風紋 もくじ / この前 / この後
後輩の卒業論文に協力した。内容も面白かったし、彼女が随分しっかりしてきたなというのがわかって、頼もしく、嬉しく思った。
最近あまり日記を書けなくてごめんなさい、と、誰に向けるともなく文字にしてみる。そして、パソコンの画面に向かってお辞儀をしている。 週に1度の仕事の日。先週が日程調整のためにお休みだったので、1週飛んでしまったので、何となく調子がつかめなかった。よくわからないが、何となく喋りにくかったというか、声を出すのにものすごい躊躇いがあって、相当の思い切りが必要だった感じ。 もともと人前で喋るのはあまり得意な方でない。つい逃げ腰になって、伏目がちになる。わかっているなら何とかしろよと自分で思うのだが、何とかなるんだろうか。はったりでももう少し自信を持って喋ることができればと思う(最終的にははったりでは困るんだけれど)。 仕事の帰りに、下車したことのない駅で途中下車してみた。地下街をふらふらと彷徨って、いろいろなお店に寄って、いくつか買い物をした。と言ってもあまり大したものは買っていない。ポストカードとか。素敵な街だった。 知らないところをふらふら歩くのは好きだ。知らないところで迷うのも。 久しぶりに楽団の練習に出てみたら、いつの間にか次の演奏会の曲がいくつか決定していた。頑張らなきゃと思う一方で、そんなに何もかも100%で頑張れないよと思う自分もいる。頑張らなくても楽しめればいいのかもしれないんだけれど。楽譜をコピーして帰ろうと思ったけれど、A3の用紙がなくなっていたので断念した。 年内には論文を書く。 …とここで宣言しておけば、本当に書けそうな気がしないでもない。 …がんばろ。
ここ数日、日記を書かなかったのは、特に忙しいとか体調が悪いとかではなく、書けないような気がしたから。書かなかったというより書けなかった。すいすいっと言葉が紡げる時はいつの間にか相当の量の文を書いているのに。 で、「書けるかな書こうかな」って、何を書こうとしていたんだっけ。 公立図書館へ行った。いつも「今日は本を返しに行くだけ」と思って行くのだけれど、結局は返した分と同じ数の本を借りてきてしまう。今日は本を8冊とCDを3枚(というか、2枚で1セットのを1つと、あと別に1枚)借りた。昼過ぎに行ったので、駐車場が混んでいて難儀した(ちゃんと駐車できたのが奇跡だ)。 児童書のところで「優等生 −いつか本当に泣ける日まで」(松村美樹子作/一色みな子絵。1997年、ポプラ社)という本を見つけて借りる。ちょっと題名が恥ずかしいような気はしたけれど、読んでみて、この本はいいと思った。いろいろ考えさせられるところがあった…のは、私が主人公に感情移入しすぎたからかもしれない。主人公の「悠子」は、ほんの少しだけ昔の自分と似ている。そして、今の自分の中のどこかに「昔の自分」も居る。 一番、心に響いた文章(地の文でなくセリフなのだが) 「でもね、心が痛いときは、がむしゃらにがんばろうとしても、だめよ。泣きたかったら泣けばいいし、だれかに話したかったら、話してみるといいわ」(p.173) 泣きたい時に泣くのが、意外に難しい時がある。それでも、泣きたい時には素直に泣ければいいなと思う。 誰かに話すのが、意外に難しい時もある。それでも、話したい時は素直に話せればいいなと思う。 だから、少しだけ泣かせてください、もう少しの間だけ私と話をしてください、と思う。 一色みな子さんの絵も素敵でした。 特に忙しいというわけでもないけれど(と言うとほんの少し嘘だが)、意味もなく焦っている日々。何をやっていても、“今はもっと他のことをやるべきなのではないか”と思って落ち着かない。だからパフォーマンスもあがらない。なぜそんなに焦るのだろう、私。…そんなに焦るなら、今、日記を書いている場合なのか…。 “ごめんなさい”より“ありがとう”の多い生活をしたい。…とは思うのだけれど。 いつもごめんなさい。
