15's eyes
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2003年06月29日(日) かわいそうって言葉

私は教育テレビラブな女だ。
仕事柄、ではない。
決して。

こどものころは、「できるかな」や「ばくさんのかばん」が
大好きだった。
ばくさんが言う。
ばくばくばくばく〜って言葉も覚えてる。
今でもセサミストリートや高校野球なんかで、
教育テレビは欠かさない。

それで、週末にたまたま
教育テレビにチャンネルをあわせたときに、
わかものが熱く討論をしていた。

こんな番組もあるんだねー
知らなかった。


それで、最後の方にその番組に寄せられた
メールが紹介されたんだけど、
テーマは「かわいそうと言われることについて」みたいな
内容だった。

例えば、
複雑な家庭に育った身の上話なんかを
他人にすると決まって「かわいそうね〜」
なんて面と向かって言われて、ぐさっとくるという
10代の女の子や男の子たち。

言い分はこうだ。

頑張って前向きに生きてるのに、
自分はこの境遇を受け入れようとしているのに、
そんな言葉で言われたら、
傷口に塩をぬられたような感覚になる。

私は大変な両親のもとで育ったけれど、
そんな家庭でも大好きだ。
だから、どうして「かわいそう」なんて言うの?



確かにな
と思った。

そりゃぁ
この言い分には、
若者特有のとがった感覚とかさ。
あるかもしれないけど。


「かわいそう」
という言葉は気軽につかうもんじゃないな
と私は思った。


世の中には苦労話を並べ立てて、
「わたしをかわいそうだと言って!」と言わんばかりの
人もいるけどね。


自分が「かわいそうだ」と思った感覚を
何の気ナシにその対象にぶつけて、
さらに相手をかわいそうな感覚に陥れてしまうことだって
あるということを忘れちゃいけない。


相手は「かわいそうな自分」から必死にもがいて
はい上がろうとしていたり、
既に「かわいそうな自分」を乗り越えているのかもしれないから。


コミュニケーションには、
自分の思ったことを素直に伝えることと同時に
相手の立場にたって聞く、伝えるという大事な心構えがあると思う。

でもそれってさ、
相反するときもあるよね。
いつも人の心は読めないしさ。


むずかしいな。


ところで、私が教えてきた子たちには、
ホントに10年ちょっとか、
それに満たないくらいしか生きてないのに、
これでもかという世の中のものさしではいわゆる
「不幸な家庭環境に育つ」
という目盛りに位置する子がたくさんいた。

私が、彼らと同じ年だったらとてもだけど
その環境を運命に甘んじて受け入れることは
易々とできない。
自分の環境を呪うだろうなとも思う。

でも、
そんな子達を「かわいそうだね」なんて絶対言わない。
彼らがつらいことを吐き出せば、
大変だったねと受け止めるけれど、
「かわいそうな自分」には決して思わせない。


だって、どうしても自分の環境を受け入れて、
その中でたくましく生きていかなければ大人になれない。
生き延びていけなくなるからだ。

中途半端な同情なんて子どもだってほしくはないと思うから。

もう既に私の手を離れたこどもたちはどうしているんだろう?
でも、時々思い出すよ。
そして思うよ。

友達より早く大人にならなくちゃいけないけれど、
たくましく生きてねと。
そして、過ごしてきた過去と
積み重ねた経験はどんなものでも決してムダにはならなくて、
かならずいつかきっと自分の栄養になるはずだからと。



時々、
ホントに時々、
自分にもそうやって言い聞かせてる。
一日不幸な気持ちで
ベッドにもぐりこむときにね。


2003年06月26日(木) 自分のスタイル

ひきつづき最近映画を観た。

8mileとミニミニ大作戦

オススメは断然ミニミニ大作戦です。
8マイルはいいんだけど、
アンダーグラウンドの世界を描いているんで、
お上品な人は受けつけないかも。
ラップに少しでも興味あるひとは、
カリスマエミネムさまを堪能できるでしょう。
あ。
私は後者です。
エンドロールまで、立ち上がることができなかった。

ミニミニ大作戦
おすぎが5000円払っても観に行く価値アリっていうのは
頷ける。
タイトルがちょっとイマイチなんだけどねー
いいんだよ。
おもしろいよ。
自分たちが盗んだ金を裏切った男(エドワードノートン)
から奪い返すっていうストーリーなんだけど、
このストーリーに出てくるステラ役のシャーリーズ・セロンが
美しすぎ!!
個人的に、グウィネスパルトロウを超えるわ。
ストーリーもミニクーパーをモチーフにアクションシーンが
多数あるのだけれど、きわめてシンプルなつくりで
疲れない!でも、おもしろい!

