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JIROの独断的日記
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2010年08月11日(水) 今年も8月12日がやってきました。辛いですが、Flashファイルを載せます。

◆記事:「何とか助けたい一心だった」=交信管制官が初証言―日航ジャンボ機墜落25年(8月10日2時35分配信 時事通信)

520人が犠牲になった1985年の日航ジャンボ機墜落事故で、

墜落した羽田発大阪行き日本航空123便と直接交信していた男性管制官(54)が9日までに、

時事通信の取材に応じ「何とか無事に空港に着陸させ助けたい一心だった」と当時の心境を語った。

12日で事故から四半世紀となるが、報道機関のインタビューに応じるのは初めて。



男性管制官は、管制官になって8年目で運輸省(現国土交通省)東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)に所属していた。

事故当日の8月12日は、午後5時から「関東南Aセクター」と呼ばれる空域を4人で担当。

午後6時すぎから、男性管制官がマイクを付けレーダー画面の前に座った。

午後6時25分、123便の機長=当時(49)=から「トラブルが起き羽田空港に引き返したい」との連絡が入る。

2分後、緊急事態を示す「EMG」の文字がレーダー画面に表示され、大きなブザー音が鳴り続けた。

「どういう緊急事態なのか尋ねたが、返答はなかった。羽田の方向に旋回せず、高度も上下していた。

そのうち『操縦不能』と。ただごとではないと判断した」

123便はスピードを保って乱高下を繰り返し、どこに飛んでいくかも分からない。

一方で、他の航空機への管制指示も続けなくてはならなかった。

「123便には操縦室の作業に専念できるよう最大の支援をするとともに、同便が他の航空機に影響を与えないよう注意を払った」

午後6時56分、航空機からの信号を把握できないことを示す「CST」の文字が出た後、

123便の表示はレーダー画面から消えた。「経験したことのない強いショックを受けた。

助けられなかった喪失感と、墜落したという衝撃が同時に去来した。一方で、直ちにはその事実を受け入れられなかった」。


◆コメント:犠牲者の方々のご冥福を祈ります。

もう、あれから25年も経つのですね。何度思い出してもあまりに辛い、悲しい事故です。

私の身内や知り合いが乗っていたわけでもないのに。まして、ご遺族の心中は察するにあまりあります。

1985年8月12日、(当時の)日本航空123便、東京発大阪行きのボーイング747型機が、18時12分、羽田を離陸し、

18時56分30秒頃、群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落しました。乗客・乗員524名のうち520名が亡くなりました。


私は、このとき8月第2週で会社の仕事が忙しくなかったので、早めに退社し、自宅最寄りの駅から、

自宅に歩いて帰る途中、小さな書店で本か雑誌を立ち読みしていました。この店の店主はいつもNHKラジオを聴いていました。


突然、ニュース速報が流れ、

乗客およそ500人を乗せた東京発大阪行きの日本航空機がレーダーから姿を消し、安否が気遣われている

という内容でした。その頃、NHKキャスターだった木村太郎氏が番組を中断して臨時ニュースを伝えた映像を録画していた方が

おられます。最初はテロップが流れますが、再生開始後2分45秒過ぎにニュースに切り替わります。これが第一報です。






繰り返しますが、私は同じ内容を書店のラジオで聞きました。いくら航空関係の素人と言えども、

航空機がレーダーから姿を消した、ということが、何を意味するのか、考えれば分かります。

あまりのことの重大さに、膝がガクガクと震えたのを覚えています。


◆コクピット・ボイスレコーダーの音声はTBSのスクープで公開されました。

ボイスレコーダーには、パイロット達と航空管制官の通信、コクピット内での会話が記録されていますが、

それを文字に起こした資料はいつからは調べられなかったが、比較的早く公開されていましたが、

ボイスレコーダーの音声そのものを入手し、スクープで放送したのはTBSです。


2000年8月8日の「ニュースの森」です。これを聴いた日本人は、皆初めて、


文字では分からなかった、コクピットクルーたちの懸命の努力を知ったのです。

彼らは、管制官に機体が「アンコントローラブル」(コントロール不能)と告げているのですから、

高浜機長が「これはだめかもわからんね」という聞いているこちらの胸が痛くなるぐらい絶望的な言葉を

発する前から、ほぼ確実に数分から数十分後には自らの生命が絶たれることを認識していたに違いありません。

それでも彼らは、何とか乗客を助けられないか、との使命感で、本当に最後の最後まで、奮闘している。

涙無くして聴けません。

Flashと音声を合成したファイルです。


123便ボイスレコーダー



この音声が公開されてから5年後、TBSは事故から20年目、ボイスレコーダー公開までのいきさつを

ドラマ化しました。それに関しては、

「ボイス・レコーダー」(TBS)視聴後、雑感。ココログ

に書きました。

この音声を聴くのはつらいけど、犠牲者や遺族の方々の無念や悲しみを思ったら、比べものになりません。

なお、今回、この稿を書くにあたって、ウィキペディアの日本航空123便墜落事故を参照したのですが、気になる記述を発見しました。

その他の中程に、
機長の発した「これはだめかもわからんね」という言葉は、インターネット上で慣用句となっている[21]。

とかいてあるのです。そのリンク先の記事、ITmediaニュース:ネットで語り継がれる機長の言葉、事故の記憶を読むと

完全にふざけて、高浜機長の言葉を使っている奴がいるというではありませんか。

敢えていいますが、そういうのを「人間の屑」というのです。ボイスレコーダーを聞いて爆笑したというのは、

ネットには(これは、どうせ「2ちゃんねる」でしょう)わざとそういう他人が嫌がるようなことを書く奴がいるのは

勿論知っていますが、冗談でも、いや、そもそも冗談にしてはいけないことがあります。

それが本当にわからないような馬鹿は死んだ方が良い。と思います。

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