3日ほど日記を書けずにいた。忙しかったわけではなくて、単に書けないような気がしたから書けなかっただけなのだけれど。 とある人に、「○○さん(私の本名)は、割と人見知りする方ですか?」と聞かれる。そうねぇ、人見知りはめちゃめちゃきついわ、と答えると、一日の中でもそうじゃありませんか?と問われる。へ?と問い返すと、どうやら私は、一日の最初に会う時は(大抵朝か昼過ぎ)何だか怖いらしい。2〜3時間経ってくるとにこやかに喋れるのに…と。 そうかなぁと最初は思ったが、よく考えると案外そうかもしれない。あぁ、気をつけないといけないな、と思って、反省した。 実生活で私に会うことのある方へ。そういうわけで、1日の最初に会った時は私は愛想が悪いかもしれませんが、大抵は単に緊張しているだけなので、気にしないで下さい。というか気にしないで下さいというのも失礼だな。私も気をつけます。というか緊張する必要もないといえばないのね。怖がる必要も。 トワイニングの「The Best 5」をコンビニで買って飲んでいる(これかしら。もう一回り小さいサイズだけれど)。プリンスオブウェールズ・ダージリン・オレンジペコ・ダージリン・レディグレイが2袋ずつ入っている。楽しい。 今、聴いている音楽 「第六の幸運をもたらす宿」/M.アーノルド作曲 (The Inn of the Sixth Happiness … I. London Prelude , II. Romantic Interlude , III. Happy Ending /Malcolm Arnold) (演奏:London Symphony Orchestra / Richard Hickox指揮) この曲も、「一目惚れ」ならぬ「一聴き惚れ」に近い。1958年に公開された同名の映画の音楽が組曲として再編されたものらしい…と言いつつ、私はこの映画を見たことがない。機会があれば見てみたい。全体に希望をもたらすかのような美しい旋律に溢れた音楽だけれど、私は第3楽章の最後が特に好き。苦しみを全て溶かして、しっかりと前を見ようとする姿勢が見える。憧れる。まさに「Happy Ending」という感じであるけれど、Happy Endingの続きもしっかりと生きることができそうな気がする。
引き続き、ぼーっと過ごした1日だった。非生産的な1日。後で困ることになるんだろうなと、こんな時間になってから妙に焦燥感。 私は、何かしようとする時に妙に身構えてしまうところがあるような気がする。必要以上に敷居が高いように感じたりだとか。そして、結局私なんかには無理だわと思ってあきらめたりだとか。そんなに気合いを入れなくても、すいっとできてしまうこともあるんじゃないかなと、不意に思った。 Web日記も、書きたい気持ちはずっとあったのだけれど、私なんかには絶対書けない、書けるはずはないとずっと思っていて、書かなかった(サイトを立ち上げる技量がなかったというのも大きいけれど)。日記を書いておられる方の何人かに勧めて頂いて、ふっと“書きたいなら書けばいいじゃないか”という気持ちになって書き始めている。ちゃんと書けているかどうかわからないけれど。 経験や失敗から学ぶということが、私には圧倒的に欠けていると自覚している。あまり自分で敷居を勝手に高くしてしまわないで、すいっと行動に移してみることができればなぁと思うのだった。 思っても、実際にやってみるのはなかなか、というところはあるが。
今日は何をして過ごしたんだろう。何にもしていないような気がする。いや、何にもしていないなんてことはないはずなんだけれどな。しなければならないことを放ったらかしにして、南向きの部屋でお日さまの光を浴びながら、ひたすらぼーっとしていた。餃子を作ったりもしたけれど。ちょっとだけ楽団の練習に顔を出したりもしたけれど。 気が付いたら、引っ越してから2ヶ月が過ぎようとしていた。もう2ヶ月とも思うし、やっと2ヶ月とも思う。相変わらず、今の家には、まだ馴染めない感じがする。ホテルに長期滞在しているような気分で過ごしているような気がする。でも今はここが私の家ではある。 家具や電化製品の中には新しく買い換えたものもあるし、綺麗で便利な暮らしにはなった。けれど、時々、前の家の、立て付けの悪かったドアや、調子のおかしかった電子レンジ(出来上がっても「チン」という音がしなかったのだ。2〜3分後に思い出したように「チン」という音がして、随分笑ったものだった)のことなどを思い出す。思い出しても、もはや還ることはできないのだったら、思い出すべきではないのかもしれないけれど。 昨日、とある書類に住所を書く時に、ついうっかり前の住所を書こうとしてしまった。そういえば、今の住所宛ての郵便物を受け取った時も、少し変な気持ちになる。といっても、前の住所宛ての郵便物(転送されてきた)を受け取った時も、もう私の住所はこれじゃないのねと思って寂しくなるのだけれど。 ある程度時間が経つのを待つしかないのかなと思う。 