パラダイムチェンジ

2007年01月31日(水) そのまんま東知事と「ヴォイス」

先々週の日曜日、元お笑いタレントのそのまんま東が宮崎県知事選挙で
当選を果たして以降、マスメディアはその話題で独占された感がある。
特に先週の週末は、どのニュースワイドショーを見てもそのまんま東
こと東国原知事は引っ張りだこだった。

お笑い芸人が県知事になったことで、最初は色眼鏡で見ていたニュース
メディアも、時間が経つにつれ好意的な解釈をするところが増えたよう
な感じで、それだけ視聴者からも(面白半分であっても)好意的に見られ
ているんだろうなあ、と思うのだ。

個人的にも、繰り返しTVで流されていた、そのまんま東候補の選挙演説
はちょっと耳を傾けたい気持ちになる。
それは、彼の口が上手い、とかそういう感じでもなく。

彼の言葉が単に口先だけでもなく、また知事になって豪勢な生活を
したい、という訳でもなく、本心で郷土の政治を変えたい、という風に
聞こえたと思うのである。
それは多分、地元なまりで、有権者の目を見て話していたからなのかも
しれない。

そしてその態度が、彼の言葉に強い説得力を与えたんじゃないのかな、
と思ったのである。

これから先、今年の選挙では他の政治家たちも、パフォーマンスが大事
だとかいって、無党派層の票を確保しようとおそらくは様々なパフォー
マンスを繰り広げるんだろうけど、一つ大きく違うのは、それが本心か
らなのか、それとも小手先のパフォーマンスなのかを、有権者は結構
きちんと見抜いてしまうんじゃないかな、という事である。

やっぱりね、その場限りでのお愛想笑いで目が笑ってなかったら、
ああ、この人の本心は別のところにあるんだろうな、と思うと思うん
だよね。

今回の結果を見て、有権者の既成政党離れが進んだ、という分析も
聞かれるけれど、そうではなくて、相手がちゃんと私たちの方を見て
話しているのか、を有権者は判断していて、そういうことができる
政治家が圧倒的に少ないんだけじゃないのかな、と思うのだ。

小泉前首相にしたって、彼の演説というのは、こっちまで声が届いて
きた気はするし。

まあ、実際のそのまんま東こと東国原知事の政治的な手腕がどうなのか
は、今後に期待という事でおいておくとして、ここで注目したいのは、
彼の表現力、情報発信能力についてである。

それって、少なくともそのまんま東候補には、「ヴォイス」があったん
じゃないのかな、と思ったのだ。


「ヴォイス」というのは、内田樹が時々出してくる言葉なんだけど、
元々は、映画「クローサー」の中でジュード・ロウ演じる新聞記者が、
「僕にはまだヴォイスがないんだ」と言ったのがきっかけだったと思う。

誤解をおそれずに私なりの解釈をすると、その場合の「ヴォイス」って
いうのは、その人の本心、根本思想に結びついた言葉なんじゃないかな
と思うのだ。
(確かに映画クローサーの中でのジュード・ロウは、本心がどこにある
のかわからない位、ふらふらとした言動や行動を繰り返していたし)

誰でも経験があると思うんだけど、自分の言葉がスーッと「通った」
経験があるんじゃないかな。
口先ではなく自分の本心から出た言葉が、ちゃんと相手に伝わった
瞬間というか。
そういう時って、普段の自分の言葉よりも、「ヴォイス」があるんじゃ
ないのかな、と思うのだ。


なんでそんなことを思ったか、というと、先週の金曜日、作家田口
ランディの講演会に参加したとき、田口ランディが美川憲一について
触れた時だった。

何でも、美川憲一自身が、自分が「おネェ言葉」を話すきっかけについて
話していたことがあるそうで。
その当時、コロッケによって再発見される前の美川憲一はどん底状態に
あり、営業で場末のスナックかどこかで歌っていたときに、普通の
話し言葉ではちっとも聞いてくれなかった聴衆が、彼?がおネェ言葉で
話したとたんに、きちんと振り返って歌を聞くようになったらしい。

すなわち、「おネェ言葉」を話している美川憲一にも、もしかしたら
「ヴォイス」があるんじゃないのかな、と思ったのである。

田口ランディは、「言葉というのは、意味だけが重要なのではなく、
その言葉が、相手との関係性の中でどのようにパフォーマンスとして
機能するかが重要なんだ」と言っていた。細部は違うかもしれないが。

つまり、美川憲一の場合には、彼の容姿とおネェ言葉が「合っていた」
から、彼のヴォイスになったんじゃないのかな。

逆の例を出してみる。
今現在、柳沢伯夫厚生労働相が、講演会で女性を子供を産む機械扱い
した事が問題になっている。
彼のことをかばうつもりは全くないけれど、この発言がこれだけ炎上
したのって、彼がこういう発言をしかねない、と周りの人間が受け取っ
たからじゃないのかな。
つまり、この発言の方が「本音」で、謝っている方が「建前」のように
見えるように機能している面もあるんじゃないのかな、と思うのだ。
個人的にもあの発言はダメじゃんと思うけど。

また、先日見た映画「それでも僕はやってない」の例を持ち出すと、
あの映画の中の主人公は、自分自身が犯罪を犯していない、という事は
知っていても、少なくとも刑事や検察官は、彼の本心から出ている
ヴォイスは通じていないんだよね。
もし通じていたら、彼は不起訴になっていたわけで(その場合、映画
としてはもっと盛り上がりに欠けるけど)。

だとするなら、どうすれば、私のヴォイスは伝わるのか。


以前、「おとなの小論文教室」の山田ズーニーのワークショップに
行ったことがある。
その時、ズーニーさんは言葉が伝わるときと伝わらない時の境界線を
こう言っていた。

それは話の上手い、下手ではない。その人が開いているか閉じているか
ではない。
その人自身が気付かなかったような、本当の事が思わず口から出てきた
時、自分が表現したいことが自分と一致したときには、その人の内側に
喜びが広がり、その喜び、納得感が一瞬にして周囲に伝わるのだ、と。
そしてみんな、本当の事を言うという事を甘く見ていると。
そのためには、思いと言葉が一致するように考える必要があると。


もう一つ、おこがましくも私が付け加えるとするなら、ヴォイスが
伝わるためには、自分の言いたいことが相手に伝わる、声として届く
だけではまだ足りないんじゃないかな、と思う。

伝わった上で、それによって相手を動かせるかどうかっていうのも
大きいのかもしれないな、と思うのだ。
もしくは、その場の雰囲気を変える力があるかどうかが重要なんじゃ
ないのかな。

やはり先日紹介した映画「不都合な真実」にしても、あの映画を観て
心を動かされた人には、アル・ゴアのヴォイスは届いたのかもしれない
けれど、あの映画を観て、うさんくさい、インチキだ、と思った人には
彼の言葉は響いていないわけで。

そして、そのまんま東候補の場合には、彼の言葉が有権者である相手を
動かすことが出来たからヴォイスがあると私は感じたのかもしれない。
そのまんま東知事に話を戻すと、彼の場合、お笑い芸人出身というのも
大きかったんじゃないかな、と思うのだ。


