パラダイムチェンジ

2006年11月25日(土) 7月24日通りのクリスマス

今回は映画ネタ。観てきたのは「7月24日通りのクリスマス」
(註:音出ます)
この映画を一言で言うと、「少女マンガテイストの、いいクリスマス
映画」である。

クリスマスの時期に見たくなる、クリスマス映画ってジャンルがあると
思うんだよね。
ちょっと現実離れした話でも、「It's Christmas!」の一言で許せてしまう
というか、心がほっこりする映画。

「ラブアクチュアリー」だとか、あとはダイハードの1とか2とか。
(特に2のラストの、警官が違反キップを「いいか、今日はクリス
マスだ」の一言で破って捨てて、そこにクリスマスソングが、かぶ
さる感じとか)
この時期は、そういう映画があると、つい見てしまうのである。

この映画は、邦画としては珍しく、そういうクリスマスらしい映画に
なっていると思う。

で、少女マンガテイストとは何か、というと、少女マンガ的な表現が
上手いなあ、と思うのだ。
よく、少女マンガにはカケアミ表現とか、コマの中に花が咲いていたり
するじゃないですか。
この映画では、そういうのをCGで上手く表現していて。

物語も、中谷美紀が演じる、眼鏡をかけて髪がボサボサで、少女マンガ
の主人公に憧れる、あまりパッとしない今で言うところの腐女子?な
女性が、学生時代から憧れていた、大沢たかお演じる照明デザイナーと
恋に落ちるという、少女マンガにありがちな映画。
監督も映画版の電車男の人らしい。

だけど、じゃあ、ベタな展開で終わるのか、と思うと現代の恋愛事情も
ちゃんと加味されていて。
この辺TVドラマでも好きな作品の多い、脚本家の金子ありさの力量が
発揮されている感じで。

でね、この映画のいいところは、中谷美紀の憧れる、大沢たかおの役が
単なる白馬の王子様じゃない、って所だと思う。
この映画の中のキーワードに、「相手のことをちゃんと見てるか」という
台詞があって。
そうそう、そうなんだよ、と映画を見ながらうなずいていました。

主人公たちの周りを取り巻く人たちも、YOU、佐藤隆太をはじめとして
みんな期待を裏切らないというか、クリスマス映画らしい感じで。
大沢たかおも、初めて映画で見てて、格好いいなあと思いました。

でも、この映画でやっぱり一番光っていたのは、主演の中谷美紀だと
思う。
最初の、もろネガティブで、パッとしないところから、段々と外見も
変わっていくんだけど、彼女が恋をしていく中で、足どりが軽やかに
なっていって、しかもそこにCGがかぶさる辺りも上手いなあ、と思う
し。

途中でインサートされる、彼女の妄想の中のポルトガル、リスボンの
街の風景も、物語にうまく動きを与えていると思います。
クリスマス・ソングもうまくはまっていて、クリスマス時期になると
観たくなる映画だと思います。



2006年11月22日(水) ミュージカル「RENT」

今回は演劇ネタ。
見てきたのはミュージカルの「RENT」
今年映画を観て、すごく面白かったので、ミュージカル版も観たく
なり。
6月にNYに行った時も、ブロードウェイで観ようかな、と思ったんだけ
ど、その時には秋に日本で公演が行われることも知っていたので、他の
作品を見ることにして。

今から考えると、安売りチケット販売のTKTSで買えば、日本の半額で
観られたわけだけど、でも字幕無しだし、微妙な感じだったかも。

というのは、結局、字幕無しで、台詞の英語を理解するのはやっぱり
難しかっただろうな、と思うのだ。
ただ、段々と台詞に慣れてきて、聞き取れるようになってくると、
字幕って、英語の台詞の半分くらいの意味しかないのもわかり。

で、おそらくこれがブロードウェイでの上演では、多分笑いが起こるん
だろうな、という台詞(大体において不適切な表現っぽい)のニュアンス
とかまでは、字幕では表現できなかったんだろうな、位まではわかった
けれど、その先を理解するのには、まだまだ時間がかかるというか、
結局、アメリカに住まなければわからないのかも。

