パラダイムチェンジ

2003年07月03日(木) 健全な魂は、健全な肉体に宿るのか(前編)

学生時代、といっても自分がまだ小さかった頃の話。
あまり好きになれない言葉が一つあった。
それが、「健全な精神は、健全な身体に宿る」という言葉である。

この言葉、体育の授業でよく聞いた気がするのは気のせいだろうか。
で、この言葉が好きではなかった私は、とどのつまり、体育の授業が
大の苦手であったのである。

今でもインターネットで検索をかけると、様々なサイトでこの言葉は
使われている。
特に体育会系や、スポーツがさかんな機関のサイトなんかでは、よく
見ることがある。

で、今現在の私がこの言葉に対してどのように思っているかというと、
この言葉にも、なるほど一理あるな、とは思うのだ。
でもその一方で、この言葉って、しばしば誤解されて便利に使われている
ような気もするのだ。

すなわち、
「スポーツ万能な、健全な身体を持つ人間でなければ、健全な精神を
養うことはできないのだ」というように。
まあ、ここまでくるとやや自分のひがみ根性丸出しな気もするが。


でね、なんでそんなことをふと思ったか、というと、
それは私の職業にもちょっと関係する。

つまり、じゃあ、病気で入院している人や、身体障害者の人たちは、
健全な身体を持っていないから、健全な精神状態ではないわけ?
という疑問が起きてくるのだ。

で、もしも病院で働いたことのある人や、家族や知り合いが病院に入院
した経験のある人ならわかると思うけど、確かに、そういう病気がちの
人の中には、心理的に偏屈になってしまって、あまり人の話を聞いてくれ
なかったり、絶えず問題行動を起こす人も多い。

なんだ、ほら見ろ、と思う人もいるかもしれないが、じゃあ、全ての
病人がそんな状態か、といえばさにあらず。
結構大変な病気を持っている人たちの中でも、健全な精神を養っていら
っしゃる患者さんは沢山いるし、事実そういう人たちに教えられた事や
育ててもらった部分も多々あるのだ。

で、逆にじゃあ、スポーツ万能の、完璧に健全な身体をもっている人
たち、TVでもよく見るトップアスリートたちが、みんながみんな、
人格者で立派な人物か、といえばそんなことはない。
いや、もちろん個人的に尊敬しているトップアスリートたちも沢山
いるんだけど。

そう考えると、結局「健全な精神は健全な肉体に宿る」という考え方は
前にちょっと触れた「以心伝心」と同様に、人びとの願望を表わして
いるのかもしれない。

と思いながら念のため、広辞苑をひいてみると、あるある、ありました。

(慣)健全なる精神は健全なる身体に宿る
 (mens sana in corpore sano(ラテン))
 (ローマの詩人ユウェナリスの「風刺詩集」から)身体が強健であって
こそ精神も健全である。詩の本来の意味は「健康な身体に宿る健康な精神
を願う」というもの。


となっている。
じゃあ、宿って欲しいという、これは願望である、という自分の解釈が
間違ってはいない訳ですね。

という事で冒頭に戻る。
じゃあ、健全な精神は、健全な肉体に本当に宿るんだろうか?
という事で次回。


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