それは、彼には自分をネタにできる自己批評の能力があったという事で
もあり。
逆にいうと、俺の話を聞け、という本心からのヴォイスが、時として
聞く耳を持たれないのって、そこに自分の意見を少し離れた立場から
眺めて見ることができるかという、ほんのちょっとの心の余裕みたいな
ものがあるかどうかっていうのもあるのかもしれない。

お笑い芸人、特にバラエティ芸人の場合、俺が俺がではなくて、自分が
どのポジションにいるのかっていうスキャンみたいなものが大切な能力
のような気がするし。

自己批評の精神が強すぎると、萎縮しちゃって本当に言いたいことが
言えなくなっちゃう可能性もあるけれど、その辺の絶妙なバランスが
相手に声を届かせ、そして動かすためには重要なのかもしれない。


とまあ、そのまんま東知事の事を結構持ち上げた気もするけれど、
彼の評価っていうのは、この先彼が何をしたのかによって決まるん
だろうと思う。

彼の場合今のところ、イメージを逆転することで、いいブランドイメー
ジがついている気がするけれど、でもそういうイメージっていうのは、
あるある大事典のように、裏切られたと思った瞬間にすぐにそっぽを
向かれてしまう。

出来るなら、今後も東国原知事におかれましては、マスメディアに対し
てというよりは、地元の県民の方を向いて、彼のヴォイスを届かせて
ほしいと思う。

もしそれが出来るなら、任期も全うできるんじゃないのかな。



2007年01月29日(月) 映画「それでも僕はやってない」

今回は映画ネタ。観てきたのは「それでも僕はやってない」
「Shall We ダンス?」の周防正行監督作品のこの映画、一言でいうと
「悲しいけど、これが現実なのよね」である。

痴漢(冤罪)事件の裁判を描いたこの作品、日本の司法制度を問題にして
いて、監督自身のインタビューを含めて多分いろんな人が感想を書いて
いると思うので、ここではひとまずおいておくとして。

この映画、1本の映画としてもよくできていると思うのだ。

周防監督曰く「この映画では嘘はついていない」そうである。
すなわち、物語を盛り上げるためのわざと盛り上がるような演出や、
抑揚をあえて抑えて作っているらしい。

かといって映画が面白くない、という訳ではなくて、結構笑いが
出てしまうのだ(竹中直人の役とかね)。

もう一つは、キャスティングが上手いなあ、と思うのである。
被告になってしまう主人公の加瀬亮は、確かに自分がやってない痴漢
冤罪事件に巻き込まれそうな感じだし(映画ハチクロではストーカー
寸前だったし)、役所広司演じる人権派?の弁護士は、彼がいるだけで
百人力の感じだし、被告の担当弁護士になる瀬戸朝香が、最初被告が
痴漢をやったのではないか、と疑いながら、日本の司法制度の問題点に
気がついていくあたりもピッタリだと思うし。

被告の友人に山本耕二を持ってきたり、被害者の中学生に本当にいたい
けな少女を持ってきたり、それぞれの人たちが、本当に役にハマって
いる感じになっていて。

そしてもう一つは、そんな風にそれぞれの役者が役に命を吹き込んで
いるおかげで、この映画はいろんな人の立場で観る事ができると思う
のである。

被告、加瀬亮の立場で見れば、自分が犯行を否認しただけで4ヶ月もの
長い間、留置所暮らしをして警察・検察に取り調べられるバーチャル
体験ができるし、またその自分が友人・家族だったらどうだろう?とか
この裁判の傍聴人だったらどう感じるんだろうか、はたまた自分が
判事の立場だったら、これらの証拠に対してどういう判決を言い渡すん
だろうとか。

この映画の最後の判決とその理由ががどうだったのかは、是非この作品
を観ていただくとして。
もしも、自分が判事(裁判官)だったら、どうするんだろうなあ、と思う
のである。

元々、司法の原則は、「推定無罪」である。
それは、被告が罪を犯したという確固たる事実・証拠がなければ、
有罪にしてはいけない、という司法制度の大原則である。

しかしながら日本の刑事裁判で有罪を言い渡される確立は、この映画に
よれば99.9%。
無罪になるのは1000人にひとり。
すなわち検察が不起訴にせず、起訴した事例のほとんどは有罪になる。

もしもそれをひっくり返すためには、(たとえ自分自身が罪を犯して
いないと知っていても)、自分が罪を犯していないという明白な証拠を
弁護側、被告側が用意しなくてはならない、らしい。

そこまで判事が有罪にこだわるのは、頭のいい人(判事)ほど、被告が
自分をだましているんじゃないかと疑い深く慎重になったり、場合に
よっては無罪を出すことは、国家権力である検察・警察に楯突いて喧嘩
を売ることであり、上級審でその無罪がひっくり返されたりした場合、
地方に飛ばされてしまう、なんて噂されてしまう事もこの映画によれば
あるようで。

だから時として日本の刑事裁判は、始めに結論(有罪)ありき、推定有罪
のように見えるらしいのだ。

でね、先ほどもしも自分が判事だったらどうしよう、と書いたんだけど
実際問題として、その可能性はゼロではないんだよね。
それは近い将来、導入されるといわれている裁判官制度で、指名が来て
しまった場合、その立場になる可能性もあるという事でもあり。

昔、高校時代の演劇で、アメリカの陪審員制度を描いた「12人の怒れる
男たち」という作品を上演して、陪審員役を演じたことがある。
だから個人的には、裁判官制度もそんな感じなのかな、とちょっと想像
はしやすかったんだけど、でも、この作品を見て考えてしまったのだ。

果たして人が人を(それも素人が)裁けるのかな、という気がしてきて。

もしも自分が下した判断が、検察の作文に乗っかって、それがもしも
冤罪だったとしたら、その責任ってどこにいくんだろうか。
はっ!もしかして裁判官制度は、そんな風に司法行政の責任逃れの為?
なんてうがった見方もしたくなったりして。

もう一つは、もしも自分がこの被告の立場だったらどうするだろう、
と思ってみたりして(こっちの方が可能性は高いのかもしれないが)。

でも、被告の証人尋問がたったの一回だけで、そこで判事の疑いを
晴らすために立証を自分がしなくちゃいけないとしたら。
もしもその1回だけで自分の人生が変わってしまうとしたら。
(その前に冤罪であったとしても刑事裁判の被告になった段階で、自分
の人生は大きく変わっていると思うが)

果たして自分の心を折らずに、戦い抜くことができるのかなあ、と
思ったりして。(冤罪であるならば、戦いぬきたいと思うが)

いずれにしろ、映画としても面白くて、時間もあっという間だったし、
見終わった後にいろんなことを考えさせられる作品だと思います。



2007年01月24日(水) 映画「不都合な真実」

今回は映画ネタ。観てきたのは「不都合な真実」
元アメリカ副大統領、アル・ゴアの地球温暖化についての講演を
まとめたドキュメンタリー映画である。

この映画を観て、私だけでなくおそらくは多くの人が漏らす感想は、
「2000年のアメリカ大統領選挙で、もしもジョージ・W・ブッシュでは
なく、アル・ゴアが勝っていたら…」というものだろう。