CG合成に飽き飽きしてるひとには、いいです。かなりオススメ。


映画の話はおしまい。


ところで、最近、好みの思考回路が珍しくめちゃくちゃシンプルになった。
例えば洋服
クローゼットにあふれかえる洋服にうんざりしてしまい、
着ない洋服を処分して、
クローゼットがすきまだらけになりそうな勢い。
パンツだってスカートだって、
シャツだってカットソーだって、
シーズンを通して数枚あればいいのだと思うと、
もう大好きなもの以外いらなくなった。
私はたぶん、新しい洋服をかったら、
これから古い洋服を1着捨てていくと思う。

それほどすっきりしたワードローブは気持ちよすぎることを
知ったから。

洋服の好みも、
自分の好みの筋が一筋になった感じ。
もう多分、世の中の流行と自分好みの流行をミックスさせて
いけそうな気がする。

これは、人としては当たり前の感覚なのかもしれないけれど、
以前の私は目指そうと思っても、
自分はまだまだこの境地に至っていなかったなと
今考えれば、思う。

あれもいいな
これもいいな
それもいいな
どれもいいな

って思ってたほうだから。

でも、どうしてかなぁ

何がきっかけはよくわからないけれど、
頭の中で霞みがかってたものがみるみる払拭されていった感じ。

きっと
私という個性が
私の中で認めつつあるということなのかなぁ。
こう書くととても文学的だけどさ。

自分ってなに?
っていうこたえを
少しずつ少しずつだして、
その答えを受け止めていけるようになったからかも。

私はこれがすき
私はこれがたのしい
私はこれが嫌

その気持ちに敏感になり、
素直に認めていくことは、
ストレスをためないのね、きっと。


2003年06月21日(土) 映画の話とかいろいろ

6月中に観た映画の話を。
見に行く予定でまだ、見てない人は、
ストーリーもわかっちゃうかもしれないので、
今日は読まないで。

マトリックスリローデッド

えと、これは先行上映会で観たんだけど、
すごい人だった。
眠かったのとアクションでおなかいっぱいになった。
けっこうアクションの裏側に
深層心理の部分も描かれているのだけど、
ちょっと内容を飲み込むのには、
もう一回観てみないと、だめかな。
深夜に観たので頭もまわらなかった。


つぎ
メラニーは行く

「キューティーブロンド」でかわいらしく
前向きな女の子を演じたリースウィザースプーン
見たさで出かけたんだけど、
なんだかイマイチだった。
ストーリーは「トゥーウィークスノーティス」ばりに
ベタな王道ラブコメなんだけど、
「メラニーは行く」に関しては、ストーリー展開が私にはダメ。

二股のあげく、結婚式の最中に自分がホントに好きな人
を再確認し、逃げ出すという設定が、
よくある設定だと思うんだけどね。
主人公であるメラニーが、
結婚をやめるわと告げたときに、
新郎のお母さんがメラニーに対して暴言をはくんだけど、
メラニーは「私は素直になっただけだわ。」というのね。
そりゃ、素直になったんだけど。
大切なことだけど。
どっちの男か、結婚を決める前に決めろよ。
ストーリーだから仕方ないとはいえ、
ラストでは、この新郎も新しい恋人ができるとはいえ、
いろいろな人を巻き込んで、
一時とはいえ、傷つけて、
「私は素直に…」とか堂々と言えるんだろうか。
私は、こういう女はニガテ。

それで、結局この映画を見終わったあとは、
ハッピーエンドとはいえ、
消化不良を起こした。


みっつめ
恋愛寫真

はい。
広末と松田龍平が出てる邦画です。
どうしてこれ観ようと思ったかというと、
「メラニーは行く」を観に出かけた時に、
パンフレットを見て、広末のインタビューがのってたの。
彼女は、
自分が演じる静流が出てくるシーン全部にインパクトがあって、
極端に言えば、彼女の人生の様々な色を切り取ったような
印象があった
って答えていて、どれどれ…という思いで観にいったの。

正直、期待していなかったんだけど、
意外にもよかった!!!