だから、多分、ブロードウェイで観た場合には、台詞一つ一つで、
どっと周囲の観客がうけて、え、何?どこが面白いの?と思いつつ、
にぎやかな雰囲気で観られただろうし、逆に日本では、その分、一つ
一つのパフォーマンスとか、歌のパートをじっくりと聞くことができて
よかったような気もするのである。

で、ミュージカル版を見てきて、思った感想は、「いつのまにか、NYの
雰囲気になっていることにビックリ」である。

舞台自体はそんなに大きくないし、派手な舞台展開があるわけでもない
この作品。
だけどステージの上には、このミュージカルの作者である、ジョナサン
ラーソンの生きていた時代のNYの雰囲気が、段々と感じられるように
なるのだ。

その、ジョナサンラーソンの生きていた時代のNYの雰囲気とは、じゃあ
何なのか。
それは、HIVであり、貧富の格差であり、ドラッグであり、危険な街で
あり、だけど夢を実現するためにもがき、あがいている若者たちの姿で
あり。
そのうちのほとんどは、今もNYにあるんだと思うけど。

この作者のジョナサン・ラーソンは、このミュージカル「RENT」が初演
される直前に、不慮の死を迎えてしまう。
だから、彼は自分の成功を知らぬまま、亡くなっているわけで。

だからなのかは、わからないけれど、この作品には、そういう成功を
夢見る若者としての、ジョナサンラーソンの思いというものが、作品の
至る所にあふれていると思うのだ。

それは曲のスコアであったり、台詞の一つ一つであったり。

それらはおそらく、まだ自分の成功を知らないジョナサン・ラーソンの
周りには、ありふれていたエピソードばかりなのかもしれない。
だけど、それらのリアルな状況・台詞の積み重ねが、舞台上に夢はある
けど貧乏な、NYの下流社会の生活を生き生きと蘇らせていると思うので
ある。

でね、それって、今現在、格差社会になりつつあるとは言われている
日本でも、まだどこか他所の世界の話なんだろうな、とも思うのだ。
でも逆にいえば、日本の夢見る貧乏な若者たちにとっても、このギラ
ギラした感じとしか今は表現できない、夢を持った若者たちの姿という
のは、共感できるものの様な気もするし。

それが何となく自分のイメージする、NYのイメージなのかもしれない。

私がこのミュージカルのスコアで一番好きなのは、映画では冒頭、
舞台では二幕目の冒頭にかかる歌である。

この歌の中で、ジョナサン・ラーソンは「525,600分…1年という時間を
どうやって計ろう」という詞をつけている。
生きていると、結構1年間という時間はあっという間に経ってしまう。
だけどそれを分で数えたら525,600分という、膨大な数の時間になる。

その膨大な時間の一瞬、一瞬を、愛という単位で、愛に包まれながら
今という瞬間を生きていこう、というのが、この詞の意味だと思う。

この作品は、そういう愛――それは、恋人に対する愛だけではなく、
仲間に対する愛、隣人に対する愛、そして自分自身を好きでいるという
愛――にあふれた作品なんだと思う。

今回、今の時期に見ることが出来て、本当によかったな、と思える
作品でした。
またいつか、今度はブロードウェイでできたら観てみたいと思います。



2006年11月20日(月) いじめと「軸」

と言うことで、いじめについて、思いついた事を書いてみる。
ただし、これは私の知っている、いじめの世界の話と、その延長上の
話なので、現在のいじめの話とは、事情が違っているかもしれない。

さて、私はキャラ的には、いじめられっ子キャラである。
というより幼稚園時代くらいは、自分がいじめられっ子だった、と
いう記憶は(ほのかに)ある。

その後も、トラウマになるような、深刻ないじめられ体験は幸運に
してないけれど、多分自分本来のキャラはいじめられっ子だったん
じゃないかな、と今でも思ったりする。

そう思うのは、自分が結構空気読めないキャラだったからなんだけど
(今もか?)