実際フロリダ州の結果によって、アル・ゴアの敗退が決まった訳だけど
全体の得票数では、ジョージ・W・ブッシュを上回っていたにも関わら
ず、彼は大統領になることはできなかった。

もっとも、彼が実際に大統領になったとしても、もしかすると暗殺され
てしまった可能性だってあるわけで。
(それくらい、一部の偉い人たちには認めたくない事実だと思うし)
その場合、私たちはこの映画で描かれる様々な事実を知ることができ
なかったかもしれない。


この映画では、私たちが何となくは知っていても、実際はどうなのか
よく知らなかった事実が、衝撃的な形で披露されている。

詳しくは、映画を観たときのファースト・インパクトが大事だと思うの
で、ここではあまり書かないけれど、私にとって一番衝撃的だったのは
南極大陸の巨大な棚氷(厚い氷のかたまり)の一つが、わずか35日という
短い期間で消えてなくなってしまった、という事実だった。

そのほかの衝撃的で、あまり知らないかもしれない事実については、
できれば作品を観ていただくとして。


この映画について、私の感想を一言でいうなら、「この映画は、観て
知った気になったり、考えるよりも、感じることが大切なんじゃない
かな」というものである。

この映画は、ドキュメンタリーとしても面白いし、できれば多くの人
が観たほうがいいと思うけど、絶対観るべき、とまではいわない。

おそらくはこの映画に描かれた内容のいくつかは、少なくとも今後10年
から20年の間には、実際に私たちが直面する問題だと思う。
だからそれは、今知っておくか、それとも将来気づくか、の違いしか
ないんだと思うのだ。

この映画の中で語られていて、一番私があまり考えたくないことは、
近い将来、このままだと世界的な水不足と、食糧不足になる可能性が
高い、ということである。

事実、今年はオーストラリアでは天候不良のため、小麦がかつてない
ほどの大規模な不作になっているらしい。
日本の輸入小麦の大半はそのオーストラリアからの輸入に頼っている
ので、穀物の確保が大変だと言うニュースをちょっと前に読んだ気が
する。

健康で文化的な最低限の生活を国民一人一人が享受する権利がある、
というのが基本的人権の大前提だけど、おそらくは20年後、30年後、
私たちの世代がまだ生きている間でも、その今現在での最低限の生活を
満足にするためのコストは、今よりはそうとう高いものになっている
可能性がある。

今現在でも、エネルギーにしろ、食料にしろ、中国や他の国々との
争奪戦は激しいものになっているらしいし。

でも個人的にはだからといって、すぐに人類が滅亡するとも思えない。
おそらくはどんなに困難な状況になって今より生活レベルを落とさなく
てはならなくても、人という生命体はしたたかに、生きていくと思う
のだ。

でも、その時の生活レベルが、より困難なものになるのかどうかが、
今の私たちの生活に対する行動に現れているのだ、という事をこの作品
は訴えているのだと思う。

もしも、私たちがクーラーの設定温度を1〜2℃上げるだけでも、二酸化
炭素の排出量を下げることができたなら。
その事が将来の私たち、子孫たちの生活がより楽なものになるかどうか
に関わるとしたら。

この映画の公式サイトには、今、私たちが簡単にできる二酸化炭素を
下げるための取り組みについて書いてあるページがある。

それらを面倒くさいと思うのか、それとも強制されてしょうがないと
思ってやらされるのか。
それとも、この映画を観てもしも、何かを感じたのなら、多分そういう
自分でもできる簡単な取り組みについて、ちょっとでもやってみようと
思うんじゃないのかな。

この映画が、考えるよりも感じる映画だ、と私が書いたのはそういう
意味なのだ。

地球温暖化については、今までにも問題になることはあっても、
「でも、日本よりもアメリカや中国の二酸化炭素の排出量の方が問題
なんだから、それを何とかすべき」とか、「そんな事いっても、皆生活
レベルを下げられるか、といったら下げられないって」という意見が
強いと思う。

でも人の考え方って、多分変わることができるんだ、と思うんだよね。
それは、今の日本では健康的な生活やダイエットという考え方が当たり
前になっているように。

もちろん、全ての人がダイエットや、健康的な生活を送ろうと思って
いるわけではないけれど、そうでない人にとっても、その考え方が
あることがあたり前のようになってしまう事はそんなに難しい事では
ないと思う。

今、私個人が、電気を余計に使うかどうかが、直接、人類の存亡に
関わっているわけではないかもしれない。でも、ちょっとだけでも
心のどこかに留めておいたなら、それだけでも将来の私たちの生活は
少し楽なものになるかもしれない。

それはカオス理論のバタフライ効果(→Wikipedia)のように、
全体から見たら少数点以下の小さな個々人の些細な変化が、全体に
大きな影響を及ぼすってことが、地球環境ではありえるんじゃないかな
と思うし。

この映画はそんな風に、私たちの意識をちょっとだけ変えるきっかけに
なるくらいに魅力的な作品だと思うのだ。

いやもちろん、目の前に氷山があることを知らないまま、パーティに
明け暮れていたタイタニック号に乗っていたって別に構わないと思う
んですが。

今回見に行ったのは六本木ヒルズにあるTOHOシネマズなんだけど、
毎週日曜日は、この作品が500円で観られるらしいので、
日曜日に予定のない人は見に行ってみてはいかがでしょうか。


余談だけど、以前、惑星物理学者の松井孝典の講演会を見に行った時、
松井教授が次のように言ったことが印象に残っている。

「地球環境の変化のスピードでいうと、化石燃料を使うようになった
19世紀から今までの1年間は、それまでの100万年に相当する」らしい。
すなわち、100年で1億年、19世紀から今までの200年で昔の2億年分、
地球環境は変化しているらしいのだ。

かつて恐竜が生きていられる環境が安定していた時代が2〜3億年だと
すると、私たちに残された時間がどれくらいなのか、ちょっとゾッと
したのである。


もう一つ余談を書けば今回、この映画のプロモーションで、アル・ゴア
が来日して、NEWS23をはじめとして様々な番組に出演していたんだけど
その間、日本の政治家で彼にコンタクトをとった人っていたのかな。

まさか誰もいなかった…なんてことはないよねえ?
民主党も、「美しい国より美しい地球(ほし)へ」とかキャッチコピーを
打てば、今年の選挙戦も善戦できるんじゃないかな、と思うんだけど。
そういうセンスってまだないのかな。



2007年01月22日(月) 怒りのパワーと表現方法

現在発売中の雑誌「BRUTUS」の茂木健一郎の特集号、「脳科学者なら
こう言うね!」が面白い。黄色い表紙の奴。
中沢新一や将棋の羽生善治との対談も面白いんだけど、この本の中から
一言だけを選ぶとしたら、彼と関係の深い編集者が茂木健一郎について評した言葉である。

