ」と先日その方に言われ、こちらこそびっくりするやら恥ずかしいやら。彼、Y先生とは放送文化基金主催のアットホームなパーティーで知りあった。小児精神科医であり、テレビドラマにアドバイスをされることもあると紹介された。ウェルニッケ脳症という記憶障害を扱ったラジオドラマで放送文化基金賞を取ったばかりのわたしは「医学のことをもっと知りたい!」という好奇心と「まだまだ書くぞ!」という意気込みのあまり、思わずそんな刺激的な言葉を口走ってしまったのだろう。■普通は鼻息の荒い駆け出し脚本家の言葉など受け流してしまうのではないだろうか。Y先生がすごいのは、「これは期待に応えて刺激しなくては」と行動に移したところ。パーティーの数日後には本のぎっしり詰まった紙袋を両手に提げて現れた。ハンセン病や福祉関連のものが中心で、夭逝画家の話と詩集が数冊。どれも手に取ったことのない本ばかりだった。読み終えると、ドサッと新聞の切り抜きファイルが届いた。「自分が持っているより、あなたが持っているほうが役に立つでしょう」と。昭和4年生まれの先生の同世代の方々も次々と紹介していただき、一挙に70才代の知人が増えた。浅草サンバカーニバルの生写真を薬袋に入れて「元気のもとです」と配る先生は、同級生の間でもユニークな存在らしい。■好奇心旺盛な先生は演劇やコンサートも精力的に見に行く。先日はベニサンピットでのtpt第44回公演「スズメバチ」をご一緒した。舞台も興味深かったが、その後に立ち寄った寿司屋がまた面白かった。誰にでもバリアフリーな先生といると、色がにじむように話の輪が広がる。お店の大将や常連さん(後でベニサンピットの専務さんとわかる)と会話が弾んだ。別れ際に「使用済み切手を集めている」と話したところ、翌々日にどっさり送られてきた。切手を納めた封筒には、タイプで印字されたLENNOXなる人の住所。「Lennoxは私が1965年に留学したときの師匠Lombeozoのまた師匠で、てんかん病の大学者、大先輩です。現在もこの住所でLombeozo(そろそろ90才)が開業しています」と説明が添えられていた。そして今日は、「人類の規格を75センチにするという計画があるって聞いたことあります?」と電話があった。人間を小型にすれば家も車も省エネサイズで事足り、資源節約につながるという発想。冷蔵庫も今の半分の大きさで済み、その分電気も食わない。先生のまわりではまことしやかな噂になっているらしい。「そんな話、初耳ですが」と言うと、「でも、SFの題材にはなりそうですねぇ」。先生の刺激は衰える気配がない。


2003年09月30日(火)  BG SHOPでお買い物

■手に取って見られないものを買うということに、どうも不安がある。とくに身につけるものや雑貨の場合は、写真だとサイズがよくわからないし、色も実物を確かめたい。というわけでオンラインショッピングで買うのはチケットぐらいにとどめていたが、どうしても欲しいものを見つけてしまった。お店の名前はBG SHOP。いまいまさこカフェやパコダテ人の掲示板の壁紙をお借りしているFree BG Shopさんが今年2月にオープンしたインテリア雑貨ショップで、ホームぺージ素材のデザインにも発揮されているバツグンのセンスが光るバッグや雑貨やファッション小物をそろえている。メルマガはいつも受け取っていたもののじっくりお店をのぞく機会を逃していたのだが、先週ついに開かずの扉を開けてしまったら引き返せなくなった。「暮らしに色とデザインを。をコンセプトに、色と柄に注目した雑貨を販売」なんて、わたしのためにあるような店ではないか!その商品がいちいち誘惑してくるので、片っ端から一目惚れしてしまって、もう大変。さすがに店を買い占めるわけにいかず、悩みに悩んでクッションカバー2つとトートバッグとハンドバッグを購入。それが今朝届いたのだが、包みを開けた瞬間、「わあ!」という感じ。レトロなクッションカバーは想像以上にきれいな色だし、オランダのデッドストック生地で作ったイチゴバッグも存在感バツグン。A4サイズが入れば打ち合わせにも便利なんだけど、「イチゴありき」のデザインなので、B5サイズでよし。イチゴ君はうちに来るために生まれてきたんだよね。ハンドバッグの花柄生地もオランダのデッドストック。着物リメイクワンピに合わせるのが楽しみ。面白くてクオリティもあって、とても気に入ったので、これからはちょくちょくお店をのぞいてみるつもり。欲しいものが必ず見つかってしまいそうで怖いのだけど。


