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JIROの独断的日記
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2006年12月03日(日) 明日はモーツァルトの命日なのですが、段々書くのが恐れ多くなってきました。

◆「自分はモーツァルトのことなど、何も分かっていないのではないか」という気がするのです。

はじめに少し堅苦しい話になりますがお付き合いいただければ幸いです。

私は、モーツァルトのことはこれまでに何度も書いているのですが、読み返してみると結局、何も分かっていないのではないかと思うのです。



話が少し逸れます。

私は、今までの半生でいろいろな本や講義で、非常に感銘を受けて忘れられない言葉は数多くあります。

しかし、今年、ネットで拝聴した東大名誉教授、ノーベル物理学賞受賞者、

小柴先生の講義の冒頭で、先生が仰った、

あのね。あなた方はそう思わんかも知れないけどね。立派な学者っていうのはね、「沢山のことを知っている人」じゃないの。

「知らないことがこんなに沢山あるぞ」と言うことを痛感しているのが、立派な学者なんですよ。

という言葉から受けた衝撃・感動は、私があと何年生きるのか分かりませんが、まず間違いなく、「一生で最も影響を受けた言葉、ベスト5」に入ると思います。



話を音楽にもどします。私は自分が「偉い音楽ファンだ」と云いたいのではありません。

私がモーツァルトは天才だとか何とか分かったようなことを書いているのは、「観念的に」理解しているだけなのです。

つまり、自らも歴史に名を残した作曲家がモーツァルトを賛美しているから、

また、世間が皆評価しているから、という背景があるので、自分も便乗して「分かったつもり」でいるだけなのです。

本当にモーツァルトが如何に偉大かということは、音楽家=音楽に一生を捧げた人、

つまり演奏家や作曲家や指揮者でなければ分からないと思います。


◆演奏家の日記を読むと、それが良く分かります。

良く分かるというのは、「自分がモーツァルトを分かっていないのだ」ということが、良く分かるのです。



私は、何人かの現役のオーケストラ・プレイヤーの日記を読むのがこの上なく楽しみなのですが、皆さん驚くほど、同じようなことを書いています。

あるオーケストラのヴァイオリニストは、「オール・モーツァルト・プログラム」(コンサートがモーツァルトづくしということです)の後で、

「モーツァルトは本当に疲れる。演奏に際して、神経の使い方が他の作曲家と次元が違う」と書いていました。

同じオーケストラで、もう何十年もヴァイオリンを弾いておられるもうすぐ定年の方ですら、

「モーツァルトは本当は演奏するよりも聴く側に回りたいものです」とおっしゃる。



今年亡くなった、指揮者の岩城宏之さんは、「岩城音楽教室」(30年前に書かれて、一旦絶版になったのですが、昨年(2005年)復刊された本です。素人向けの本ですがプロが読んでも面白いと思います)の中で、

次のように書いています。少し長くなりますが書き写します。

演奏旅行で毎日同じプログラムが続くと、オーケストラもぼくも正直いって飽き飽きしてしまいます。そういうときいわばお遊びをやると、お互いのリフレッシュに役立つことがあります。つまり、その日によって解釈をちょっと変えてやってみるとか、テンポを少し速くするとか、ほんの少しのイタズラ心ともいうべき動作で、みんながフレッシュになって、演奏会を再び新鮮に、素敵にする。作曲家には悪いのですが、チャイコフスキー、ドヴォルザークの作品には、こういうことがむしろ有効なようです。
しかし、どうしても、ベートーベンの曲だけは、それができません。ちょっとした冗談でも許されないようなきびしい曲ばかりです。ベートーベンの演奏には、寸毫(すんごう)の邪念もさしはさめるような余地がないのです。(中略)。
モーツァルトに対しては、恐れは抱きませんが、別の意味で、地上でもっとも美しい曲を作り出した天才、全人類史上、唯一の神様として敬愛していて、やはり意識的な別の解釈をする気はおこりません。
こういう感じ方をさせる作曲家は、ぼくにはこの二人しかいません。