(前略)しかしながら、彼は茂木さんを「怖い人」だという。

「怖い、というのは、すぐ怒るとかそういう意味ではなく、茂木さんの
仕事の根本に"怒り"があるからなんです。それは科学というものを消費
物としてしか見ない世間への怒りだし、その一方で学者村に閉じこもっ
て世界の豊穣さを見ようとしない科学業界への怒りであって、しかも、
それは茂木さんの最もコアな部分での"倫理観"に発している。だからこ
そ怖い。強度が違うんです。だから茂木健一郎という人間を決して油断
して見ちゃいけない」


という部分。
人が何かを創造する時の、モチベーション、意欲のきっかけに怒りの
感情があるというのは、よくあることなのかもしれない。

例えば、司馬遼太郎の場合には、自分自身が軍人として太平洋戦争の
敗戦を体験した時、どうして日本はこうなってしまったのか、という
怒りを持ち、それを解き明かしていくことがモチベーションになって
数々の作品が生まれたらしいし、その司馬遼太郎の作品の中での坂本
竜馬は、江戸時代の幕藩体制、身分制度の理不尽さに怒って明治維新
へと導いた人物として描かれている。

そして、多分現在でも世に出ている多くの人の心の中の意欲の源泉と
して、怒りがあるのかもしれない。
例えばホリエモンでさえ、彼の行動の中には、単なる拝金主義ではなく
既成の価値観に対する怒りがあったんじゃないんだろうか。

彼がやったこと、やったとされることは別として、彼の行動を支持する
人間が少なからずいたのは、彼の心の中の怒りのパワーみたいなものを
感じ取った人がいたからなんじゃないのかな。


同じような事を思ったのは、ちょっと前のTV番組「Smaステーション」を
たまたま観た時だった。
そこには「ヤンキー先生」こと義家弘介が、ラジオ番組でいじめられてい
る女の子の相談に親身になって相談に乗っているシーンが流れていて。

印象的だったのは、そのシーンを見ていた麻木久仁子が、
「今までいじめ自殺事件での先生たちの記者会見に違和感を感じていた
理由がわかった。彼らには、自分の生徒を死なせてしまったという悲し
みや、怒りや、悔しさが伝わってこないで、ただ単に世間に対して謝っ
ているからなんだと。もしも本当に自分の大事な生徒が死んだのなら、
もっと悔しがってもおかしくないのに」
と言っていたこと。

もちろん、一概に記者会見の先生たちの態度をみて、彼らが内心で
怒ってないとか、悔しくないとか、決めつけることはできないと思う。

でも逆に言えば、いじめられている女の子の相談に乗っている時の
ヤンキー先生には、確かに理不尽さに対する怒りがあったと思うし、
そういう魂の熱さみたいなものが、いじめられている生徒に限らず、
今の生徒たちにとっては、必要なものなのではないか。

それは、わかりやすい熱血教師を演じなさい、という意味ではなく。
自分の根本にそういう怒りを持っているかどうかっていうのを、私たち
は結構敏感に感じ取っている気がするんだよね。

思えば、小泉純一郎と安倍首相の、一番の違いってもしかするとそう
いう自分の心の中にある怒りの表現の仕方なのかもしれない。

小泉純一郎が「郵政民営化」と言ったとき、そこには「既成の自民党(経世
会)的なものをぶち壊す」という強い感情があり、そこに国民が反応して
高い支持率を維持していたのかもしれない。

それに対して、安倍総理の場合、彼のメッセージがいまいち伝わり
にくいのは、彼の行動が心の中の強い感情から起こっている感じが
しないからかもしれない。
もっとも、彼の強い感情が北朝鮮に先制攻撃とか、日本の軍事化、
戦前化だったら個人的には困るわけだが(そんなに単純なものではない
とは思うが)。

でね、そういう風に、仮に怒りという強い感情を心の中に持っていた
として、それをどのように表現するか、っていうのが重要だと思うんだ
よね。

極端な例で言えば、この年末年始に渋谷区で起こった二つの殺人事件の
容疑者たちも、一時のカッとなった怒りの感情をそのまま相手にぶつけ
てしまったのが問題なわけで。

特に浪人生の彼の場合には、その悔しい気持ちをバネにすることが
できたなら、もしかしたら受験にだって成功したかもしれないと
思うのだ。

つまり、自分の心の中にどれだけ怒りというパワーの火をためておける
か、そしてそれを一時のキレた感情で爆発させるのではなくて、そこか
ら錬金術のように白魔術的なものに変換することができたなら、それは
クリエイティブなもののモチベーションに変えることができるんじゃ
ないのかな。

そういうものが、おそらくは茂木健一郎の精力的な活動の源泉になって
いるんだろうなあ、と「BRUTUS」を読みながら思ったのである。


私のことを振り返ると、でも確かに最近って「自分の中の怒りの感情」
って、ちょっと冷えていたかもしれない、と思うのである。
それは、もちろん誰か身近な人に対して怒っているとか、キレるとか
そういう意味ではなくてね。

で、多分、そういう怒りや強いモチベーションの感情がない時の私って
周囲から見ると無害な「単なるいい人」になっていると思うんだよね。

だから今年は、もう少し、自分の中に潜んでいる「怒り」の感情に目を
向けて、その強い気持ちの火を絶やさないように注意してみようと
思うのだ。
多分そういう気持ちが「負けず嫌い」という気持ちになるんだと思うの
だが。
それについてはまた近いうちにでも。



2007年01月18日(木) 工藤公康「僕の野球塾」

先週、プロ野球の工藤公康投手が横浜ベイスターズに移籍することが
発表された。
横浜ベイスターズファンの私にしてみるとこの移籍は素直にうれしい。
工藤投手がかつて西武ライオンズに在籍していた頃はライオンズファン
だったから、という事もあるが、今は個人的に工藤投手のファンだから
である。

横浜は今季、門倉投手が巨人にフリーエージェントで移籍し、その
代わりにクリーンナップを打っていた中心選手の多村をホークスに
移籍させる代わりに寺原投手をトレードで補強し、更に工藤投手を
獲得したわけである。

この2投手が加入したからといって、すぐに元々選手層の薄い横浜ベイ
スターズの投手力が格段にアップするわけではないけれど、ベイスター
ズファンにとっては、もしかするとこれは数年後には9年前の優勝の再
現が起こるんじゃないか、と超希望的な観測を抱きたくなってしまう
のだ。

なぜなら9年前の1998年に、横浜が38年ぶりに優勝できたのは、マシン
ガン打線や、リリーフエースの大魔神佐々木投手がいたからというのも
あるけれど、個人的にはその5年前に巨人から駒田選手が横浜に移籍し
た事が大きかったんじゃないのかな、と思うからである。

巨人時代に勝ち方を知っている駒田選手が、当時若くて伸び盛りだった
石井や鈴木尚典たちをひょっとするとひょっとするかも?と思わせた事
が、あの38年ぶりの奇跡的な優勝に導いたんじゃないのかな、と思うの
だ。