2003年09月27日(土)  ハロルド・ピンターの「料理昇降機(THE DUMB WAITER)」

「料理昇降機」というタイトルに惹かれ、劇団ストレイドッグ番外公演を見てきた。工藤剛さんと古川康大さんの二人芝居で、どこかの地下室と思しき部屋で物語は進んでいく。最後まで一生懸命「これはこういうことか」と推理しつつ見ていたのだが、難しいお芝居だった。二人はどうやら殺し屋らしいというのはなんとなくわかった。誰かを殺すべく指示待ちしているのだが、ラストで、ガスと呼ばれる片割れが相棒に撃たれて死んでしまう。なぜなんだ。何があったんだ。そして、昇り降りしてメニューの注文を出すだけの料理昇降機は本当にあれでよかったのか。謎を残したまま幕は下りた。

打ち上げに参加させていただいた席でストレイドッグ主宰の森岡利行さんや昨日に続いて2度見て内容を理解したという駆け出し脚本家の千葉嬢に話を聞いてわかったのは、「原作の英語の戯曲では料理昇降機が出してくる注文メニューそのものがジョークになっていて、そこで観客は笑うらしい」「ガスに火がつかないシーンがあったが、殺された男の名前もガス(gas)なので、Fire gas(ガスに火をつけろ)はガスを殺せとダブルミーニングになっている」といったことだった。つまりはイギリスの劇作家ハロルド・ピンターの原作が日本語になったときに、何かが落ちてしまっているらしい。

原題は「THE DUMB WAITER」。DUMBには「口のきけない」「うすのろ」といった意味があるが。このタイトルにはその両方が込められているのかもしれない。物言わぬ、まぬけな料理昇降機が、階下にいるのはシェフではなく殺し屋だというのに料理を注文してくる。もちろん本当は料理昇降機のほうがウワテで、彼は「今夜の標的をどう調理するか」の注文を出しているわけなのだが。

一見バカげたメニューなんだけど、殺し屋たちにはドキッとする響きのあるメニューになっていると面白い。たとえば、「めんどりの血祭り」に昨日の殺人を思い出したり、「逃げ足の速い豚の丸焼き」に自身の不吉な運命を感じたり。料理昇降機と殺し屋の「やりとり」から、観客は二人が背負っているものを読み取っていく、その部分が今回は弱かったように思う。命令どおり男がガスを殺した後に料理昇降機が再び降りてきて、「WELLDONE」(「よく火の通った」と「上出来」のかけ言葉)というブラックユーモアはどうだろう……などと空想をたくましくしてしまうのは、この原作にそれだけそそる魅力があるということ。料理昇降機と殺し屋という組合せを思いついた時点で、ほとんど勝利を手にしているといえる。後はこの設定でどこまで遊べるかが勝負。「自分たちでもっともっと面白くできる作品だと思うし、ぜひ再挑戦してほしい」と出演の二人に伝えた。

お芝居も映画も、見るものはなんでも栄養になっていると思うが、今夜は翻訳劇の難しさと面白さについて考えることができてよかった。海外の名作を自分なりに翻訳してみたいという目標ができた。

2002年09月27日(金)  MONSTER FILMS


2003年09月26日(金)  映画の秋

■会社の仕事が少し楽になったので、9月後半は充電期間と名づけていろんなとこへ出かけている。気になっていたカフェに行ったり、芝居を観たり、映画もせっせと見ている。今日はブルース・ウィルス主演最新作「ティアーズ・オブ・ザ・サン」の試写会(一般試写は国内初)の後、有楽町のシネ・ラセットで遅まきながら「デブラ・ウィンガーを探して」。ティアーズ〜のほうは、現代のアメリカを象徴しているような作品。力を力でねじ伏せる、血を血で洗うことが正当化されているようで、後味が悪かった。暴力はいけないが、暴力を封じる力は何をしても許されるのだろうか。デブラ・ウィンガーはいろんな人から聞きかじりすぎて新鮮味がなくなっているかなと心配したけど、女優さんたちの生の言葉が想像以上にリアリティがあって、共感できた。ハリウッド女優が考えていることと自分が考えていることがルックスほどはかけ離れていないんだとわかり、雲の上の彼女たちが少し近く感じられた。ハリウッド映画を見る目が少し変わりそう。■先週シネスイッチ銀座で見た「名もなきアフリカの地で」はナチの迫害を逃れてアフリカに移住したドイツ人一家の物語。前評判が高すぎて期待が最大値になっていたので、その割には…と評価は目減りした(アフリカに不満たらたらの妻の気持ちがわからない)けれど、少女と現地の賄い人との交流は微笑ましく、彼女の目線で全編を見れば愛せる作品だった。

