パラダイムチェンジ

2006年12月31日(日) 年の瀬

そんな訳で年の瀬である。

今年の冬は暖かかった事もあり、つい2〜3日前までは、年末って気が
ほとんどしなかったんだけど、寒さを感じるようになるのと、正月を
迎えるための準備と買い物を始めると、ああ、今年も本当に終わりなん
だなあ、としみじみとしてきて。

来年のための準備も全部すませて、後は新年を迎えるだけとなり、
ビールを開けてちょこちょことおつまみを作りながら、だらだらと
新年を迎える予定である。うん、幸せ。

ということで、TV番組を見ながら、だらだらと自分の今年1年を
振り返ってみたい。
でも、今年は本当に充実してたというか、今年が充実してないと言った
ら、多分神様から罰があたるんじゃないかと思うのである。

その中で一番大きかったのは、仕事がらみでNYに行けた事が一番大きい
だろうな、と思う。
念願のブロードウェイでミュージカルも観られたし。
何言ってるかわかんなかったのと、周囲のアメリカ人のテンションの
高さにはビックリしたけど。

他にも、2月には京都に行って、鴨川のほとりを自転車で走り抜けたの
は、とても気持ちよかったし。
後、スペシャルな事としては、ヘリコプターにも乗ったし、東京湾
大華火の時には、ディナークルーズにも行けたし(花火は順延で見られ
なかったけど)。
中々普段では出来ないことが出来た1年だったんだなあ、と思います。
来年は、あんまりスペシャルなことはないかもしれないけれども。

あと、身体を動かす、という意味では春〜夏にかけては週2回のペース
で、水泳にはまったし、その後年末には、ひょんなきっかけで再び
社交ダンスを始めることになったし。

再開する伏線としては、3月にパーティに行って、意外にも自分の身体
が動いたことと、再開する直前に昔のダンス仲間たちと再会したって
いうのも、実は大きいのかもしれない。焼けぼっくりに何とかでは
ないけれど。

でも、まだ身体が動く今の時期にダンスを始めたっていうのもちょうど
よかったんじゃないのかな、とも思うし。
仕事上、身体の使い方とか、構造みたいなものもわかってきた頃なので
昔やってた時とは、理解の仕方も違うし。
昔とは違った意味で、身体が踊っているのが素直に気持ちよく感じられ
るのが、新鮮で面白いのである。

他には、8本の舞台を見る事ができて、中には初めての歌舞伎体験も
あったし、劇団新感線も初めて見る事ができたし。
中でも初めての歌舞伎体験は結構強烈だったので、来年は浅草の新春
歌舞伎を見に行く予定なんだけど、できれば改築される前に、歌舞伎座
でも1回は見てみたいなあ、と思うし。

映画に関しては、今年は例年ほど見たという感じがしなくて。
ハリウッドメジャー系の映画をあまり見に行かなかったせいなのかも
しれないけれど。
だからあんまり印象に残った作品が少なかったんだけど、その中では
ちょっと前にも紹介した「レント」、ジョニーデップは鉄板でしょう、
の「パイレーツ・オブ・カリビアン」、後はリメイクする情熱が素晴らし
かった「キングコング」がTOP3って感じかも。

後はレビューは書かなかったけど小林聡美と片桐はいり、もたいまさこ
の魅力が光った「かもめ食堂」が、邦画では一番かなあ、という感じ。

肝心の仕事についても、今年は自分の身体に対する考え方をさらに進化
させるきっかけがあったので、随分と仕事も面白くなってきて。
外国からわざわざやってくる人たちも随分と増えたおかげで、コンス
タントに英語を使う必要にかられたおかげで、否応なく英語のレベルも
(少しは)上がったと思うし。

という事で、今年は本当に沢山の新しい事もあり、中には残念な事も
あったけど、総じて今年は充実してたんだなあ、というのが素直な
感想なのである。

果たして来年が、今年以上に充実したものになるのかは、来年の年末に
ならないとわからないと思うけど、できればこの勢いを維持して、自分
自身はさらに進化していきたいなあ、と思います。

昨年末に書いた今年の抱負は、「もっと頭と身体を使う」って事と、
「間の抜けた人間ではなく、間に合う人間になりたい」というもの
だった。
このうち、後者の達成度はちょっと微妙だったけど。

という事で来年の抱負は、社交ダンスに限らず踊るという事も含めて、
「動く」っていう事と、もう一つ、自分の中の「面白さ」っていうこと
に関心を向けていきたいな、と思います。

今年1年、この日記とお付き合いいただいて、どうもありがとう
ございました。
来年もよろしければ、お付き合いくださいませ。
それでは、よいお年を。



2006年12月29日(金) 75点主義と、べき乗

ほぼ日刊イトイ新聞で連載されていた、つんくと糸井重里の対談
面白い。
元々は、ゲームボーイアドバンスのソフトの「リズム天国」を元にした
対談なんだけど、その中で語られる、「人は誰でも75点までは取れる」
というくだりが面白いのだ。

これについては、日経ビジネスオンラインに掲載されている、糸井重里
のインタビュー
がまとまっているので、そこから引用させて頂くと、


糸井 「モー娘。」のメンバーって、一言でいえば、やる気のある素人さんですよ。その素人の子たちを芸能界の水準まで鍛え上げて、デビューさせるのがつんくです。彼は芸能界の水準を「75点」という言い方をするんですよ。「芸能界は75点みたいなものだから」と。もちろん、芸能界には75点水準よりも上の人たちがいるんですけど、「75点はちゃんとしてやらなきゃならない」と訓練している。それで、それまで大半の芸能界の人ができなかったリズムで、あの子たちは唄って踊っているんですね。

NBO レベルを引き上げる腕が凄い?