しかし、その横浜優勝時代の選手で、今もスターティングメンバーに
顔を出しているのは、三浦投手、石井選手、佐伯選手くらい?
この9年間でどんどん世代交代は進んだが、その一方で勝ち方を忘れて
しまった気もするのだ。

今回、野手で仁志選手、投手で工藤、寺原の両投手が加わることで、
横浜ベイスターズの選手たちの中で何か化学変化が起きてくれたら
いいなあ、と思うのだ。
監督も、9年前の優勝の礎をつくった大矢監督になったわけだし。
って、今公式サイトのコーチ陣を見たら、98年優勝時の波留とか、
進藤がコーチに就任していたんですね。ビックリ。

そして工藤投手には、この先何年でもいいから、マウンドで投げる姿が
見られたらそれだけでうれしいし。
もっとも、横浜って、時に冷たい処置に及ぶことがあるのが気がかり
なんだけど。


今回紹介するのは、その工藤投手自ら書いた、野球のトレーニングに
ついて書かれた本、「僕の野球塾」
この本は野球少年向けに書かれたトレーニング本、教則本なんだけど、
現在野球どころかボールやバットに触れていない私でも読んでいて結構
面白いと思う本なのである。

もちろん野球をやっている人にとっては、故障の起きにくい投球
フォームの作り方とか、コントロールのつけ方、また走るスピードを
増すための股関節の筋肉のつけ方なんていうのは、とても参考になると
思う。

でも、この本で工藤投手が繰り返し述べているのは、自分でトレーニン
グ法を工夫するために「考える力」をつけなさい、という事なのだ。

工藤選手は前書きでこう書いている。



 どんな環境下であれ、うまくなる選手が共通してもち合わせてもの、
それが「自分の頭で考える力」です。
 僕には子供が5人います。だから、野球を通してだけではなく、いろ
いろな場面でたくさんの子どもと接する機会があります。最近の子どもを見ていると、どうもなんでも、「だれかに"答え"を教えてもらおう」
そう思っていると感じることがよくあります。

 でも、それでは一方通行で、なにも身につきません。最初はマネから
始めていい。マネができなければ、なぜできないか考えるのです。「答
え」は、きっとそう簡単に見つからないと思います。考えているうちに、
イライラしたり悩んだりもするでしょう。それでいい。

 そうやって自分で見つけた解決方法は、うまくなるためにはもちろん、
さまざまなピンチの場面でも必ず生きるし、きっと人生にも役に立つと
僕は思います。

 ベテランといわれるようになって、若い選手にアドバイスする機会が
増えましたが、そのとき必ず「ひとつのことを教わったら、少なくとも
五つの練習方法を自分で考えろ」と伝えるようにしています(略)


工藤選手のこういう気持ちが、横浜ベイスターズの若手のピッチャー
だけでなく、選手たちに伝わってくれるといいなあ、楽しみだなあ、
と思うのだ。

もう1箇所だけ、この本の中で珠玉だと思った文章を引用させて頂く。


 よく「センスがないからダメなんです」と悩む子がいます。
「センス」とは、いったいどんなものだと思いますか。
 感覚?
 感性?
 であれば、「センス」という言葉を使わずに、はっきりそういえば
いいですね。
 
 生まれもった才能?
 親から遺伝的に受け継いだ筋肉の強さ、足の速さというものはある
でしょう。でも技術系のものを、最初からなにもせずできるようになる
人など、だれ一人いません。また、技術がすなわちセンスのことだと
したら、「やり方」さえわかれば、だれでもできてしまうはずです。
いま、だれでもパソコンを使うことができるように。

 「センス」という言葉が指し示す本当の意味は、"調整する能力"です。
「調整する」というのは、体の動きもそうですし、速さや筋肉の使い方
などもそうです。

 簡単にいえば、目で見た情報から、「なるほどこうやって動けば、こ
ういうことができるんだな」と理解し、その動きを再現する力。それこ
そが「センス」と呼ばれるものの正体だと僕は考えています。視覚情報を
そのまま自分の神経から伝達させて、自らの筋肉をそのとおりに動かす
ことができる。見たプレーをすぐにマネできる。これが「センスある」と
いわれる状態です。

 このように「センス」とは、自分の目で見たその動きに近い動きができ
るよう、"筋肉を調整する能力"のことだとすると、センスは「ある」とか
「ない」というものではなくて、「磨くもの」でしょう。小さいときから、
そして、ふだんからそういうことを意識して、考えて、目で見たその
動きをすぐにマネして……そのくり返しをどれだけやってきたかが、
「センス」の差なんだと僕は考えています。(略)

 もし機会があったら、「センスがあるからそんなにすごいプレーがで
きるんですか?」とイチロー君や松井秀喜君に聞いてみてほしい。絶対
「さあ?なにそれ?」と答えると思うよ。「僕はセンスでここまできまし
た」という人など、一流選手の中に一人もいないと僕は思います。

 イチロー君は「天才」だといわれますが、彼のようにバッティングケー
ジの中にこもって、二時間も三時間も、フルスイングでひたすらボール
を打ちつづけることのできる選手など、ほとんどいません。プロでも
ふつうのレベルの選手なら、30分程度でバテてしまうでしょう。

そしてイチロー君はただ打っているだけではない。一球一球に試合の
ときのように集中できる。そんな集中力をもった選手はほかにいませ
ん。たしかに目で見た動きを再現してしまう「調整能力=センス」には
優れているでしょう。でも彼が本当にすごいのは、「センス」よりも、
むしろこうした点にほかなりません。

 トライしてみて、まずは結果を出してみる。その結果が悪ければ、
どこを直して、次になにをなすべきかを追求し、目標に向けて努力を
つづけていく。振り返るのはマイナス思考ではなく、ただ反省するため
にだけ。反省したら、あとは前しか見ない。そういうことが大事だと、
僕は思います。

「センスがあるかないかなんて自分とは関係ない。いまは"調整能力"を
磨くんだ」
それだけを考えて、ふだんから実践する。だれかがいい動きをしていれ
ば、すぐにその動きをマネしてみる。そういう意欲がないと野球はうま
くなりません。その努力を「センス」という言葉で片づけてしまうのは、
とくに子どもたちにとっては非常に怖いことであり、なによりもったい
ないことです。



と、非常に長い引用になってしまったが、この「センス」についての
工藤選手の意見って、野球に限らずいろんなことに共通するんじゃない
のかな、と思うのだ。

そして子どもに限らず「センスがない」と考えてしまうのは、耳が痛い
事でもあり。
センスがないことを嘆くよりも、どうやったらセンスが磨けるかを
「考えて」「実行する」ことが重要なんだよなあ、というのは当たり前の
ことかもしれないけれど、この言葉を、プロ野球選手の中でも特に
体格に恵まれているわけでもないのに、45歳になっても現役でやって
いる工藤選手から聞くと、すごく説得力が感じられるのだ。