で、そういう私の立場から、最近のいじめについての報道などを
見ていて、一つ注目したのは、いじめについて、中高生にアンケート
をした新聞の記事だった。

そこでは、「いじめられっ子にはいじめられる理由がある」と書いた
中高生が多かった。
で、それはおそらく、私が今の中高生の立場でも、もしかするとそう
思うかもしれないな、と思ったりもする。

だって、おそらくは私の学生時代よりも、空気読めよ、みたいな
同調圧力は強いのかもしれないし、その一方で、自分らしさとか
個性みたいな物を身につけろと言われ、また、受験では他人を蹴落
とせ、できなきゃ負け組とでも言われている、そのプレッシャーは
すごいのかもしれないとも思うし。

で、ここからが本題なんだけど、そういう中、いじめられる子って
いうのは、前回の話から広げれば、軸がはっきりしなかったりする
んじゃないのかな。

というのは、自分自身が、かつて周囲と上手くいかなかった時って、
自分の軸がぶれていたり、見失っていたり、はっきりしなかった時
なんじゃないかな、と思うからで。

逆にいうと、自分の中で軸がしっかりしている時って、周りから
見ると変人キャラであっても、それが個性として認められてる気が
するんだよね。

つまり、(いじめる側から見て)訳のわからない変人だと、いじめられ
る事もあるけど、軸のある変人の場合、それが個性になって「変な奴」とは思われても、それが味になって、いじめられる事は無いような気
がするのだ。

私の場合、中学時代は一番いじめられる可能性が高かったと思う
けど、その時は、幸い、勉強できるキャラの方が勝って、空気読め
ないキャラ扱いはそんなにひどくなかったと思うし。
(勉強しか出来ないくせに、と陰口を面と向かって言われたりも
したが)


ただ、軸がはっきりし過ぎている場合、その軸があることで(キャラ
が立っている事で)いじめの原因になる場合もあるかもしれない。
でもね、その場合でも、軸がある人の場合、その人を嫌いだと思う人
がいる反面、その人の事を好きだと思ってくれる人も必ずいると思う
んだよね。

で、それって、万人に好かれようと思って、自分の軸を無くしてしま
う事よりも、自分の軸をはっきりさせる事の方が、多分生きるのって
楽なんじゃないかな、と思うし。

それに前回佐藤可士和の言葉を引用したように、軸がしっかりした
人の方が、コミュニケーションセンスが高くなるし、将来仕事だって
きちんと成果の出せる人になるんじゃないのかな。


そしてもう一ついえるのは、実はいじめる側の方も、軸がない人が
多いんじゃないかな、と思うのである。

だって、多分軸がちゃんとある人の場合、いじめるのってダサイとか
格好悪いって思えるんじゃないかな、と思うのだ。

で、大人になっても人をいじめている奴って言うのも、結構軸が
なかったりするような気がするのだ。
そういう人って、なんて言うのか、ダサイっていうか、ちょろいって
いうか。

そしておそらく、私が今までそれほどいじめられなかったのは、
私の同級生だった人たちが、結構軸がきちんとしてた気がするんだ
よね。

それがもしも、現在の方がいじめが厳しくなっているんだとしたら、
それだけ、自分の軸がどこにあるのか、意識できなくなった生徒が
増えているんだと思うのだ。

で、実はその事の方が、今後の日本を考えたら深刻なんじゃないの
かな。
だって、コミュニケーションセンスのない奴が増えていて、自分の
軸なんてものがあるということ自体がわからない人が増えているって
事なのかもしれない訳だし。


同じく、最近の新聞記事では、「自分に親友と呼べる人間がいない」
「親・先生が真剣に話を聞いてくれない」と思う子供は、親友がいる
子供に比べて、女子では2倍の割合でいじめる側に回った経験がある
という調査結果が報道されていた。
つまり、いじめる側も実は孤立しているらしいのである。

ただ、思春期っていうのは、一番軸がわからなくなる時期の様な
気もするんだよね。
自分の身体自体が大人に向けて変化している訳だし、また今は昔より
進路について、親の干渉も強くて、自分の思ったとおりには中々
物事は進まないだろうと思うし。

でも、そういう時に何か一つでも、自分の軸が通っていれば、多分
いじめっ子もいじめられっ子も、生き易さが違うんじゃないかな、
と思うのである。(その軸が通っているのがいじめというのは無しに
して)

例えば、養老孟司や、茂木健一郎の場合、それは虫取りだったのかも
しれないし。今だったら、ゲームなどの脳内で済むことよりは、
もう少しフィジカルな、身体を動かすものの方が、その効果は高い
んじゃないのかな。
だって、身体が変わるって事は、それだけ自分の意識にも余裕が
出来ると、自分の経験から言っても思うのである。