写真というモチーフがね。
映画の中でこんなにも素敵に使われるなんて。
映像がね、映像がね。
キレイでキレイで。
最近アクション、特殊効果ばりばりの洋画ばかり
観ていたせいもあって、
久しぶりにカメラワークの美しさにこだわった
映画を観た感じ。


そして、なんといっても広末ですよ。広末!
今まであんまり気にしたことのない女優さんだったんだけどね。
演技がどうとかいうより。
人を引き込む絶妙な表情をするね、彼女。

広末が演じる静流が取った写真には、
その写真からいまにもリアルな世界と通じてる魂が
感じられるんだけど、
その写真を撮っている彼女自身もまた、
魅力的だった。

ストーリー自体はちょっと難ありだったり、
松田龍平の英語とかは不評みたいだけど、
この映像と広末は観に行った価値があったと思う。


話は変わって。


今晩、久しぶりに生理的に受け付けない男に会った。
そいつは、通路をはさんで、私のとなりのとなりの席にすわっていた
見ず知らずの男だったけれど。

いかにも業界人らしいイントネーションの話と、
声の大きさに辟易。
見ず知らずの人に嫌悪感を抱いたのは久しぶり。
静かに食事をしている雰囲気の店の場をことごとく
壊していたあげく、
聞きたくもない話題が私の耳に入ってきてわかったことが。
「もう34だしさぁ」

そうか。
年齢で人は測れないけれど。
わかってるけど。

場の雰囲気が読めないのも
年は関係ないんだね。


あー
わたしやっぱり
うるさい男キライキライキライ



2003年06月16日(月) 恋人の趣味に参加する長所

えーと
週末くらいから体調を崩していて、
血圧を計ったらがいつもより10くらい低かった。
さすがに二桁となると体にも影響がでてくるらしく、
「めまい」というものにやられている。