どこからか、ティーポット(というか底の丸い急須かも)が見つかったので、葉っぱから紅茶を淹れてみた。最近自分で買ったり、いただいた葉っぱもあるのだけれど、何となく勿体なかったので、台所にたまたまあった葉っぱ(ダージリンと書かれてはいた)で試してみた。淹れ方は正しかったのかどうかよくわからない。葉の量とお湯の量が果たしてあれで良かったのかどうか。でも美味しかった。美味しいと思ったから、正しくても正しくなくても別にいいやと思ったりする(いいの?)。 先日の演奏会に来てくれた友人から、煎茶の葉っぱをいただいた。小さいけれど可愛らしい茶筒に入っていた。友人は、私がお茶に興味を持っていることを知らなかったのだけれど、素敵な偶然がとても嬉しかった。…勿体無くてまだいただいていないのだけれど。 1日中、音楽を聴いていた。最近、家に居る時間が短いのと、音楽を聴きながら作業ができない性格であることもあって、あまりゆっくり音楽を聴くことがなかったのだけれど。 せっかくなので、今聴いている音楽を書く。 交響曲第1番 ト短調/カリンニコフ作曲 (Symphony No.1 in G minor / Vasily Sergeyevich Kalinnikow) (演奏:Royal Scottish National Orchestra / Neeme Jarvi) 初めて聴いた時から、この曲いいなぁと思った。どの楽章も好きなのだけれど、第1楽章が好き。最初に感じたのは寂しさと寒さ。冬の荒野で迷子になっているような寂しさ。それでいて、切実に訴えかけてくる力を持っていて、自分の心の中のどこかにある寂しい部分を掴まれたような気がした。全ては第4楽章で昇華するように思えるのだけれど。寂しさを強さに変えて、爽やかに飛翔できるような。 あんまり上手く説明できてない。ごめんなさい。 明日は、明日も、良い日でありますようにと思う。あなたにとっても、私にとっても。
くだらない駄洒落を言ったり、ちゃちゃを入れたりして笑い転げていた1日。 捨てる神あれば拾う神あり、と思いたい。拾ってもらわなくても、やっていけるのかもしれないけれど。 いつ拾ってもらってもいいように、今できることにひたすらに一途に取り組みたいと思った。拾って欲しいと思う時に、きちんと自分からアピールしていく思い切りのよさも欲しいと思った。アピールできるだけの、しっかりしたものを自分の中に持ちたいとも。今はいろんな意味で至らぬところが多く。 こんな私に声をかけてくれる人に、ありがとう。 しなければならないことはたくさんあって、課題は山積みで、それを全然こなせていない自分がいるのだけれど、それでも金曜日の夕方になるとほっとして少し肩の力が抜ける(抜けていてはいけないんだけれど)。 夕方、図書館に詩集を探しに行って、1冊借りた。詩の解釈なんて、きちんとできるかどうか甚だ自信はないけれど、静かな気持ちで読んで、言葉にならないところで何かを感じている気がする。いつも。 最近は17時頃にはもう暗くなっている。 蜜柑を食べていた人が、「この蜜柑は何だかやる気のない蜜柑だ」と言った。 やる気のない蜜柑ってどんなの?と聞くと、よくわからないけれど何となく、とその人は言った(皮が硬かったらしい)。 蜜柑にもやる気がない蜜柑がいるんだと思うと、何となく親近感が湧いた。
結局、昨夜はちっとも眠りたくならず、朝方までほけほけと起きていた。そんな夜もある。 ふと思い立って、「ガランタ舞曲」("Dances of Garanta",コダーイ作曲/アンタル・ドラティ指揮,フィルハーモニア・フンガリカ)を聴いた。ガランタとは、ハンガリー東北部にある町の名で、コダーイは子どもの頃約7年間をここで過ごしたらしい。曲は導入部と3つの舞曲、それをつなぐリトルネロおよびコーダから成っている。華やかで情熱的だけれど、どこか上品で透明感があると思う。最後のアレグロの盛り上がりが、一途に向かっていく感じで、好き。 追記:作曲者名を書き忘れてた。コダーイの作品では「ハンガリー民謡“くじゃく”による変奏曲」も好き。 こんなこっそりひっそり書いている日記で宣伝しても大して宣伝効果はないような気もして申し訳なく思いますが、使わなくなったマウス・余ったマウスをお探しの方がいらっしゃいます(胡桃の中の航海日誌のいずしさん)。私自身は余っているマウスを持っていないですが、もしも余っているマウスをお持ちの方がいらっしゃったら、私からもよろしくお願いします。 マウスって、使い慣れないときは本当に緊張していて、ダブルクリックするたびに何故か肩を上げてしまったり息を詰めたりしていたような気がするけれど、今はごく自然に使っていて、自分が今、左クリックをしているのか右クリックをしているのかダブルクリックをしているのかなんていちいち意識していないような気がする。たまに誰かにマウスの使い方を説明する時に、すごく考え込んでしまったりする。 追記:何だか、マウスを見ると妙に気になって、引き抜いて持っていきたい衝動に駆られている(11/15,15:34)。