糸井 そう。ただね・・・、つんくの面白さって、別にあることが分かったんです。

 「モー娘。」の女の子たちが踊りながら歌を唄ってます。その姿を見た小学生たちはたぶん真似をします。そうしているとね、これまでの日本人ができなかった不連続リズムの踊りを小学生以下の日本人はできるようになっているんです。それで、日本人のリズム感覚は確実に変わっているの。実は「つんく」はそこまで考えていたんですよ。これは「知性の伝達」です。

NBO  なるほど。

糸井 リズム感って、これまで共有できなかったものでした。言葉で、こうすればいい、と教えられなかったんです。それを「受け渡し可能なもの」に作り替えたのがつんくであり「モー娘。」。彼女たちのおかげで、世のお父さんが子供たちに新しいリズムを教えられるようになったし、一緒に、新しいリズムにのって歌を唄えるようになったんです。

僕はいろいろできることが良いこととは思っていないんです。だけど、もし、ある人が音楽にのせて自分を表現する時、それ以前よりは「表現できる自分」になるわけですから、それはそれで「生まれてよかった成分」は増えますね。(略)

糸井 彼は大阪出身ですよね。彼を含めて関西の人たちって、なぜか京都大学のことをあんまり尊敬していない気がするんです。京大ぐらいならちょっとコツさえあれば入れると思っている。「俺の知っている山田が何かコツを覚えて京大に入ったんだけど、まぁ俺でもできるんだけどね」みたいにね。関西の人の凄みって、よく分からないんだけど、コツという概念がある。
「ちょっとしたコツやね」「コツを教えてくれ」とよく言います。つんくの発想の中にもコツ論があるんですよ。



つまり、最近も何やら新メンバーが決まったらしいけど、アイドル
グループ「モーニング娘。」が芸能人として成立する背景には、
プロデューサーとしてのつんくが、彼女たちを75点まで引き上げる
ノウハウがあるばかりではなく、その事が、モー娘。に憧れた少女
たちの踊りのセンスをも引き上げている、という話で。

そのノウハウを基にしてゲームボーイソフトの「リズム天国」はできて
いるらしいのだ。


で、その「コツさえつかめば、誰でも75点までは行くことが出来る」って
いうのは、結構何にでも応用がききそうな気がするのである。

最近の私は、習い事マニアという訳ではないけれど、様々な事に手を
染めている。
例えば英会話に始まり、今年始めたもので言えば他にピアノ(これは
レッスンを受けてないので余興みたいなものだけど)、社交ダンス、
などなど。
他にも仕事に直接関係する身体論の講習会なんていうのにも出かける
ようにしていて。

で、実際自分が様々なことを習っていても、それを完璧にしようとは
あまり思ってないんだよね。
すなわち、どんなに英会話を勉強したって、外国人と全く同じ様な
完璧な英語は話せないと思っているし、またピアノやダンスにしたって
プロと同じようになるとは思っていない。

でも、完璧に出来ないから意味がないとは思わないのだ。

逆にいえば、何かを継続してやっていくことで、自分自身が変わって
いく、という事が重要なんだと思うし、もう一つは、糸井重里が分析
したように、そこに至るまでに、「コツをつかむ感覚」を養うことの方が
重要なんじゃないかな、と思うし。

自分が変わっていけば、同じような毎日でも段々と見る景色は変わって
くるし、また、もしもそこで「コツ」をつかんでしまえば、その「コツ」は
結構全く関係ない分野でも、活かされると思うんだよね。

で、そのコツが何かといえば、「変わっていく自分を肯定的に捉えられる
かどうか」の様な気がするのである。
つまり、初心者の段階ではヘタレでも、このまま継続していけば、多分
75点まで行かなくてもいい所までは行く事ができる、と確信することが
できたなら、それはその人にとって、自信につながるんじゃないのかな
と思うし。


同じような事を、ほぼ日の対談での糸井重里は、こう発言している。


才能だとか資質だとかっていうのは
じつはそんなに重要なことではない。
それをまず、みんなに
わからせたいなって思うし、
ぼく自身にもわからせたいと思う。
つまり、自分の中にも、隠れたいいところが
いっぱいあるんだって思いたい。

いい年になって、まだ表に出てないものが
自分の中にくすぶってるんだと思うと、
ある意味愉快ですよね。
ちょっとでもそういう芽が出てきたら、
毎日楽しいだろうなあって思うわけですよ。

おっさんたちが、ある年齢になって、
ゴルフにあんなに夢中になるっていうのも、
同じことなんですよね。
ゴルフっていうスポーツは、
入り口のところで運動量が少なくて済むし、
「学ぶことによって伸びていく自分」
っていうのがわかりやすいんですよ。
ハンデという、わかりやすい尺度もあるし。
年をとってゴルフに夢中になる人っていうのは、
もうひと人生、楽しんでるんだと思うんです。

それと同じようなことが
あっちこちにあるんだと思うんです。
たとえば、英語習う人もそうだろうし。



「いい年になって、まだ表に出てないものが自分の中にくすぶっている」
っていう言葉は、実際にいい年になってみるとよくわかるし、それは
希望につながっているんだよね。

何で最近、自分がいろんなものに手を染めているのか、その理由が
この対談を通してちょっとわかった気がしたのである。


そしてもう一つ、私が習い事を始めたきっかけでもあり、また希望の
一つにしている言葉がある。
それが、やはり糸井重里と、脳科学者、池谷裕二の対談本、
「海馬−脳は疲れない」からの引用。


糸井 ここではわかりやすいように、仮に、単なる暗記(意味記憶)を   「暗記メモリー」と呼んで、自分で試してはじめてわかることで
   生まれたノウハウのような記憶(方法記憶)を「経験メモリー」
   と呼んでいいですか?