はー
4月くらいからの仕事の疲れが出てきたのかな。


そんな体調の中、週末彼と釣りに出かけてきた。


最近、私の恋人は魚釣りにはまっているらしくて、
釣りの話をするといきいきと目を輝かせて話をする。

どうして好きなことになると、
夢中で話をするんだろう?
おもしろいね。
これは大人も子どもも同じだね。

夜中に起きて、
車で3時間ほどかけて海まで行ってきて、
昼までの6時間ほど釣ってきた。

結果は上々。
旬の魚がつれて、ごきげん。
私もビギナーだったのに、釣れて大喜び。


ところが、とても意外というか、
とても嬉しかったことがさらに私を喜ばせた。

私の釣り竿に魚がかかり、
釣れた喜びは、私以上に彼の方が大きかったのだ。


「すごいねー釣れたよ釣れたよ!」
というはしゃぎようで、
私は驚いた。


このひと。
本当に喜んでる。


私は釣った魚と彼の横顔をみて嬉しくなった。


この、
相手が好きなことに自分も誘ってもらい、
自分も楽しむことで、
相手がさらに楽しみ喜ぶという図式。


私ももちろん魚釣りを楽しんだのだけど、
恋人のいきいきしてる姿、
よろこびはしゃぐ姿、
いろんな角度から恋人を確認できたのだ。


帰り道、
彼はにこにこしていた。


私は、「またお魚釣りにつれていってね」
とお願いした。


魚をつる楽しさと
恋人のあんな笑顔をみる喜びが味わえるなら、
夜中に起きるのも、
紫外線も、ぜんぜん怖くないわ。



2003年06月11日(水) あるテキストサイトからの自分なりの発展

きょうは遅く帰ってきてへばっているので、
短く短く。


ただのともだちだと思っている人や知り合いに、
順番なんてつけてる人は、いない。


わたしが130番目めに知ってる人とか、
5番目の友達とか、
そんな順位をつけてる人はいない。


きっと2番目、3番目に仲の良い友達なんて
決めてる大人は少ないと思う。



でも。
でも。


みんな意識していなくても
1番だけは存在しているのかもね。
今は、大切な人がいなくても、
1番がいなくても、
1番が空席だということは意識している人が多い。


どうして、みんな大切な人には、
1番の称号を与えて、
大切だと思っている人からは、
1番の称号がほしいのだろう。



1番だけがほしい。



たまに、2番目でもいいからなんて
いう人もいるけれど、
それは、1番目という順番を既に意識している証拠。
1番の存在を認めていなかったら、
2番なんていう順番は出てこないから。




1番だけがほしい。



これは、きっとスマップの歌で言えば、
ナンバーワンではなくて、
オンリーワンという意味合いの
称号がほしいのだろうけど。



自分が、大切な誰かにとって、ゆいいつの存在かどうかを、
時々、人は確認したくてたまらなくなる。



私はあなたの1番なの?



確認したくて不安になるのが、
恋愛の渦に巻き込まれている渦中なのかもしれないね。


2003年06月09日(月) 過去の男

あーあ
自分で封印していた過去が無理矢理にも
開けられた気分。


6月に入ってから以前付き合っていた男と偶然にも2度会った。
どちらも別人で、学生時代につきあっていた今は同業者の男と、
もうひとりは、別の土地に転勤した3年つきあっていた男。



会いたくなかった。



自分の過去を否定する気持ちはないのだけど、
私は相手の姿をみつけても
自分から声をかけたり、
みつけられても、
親しく話すことはできない。
自分の性格を考えて、
別れても、
友達だなんて今はもうムリだなと悟った人間だから。



だから、
別れた時点で、
もうその男のことは蘇らせないことにしていたのに。



でも。
どうして神様は、
運命のいたずらみたいに、
何億分の1ぐらいの偶然の確率の再会を時々与えるんだろう。
それもこの何日かの間に重ねて。


ああやって
ああやって、
会ってしまったら。


私はどうしても
ああ、
私たちはつきあっていたときがあって、
いろんな思い出があって、
こんなことがあって、
そして、あんなことで別れたんだわ
と昔をフラッシュバックさせてしまうじゃないか。


そして、
目の前にいた男たち。


二人とも全然変わっていなかった。
姿かたちも
服の好みも
話し方も



一瞬、
タイムトリップの魔の手につかまりそうになったじゃないか。



私は変わったようだ。



自身ではよくわからないけれど。



そうらしかった。



少しの時間を共有したあと、
また私たちは別々の道を歩んだ。



もちろんどっちの時にも振り返ることなんてしなかった。
ただ、別れた後に、
頭の中は、どっちの時も少しぼうっとしていた。



どうして、今、会ったんだろう?
今、出会った意味ってなんだったんだろう?


出会いには意味がきっとあるはずだから。



よくわからないけれど。
なぜだか、後味が悪かった気持ちには変わりないけれど。



あの男ともその男ともつきあってきたから、
今の私がいるのには間違いなかったんだなぁと考えた。



そして、
だから、
今の恋人とつきあってるんだわ。
きっと。


それだけが事実なんだわ。
きっと


2003年06月04日(水) 彼からのメール

わたしのかわいがっていた生き物が死んだ。
これは彼がくれた生き物だった。
私のたからものだった。

なんだか、
彼と私がつながっている1本の線がぷちっときれたみたいな
感じがした。


悲しくて悲しくて。


私はそのことをメールで彼に伝えた。
彼はいろいろな生き物を飼ったことがある人で、
生き物の死を受け止めることに対して、
私よりもずいぶんと大人だった。

私がしくしく泣いているのを想像したのか、
彼はすぐに返信してきたが、
その内容は、
「15は、もうじゅうぶんにかわいがったんだから、
いいんだよ。俺の1ぴきあげる。元気出せ。」
という、なんとも小学生が、
「大好きな給食のおかず1個あげるから泣くのやめろ」
みたいなレベルの内容だった。