でも実は、自分の軸がしっかり出来るって、そんなに簡単な事でも
ないので、しっかりとした軸が出来るためには、四苦八苦した経験
が必要だと思う。
だからといって、そこであきらめちゃったら、軸なんて未来永劫感じ
られないことの様な気もするし。


先日のトークショーで、茂木健一郎は、中沢新一と対談して以来、
マイナスの感情から、プラスの表現を生み出す心の錬金術について
ずーっと考えていると言っていた。

例えば、モーツアルトの音楽は、彼の人生における境遇はとても苦労
の多いものだったものに関わらず、明るい、華やかさを備えている。

人は誰でもダークサイドの一面を持っているとして、そのネガティブ
な物をそのまま出すのではなく、それをプラスに変えた表現の方が
多くの人の心を豊かにすることが出来る。

つまり、ある時期大変な境遇にあることが、平坦な人生を送ってきた
人よりも素晴らしい表現のできる可能性を含んでいるともいえるのか
もしれない。


でね、これは自分の経験から言うことなんだけど、軸が無くて周囲と
上手くいかなくて空回りして、右往左往している時と、自分の中で
軸が出来ているな、って思って心の余裕がある時って、本当に、自分
の中で軸を感じられるかどうかの違いでしかない気がするんだよね。

で、その軸を自分の中で作るっていう時に、自分の身体の内部の筋肉
を調整する事ってすごく役立つと思うのだ。
それは例えば、死ぬほど筋トレをしろと言っているのではなく、
身体の使い方のコツに気付けばガラッと変わると思うんだよね。

それは佐藤可士和が言っていたように、自分に足りない物を外から
付け加えようとするのではなく、自分の中で使われずに眠っていた
ものの価値を見つけ出して活用する、という事のような気がする
のだ。


先週の金曜日のTV番組「太田光の私が総理になったら・・・秘書田中」
で、いじめ問題を取り上げたとき、高校時代一言も同級生と話さな
かった太田光が、「浮いている奴の方が実は魅力的」と言ったのも、
軸のある個性的な人について言ってた様な感じがするのである。

ついでに言ってしまえば、最近の流行り?のモテるかどうかって
いうのも、男の場合は特に、軸があるかどうかが重要なんじゃない
のかな、と思うんだけど、長くなったのでそれはそのうちにでも。



2006年11月18日(土) プロフェッショナルの流儀 番外編

土曜日、西新宿の住友三角ビルでの、脳科学者、茂木健一郎の
対談を聞きに行ってきた。

今回は「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜番外編」ということで、
同名のNHKのTV番組の司会をしている住吉美紀アナウンサーと、
CMその他の世界で今、注目されているアートディレクター、佐藤
可士和との対談。

いや、これがもうむちゃくちゃ面白かったです。

佐藤可士和自身が、最後の締めに自分自身がトークを楽しめたと
いい、茂木健一郎が、今日の場の雰囲気が(佐藤可士和によって)
クリエイティブな空間になっている、と話の途中で言っていた
けれど、聞いているこっちも、なんか自分のクリエイティビティ
(なんてものがあるとすれば)が、すごく刺激されたトークショー
でした。

これは、佐藤可士和、茂木健一郎というクリエイティブな世界の
プロ二人が揃ったからというだけではなく、そこに住吉アナウンサー
が触媒の役割をしたから、その雰囲気が強くなったんじゃないかな、
と思ったのである。

いや、茂木、佐藤二人の対談でも充分面白かったと思うけれど、
そこにもう一つの要素である、住吉アナウンサーが加わった鼎談に
なることで、話がもっと膨らんだんじゃないのかな。

そしてそれこそが、茂木健一郎が住吉美紀アナウンサーを高く買って
いる理由なのではないかなあ、なんて事を思って聞いていました。

今回のトークショーでは、何個も心にメモした言葉があったんだけど
その中の(個人的な)白眉は、トークショーの終盤に、佐藤可士和の
言った、身体の体幹の筋肉を調整することで、自分の中に軸を作る
事が重要なんだ、と言った一言。

佐藤可士和自身は、2年前からバランスボールのトレーニングに行く
事で、自分の体幹を調整しているんだけど、その事が、彼自身の創作
に多大なインスパイアを与えているらしい。