2002年09月26日(木)  ジャンバラヤ
2001年09月26日(水)  パコダテ人ロケ4 キーワード:涙


2003年09月25日(木)  ディズニー・ハロウィーン

■クリスマスと並んで大好きなイベント、ハロウィーン。クリスマスに負けず劣らず日本でもおなじみになりつつある。東京ディズニーランドの「ディズニー・ハロウィーン」も今年は例年の10月限定からひと足早く9月20日から。しかも、20周年だから特別ということで、連日仮装OK。ミーキーとおそろいのオレンジの帽子やプーさんのカチューシャでプチ仮装したゲストがあちこちに。アリスになりきった女の子やミッキーになった男の子も。わたしの仮装は他のお客様のご迷惑になりそうなので自粛。■「アフター6パスポート」で入ったので、園内はすでにライトアップされて、夜の世界。トリック・オア・トリートといえば夜なんだけど、ディズニーのハロウィーンは色とりどりの昼も見てみたい。カボチャやオバケのデコレーションの前は、どこも記念撮影の人だかり。いつもと同じ道を歩いているのに、違う景色。場所そのものが変身している。ほどよいにぎわいはあったけど休日ほど混んでなくて、アトラクションの待ち時間も少なくてスイスイ。「ホーンテッドマンション」「プーさんのハニーハント」「スプラッシュマウンテン」「カリブの海賊」など8つのアトラクションと食事も楽しみ、閉園の10時過ぎまでめいっぱい遊んで大満足。■一緒に回ったKさんは、大阪からバスでやってきて、バスで帰って行った。0泊3日の強行スケジュールだが、1日遊び放題の1デーパスポートつきで10800円と驚きの価格。「でも夜行バスとちゃうねん。2階建ての観光バスやで」。元は取れるけど疲れは取れなさそう。

2002年09月25日(水)  宮崎・日高屋の「バタどら」
2001年09月25日(火)  『パコダテ人』ロケ3 キーワード:遭遇 


2003年09月22日(月)  花巻く宮澤賢治の故郷 その3

大沢温泉自炊部の食堂『やはぎ』で朝食。横のテーブルでは、声のよく通るお坊さんが「結婚は人生最大の修行」と力説。その理由は「結婚すると飛べないから」。結婚して悟った真実なのか、結婚しない口実なのか。朝定食は山の幸と海の幸の体にやさしい献立で650円。

食堂も安いが宿は破格に安い。「1 万1 千円です」と言われて「ひとり分ですか?」と聞き返してしまったが、ふたり分2泊のお値段。素泊まり料に各種貸し出し料が加算される仕組みで、まくらは1泊10円、浴衣は50円也。

送迎バスで大沢温泉を後にする。客が乗り込みはじめ、バスが出発するまで旅館の方が4人、見送りに出られ、最後まで手を振ってくれた。その中に、義父が「立派な人だよ」と激賞している女将さんの姿も。恵子とわたしが泊まっていると聞き、何度も自炊部まで足を運んでくださり、やっと今朝、お会いすることができた。バスは山水閣前発だったが、自炊部から山水閣へ向かうときは、自炊部の方が外まで出て見送ってくれた。礼を尽くす宿である。

花巻駅までの道中は昨日義父に紹介された女性と隣席になった。賢治さんに影響を受けた詩人の一人、草野心平さんの司書をされていた方で、思い出話などをしてくださる。

林風舎でカプチーノを飲んでいるところにIさんが来て、「賢治学会の頭だけ顔出してきた。後はあんたらを案内してやるさ」。二日続けて申し訳ないですと遠慮するが、「あんたらだけじゃ何見ていいかわからんだろ」と言われると、その通り。お言葉に甘えさせていただくことに。

まずは「賢治さんの産湯に使われた井戸」。ここは和樹さんの叔父さん宅の一角にある。家系図の看板を見て知ったのだが、賢治さんの父方も母方も名字は「宮澤」。井戸は母方の宮澤家にあったものだ。続いて高村光太郎が眠る浄土宗松庵寺へ。「この人と賢治さん、宮澤家はつながりが深いからね、何かと絡んでくるのさ」とIさん。