池谷 いいですよ。そのふたつで言うと、ぼくは「暗記メモリー」より
   も「経験メモリー」の方を重視しています。三十代から頭のはた
   らきがよくなるとぼくが言っているのも、「脳が経験メモリー
   同士の似た点を探すと、『つながりの発見』が起こって、急に
   爆発的に頭のはたらきがよくなっていく」ということだと捉えて
   いるからなのです。

糸井 その経験メモリーの蓄積が三〇歳を超えると爆発的になるという
   のは、数字で言うとどのくらいですか?

池谷 最初のチカラを一としますと、べき乗(たとえば二の何乗)で
   成長していきます。つまり、Aを憶えたあとにBを憶える時には、
   Aを憶えたことを思い出してやるので、まず方法を記憶しやすく
   なるんです。

   そのうえにAとBふたつを知るだけでなく、Aから見たB、Bから見た
   Aというように、脳の中で自然と四つの関係が理解できるんです。
   つまり、二の二乗ですね。
    
   一の次は二。二の次は四。四の次は八。八の次は十六…。
    
   十六のチカラの時には、1000なんて絶対に到達できない
   ように見える。しかし、そこから六回くりかえせばできてしまう
   んです。二の十乗は、1024ですから。

糸井 すごい差だね。四回目で十六なのに、10回目で1024。

池谷 そのままあきらめずにくりかえしていると、二の二〇乗まで行っ
   たとしますよね。

   10回目で1024だったチカラは、二〇回目には、いくつに
   なっていると思いますか?

   …1048576。100万を超えています。

糸井 うわぁ!

池谷 凡人と天才の差よりも、天才どうしの差のほうがずっと大きいと
   いうのは、こうやって方法を学んでいく学び方の進行が
   「べき乗」で起こり、やればやるほど飛躍的に経験メモリーの
   つながり方が緊密になっていくからなのですよ。

糸井 いやぁ、それはかっこいい。

   十六の人は1024の人を天才だと思うだろうけど、1024の
   人が10回やっているところをもう10回増やしている人は
   100万かぁ。

池谷 脳で起こる反応は、直線グラフでは表されないのです。

糸井 「ひとつのことを毎日、10年くらいくりかえしさえすれば、
   才能があろうがなかろうがモノになる」という言葉があるけど、
   やっぱりそれは正しい。

池谷 脳の組み合わせ能力の発展のすごさを考えると、10年やり続け
   れば、経験メモリーどうしの組み合わせは能力を飛躍的に増すで
   しょう。

糸井 目指す位置が遠く見えても「ほんとは遠くはないんだ」と思って
   いたほうがいいくらいですね。



このくだりは以前にも紹介したことがあるんだけど、でも自分自身で
実践してみても、そうだよな、と実感できるのである。

今、私が毎日やっている事って、ラジオ英会話の録音を聞くことと、
初心者用のピアノの教則本を毎朝弾くことである。
このどちらも、時間にしてみれば10分少々でしかない。

どんなに仕事が忙しくても、これくらいの時間だったら、見つける事って
何とかなるんじゃないかな、と思う。
でね、たった10数分でも、チリも積もれば…ではないけれど、毎日やって
いると、やっぱりそこそこ、自分の能力レベルが上がっている気がするん
だよね。

英語のほうは、実際久しぶりに会った外国人にも、レベルが上がった、と
言われているし。
ピアノの方も、最近は、何とか簡単な曲だったら、左手で和音のコードが
押えられるようになってきたし。

で、これは何も毎日にこだわらなくてもいいと思うんだよね。
たとえ2、3日と言わず、結構なブランクが空いてしまったとしても、
以前やって身体に身についている感覚って、やってれば結構思い出してくる
と思うのである。
それがたとえ、三日坊主で終わったものでも、以前三日坊主なりに、覚えた
事って、やり直してみるとその記憶が役に立ったりするのだ。

自分の場合(昔の癖を思い出すという弊害もあったけど)、社交ダンスは、
昔やってた事が、今習っている時に全くの初心者ではないので、役に立って
いると思うし、英語にしても、やっていると昔この単語覚えるのに苦労した
なんて事を思い出したりして。

だから、何でもいいから、何かを断続的でもいいから続けてみればいいん
じゃないかな、と思うのである。
やればやったなりに、多分コツがつかめれば、75点位になると思えば、
その一見険しく見える道のりも、経過が楽しくなるんじゃないのかな、
と思うし。



2006年12月28日(木) 鉄コン筋クリート

今回は映画ネタ。見てきたのは「鉄コン筋クリート」
この映画に関しての印象は大きく分けて二つある。

一つは、「子供たち(かつての子供たちも含む)に、空を飛ぶ感覚を思い
出してほしいなあ」という事と、
もう一つは「この映画がアカデミー賞のアニメーション部門でオスカー
が取れたらいいなあ」である。

「鉄コン筋クリート」は、今から10何年前、私がまだ学生だった頃に、
ビッグコミックスピリッツで連載されていたマンガである。
作者は松本大洋。
数年前に実写化された「ピンポン」と並び、その独特の世界観が魅力的な
漫画家である。
連載当時は、私もむさぼるように読んでいた事を思い出す。
ちなみに私が一番印象的な松本大洋作品は「花男」なんだけど。

で、10数年前の作品という事もあり、最近読んでなかったんで記憶が
あいまいなまま今回この映画を観たんだけど、でも原作の持つ、
松本大洋の描く世界の魅力を再現することに、この映画は成功している
んじゃないのかな。

時間的な配分も、1時間50分という時間を気にすることなく、物語に
没頭できる感じで心地よかったと思う。

特によかったのは、作画もそうだけど、主人公の二人、シロとクロの
声を演じた、蒼井優と二宮和也の声の感じがぴったり合ってたと思う
のだ。
特にシロの方は、蒼井優という女優が演じている感じがしない位、
バッチグーだったし。


この物語の主人公って「街から消えゆく路地裏と、そこに生きる人たち」
なんじゃないかな、と今回この映画を観て思ったのだ。
原作が描かれた頃の日本って、土地バブルの真っ只中で、地上げなどの
都市再開発が花盛りだった頃の記憶を思い出してくれる。