また、野球に限らず何かに本気で取り組んで、モチベーションが高く
何かを工夫していれば、多分脳の中でブレイクスルーみたいなものって
起こりやすくなるんじゃないかな、と思うんだよね。

私自身、自分が取り組んでいるものが上手く行かない時(それが恋で
あっても)時々ネガティブな思考になることもあるんだけれど、でも
それよりは、どうやったらもっと自分の「センス=調整能力」が磨けるの
か、その方法を創意工夫していきたいと思うのだ。
今季の工藤投手と、横浜ベイスターズの活躍を期待しつつ。



2007年01月14日(日) 映画「甲野善紀 身体操作術」

今回は映画ネタ。
観てきたのは渋谷にあるUPLINK Xという小さな映画館で上映されている
ドキュメンタリー「甲野善紀 身体操作術」
古武術を元にした、身体の運用を研究されている人のドキュメンタリー
映画(ビデオ)である。
この映画、面白いから紹介しようと思うんだけど、その面白さを言葉で
言い表すのは本当に難しい。

私は、この映画の主人公、甲野善紀のトークショーや講習会に何回か
参加したことがある。

その時の印象でいうと、常人からかけ離れた動きを目の前で見せて
くれる人である。
例えば、一瞬で周りを取り囲んだ人間を3人倒してしまう杖術である
とか、総合格闘技で見かけるような、相手に倒されまいと身を潜めた
亀の様に地に這いつくばっている人間をいとも簡単にひっくり返して
しまったりとか。

興味のある方は公式サイトの予告編のムービーで観られるので、
観ていただくとして。

甲野さんのすごいことは、それをやってみせるだけではなく、身体の
どこをどのように使用すれば、同じように(って、簡単にできるわけで
はないのだが)できるのか、ということを説明してくれる、という事
である。

で、それって今の自分の仕事だったり、普段の身体の使い方にも結構
知らず知らずのうちに結構影響を与えていたりするんだよね。
それについて私が最近気付いたのは、社交ダンスのレッスンを受けて
いる時の先生の言葉が、甲野さんの古武術的身体運用法を通して動かし
ていくと、とても理解しやすい、という事なのだ。

具体的にいうと、身体の関節の遊びを取るところとか、足裏全体を
浮かす感覚であるとか、また、多分甲野さんの感覚とはちょっと違うと
思うんだけど、身体を体幹でひねらずに、甲野さんの言葉でいうならば
井桁の理論でずらしていくような感覚だったり。

これらは、一つの仮説であって、実際にどうなのかは自分自身の今後の
研究課題だと思うのでこの辺で。
でも、そんな風に甲野さんの身体運用術っていうのは、武術だけでは
なく、いろんな事に応用できるものなんだと思う。

この映画の中でも、甲野さんの身体の使い方を様々な分野に応用して
いる人たちが登場する。
それはラグビーなどのスポーツの分野だけではなく、フルートの演奏、
役者の動き、舞踊だけでなく、介護の現場でも応用されつつある。

映画の中でも、甲野さんはこうしなさい、と教えている訳ではない。
こういうやり方もありますよ、という実例を目の前で披露し、それを
それぞれの分野の人たちがどう応用しようか、工夫をする事によって
前述の分野に広がりつつある。

もう一つ、甲野さんのやっている事って、本人に言わせると、昔の
剣の使い手だった人たちには当たり前の事で、それが近代の日本に
なって以降、失われてしまった事なのだ、という事と、自分はその
名人たちの足元にも及ばない、といいながら年々進化し続けて、55歳?
の現在こそが、一番身体が動いている、らしいのである。

普通だったら20代が体力・筋力のピークであると言われる事が多いのに
甲野さんの場合、動きの質が変わることで、若い頃より今の方がもっと
身体が使えるのだとか。
それは、静止状態から20メートル位ダッシュしたときのトップスピード
では女子陸上競技のトップアスリートとほとんど変わらない、らしい。
55歳なのに関わらず、である。

その方法も以前見せてもらって自分でもやってみたこともあるけれど、
確かにすごく身軽に、すばやく移動できることに驚いた。(トップアス
リート並ではありませんが)

だからこの人を見ていると、質のいい経験を積んでいけば、本当に年を
重ねることが怖くなくなるっていうか、人間の肉体の可能性ってまだ
まだあるんだなあ、と勇気づけられるのである。

今回の映像を見ていて、甲野さんの動きを見ていてキレイだなあと
思った箇所がある。
それは役者の人に、日本刀を持った時の所作振る舞いを指導している
時の、一連の動きに全く無駄が見られずに、まるで本当に舞踊のように
見えたのだ。
踊りのよう、といったらご本人は気分を害するかもしれないけれど。

それは多分本身の刀を持って動いているから、それこそ注意がそれ
たら怪我をする、という文字通り真剣な状態で身体が動いているから
全身に集中力がみなぎっている感じに見えたからなのかもしれない。

もう一つは、この映画では、私が受講した以降の甲野さんの進化も
追ってくれているので、個人的にはとても興味深く見ることができた
んだけど、そんな風に映画を見ている間に、自分の身体のピースが
小さく割れて動くということがどういう事なのか、ちょっとわかった
気がしたのである。

それはわかった気がしただけであって、実際どうなのかは、自分の身体
で確かめてみないとわからないんだけど。
でも、映画を見るだけでも、自分の動きの質がちょっと変わった気が
するのだ。

甲野さんは一般の人も参加できる講習会を各地で開いているんだけど、
ご自身のWebサイトの日記によると、最近はチケット?が取りにくく
なっているらしい。
だから、次にいつ参加できるかはわからないけれど、またいつか参加し
てみたいと思っています。

映画自体は、とても好評のようで、上映期間が延期されたらしい。
確かに自分が行ったときも、映画館は小さい箱ではあるんだけど、
若い人たちが沢山来ている事にも驚いたのだ。
やっぱり、それだけみんな身体って事に注目してきているのかも
しれない。



2007年01月12日(金) 次世代DVDは、日本の家電業界の転換点になるか

今週の月曜日、一つのニュースが目に飛び込んできた。
アメリカの家電見本市で、韓国の家電メーカー、LG電子が次世代DVDで
ある、ブルーレイとHD DVDの両規格の再生ができるプレイヤーを発表
したらしい。

次世代DVDに関しては、ソニー・松下連合の「ブルーレイディスク」と、
東芝陣営の「HD DVD」が、デファクトスタンダードを取るべく、しのぎ
を削っている最中らしいのだが、この韓国メーカーによる両規格再生
機能を持つプレイヤーの登場によって、そのデファクトスタンダード
争いは意味がなくなるんじゃないだろうか。

だって、一消費者にしてみれば、両規格が再生できるプレイヤーが
あったら、それが一番面倒くさくなく、シェアを取りそうな気が
するからである。

パソコンについているDVDメディアにしたって、DVD-Rだろうが±RWだろ
うが、-RAMだろうが規格を選ばないスーパーマルチドライブが一番
使いやすい訳だし。

元々、両規格を読み込むことのできる読取装置は、日本のNECがすでに
完成させていたらしいけど、それが初めて製品化されたのが、この韓国
メーカーによるものみたいで。