週に1度のお仕事。電車に乗って行く。1回目の乗り換えまでは、時間的にも方向的にも座ることが不可能で、混んだ電車に立ちっぱなしなので、窓の外ばかり見ていた。今週に入ってから、木々の葉っぱが色づいてきたなと気付くようになった。先週からそうだったのかもしれないけれど、先週までは全く気が付かなかった。1ヶ月前とは全然違う風景。1ヶ月後にはまた違う風景になるのだろうかと思う。今は今のこの風景を目に焼き付けておきたいと思った。何となく。 弱音ばかりの日記になっていて申し訳ないのだけれど。 あまり自分では認めたくなかったけれど、今回引っ越したことが、自分にとってかなり負荷のかかる出来事になっているような気がする。あまりうまく言えないけれど。前の家が解体されたということだけでも自分にとって相当のダメージになっている。一方で、今の家にうまく馴染めていないような気がする。自分の家なのに、どこか遠慮しながら暮らしているというか、気が休まらないというか。部屋の配置も家具の配置も違うし、家具自体をかなり買い換えたりもしたので、今までと使い勝手の違うところが多過ぎて、何をするにもいちいち気を遣っているような気がする。 客観的に見れば、決してマイナスの方向への変化ではないし(むしろ今の家の方が新しいのでプラスの方向への変化だろう)、たかが引っ越しくらいで…という感じだし、自分でもそう思うのだけれど。これくらいの変化に適応できないようでは、この先とてもやっていけないよとも自分で思うのだけれど。 しかし、前の家に戻りたいというのがもはや叶わない以上は、何とか頑張って今の家に慣れていくというか馴染んでいくしかないのだろうか。ある程度時間が経つのを待つしかないのだろうか。 よくわからないけれど、微妙につらい。 さっき非常に眠かったので、コーヒー(インスタントだけれど)を飲んだら、今度は何となく眠れなくなってしまった。というか、眠る気が失せてしまった。ぼけっと起きている。こんな風に起きているなら仕事をすればいいんだけれど。もっと頑張らなければ…。 ティーポットを探しに行きたい。 11月4日の日記と昨日の日記に書いた「茶色の小びん」の文章(正確な題名は不明)より。 「−ちょっとなら、センチメンタルもいいんじゃないかしら。だって、人間にはいろんな感情があるんですから。」 「でも、わたしはわかってる。聞こえるはずのないものおとも、見えるはずのない昔のできごとも、ちゃんと聞こえるし、ちゃんと見えるのだということを。 そして、それらを、もっとはっきりと聞くためになら、もっとくっきりと見るためになら、すこしくらいぼんやりしていたっていいんだってことも。」 秋は少しセンチメンタルになる季節で(私だけ?)、聞こえるはずのないものおとや、見えるはずのない昔のできごとがたくさん見えたり聞こえたりする気がする。寂しいような嬉しいような懐かしいような気持ちになる。 ちょっとなら、センチメンタルもいいのかなぁ。
穏やかな天気の日。木の葉が赤や黄色に染まっていて、とても綺麗であることに気がつく。 今日まで気がつかなかったよ。 先生のところに出向く。けっこうここのところぐしゃぐしゃだったのだけれど、自分が今しなければならないこと・できることを確認した感じ。 動きながら悩まなければならないとは思うのだけれど、私の場合、悩み出すと完全に動きが止まってしまうので、あまりよろしくない。 少しずつでも、動くしかない。 11月4日の日記に書いた、「茶色の小びん」の話の出典が知りたくて仕方が無い。「わたし」の名前が「ひろ子」だということまではわかったのだけれど。 お腹が痛い…。打ち上げの暴飲暴食をまだ引き摺っているのだろうか。そんな筈はないのに。 また、寒くなるのかもしれません。風邪などひかないように、どうぞお体を大切になさって下さい。もし、もう風邪をひいてしまっていらっしゃるなら、どうか暖かくして、美味しいものを食べて、ご無理なさらずお休みになって下さい。