そして今の日本も、都市再開発が盛んになり、路地裏などの見慣れた
懐かしい風景がなくなりつつある、という意味では、今の時代にこの
作品がアニメ化されるのは、タイムリーだと思う。

東京新聞に掲載された監督のインタビューによると、この作品の中に
出てくる商店街の一シーンは、今度再開発されてしまう、下北沢駅前
の商店街をモデルにしている箇所もあるらしい。
こうして私たちはまた、路地裏というものを失っていくのかもしれ
ない。

でそれって、何も日本だけに限らず、例えば上海とか、台北とか、
同じような郷愁みたいなものをこの映画を観て感じる人は多いんじゃ
ないかな、と思ったりするのだ。

だから、この作品が世界に配給されれば、多分アカデミー賞でオスカー
が取れたら、ジブリアニメだけではない、外国人の感じるクールな日本
の魅力みたいなものが、もっと世界に伝わるんじゃないかな、と思う
のである。

で、そういうものの魅力って、多分日本人より、外国人の目を通した
方がはっきりとするのかもしれない。


もう一つは、この映画を、今の世の中の閉塞感にうんざりしている、
今の子供たちとかつて子供だった大人たちに見てほしいなあ、と思った
りするのだ。

で、ええと、ここからちょっと変な話を書きます。
自分が子供の頃って、シロみたいに、空を飛べたと思うんだよね。
それはもちろん、想像の中でだけど、例えば木造二階建ての家くらい
だったら、この屋根を飛び越したらどんな光景が見えるのかなあ、
なんて想像した瞬間が、私たちの子供の頃には、確かにあったような
気がするのである。

それは、ガンダムとかウルトラマンとかTVゲームで遊ぶのと同様に、
空想にふける時間というのが、日常生活の中にきちんと含まれていた
ような気がするのだ。

で、多分自分の場合、小学校を卒業するくらいまでは、そういう空を
飛ぶような感覚が残っていたんじゃないかな、と思うんだよね。
これは昔、原作を読んだときにも感じたことを思い出したんだけど。

今の子供たちって、もしかしてお受験とか、沢山の習い事や、TVゲーム
で、もしもそういう自由に空想できる時間っていうのが無くなって
しまっているのだとしたら、それはもったいないなあと思うんだよね。
そういうのって、その時期にしか出来ないものだと思うし。

だからもしもこの映画を観て、そういう空を飛ぶことの気持ちよさを
感じられたら、それだけでも心が豊かになるんじゃないかな、と思う
のだ。
そういう感覚を大人になって思い出して(ひそかに)持っていることも、
結構貴重なんじゃないかな、とも思うので。



2006年12月24日(日) M1グランプリと笑いとギラギラしたもの

イブの日、TV番組のM1グランプリを見ていた。
プロ・アマを問わず結成10年目までの漫才師を集めて賞金1000万円を
争ってしのぎを削るお笑い番組である。

毎年(悲しいことに?)、このM1グランプリと明石家サンタを見るのが
恒例になってしまっている。
(ちなみに今年の明石家サンタは、若槻千夏が出てた瞬間が一番面白
かったと思うが)

で、今年のM1グランプリは、初めてアマチュアである、素人OLの
2人組が決勝ラウンドに出ることや、以前優勝したフットボールアワー
が再挑戦することが話題になっていて。

ということで期待しながら(年賀状を印刷しながら)見ていたときに、
審査委員長の島田紳助が、予選の途中でこんなことを言っていた。
「今年はまだ、会場の爆弾に火がついてない。もしもこのままやったら
今年は失敗やで」と。

それまでの出場者たちも、決して笑いを取ってなかったわけではない。
でも番組を見ていて、確かに似たような感じは自分も感じていたので
ある。

それが一番印象的だったのは、元チャンピオンのフットボールアワーが
登場した時だった。
今年の彼らの漫才を見ていて、確かに上手いなあ、とは思ったんだけど
以前彼らが優勝したときの印象と比べて、何が一番違うのかといえば、
多分彼らの目に、絶対この賞を獲ってやるぜ、というギラギラしたもの
がなかったような気がするのだ。
まあ、これは一素人の単なる印象でしかないのだけれど。

でね、多分、島田紳助がこのM1グランプリをプロデュースして一番
欲しいものは、そういうギラギラした目を持つ若手の登場だったんじゃ
ないのかな、と思うのである。

多分、このM1グランプリの決勝ラウンドに限らず、準決勝に進出できる
お笑いグループって、技術的にはきっちり笑いが取れる実力を兼ね備え
た人たちなんだろうと思う。

だけど、島田紳助がこの大会の優勝者に求めるものって、この決勝とい
う場で、単に技術だけでなく、笑いの神様が降りてきた瞬間を観客が
目撃し、一緒に体験できること、なんじゃないのかな、と思うのだ。

でそれって、多分、かつての漫才ブームの頃の島田紳助にはあって、
今の島田紳助には無いものなんじゃないかな、と思うのである。

つまり、かつて紳助が紳助竜助のコンビを解散しようと思ったときに、
まだ売れてなかったダウンタウンの漫才を見て決心したように、
こいつらにはかなわんわ、という彼の羨望と嫉妬心を喚起できる位、
会場と観客に愛された漫才コンビにこそ、優勝トロフィーと賞金を
あげたかったんじゃないのかな。

で、考えてみると昨年の優勝者ブラックマヨネーズにしても、その前の
優勝者たちにしても、皆何かギラギラしたものを持っていたような気が
するんだよね。

今年の場合、さっきの紳助の発言のあった直後に出てきた、チュートリ
アルが一番観客を沸かせて優勝し、確かに彼らがこの大会で一番ギラギ
ラしたものを持っていたと思うのだ。
だけど、今回の大会全体を見渡した時のギラギラ度みたいなものは、
今までの大会よりは若干低いものだったんじゃないかな、という気も
して。
いや、だからといってチュートリアルに優勝者の価値がないとか言いた
い訳ではなく。
実際、彼らが一番面白かったし。