という事はつまり、そのOEM技術を使えば、韓国メーカーに限らず、
中国だって台湾だって、同じような両規格を再生できるプレイヤーは
生産できる訳だよね。

それに対して、日本の各メーカーの反応が、1月10日付東京新聞の
特報欄に載っていた。

曰く、東芝は「HD方式をサポートしてくれる企業が増える意味で歓迎す
るが、当社が併用機に取り組む意思はない。(略)当社はマイクロソフト
やインテルのサポートを受けており、これから優位に展開できると
みている」とコメントしている。

もう一方の陣営である松下も、「規格の違いが買い控えを招いていると
は思わない。現に当社のレコーダーは販売予定を上回り、増産中」と分
析し、「併用機(の製造)は考えていない。実際、併用機はコスト増が
避けられず、お客様の利益にはならない。(BDが席巻するか否かは)お客
さま次第」と控えめながら自信をのぞかせている、らしい。

うーん、どうなんだろう。

昔、似たような図式でVHSとベータマックスという、ビデオテープの
規格争いがあったわけだけど、その時は、両陣営に分かれた日本のメー
カーが激しい競争を繰り広げる間に、欧米の家電メーカーはその争いに
ついていくことができずに、家庭用ビデオ市場は事実上、日本企業の
独壇場になった訳だよね。

次世代DVDでも、同様に他の国のメーカーには真似できないような、
高い技術力によって開発することで、日本のメーカーが業界を席巻する
ために、今まで何年も前から開発をしてきたと思うんだけど、でも
今回に限っては大きく異なるのは、日本のメーカーが規格争いで揉めて
いる間に、さっさと韓国や中国のメーカーが互換機を出してしまうこと
で、シェアを奪われる可能性って結構高いんじゃないのかな、と思うの
だ。

もう一つ、今回のニュースで思い出すのは、数年前の液晶テレビについ
てである。
薄型テレビについても、松下がプラズマテレビを開発し、それに対して
ソニーが液晶よりも高品位の薄型テレビの映像技術開発をすることで、
市場のシェアを一気に握ろうと思ったのに蓋を開けてみたら、既存の
技術である液晶の大画面化を低価格で成功した韓国メーカーに一時市場
のシェアを一気に握られた事があったと思うのである。

その後ソニーは急遽(最初はあまり熱心でなかった)液晶ディスプレイの
開発に方針を転換し結果市場のシェアを取り戻すことには成功したが、
同時に低価格争いに巻き込まれることになってしまったと思うのだ。

今回も、たとえ今は両規格を再生できるプレイヤーの値段が割高で
市場への波及力は大きくなくても、数年後には(大量生産と更なる開発
によってコストが下がることにより)、日本のメーカーの思惑とは裏腹
に、両規格が再生・記録できるプレイヤーが出回っている可能性は高い
と思うのだ。

それに、今すぐ今のDVDから次世代のDVDに切り替えなきゃいけないほど
現行のDVDに不満があるわけでもないと思うし。
うちはまだ地上アナログしか映らない環境なので、フルハイビジョン
画質が観られる次世代DVDに変えたって、TV自体がそれに対応しなけれ
ば、意味ないわけで。

だから地上波が全てデジタルに移行するにあたってTVを買い換えなきゃ
いけなくなるまでは、次世代DVDにせよ、PS3にせよ、そんなに購買意欲
はそそられないし、またその頃にはTVにせよ、次世代DVDにせよ、相当
値段は手ごろになっているはずであり。
っていうのが、ごく一般の消費者の考え方なんじゃないかな、と思うんだけど。

だからそう考えると、日本の各電器メーカーは、今強情を張らずに、
数年後の買い替え市場を見据えたら、今からもうすでに両規格の互換
プレイヤーを開発したおいた方がいいと思うんですが。
まあ、裏では当然そうしているんだろうけど。

っていうかそもそも、ブルーレイかHD DVDかなんて意地を張らずに、
統一規格を作ることで合意してればもっと日本企業は優位になった
様なするんですが。
果たして数年後の状況はどうなっているんでしょうか。



2007年01月10日(水) ジュークボックス英会話

NHK教育テレビの英会話番組、「3ヶ月トピック英会話」の今期のシリーズ
が面白い。
今期のシリーズは「ジュークボックス英会話」
洋楽のポップスを中心にした歌詞で学ぶ英会話術である。

ちなみに第1回(もう再放送も終わっちゃったけど)は、マドンナの
"Like a Virgin"。
今後もThe Police、マライア・キャリー、ビリー・ジョエル等が
続くようで。

ラジオにせよ、テレビにせよ、私が英会話番組を見続ける気になる
のは、番組自体が面白いと思う番組である。

今回のこの番組の場合、普段から聞きなれているポップスの名曲が
題材というのも大きいかもしれない。
原曲の詞って、今だったら単語の一つ一つは聞き取れて意味を辞書で
調べることはできても、そのつながった一連の言葉に込められたニュ
アンスまでは、正確にはわからなかったりすると思うんだよね。

この番組では、そういう歌詞の中の言い回しで、日常生活にも応用が
ききそうなあたりをピックアップしていて、わかりやすいのだ。

もう一つは、番組の出演者に、マーティ・フリードマンがいるのも
面白くてわかりやすい。
マーティ・フリードマンは、MEGADEATHというバンドのギタリストだっ
たにも関わらず、日本のJ-POPの魅力に惹かれて日本に住み着いちゃっ
た人で、しかも現在は日本語ベラベラの、変な(失礼)人である。

でも、音楽に詳しいだけでなく、日本語と英語の両方のニュアンスの
微妙な違いがわかる人なので、彼の解説がとてもわかりやすくて。

もう一人の出演者が、美人アナウンサーの中田有紀なのも(個人的には)
ちょっとポイント高し。
この人、ニュース番組だけでなく、最近だと「サラリーマンNEO」だとか
ちょっと前にはダウンタウンの番組「考えるヒトコマ」などのMCで松本
人志にツッコミを入れていじっていたりとか、結構面白い人なのだ。

録画を保存してまで取って置こうとは思わないけれど、ちょっとした
合間に英語を勉強するにはちょうどいい番組なんじゃないかな、と
思います。

前述したように、第1回の放送、再放送とも残念ながら終了してしまい
ましたが、明日の木曜日23:10〜23:30と再来週の水曜日朝6:50〜7:10、
昼12:10〜12:30に第2回が放送されるので、今年からちょっと英語を
勉強してみようと思った方は、ご覧になってはいかがでしょうか。




2007年01月09日(火) 浅草新春歌舞伎

日曜日、浅草に新春歌舞伎を見に行ってきた。
中村勘太郎、七之助、獅童などの、若手中心に行なわれる歌舞伎の舞台
である。
若手という事もあって、料金も8500円〜2000円と、お手ごろなのもいい感じで。