まったくこれが27の女と31の男の会話ですかね…


でも、
それでも、
その内容にまたしても感涙した私。


呆れてもらって結構だ。

嬉しかったの。
とっても。



このひとは。
どうして自分がかわいがってる2匹しかいない生き物を
いともかんたんに私にくれてやろうとするんだろ。



結局既に春先に二人でその生き物の卵は捕獲してあったので、
私は彼からはもらわずに今自分が飼っている
卵からかえったちび生き物をかわいがっていくと話した。


そして、彼に、
「いつも励ましてもらってばかりだね。感謝。」
と返信した。


ホントに。
いつもいつも困らせて。
いつもいつもしてもらってばかりのわたし。


でも嫌な顔ひとつせずに
元気づけてくれるあの人。



彼からその後眠る前にすぐに返事がきた。
「いえいえ。俺もいつも15から元気もらってるから。」
と書いてあった。


ホントにホントにー?
ホントに私、元気あげてるの?
うれしいなうれしいな。
そう思ってくれてるなんてうれしいな。

ちょっと元気になったよ。




2003年06月02日(月) 大切な誰かの何かの死を受け止めること

昨日私のかわいがっていたペットが死んだ。

私は昨秋から両生類を飼っていた。
そもそもこの生き物は彼が飼っていて、
それがあまりにもかわいくて、
彼が私にプレゼントしてくれたものだった。


かわいいその子は、
私が深夜にマトリックスリローデッドの先行上映会に
出かけている最中に脱走して、
帰ってきたら、フローリングの床の上でへばっていた。



あーあ


あーあ


あーあ


あーあ!


あーあ…


生き物を飼うときに、
特に自分よりも弱い生き物を飼うときに
覚悟しなければいけないことがある。


それは、きっといつか自分が看取るということ


わかっていたけど。

そんなの物心ついた子どもだって
受け止めなくちゃいけない現実なんだけど。



私はいつからこんなに
たとえ小さな生き物の死にでさえ、
放心してしまうほど弱くなってしまったんだろう?



大切な人や、
大切な何かを失うっていったい、
どうして、どうしてこんなにやりきれなくって悲しいことなの?


ああ、こんなことになるのなら。


もっとかわいがっていれば。
もっと話をしていれば。
もっと何かをしてあげたかった。
もっと一緒にいたかった。



大事な何かを失うときに、
誰かや何かの死に直面したときに、
人はその誰かや何かの死によってわきあがる感情は、
どうして悔いることばかりなんだろう?



少なくても今この時を生きてる人にとっては、
未来があるから、
過去を振り返り、後悔する。


悔やんでしまうのは、
それはきっとそのものの死を
受け止める準備ができていないから。


たかだか両生類なのかもしれないけれど、
私や父にとっては、
我が家のかわいい小さな家族だったのだ。



あぁ
また家族が減った。


別れには永遠の別れと、そうじゃない別れがある。


永遠じゃない別れ、
どこかでその人やものが生きているなら、
その人やものの未来があるから、
悲しみはいつか、乗り越えられる。


私は怖い。
自分が大切にしている人やものを失うことが。
永遠に失ってしまうことが。


永遠に会えなくなってしまうということがどういうことかを
既に経験しているから。


だから怖い。
自分が大切にしているものが、
探しても探しても
世界中探しても
どんなにお金を払っても、
もうずっと永遠に自分の手に入らないものだなんて。

もう、思い出すことだけしかできないのだ。


このとき、
この世の中に唯一のものというすばらしさと恐ろしさを知った。


ここ数年で大事な何かを失い続けた私にとって、
かわいいペットの死は、
また失うことの怖さと虚しさを実感させた。

そして、同時に世の中に無数にいるかもしれない、
私の飼っていた生き物の仲間たちにも
一匹一匹の生命の存在があるんだという
ことを思い知らされた。



自分にとって、
大切なものを失うということも
きっと乗り越えるための何かだと信じたいけど、
今はただただ、悲しすぎるよ。

しょんぼり



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