個人的な憶測で言うならば、島田紳助にしてみると、毎年決勝に進出す
る、実力者の常連組に混じって、まだ結成したばかりの荒削りだけど
勢いのある若手とか(最初の頃の笑い飯とか)、もしくは今までパッと
しなかったけど(失礼)、結成10年目の最後のチャンスに賭けようという
思いを持った漫才コンビ(昨年の品川庄司とか)が、今年出てきて化ける
ことに期待していたんだろうなあ、と思うのだ。


その一方で、今回初めて決勝に出てきたアマチュア、変ホ長調に対して
紳助をはじめとして審査員の点数が辛かった。
紳助はコメントを求められて「どう評価していいかわからへん、はっきり
言ってボークやし」と言っていた。

その発言を個人的に推測するならば、彼女らのやっていたネタは、プロ
としては、ヤバすぎて出来ないネタだということだろうと思うのだ。
禁じ手というか。
加えて、漫才はテンポと間が命、と思う紳助的には、技術的にも評価が
しにくかったんじゃないかな、と思うのである。

だけどね、実は一番素直に笑えたのって、彼女たちだったんだよね。
それは、初めて見る、新鮮さというのも多分にあると思うんだけど。
素人の自虐的な笑えるブログを読んでいる感じに近いというか。

で、実は今回のM1グランプリを見ていて、改めて人を笑わせるって
難しいんだなあ、と思ったのだ。
演者が、笑わせようと躍起になって肩に力が入ってしまえばしまう程、
(本人たちは百も承知だと思うけど)笑いからは遠ざかってしまう。

だからそこら辺、プロたちは力技というか、自分たちの技術や雰囲気で
観客を笑いに導いていく。
それに対してアマチュアの彼女たちは、いい具合に肩の力が抜けて
見えたのである。
それは、「私たちこんなの面白いと思ってるんだけど、皆もどう?」と
いう、おすそ分けの感覚に近いというか。
多分この辺がブログの感覚に近いのかもしれない。

で、それってプロたちにはやろうと思ってもなかなか出来ないことだと
思うのだ。彼らには生活がかかっているわけだし。
でもね、もしも彼女たちが、他のプロと同じくギラギラして肩に力が
入っていたら、多分決勝までは来られなかったと思うんだよね。
多分、それがアマチュアがプロに勝てる武器になっているのかもしれ
ない。

だから、彼女たちにはいつまでもアマチュアリズムを貫いてもらって
できれば来年もM1の舞台で見てみたいなあ、と思うのである。
アマもプロと同じ舞台で戦える、というのがこのM1の目玉の一つでも
あるわけだし。



2006年12月23日(土) クリスマスおすすめDVD

最近は、毎年クリスマスシーズンに1本、オススメのDVD作品を紹介する
ようにしている。
ちなみに昨年紹介したのが、「最後の恋の始め方」

で、今年は何を紹介しようかと思ったんだけど、今年はやっぱり
これでしょう、という事で、映画「RENT」のDVD(セル版)
またか、と思われる人もいるかもしれないけれど、個人的に今年一番
印象に残った作品が、この「RENT」なんだよね。

作品についての詳しい内容は、今年の4月に見に行った映画版の感想と、
この間見に行ったミュージカル版の感想を見ていただくとして。
実はミュージカル版を見た後で、このDVDを買ったんだけど、いや、
映画版って、実によく出来ているんだ、と感心したのである。

オリジナルのミュージカルの雰囲気を損なうことなく、むしろ実際の
NYの街並みを舞台にすることで、物語の魅力を大きくふくらませる事に
成功していると思うのだ。

そこには、監督のクリス・コロンバスをはじめとして、映画スタッフの
オリジナルのミュージカル版に対しての尊敬の気持ちと愛情が感じられ
るような気がして。

という事で、最近は好きなアーティストのミュージックDVD(PV)を見るか
のごとく、家で暇している時に、この映画の好きなシーン、曲の部分を
BGVとして流していて。
好きな歌だと、一緒に歌いたくなっちゃうしね。


で、私がレンタル版ではなく、このセル版をオススメするのには、もう
一つ理由がある。
それが特典ディスクとしてついてくる、ドキュメンタリーである。

これは、普通の映画のメイキングとはちょっと異なっている。
それは、このオリジナルのミュージカルを作り上げた、ジョナサン・
ラーソンの生涯を、彼の家族、友人、ミュージカルのスタッフ、キャス
トたちのインタビューによって描き出した作品なのである。

ジョナサン・ラーソンは、このオリジナルの舞台の幕が開く正にその
前夜、脳出血によって一人でこの世を去ってしまう。

だけどその彼が死に至るまでの、何年もの長い時間をかけて、この
レントという作品が生み出されてきたんだ、という事がこのドキュメン
タリーによって明らかにされるのだ。

彼は売れない時代、ダイナー(アメリカの大衆レストラン)のウェイター
をしながら、勤務時間を生活できるぎりぎりまで削って、その残りの
時間を作曲に費やしていたらしい。

そしてレント上演の2年前、初めて行なった脚本のワークショップで、
彼の作品に興味を示し、出資してくれる人が現れて、彼はダイナーの
バイトをやめてミュージカル作りに専念する。

だけどその間にも、彼の大切な友人たちが何人もエイズによって亡く
なっていってしまう。
その時の彼の気持ちが、このレントという作品に反映されている、と
いうのがよくわかるのだ。