そして彼自身が、企業のトップであったり、有名人であったり、様々
な人に会うとき、この人はすごいな、と思ったり、コミュニケーショ
ンセンスがいいな、と思う人は、軸が通っているというのだ。

自分の軸があるからこそ、TPOに合わせて場の空気を読む事ができる
し、また同時に、自分の素の力を魅力的にできるのだ、と。

そして、それにかぶせる様に、住吉アナウンサーが、「それが身体の
軸を鍛えることで、コミュニケーションという頭の軸もできるって
事なんですね」と感心していた。
(その時、茂木健一郎は客席を見てニヤニヤしていた)


で、軸って、私自身も最近、ダンスを復活して以降、意識している
事なんだよね。
自分の軸を支えるためには、やっぱり体幹のインナーマッスルという
か、背骨のそばのコアの筋肉群を鍛えていたんだけど、そうすると、
自分の仕事的にも、様々な変化が現れてきたところであり。


それと、軸ということについて面白かったのは、その後、客席からの
質問を聞いている時だったのである。

質問を聞いていると、その人の軸がどこにあるのか、それとも感じら
れないのかが、結構はっきりしていて。
で、個人的な印象としては、軸のしっかりしてない人ほど、結構
とんちんかんな質問が多いんじゃないかな、とちょっと前から思って
いて。
なんとなく、今回の質問を聞いていて、ああ、やっぱりそうなのかも
と思ったのである。
(ただし茂木健一郎は、そのカオティックな場の雰囲気をも、楽しん
でいる感じだった)

で、そこから話を飛躍させると、最近のいじめ問題にもこの軸の
有る無しが重要なんじゃないのかな、と思ったのだ。
これについては次回にでも。



2006年11月17日(金) 社交ダンス復活しました

なんて書くと、何か冷やし中華始めましたみたいですが。
ちょっと前から、社交ダンスを習い始めました。

私は大学時代に社交ダンス(競技ダンス)部に所属していて、4年間
の青春と汗と涙と少なくないお金をつぎ込んで来たわけですが、
まあ、最近、ひょんなきっかけで、再びダンススタジオに通い出す
事になり。

以前はサンバやチャチャチャなどのラテン種目を踊っていたわけ
ですが、今回はワルツやタンゴなどのモダン(スタンダード)種目に
挑戦してみようと。

といって、競技会に出たり、デモをしたりする予定はないので、
誰かに見せる予定は全くないんですが、とりあえず、シャドウで
先生についてもらって、ダンスの身体の使い方を学びたいと思った
訳ですね。

一応、以前に比べると身体の知識もついているので、色々とダンス
の上達に応用してみたり、逆に仕事に生かせればいいかなあ、という
感じで。

とりあえず、持続可能な間隔で、足腰を据えてやっていこうと思って
います。
っていうかね、やっぱり踊るのって楽しい♪って感じ。

昔はモダン種目って苦手意識が強かったんですが、再びやってみると
ああ、あの時できなかったのはこういう事だったのか、という新たな
発見があったりして。


で、その現在の私の指導をしてくれている先生が、明日の日本テレビ
の「Shall we ダンス」に出るらしいです。
モト冬樹のパートナーで出るらしいので、興味のある方、お暇な方は
見てみてはいかがでしょうか。



2006年11月16日(木) クリーブランド美術館展

六本木ヒルズ52階にある森アーツセンターギャラリーまで、
クリーブランド美術館展を見に行ってきた。
なんでも、アメリカのクリーブランドにある美術館が現在改修中
なので、その展示作品がはるばる日本までやってきたらしい。

今年の秋は美術づいていて、他にもエルミタージュ美術館展とか、
ダリ回顧展などを見に行きたいんだけど、とりあえず会期が終わりに
近づいたここから攻めてみることに。

と言うことで、行ってきたんだけど、いやあ、予想以上によかった
です。
やっぱりね、絵は生に限るなあ、という感じで。

個人的に好きなのは、印象派の絵画と、20世紀初頭の絵画なんだけど
今回はその印象派の作品に、見ていてほれぼれする作品が揃って
いて。

中でもカタログの表紙になったり、公式ウェブサイトのトップページ
にも飾られている、ルノワールの、少女を描いた作品とかは、肌の
白さの中からほんのりと赤みがさしてるあたりにモデルになった少女
の息づかいが感じられる気がして。