昨夜の賢治祭の会場、銀ドロ公園には誰もいなかった。きれいに片付けられ、ゴミひとつ落ちていない。祭り自体が幻だったような気さえする。「雨ニモ負ケズ」の碑を昼の光で見る。昭和11年建立、文字は高村光太郎の筆によるもの。この公園にあった「賢治の家」は花巻農業高校に移築されているが、「下ノ畑ニオリマス」の書き置きにある畑は今も公園から見渡せ、この辺りですよと示す目印が立っている。

公園の手前にある同心屋敷は賢治さんとは関係がないが、3百年以上前に建てられた興味深い建物。賢治さんが使った倉庫兼トイレを再現した小屋にも立ち寄る。倉庫を開けると、「賢治先生が使った道具」と書かれた札があったが、「3本460円」と書かれた包みなど、最近のものと思しきものが……。現代の物置になっている様子。
賢治さんが「イギリス海岸」と名づけた北上川の河原は花が咲き乱れていた。水かさが少ないときは川底の泥岩層が露になり、ドーバー海峡の白亜紀層の岩壁を想起させるのだとか。賢治さんはイギリスには行っていないが、地質学に明るく、学術的な観点からこの名をつけたそう。『イギリス海岸の歌』では「なみはあをざめ 支流はそそぎ たしかにここは 修羅のなぎさ」と詠んでいる。

昔は橋の上を郵便鉄道が走り、賢治さんは天の川と地上の北上川と遠くの郵便鉄道を見て、『銀河鉄道の夜』の物語をふくらませたのだとか。犬を連れたかわいらしいおばあちゃんと言葉を交わす。「さようなら。元気でね。また会いましょう」。この人も美しい日本語。
車は坂を登り、高村光太郎山荘へ。高村光太郎は賢治さんと交流があり、東京が空襲に遭うと、花巻に疎開した。花巻も空襲を受け、この山荘へと逃れてきたという。粗末なあばら家と聞いていたわりに大きいと思ったら、もとの山荘に「套屋」つまり外套の家をかぶせているのだった。光太郎さんを慕う地元の人々が木材を持ち寄り、山小屋をすっぽり包む家を建てた。さらにそれを保存するためにもう一層の套屋が建てられ、三層魔法ビンのような構造になっている。

この建物の離れになっているトイレは、壁に「光」の文字を彫り、光取りの窓にしている。陽が差し込むと、「光」の立体文字ができるのだろう。

この地で独り暮らししていた光太郎さんは、妻・智恵子さんを思い続けていた。山荘から坂を登ると、妻の名を呼んだという「智恵子展望台」があり、そこから少し下った泉は「智恵子抄泉」と名づけられ、「山の空気のやうに美味」の言葉が刻まれている。これほどまでに夫に愛されてみたいものだ。

どこへ行っても人気者のIさんにくっついていると、いいことがある。山荘入口の受付にいた女性はIさんの知り合いで、「いいもの見せてあげる。ジャーン」と高村光太郎が地元の小学校の卒業式に出席したときの写真を見せてくれた。一緒に写っていたのは彼女のお母さん。記念館に着くと、「ちょうどIさんに送ってもらった写真を眺めていたとこよ」と高橋さんという女性が迎えてくれる。この人は、生前の高村光太郎を知る数少ない人。サンタクロース姿の光太郎さんが小学生に囲まれている写真を花巻に来てから何度か見たが、その衣装を縫ったのが高橋さん。「ひげは本物の羊の毛よ」。

訪問者が感想をつづったノートには「高橋さんの話が聞けてよかった」という書き込みがいくつかあった。それ以上に「パラゾールくさい」というクレームが目立つのは残念。展示物に見入っていたせいか、わたしは気にならなかった。「展示がしょぼい」という書き込みもあった。確かに宮澤賢治記念館ほど設備は整っていないし、予算をあまりかけられていないのはうかがえる。けれど、地元の人の善意が感じられるあたたかい記念館だと思った。

それにしても、高村光太郎とはすごい才能である。書家であり、彫刻家であり、詩人であり……、「いくらまはされても針は天極をさす」は書としてもすばらしいが、名コピーでもある。