もう一つは、アメリカのショービス界の舞台裏をのぞける事もこの特典
DVDの特徴で。
日本の場合って、基本的に一つの作品が出来上がるまでには、正味1〜
2ヶ月前から稽古に入って、本番の日もすでに決まっている、というのが
普通だと思うんだけど、アメリカの場合、まずは脚本・曲の読み合わせ
のようなワークショップを開き、そこからキャストを選び、彼らと共に
原石を磨き上げて、作品を作り上げていく、という事を知り。

そこまでして練り上げた作品だからこそ、このレントという作品の持つ
魅力が増していると思うし、初日の前日にジョナサン・ラーソンが死ん
でしまったにも関わらず、それまで一緒に作品に関わってきた残りの
キャスト、スタッフによって、この作品が上演できたんだなあ、という
事がわかるのだ。

で、映画版を作るにあたり、監督のクリス・コロンバスが初演時の
オリジナルキャストにこだわった理由もよくわかる気がするのである。
彼らオリジナルキャストは、ジョナサン・ラーソンと一緒の時間を過ご
したというかけがえのない経験を持っている訳で、クリス・コロンバス
は、その質感みたいなものをこの映画版に残したかったんだろうな、
と思うのだ。

そしてそれは見事に成功していると思うのである。

という事で長く語ってしまいましたが、1989年のクリスマス・イブに
始まり1990年のクリスマス・イブに終わる、この作品を今年のクリス
マスにオススメのDVDとして紹介したいと思います。



2006年12月22日(金) チーム安倍のメッセージ伝達力

安倍内閣を見るのがひそかに面白い。
逆説的だけれど、小泉内閣から安倍内閣に変わって、自民党の偉い人
たちが、浮き足立つというか、てんで勝手な言動や行動をする反面、
安倍政権の中核とでもいうべき、「チーム安倍」の内閣府の閣僚たちの
行動が、全然見えてきていないあたりが不思議というか、興味深いなあ
と思うのだ。

安倍政権発足当時、首相の肝いりで、内閣府の補佐官を小泉政権の時
より増やして最大5人にして、しかも安倍首相の思想的にも似ていて、
仲のいい人々を結集したはずなのに、マスメディアに彼らが登場して
くる機会がほとんどないのだ。

その中で、ちょっとだけ目立ったかな、と思うのは、北朝鮮の核問題の
時に訪米した小池百合子補佐官くらい。
残りの高市早苗など、他の5人が何をしているのか、ちっともわからない
というのは、隠れて何かを進めているのか、それともマスメディアの琴
線に触れないの、どちらなのだろうか。

まあ、安倍政権になった途端、麻生外相や、中川政調会長が、核議論に
ついての発言をしたり、はたまた郵政造反議員の復党問題では、幹事長
の方の中川議員と、参議院のドンらしい人との間の綱引きがあったり、
当の野田聖子、佐藤ゆかりの女の戦いがマスメディアの政治面を賑わせ
ていたので、目立たないのもしょうがないのかもしれないが。

でも、内閣の顔だっけ?の塩崎官房長官でさえ、その前の小泉政権の
時の官房長官に比べて、ニュースで顔を見る機会が少ない気がするので
ある。

これって、おそらくは重要案件については、内閣の意向を聞くよりは、
自民党の幹部に聞いた方が早い、と少なくとも政治部の記者たちは
思っているって事なのかな。
すなわち、マスメディアもすでに、安倍総理周辺の発言力というのを
軽視し始めているって事なのかもしれないな、なんて思ってみたり。

で、これってうがった見方をすると、視聴率の取れなくなったと見なさ
れてしまったTVタレントの様な感じなのかもしれない。

で今回、その「チーム安倍」の中には、前回の衆議院選挙で広報戦術に
よって自民党を圧勝に導いたとされる「広報のプロ」世耕議員もいるはず
なんだよね。
それなのに、その内閣府のメッセージが国民に届いていないっていうの
は、今のところはまだ様子を見ているのか、それとも彼の手腕を持って
しても、安倍総理(周辺)のメッセージ力は弱いのだろうか。

でも、例えば小泉前首相の場合って、ワンフレーズポリティクスと批判
されても、彼が何を言うのか、国民も、そして彼の敵とされた抵抗勢力
と呼ばれた人たちも固唾を呑んで見守っていたと思うんだよね。

で、実際大したことは言わなくても、彼が発言をすれば必ずマスメディ
アでは取り上げたと思うし、反発がおきても影響力ってあったと思うん
だけど、とりあえず安倍総理およびその周辺が発言した言葉で、印象に
残った発言って今のところない気がするのだ。

その一方では、いろんな事の責任があいまいにされたまま、教育基本法
や、防衛庁の防衛省格上げなどの重要法案が決まっていって。
何となく、国民不在というか、彼らがどの辺を見ながら政策決定してい
るのかが、わからないまま、何となくという雰囲気に流される怖さと
いうより、不気味さも少し感じるような感じもあり。

まあ、もっとも、小泉前政権と安倍政権の大きな違いって、その一見
わかりやすいように見えるかどうかの違いしかないのかもしれないし、
また、民主党にしたって、小沢さんになってから、じゃあマスメディア
の登場回数が増えたのか、と言われればそんな事はないわけで。
どっちもどっちといえばその通りのような気もするのだ。
それで果たしていいのか、という気もするのだが。

本当は、ニュースやワイドショーで政治スキャンダルとか猿山のボス
争いだけが注目されるのではなく、政策について政党同士もっと活発な
議論が起きたほうがいいような気もするんだけど、それが果たして面白
いのか、と言われると何ともいえないし。

果たしてこの先、安倍総理とその周辺の発言力は段々と増してくるのか
それともこのままなのか、その辺の不思議な感じがちょっとだけ気に
なる今日この頃なのである。



2006年12月20日(水) ハチミツとクローバー10巻

という事で今回はマンガネタ。
遅ればせながらというかついにハチクロの最終巻を買ってしまったので
ある。
なんていうか、自分の気に入ったマンガとかって、ここで終わりって
わかっちゃうと、その終わりが来るのをちょっとでも先延ばしにしたい
って気になってしまうのである。