こういうのって、写真や本に載っているのでは、伝わらないと思うん
だよね。
だから、機会があるならば、できるだけ生の絵を見た方がいいんじゃ
ないか、と言うのが最近の私の態度であり。

だって、印象派の絵画なんて、100年以上前の画家が描いた絵が、
多くの人に評価された結果、後世まで生き残って、世界中の美術館に
散らばっていったのが、日本にもやってくる、という事でもあり。

この機会を逃せば、もしもその美術館に行っても運が悪ければ会え
ないのかも、と思えば、時間が許すなら見てみたいと思うのである。

だってさ、やっぱり自分がすごいと思った作品が何点かあるとすれ
ば、その絵と出会ったって事はやっぱり自分の中の感受性というか、
何かは変わっていると思うんだよね。

誰かがすごいと言ったから、この絵がすごいと思うというよりは、
自分の好きな作品に出会えた時っていうのは、その前にしばらく
たたずんでいても飽きない感じがして。
そういう絵に出会えただけでも幸せだなあ、と思うのである。

今回のクリーブランド美術館展では、先ほどのルノワールの絵だけ
ではなく、他にも何点かそう思える作品があったのが、よかったなあ
という感じで。

仕事の関係で終了30分前に滑り込んだんだけど、それでも充分素敵な
時間を過ごすことができました。
11月26日までなので、もしも見たいと思った方は是非どうぞ。



2006年11月11日(土) ただ、君を愛してる

今回はちょっと前に見た映画ネタ。
見てきたのは、「ただ、君を愛してる」

この映画を一言で言うと、「泣けたけど、ちょっと複雑な気分」
である。

宮崎あおい、玉木宏主演の、大学時代の甘酸っぱい?片想いと純愛を
描いたこの映画。

いや、クライマックスでは泣いたんですよ。
最近、映画ではほとんど泣いたことのない、私までもが。
っていうか、予告編で見ている時から、おそらくこういう展開なんだ
ろうなあ、と思うように物語は展開していって、ここでこの展開だった
ら、そりゃあ、泣いちゃうでしょう、という所にクライマックスが
あって。

って、見てない人には何のことやらわからないと思いますが、興味を
持たれた方は、是非本編をご覧になっていただくとして。

で、そんな感動的な映画のどこら辺に、私が複雑な気分を感じたのか、
というと。
玉木宏演じる、主人公を取り巻く人間関係が、ありえなくない?
という点であり。

彼が天然ボケの心の優しい奴であり、そういう彼のことを、宮崎あおい
や、黒木メイサ演じるヒロインが、好きになるのは、そりゃあ、別に
構わないんですが。

でもさ、宮崎あおいはともかくとして、そんな煮え切らない態度の奴を
黒木メイサ演じる彼女が、ずーっと好きでいる、っていう方が、何だか
信じられないっていうか、モテない男の都合のいい願望の様な感じが
して。
4年間付き合って?キス数回って事はないんじゃないかと。
っていうか、そんな奴の事を好きでいた、黒木メイサの事が不憫で。
さっさと乗り換えちゃえばよかったのにね。

もちろん、それらの設定全てが、クライマックスを盛り上げるための
伏線であり、そもそも純愛映画って、普段ではありえない設定だから
こそ、盛り上がるんだと思うのですが、見ていて何となく、その辺が
感情移入できなかった感じなのかも。

と、いう私ではあるのですが、それなのにも関わらず、この映画で
思わず泣いてしまったのは、おそらくは、宮崎あおいの存在感にあった
んじゃないかと。

まあ、嘘つきで、人の人生かき乱すだけかき乱しておいて、いきなり
消えちゃうのかよ、とも思いますが、でもね、彼女の玉木宏を見つめる
視線(の演技力は)、この映画にとっては欠かせないものだったんじゃ
ないかなあ、と思うのでした。

で、映画を見た後、しばらくたった後に、なぜこのエントリーを書こう
かと思ったかというと、その映画の中のクライマックスで使われた、
宮崎あおい自身が撮った作品の写真展が、池袋パルコの7階でやっている
のを偶然通りかかって見たからなんですね。