気がつけば帰りの新幹線の時間が迫っていた。「昼も食わせんで引っ張りまわして悪かったな」とIさんは気の毒そうに言ってくれたが、食べる時間も惜しいほど見るべきものがあった。それより、宮澤賢治研究会の一員として参加すべき行事がいろいろあったはずなのに、わたしたちの登場で予定が狂ってしまったのでは。「とんだのにつかまっちゃいましたね」と言うと、「何度でも来たら案内してやるさ」と余裕の笑顔。一緒に改札を入り、新幹線ホームまで見送ってくださる。もう、泣きたくなるくらい、いい人。

「知り合いの娘っていうだけで、ここまで人に親切にできるかな」「わたしたちも見習わないとね」と感謝し、自らを省みる恵子とわたし。車内で遅めの昼食。新花巻駅名物『鮭弁当』は売り切れていたので、同じ鮭が入っているという『花巻』にしたが、期待以上だった。


2003年09月21日(日)  花巻く宮澤賢治の故郷 その2

7時起床。わたしには奇跡的な早さだが、「8時半出勤」で鍛えている恵子は朝風呂を浴びる余裕。一晩中聞こえていた水の音は雨ではなく川のせせらぎだった。今日は宮澤賢治の命日。賢治と宮澤家のお墓参りに向かうと、京都から修学旅行の中学生が来ていた。引率の先生によると、4つあるコースのひとつが「宮澤賢治の足跡を訪ねるコース」なのだそう。

義父は賢治関係の行事に出席のため、盛岡のIさんが車で案内してくれることに。Iさんも賢治研究会の方なのだが、「せっかくのお客さんだもの、賢治さんのゆかりの地を見せてやらにゃあ」と張りきって案内役を務めてくださった。宮澤家の皆さんをはじめ、地元の人たちは「賢治さん」と親しみを込めて呼ぶ。それが何ともあったかくて好ましいので、わたしも真似させていただくとしよう。

わたしと恵子のリクエストで、小岩井農場をめざす。花巻の中にあると勝手に思っていたが、実際は盛岡よりもさらに北上した場所に位置していた。だが、小岩井農場もまた賢治さんとゆかりの深い場所。『花と修羅』に収められた長編詩『小岩井農場』のほか、『遠足引率』という随筆などにも登場している。しかも花巻から百キロの距離を歩いたという。歩くのが好きな人だったらしい。

警察官を定年まで務め上げたIさんは安全運転、地理にも明るい。さらに歴史にも明るい。賢治さんに関することはもちろん山の名前やその山にまつわる昔話まで、観光ガイドと辞書を内蔵しているかのように何でも知っていて、その説明が上手でユーモアたっぷり。「今わからなくても、十年後に思い出してくれたらいいから」とおっしゃるが、すいすい頭に入ってしまう。
現在の小岩井農場は羊とふれあえる牧場や子供用のアスレチック公園などがあり、遊園地化されているが、まずは「賢治さんが訪ねた頃の小岩井農場から見にゃあ」。賢治さんが「気取った本部の建物」と表現した洋風建築。盛り上げた土で作った天然冷蔵庫、ベルトコンベアーならぬ落下式流れ作業で作物を4階から下の階に落としながら出荷商品に仕上げていく倉庫、洋式のサイロや農耕器具。農場の歩みや賢治との交流を紹介する資料館もあるが、訪問客はまばら。「本当の農場はこっちなんだけど、あんまり知られてないのさ」とIさん。Iさんが建立に関わった碑には『小岩井農場』の一節が刻まれていた。

牛乳工場を見学し、ソフトクリームを食べる。あまりの寒さに、湯気の立つものが欲しかったが、ホットドリンクはないとのこと。「ホットワッフル&ソフト」を選ぶ。遊園地のほうの農場『まきば園』へ移動すると、駐車場はほぼ満車、レストランには長い列。ジンギスカンとだんご汁の昼食。あったかさがうれしい。
羊園の小屋では、先週生まれたばかりの小羊がアイドル状態。「こっち向いてー!」とあちこちからカメラが向けられる。外の牧草地にはのどかに草を食む羊たちの姿が。小学生のモップがけのように横一列に並んでムシャムシャ。

農場近くに広がる湿原、春子谷地(はるこやち)にも賢治さんの碑が。後ろには岩手山の素晴らしい眺め。もっと作品を並べて芸術村にする予定だったのが、開発していた会社が立ち行かなくなり、計画が暗礁に乗り上げてしまったらしい。建てたまま使われていない黄色い壁の洋館が見えた。カフェやイタリアンレストランが似合いそうな建物だが、ここまで客を呼び寄せるのはひと苦労だろう。
花巻に戻り、宮澤家に着くと、大勢のお客さんが集まってきた。賢治さんを慕い、命日に宮澤家を訪ねる人たちのために、今は亡き母・イチさんが精進料理を出していた。その心遣いが戦後の今に受け継がれている。「賢治さんのおふくろの味」を守るのは戦前から宮澤家で給仕を手伝っていた女性たち。今も命日に集まり、腕をふるう。