とはいいつつも、やっぱり年内にはけりをつけようという事で、
この前の日曜日、群馬に行ったついでに購入。
で、結果といえば、期待通り?に号泣しましたよ。
竹本とはぐの最後のシーンで。
しましたが何か?(電車内で涙ぐんで恥ずかしいので開き直ってる)

まあ、読む場所を間違えた、というのはある訳ですが、
この最終巻は、本当、最終回に向けての着陸態勢だったんだなあ、と
しみじみ。

で、読み終わった余韻を楽しみながら、一言印象を書くとするならば、
このマンガって、ただ単に片想いの恋愛マンガなのではなく、その間の
成長っぷりを描いていたんだなあ、という事で。

この作品の登場人物って、皆がみんな、片想いをしている訳で。
ある人は才能に片想いをし、またある人々は、自分の方を振り向いて
くれない誰かに片想いをして。
はぐにしたって、芸術の神様に片想いをし続けているといえる訳で。

でもね、この作品は、単なる片想いの切なさだけを描いているのでは
ないと思うんだよね。
人が、本気で何かに打ち込んだり、誰かを好きになることが、人を
成長させるんだ、という当たり前の事かもしれない事がどんなに素敵な
ことなのか、という事に気づかせてくれると思うのである。

その事が、若者たちを(森田でさえ)少しだけ大人にして、そして既に
大人になってしまった人たちには、青春スーツを再装着させたんだろう
なあ、と思ったのだ。
そして彼らは物語が終わった後も、その片想いは(様々な形に姿を変えて
も)、今も続いているんだろうなあ、なんて思ったり。


で、自分の事に振り返って考えてみると、自分がこの2年間、充実してた
って感じるようになったきっかけの一つって、2年前にこの作品を読み
始めたっていう事もあるのかもしれないな、と思うのである。

2年前と、今の自分の一番の大きな違いって、何かに本気で取り組めば、
たとえ自分の望んだ結果が得られなかったとしても、期待以上の大切な
何かは、必ず自分の所に残る、という事を再び素直に信じられるように
なった、というのが大きいかもしれない。

多分、それまでの自分って、自分が何かに本気になることに、ためらい
というか、正直避けようと思っていた部分があったと思うんだけど、
今の自分って、自分が本気で何かに向かっていくことについて、ためら
う気持ちがなくなった、というか。

逆にいえば、本気にならなきゃ手に入れられないものがあるとして、
その価値の重要さが、よくわかる気がするというか。

だから、今自分は仕事に限らず、様々なものに取り組んでいるけど、
それら一つ一つに取り組んでいるときは、全力にはなれなくても、
本気で取り組んでいたいな、と思うのである。

中途半端な気持ちでやるのは、何かもったいないな、という気がする
というか。
そして、多分人間って、自分が大切だと思うものほど、労力を惜しまな
いというか、手間ひまをかけられるんじゃないのかな、と思うのだ。

まあ、全てのものに本気になる必要はないと思うし、できないと思う
んだけど、でも少なくとも一つ以上、小さな事でもいいから、何か
本気になれるものを持ち続けていたいな、と思うし。

だから多分、この先も自分にとってこの「ハチミツとクローバー」という
作品は、事あるごとにまた読み返して、自分の立ち位置を確認したく
なる作品になるのかもしれない。

そして私自身は、「ポスト・ハチミツとクローバー」の境地になっていけ
たらいいな、と思うのだ。
とりあえず来年また、魅力的な作品に出会えることを願いつつ。



2006年12月11日(月) エルミタージュ美術館展

日曜日、上野の東京都美術館に、エルミタージュ美術館展を見に行って
きた。
エルミタージュ美術館というのは、ロシアのサンクトペテルブルグと
いう街にあり、帝政ロシア時代の王宮があった場所である。
日本で言えば、京都御所みたいな感じ?(ちょっと違うと思うけど)

で、実はサンクトペテルブルグは、もしも機会があるのなら、ロシアの
中では一番訪れてみたい街なのである。
写真で見る感じだと、西ヨーロッパの文化に、ロシア独特のデコレー
ションが入り混じって、独自の雰囲気を醸し出しているというか。
これまた日本でいうならば、小京都みたいな感じだろうか(多分ちょっと
違うと思うけど)

今回の会場には、ハイビジョンで撮影された、エルミタージュ美術館内
の風景もスクリーンで流されていたんだけど、これはもう、建物自体が
美術品、という感じなのである。

というわけで、一度は行ってみたい街ではあるが、おいそれと簡単に
行けるはずもないので、今回の美術館展は、個人的に楽しみにしてて。

という事で行った感想はというと、うん、期待を裏切られることなく、
充分堪能できました。
結構、自分好みの作品も数多く展示されていたし。


最近、美術館に時折行くようになって感じるのは、私の絵画に対する
好みの狭さである。
年代ごとに見ていっても、私が足を止めてゆっくり見たいな、もう1回
見てみたいなと思うのは、19世紀中ごろ〜第2次世界大戦前までの約100
年間に限られている、というのが最近わかってきて。

もしもこれが「オーラの泉」だったら、国分太一が「それは何かあります
ね」とか言って、江原啓之が、「以前その時代に生きていたんです」とか
言うのかもしれないけれど、個人的にはどっちでもよく。

いやね、それ以外の時代にも、多分まだ見ていないだけで、いいな、と
思う作品はあるのかもしれないな、と思うわけですよ。
例えば、例外的にレオナルド・ダヴィンチとか、ミケランジェロの作品
は結構いいな、と思うし。

だけど、19世紀以前の作品って、絵のモチーフを強調するために、後ろ
の背景を、断崖絶壁とか、ごつごつした岩山にして、滝とか流している
じゃないですか。(モナリザの背景もそうなんだけど)