という事で今回は2等5000円のチケットを手に入れられたので、新春の
おめでたい気分を味わうつもりで行ってきたわけですね。
浅草自体も、賑やかだけど、死ぬほど混雑しているって事もなくて、
ゆっくり仲見世あたりを見物しつつ、会場の浅草公会堂へ。

歌舞伎の芝居見物といえば、やはりお弁当である。
本当は、お弁当を食べるのを我慢して、後で浅草の美味しそうなお店の
どこかに入ろうと思ったんだけど、幕間の空腹には勝てず。
結果的には、その後浅草近辺をぶらついたら、お目当てのお店はお昼を
過ぎていたのにも関わらずどこも行列ができていたので正解だったよう
な。

で、私が見た演目は、「義経千本桜」の「すし屋」と、「身替座禅」
「すし屋」については、ALL Aboutでの、今回の出演者の片岡愛之助の
インタビュー
に詳しいので、興味のある方はそちらを参考にして頂くと
して。
個人的な印象でいうと、最初は落語みたいな話かと思っていたら、最後
は泣ける人情話になっていったのがさすがだな、という感じで。

つまり、話の中にくすぐりというか、笑いが散りばめられているだけで
なく、途中はミステリーの様にハラハラドキドキさせられ、最後には、
あ、そうだったのか、と納得すると同時に、人情話になっているという
風に中身が詰まっている感じなのが、現代でも通用するエンターテイン
メントになっているなあ、と思うのだ。

韓流ドラマの複雑なあらすじを、百年以上前にもうすでにやっていた
感じに、近いかもしれない。

もう一つの「身替座禅」の方は、それこそ落語というか、狂言っぽく
素直に笑えるお話で。
お殿様が、奥さんの目を盗んで一晩だけ浮気をしようと、家来の太郎
冠者に自分の身代わりに座禅をするように命じるんだけど、その事が
奥さんにばれてしまい、太郎冠者の代わりに身代わりに扮した奥さんの
前で、いかに浮気が楽しかったかを披露してしまう、という踊りで。

その奥さんの方を女形として中村獅童が演じていて、そのガタイの
大きさと、その旦那ってお前の事やんけ、という洒落っ気も含めて、
笑いの絶えない舞台になっていて。

でも、そのたくましい感じのする獅童の奥さんに対して、勘太郎と
七之助がちょっとおっちょこちょいで頼りない殿様と太郎冠者を演じて
いるのが、ぴったりはまっている感じなのだ。


でね、そういう物語の筋自体の面白さもあるとは思うんだけど、それ
よりも私の目を引きつけたのは、彼らの立ち居振る舞いの方なのだ。

何気ない、玄関で履物を脱ぐ姿でも、優男と立ち役の人では、全く
違うし、段差の上がり方や、本当は軽い水桶を、重く持ち上げる時は
(当たり前かもしれないけれど)重く見える。

それって、200年以上続く歌舞伎の歴史の中でつちかわれた、「型」なん
だと思うんだけど、でも、その型を表現できる役者の肉体がなければ
できないことだと思うんだよね。

すなわち、歌舞伎と言うと、つい伝統的で古臭いと思ってしまうかも
しれないんだけど、その彼らが小さい頃から身に染み込ませた、立ち居
振る舞いの一つ一つは、とても綺麗で洗練されていて、つい見とれて
しまうのである。

だから女性で歌舞伎にハマった人が着物にもハマるのも、ちょっと
わかる気がする。
彼らの動きを見ていると、和服を着るのも格好いいなあ、と思うのだ。

そんな風に、現代に生きる私たちがもうすでに失ってしまった、日本の
着物を着ることの格好良さ、凛々しさを感じられるだけでも、歌舞伎を
観る価値ってあると思うんだよね。

また来年の新春、チケットが取れたら浅草に来たいと思います。



2007年01月05日(金) 正月三が日の過ごし方

私の正月三が日は、寝正月…というか、うちの近所に初詣に行った以外
は基本的に家に引きこもった三が日だった。

かといって、ただ単に寝てすごしたという訳でもなく。

どちらかと言えば、家事と料理に明け暮れていた、というのが近いかも
しれない。

本来ならば、お正月って言うのは、一家の主婦が家事から解放される
ために日持ちのする、おせち料理を大晦日までに作ってお正月はのん
びりする、というのが正しいお正月の過ごし方だと思うんだけど、ここ
数年、お正月に自分で料理を作ると言うのが密かな楽しみになっていて。

自営業になって以来、お正月っていうのは、何もしないという意味では、
一番のまとまった休日で、しかも外に食べに行こうと思えば行けない
ことはないけれど、せっかくなら自分でいろんな料理に挑戦する、
格好の時間なんだよね。
ということで、毎年この時期に様々な料理を作るのを楽しみにしている
のである。

という事で、今年の年末年始に作ってみた料理の献立の一部を書くと、
麻婆豆腐、根菜のポトフ、里芋のお煮しめ、ブリの照り焼き、などなど。
これらのメニュー、実はTV番組でやっていた料理のレシピなのである。

麻婆豆腐里芋の処理の仕方はNHKのためしてガッテン、根菜の
ポトフ
は、TV朝日の「おしゃべりクッキング」、そしてブリの照り焼き
「はなまるマーケット」から。
といって、いちいちレシピをメモしていた訳ではなく、これらの詳しい
レシピはそれぞれのWebサイトに載っているのだ。

私が、TVで料理番組を見て、作ってみようかな、と思うのは、映像を
見ただけで、作る手順が簡単に想像できる簡単な奴で、しかもネット
上でレシピが入手できるものに限られる。

いつか一回挑戦してみたいなあ、と思うものを、休日やこういうお正月
休みに挑戦してみるわけですね。

このうち、挑戦してみて、個人的に評価が高かったのは、根菜のポト
フと、里芋の処理の仕方。
根菜のポトフの方は、本当にお鍋を火にかけるだけで簡単に出来たし、
(その後、火を止めて毛布、新聞紙にくるんで保温することでじっくりと
味をしむこませることに成功したし)
年末に作って余った残りに、お餅を入れて元日は洋風お雑煮にしたけど
美味しかったし。

里芋の方は、ま、正直言って見た目はちょっと悪かったけれど、ぬる
ぬるが一切出なかったので下準備が簡単だったのと、里芋が本当に
ほっくりとしながらネトネト感も普段作るときよりおいしく感じられて。

普段の休日だと、つい外に出かけちゃうことも多いので、こうやって
家にじっとしている時には、時間のかかる料理を作るのも、楽しかった
りするのである。
レシピ通りに作ると言うよりは、この次は例えばポトフを手羽先で
作ったらどうだろうと考えてみたりとか。

その代わり、お正月太りで身体がちょっとばかり重くなってしまった
気もする訳ですが。
でも、その分ゆっくり休めたので、またこれからいいスタートを切り
たいと思います。



2007年01月01日(月) 謹賀新年



新年あけましておめでとうございます
今年は猪突猛進とはいかないまでも、
「ちょっと猛進」した一年を過ごしていきたいと
願っております。
本年もよろしくお願い申し上げます。


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