ほどよい甘さのおふかし(赤飯)、生姜が効いた豆腐のおすまし、舞茸と里芋のクルミあんかけ、牛蒡のクルミあえ、野菜の天麩羅、酢の物、お漬物。どれも上品な味つけ。微妙で絶妙なさじ加減は、レシピがあれば再現できるという甘いものではなく、守り伝え、続けていく苦労は並大抵ではないだろう。こんな貴重な献立を、義父にくっついてきたわたしにもふるまっていただけるのはありがたい。

年に一度、この日だけ活躍する器の中には、空襲で焼けずに残ったものもあり、「こちらの器は箱に『喜』と書いてあったので、喜助さん(賢治さんの祖父)のものだと思います」という話も聞けた。
今宵は賢治祭。会場の銀ドロ公園に到着すると、『雨ニモ負ケズ』の詩碑前広場は、子どもからお年寄りまで何百人もの熱気に包まれていた。ここで問題発生。昨日、「賢治祭でスピーチを」と軽くお願いされ、軽く引き受けた。「他にもいろんな人がお話ししますから」ということだったが、プログラムを見ると、そのいろんな人というのは花巻市長や宮澤賢治記念会理事長だったりで、わたしの出番となっている「参加者の中から」のコーナーで話すのは、わたしともう一人だけ。しかもタイトルは「宮澤賢治と私」となっている。

「雅子ちゃん、まずくない?」と恵子が心配してくれる。「そうだよね。語れる立場じゃないよね」と義父に相談すると、「初めて来た感想を率直に話せばいいよ」と言う。幸い、もう一人の方、旭川から来た女性が先にスピーチされ、「今年で12回目です」と熱い思いを披露されたので、「わたしは『初めて路線』で行こう」と腹をくくった。

脚本を書いていることを明かし、賢治さんの作品は教科書程度しか知らないが、脚本や映画の関係者にファンが多いので気になっていたというところから話しはじめた。インスピレーションが沸くことを書き手たちは「降ってきた、降りてきた」と言うが、昨日から賢治さんの足跡をたどっていると、次々と降ってきて、つかまえるのに忙しい。この手につかまえたものは、花巻にちなんで、花の種のようなものではないだろうか。賢治さんが亡くなって70年経つと聞くが、彼の蒔いた種は今でも不思議で面白くて、育ててみたくなる。だから彼の世界に影響を受けた作品が、今でも生まれているのだろう。わたしもせっかく種を見つけたことだし、新しい花を咲かせたい、と話した。

最後に、「今夜ここで披露される歌や舞いやお芝居や朗読も賢治さんの種から生まれた花だと思うし、その花は、この空のどこかにいる賢治さんにも見えているはず」と賢治祭の成功を祈った。

「花の種」のたとえは突然思いついたものだが、スピーチの後の演目が『種山ヶ原』のハンドベル演奏だったのを見て、種でよかったのだと思った。ほほえましい子どもたちの劇、なごやかなママさんコーラス、勇ましい鹿踊り、それぞれに見応えがあった。

進行役の女性も印象に残った。自分の言葉で美しい日本語を話されていて、あたたかく、やわらかく、賢治祭にふさわしい名司会だった。とくに「『ポランの広場』とはどこのことか」を推理するくだり。ポランの語源には諸説あるが、ポランから変化したポラーノという言葉はロシア語で「火」を意味するらしく、「かがり火を焚いているこの広場がポランの広場かもしれませんね」と言われたときは、本当にそんな気がした。この方に限らず花巻の人は言葉遣いがきれいで、「XXがありますでしょう」という丁寧な言い回しが自然に出てくる。

宮澤賢治作品は東京でいくらでも手に入るけれど、その土地に足を運ばないと見えないもの、感じないものがあるように思う。花巻には至るところに賢治さんの蒔いた種が降っている。不思議で、面白くて、興味深い、はてな(WONDER)の種。はてながいっぱいでWONDERFUL。その種は、「なんだろう」と手に取ってみて初めて、花の種になるのかもしれない。

てはてはてなの種 
に取ってみれば 
にが育つやら花の種

2002年09月21日(土)  アタックナンバーハーフ

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