なんかそういうのを見ると、うそ臭い感じがして、しらけてしまうので
ある。

で今回、自分好みの作品を、わざわざ行列に並びなおしてまで、何回も
見直しながら感じたのは、自分が好きだな、と思う作品って、その絵の
中の空間に、自分もたたずんでみたいな、と思えるかどうかなのかも
しれない、と思ったのである。

それは必ずしも、精密な描写だから、という訳でもなく、ああ、なんか
この作家の描いている、モチーフとなった場所に行ってみたいな、と
思える作品は、作者から何か温かいものが感じられるので、個人的に
いい作品で。

逆に、どんなに精密な描写で、著名な作家の作品でも、見た感じちょっ
と冷たい感じのする作品は、個人的にはあまり好きではない、という
事がわかったのである。

で、個人的にいいな、と思った作品って、大体1回の展覧会で数点あれば
いい方なんだけど、その好きな作品の場合には、絵の中に引き込まれる
感じがして、見ていて飽きないというか。

大体の場合、わざわざ順路をさかのぼってまで、もう一度見に行ったり
してしまうので、もしも誰かと一緒に見に行った場合、結構迷惑だった
りするのかも。
興味のない絵の場合には、本気で素通りしちゃうし。

今回の展覧会でも、個人的にほれ込んだ作品があって、その中で、
ミュージアムショップでポストカードを買ったのが、次の3点。
(ということで、ポストカードのスキャン画像)








あともう一点、女官たちの水浴とかいう題名の絵もよかったです。
いえいえ、ヌードがよかったんじゃなくて、周りの空間の広さが感じ
られる辺りがですが。

これらの絵って、例えばポストカードや、図録や、こうして画像として
縮小しちゃうと、その絵の持っていた迫力って消えちゃうと思うんだよ
ね。
やっぱり、絵は生に限ると思うし。

だけどこれらの絵って、もしかすると今後一生、もう生の絵を見る機会
はないかも知れないわけで。

少なくとも、細かなデティールのことは忘れてしまうと思うんだけど、
こういう自分が好きだと思った絵を見た時の、自分が感動したという
質感(のかけら)位は、記憶に留めておきたいなあ、と思ったりして。
ということで、最近、美術館に行ったときには、好きな作品のポスト
カードを買うようにしているのである。

何にせよ、いい絵を見せていただいて、眼福の時間でした。
エルミタージュ美術館展は、12月24日まで開催しています。



2006年12月06日(水) NODA MAP「ロープ」

今回は演劇ネタ。観てきたのは、野田秀樹の「ロープ」。
公演2日目という事もあり、出来不出来とか、詳しい内容には触れずに
印象のみ箇条書きにすると。

・物語は、弱小プロレス団体を舞台にして、八百長と、暴力が暴走して
いく様を描いた作品。

・藤原竜也が、プロレスラー役で、四角く斜めに傾いたリングの中で、
トップロープにのぼったりと、縦横無尽の大活躍。
っていうか、役者ってやっぱりすごいわ。
あと、思ったより身長高かったのに驚いた。

・宮沢りえは、未来から来たコロボックルの役で、プロレスシーンの
実況中継も行なうんだけど、物語の終盤とか、ずーっと長くて、結構
口にするのもつらい台詞をそんなに噛まずに、言えてたのはすごいと
思った。
っていうか、今回のこの舞台のMVPって宮沢りえなんだろうな。

・野田秀樹と、渡辺えり子の夫婦役が最高。

・橋本じゅんがいい味出してた。
この人を見ると、アンタッチャブルの山崎を思い出すのは内緒だけど。
(今回は特に…)


・今回の舞台となる、四角いリングって、色々なもののメタファーだと
思うんだけど、自分が一番感じたのは、ああこれって、TV画面なのかも
なあ、ということ。
四角いリングの中では、血を見せることも、嘘や八百長も許される
というか。(プロレスが八百長だと言いたいのではなく、そこには、
ストーリーがあることが前提で編集されているのは、同じなのかも
しれないなあ、とか)

・今回、なんでそういう思いを強くしたかと言うと、数日前の、児童の
交通事故写真を小学校教師がWebサイトにのっけていた事についての、
TVニュースの扱い方に違和感を感じたからなのかもしれない。

あのニュースの扱い方って、Webサイトの画面にはモザイクをかけて
ぼやかしているけど、明らかに見る人の「実は見てみたいんじゃない?」
みたいな気分をあおっている気がして。
私はそういうのは見たくもないけれど、見たいという欲望に火をつけら
れた人は血眼でキャッシュとか、ミラーサイトとか捜しているんだろう
し。

・で、そこから飛躍すると、多分私たちにとって、TVの中の戦争って、
どこか遠い世界の話で、自分たちとは関係のない、娯楽にさえなりかね
ない、という事の悪趣味さ、気持ち悪さを、野田秀樹は強調したかった
んじゃないのかな。
バーチャルの中で済まされてしまう世界を、舞台という生の、体感の
世界に引き戻すことで、観客の肉体に訴えかけたかったというか。

・だから今回の舞台のテーマは、未来という名前の村から、「美しい国」
の住民に対する、たましいの叫びなんだろうなと思います。

・舞台のバックスクリーンには、何が書いてあるんだろうと思ってた
けど、あれは多分未来の村の人々の名前なんだろうなあ。

・でも、こういう?複雑な話を、1回ひねってプロレスの話に置き換えて
エンターテイメントとして舞台で表現できる、野田秀樹はやっぱり凄い
なあと思います。
観終わっての爽快感はさすがにないけれど、終わったあともしばらく
色々と考えさえられる、歯ごたえのある舞台作品でした。

・パンフによると、08年のNODA・MAPには中村勘三郎が出演?
(チケット取るの更に大変そう…)


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