よく、映画でかかった音楽を耳にすると、その映画の情景が思い浮かぶ
というのはあるけれど、映画の中のギャラリーよりずっと狭い展示
スペースに並べられた写真たちは、でもそれでも、映画の余韻というか
感触を再び思い出してくれたのでした。

この映画の中で一番好きだった写真は、映画の冒頭で、玉木宏が撮る
横断歩道を渡ろうとする、宮崎あおいの写真である。
(今回の写真展にはその写真はありませんでしたが)
写真って、やっぱりそのシャッターを下ろした人のその瞬間の気持ち
みたいな物を切り取ったりするんじゃないのかな、なんて思います。

改めて、写真っていいなあ、と感じさせてくれた映画&写真展でした。



2006年11月05日(日) 「死にたい」とつぶやく衝動

のっけから変な話をして申し訳ないのだが、私は時々、唐突に
「死にたい」と独り言をつぶやく癖がある。
そうつぶやいている時の私は、ひどい鬱状態に襲われている訳では
ないが、テンションは下がり気味で、割と真面目?にどのように
死ぬのが一番人に迷惑をかけないか、という事を考えたりしている。

だからといって、多分、本気で死のうとは思っていない事も、心の
どこかではわかっていて。
もしも、何かのタイミングが合った拍子に死んでしまうことはある
のかもしれないけれど、「死にたい」とつぶやいている時の私は、
同時に「死にたくない」とも思っているのだと思うのだ。

それは多分、「死にたい」んじゃなくて、そう思っている自分が、
「生きている実感」に乏しいときなんじゃないのかな、と最近思って
きて。
つまり、「生きてない」気がするから思わず「死にたい」を衝動的に
つぶやいているのかもしれない。

で、じゃあ「生きている実感」ってどんな事なんだろう、とも思うの
である。
それって多分、感動すること、心が動かされる事なんじゃないのか
な。
つまり、心が動かされる事が多い人は、自分が生きている、という
実感は無かったとしても、少なくとも「生きてない」と思うことは
少ないんじゃないかな。

で、感動することっていうのは、たとえば、泣ける映画を見に行く
事とは、ちょっと違うと思うのである。
本当に心を動かされるっていうのは、例えば、普段見過ごしていた
風景の中で、自分が澄み切った青空に包まれていると思った瞬間で
あるとか、今までできないと思っていたことが、何かの拍子にふっと
できたりする瞬間であるとか、そんな些細な自分の日常の生活の中で
何かを発見することのような気がするのである。

で、そういうのって、最近TVでもよく見かける脳科学者の茂木健一郎
の提唱している、「クオリア」とも関係しているような気がするのだ。
「クオリア」について、簡潔に説明する能力はないんだけど、人間の
脳の中には、そういう「クオリア」という質感を取り扱う領域があって
例えば、美しさであるとか、そういう感覚は、クオリアによって
起こされるらしい。

でね、大切なのは、そういう些細な事の発見をするのは、その人本人
だということの様な気がするのである。
つまり、何かそういう発見をして、心を動かされたり、感動した人
っていうのは、その直前とは、質的に変化している、という事でも
あり。

で、あるならば、身の回りにある世界の中で、いいなあ、と思う事、
自分が行動したことについて、よかったなあ、と思えることを積み
重ねていけばいくほど、その人は質的にいい方に変化していく、と
いえるんじゃないのかな。

で、重ね重ねいえば、それは何も特別な事じゃなくて、身近な物事
から、そういうものを発見できるセンスを磨けば磨くほど、多分、
感動ってしやすくなるんだと思うのだ。

で、そうなっていけば、自分が「生きてない」と思うこと自体が少なく
なっていくと思うのだ。
というより、事実、私自身が最近「死にたい」とつぶやくことが少なく
なって来ているのを実感しているのである。

例えば、自殺はいけない、と言うことは簡単だと思う。
でも、個人的に重要なのは、自殺に向かう人の、死ねば楽になる
という所で固定してしまっている心に、様々なことに心を動かし
感動できる余裕を持たせるだけの、きっかけを作る事なんじゃない
のかな。

だって、例えばあなたの網膜に映った景色の美しさは、あなただけの
物なのだから。

うまくまとめられなかったので、この辺で。


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