◆モーツァルト頌(しょう)という本があるくらいです。

頌(しょう)とは「ほめたたえる」という意味です。この本のことは、一年前に書きました。

エンピツならば、こちら、ココログならば、こちらからお読みいただけます。

本は、これです

分厚い本なのですが、丸々一冊、モーツァルトへの賛辞なのです。

それも、普通の人ではない。

ベートーベン、ブラームス、ショパンなど、音楽家のみならず、スタンダール、アインシュタイン等々きりがありません。

要するに、自分も永遠に歴史に名を残す天才が褒めちぎるほどの超弩級の大天才がモーツァルトなのです。

前述のとおり、私は自分にはこういう「観念的な理解」しかできないのだと自覚することにしました。


◆それでも、各人の感受性の範囲内で聴けばよいのです。

私にはベートーベンやショパンが、理解したのと同じ程度に、モーツァルトの本質が分かることはないでしょう。



ですが、だからといって「これからはモーツァルトを聴かない」などというつもりは毛頭ありません。

そもそも、天才でなくても、モーツァルトは聴いて美しい。そう感じることに嘘はありません。

だからこそ、生誕250年の現代でも、世界中で聴かれている。それで良いと思います。


◆アダージョとか、アンダンテとかが聴けるようになるとだいぶ大人です。

クラシック音楽に特有なのは、非常にテンポが遅く、弱音を中心とした曲(楽章)です。

勿論「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」も良いのですが、

「アンダンテ」とか、「アダージョ」など、テンポが遅くて、音量が小さくて、派手さにはほど遠い音楽にも慣れ親しむと、

「アイネ・クライネ」のモーツァルトとは違った魅力に気づきます。



聴き手だけではありません。演奏者の音楽性がもろに出るのは、こういう音楽です。
例えば、ピアノ協奏曲第21番の第2楽章のアンダンテ。映画にも使われたり、色々なところで使われています。

聴いて下さい。なるべく、ボリュームを絞って聴いて下さい。

エンピツをお読みの方は、恐れ入りますがココログでお聴き下さい。
どうですか?これは、そりゃ、ただ弾くなら弾けますよ。ピアニストはもちろんですが、

素人でも音符を音にするだけならできます。だから、難しい訳です。

バルトークとかプロコフィエフのピアノ協奏曲になると、そもそも技術的に大変難しいので、

とりあえずつっかえないで速いパッセージを弾けば、素人は感心する。しかし、21番の2楽章のアンダンテ。

極端に言えば、ある程度ピアノを弾く人なら誰でも弾けるのです。

それでも、「上手い」と感心させるというのは大変なことです。



それから、良く聴くと分かりますが、弱い音、緩やかなテンポでも、一つ一つの音はくっきりと響きます。

ピアノの演奏で「タッチ」が良いとか悪いとか云いますが、ピアニストになるには、このタッチがふにゃふにゃしていたらダメです。

このアンダンテでは、音ははっきりと出しながら、同時に、優美な心休まるような音楽を奏でるのですから、大変です。

フォルテなら思い切り音を出せますが、ピアノ、ピアニッシモで、ホールの隅々にまで聞こえる音を出す。

これも「テクニック」なわけです。



もう一曲は、モーツァルトが亡くなる半年前に書いた、一種の賛美歌です。

「アヴェ・ヴェルム・コルプス」です。短い曲です。46小節しかない。しかし、美しい。

私も若い頃は、フル・オーケストラでガンガン鳴らす、賑やかな方が好きでした(今でも、好きですけど)。

年をとると共に、次第にこういう敬虔な気持ちになる曲も好きになりました。まあ、聴いてみて下さい。これも、ボリュームを抑えて下さい。

再び、エンピツをお読みの方は、恐れ入りますがココログでお聴き下さい。
どうですか?どのように感じるのも自由です。

今日は、かなり真面目なことを書きました。

次は、モーツァルトの盗作疑惑(?)について書こうと思っています。
それでは、今日はこの辺で。

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よろしく御願いいたします。


2005年12月03日(土) 「栃木女児殺害」過熱報道への懸念を今一度強調する。
2004年12月03日(金) 「ルソン島豪雨の死者・行方不明者、1000人突破」←人道支援活動、しないのですか?
2003年12月03日(水) 米国のしてきたことを考えたら、日本が義理立てする必要は全く、無い。
2002年12月03日(火) 「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。」(鬼平犯科帳)

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