そうは言っても、無理をするなというのが無理である場合もおありでしょう。頑張れ、という言葉は使いたくないのだけれど、それでも頑張らざるを得ないときもおありかと思います。私には何にもできませんが、せめてあなたが少しでも楽でありますようにと思い続けています。 どうかあなたのもとに優しい風が吹きますように、と、私から読んで下さっている「あなた」へのメッセージ。どうしても今日、伝えたいと思ったメッセージ。 もし「あなた」に伝わったなら、伝えられたということを幸いに思う。伝えたい時に、伝えたいことを、伝えたい相手に伝えることができるというのは、幸せなことだと思うから。 だから私は、今、伝えたいと思う。迷惑かもしれないんだけど。
演奏会が終わった。
今日は寒いですね。 夕方からリハーサルだったので、それまでに有意義なこと(?)をしなければと考えていたのに、なぜか結局何もできなかった。しかも家を出る前に体調を崩して遅刻しまった。莫迦。 本番前の独特の緊張感・高揚感が好き。ホールに居るというだけでわくわくする(ま、音楽専用のホールではないので音響はあまりよくないのだけれど)。舞台上や舞台裏を走り回ったり、音量の調整をしたり。 一番好きなのが、開演前に舞台袖にいて開演を待っている時間。一番、想いの詰まった時間だと思う。高い天井を見ながら今までのことを思い出したり、腹式呼吸をしたりする。 本業(?)の発表の前とか、例えば学会の前とか、これが勝負だという論文を書いている時も、このくらい本番前の時間を楽しめればいいのにと思う。どうも怖さや不安の方が先に立ってしまってよくない。何かを伝えたい、私を見て、というくらいの想いの強さというか思い切りの良さがあればなぁと思う。 今、聴いている音楽…「威風堂々 第1番」(Edward Elgar作曲) 私がこの曲を初めて聴いたのは、小学校の時の修学旅行で、とある遊園地に行った時だった。ちょうど友達と何かの乗り物に乗っている時に聴こえてきた記憶がある。 この時に所属していたクラスでは、私はなかなか友達ができなくて、何か行動するときは、たいてい一人だった。友達がいないことを親や先生に知られるのが嫌で(一人でいること自体はそれほど苦でもなかったのだが)、かなり悩んでいた。5年生の秋の遠足で、先生に一人で居るのを咎められた記憶がある。6年生になって、私が変わったのか周りが変わったのかわからないけれど、少しずつ人と話せるようになった。修学旅行の時には割と苦労せずに誰とも話せるようになっていて、楽しい旅になった。 一人でいるのも悪くなかった。けれど、友達ができたことで、一人で居た時には見えなかった世界も見えるようになった。 この曲を聴いた時に、“このままの私で進んでいける”という思いと“私は変われるかもしれない。前向きに強く明るくなれるかもしれない。そうなりたい”という思いの両方を抱いたことを覚えている。その時点でも、どこか何となく引っ掛かりがあったのかもしれない。 この曲を聴くたびに、小学生のことを思い出す。今、その時の私を思い出して、今の私はどうだろうと思うと、本質的なところはそう変わっていない気がする。同時に、何だか力をもらえそうな気がする。 最近では映画「ブラス!」のエンディングでも使われていた(「最近」かなぁ)。
何だか、あっという間に過ぎた1日だった。金曜日は慌しい日であるのも事実なのだが。やらなければならないことを何も終えていない。この土曜日曜はあまり時間が取れないのにな。もう少し頑張ろう。 間の抜けたことをした。 コンタクトレンズを外さずに顔を洗い、その後眼をぐいぐい擦ってしまった。自分としては、コンタクトレンズのケースを洗った後、コンタクトレンズを外し、その後顔を洗ったつもりだったのだけれど、「コンタクトレンズを外し」の手続きを無意識のうちにぶっ飛ばしていたらしい。顔を洗った後、視界が変だなぁと思い、何度か眼を擦った後で、やっとコンタクトレンズをはめたままであることに気がついた。左眼は、ずれていなかったのですぐ見つかったものの、右眼は擦った時に眼の奥の方にレンズがはまり込んでしまっていて、外すのに難儀した。 とりあえず擦った時にレンズを落として行方知れずになるようなことがなくて幸いだったけれど、どれだけぼーっとしてたんだろう私、と思う。 ふと思い出して、前の演奏会、前の前の演奏会、そのまた前の演奏会で演奏した曲を聴いてみたりしていた。今回の演奏会の曲を聴いた方がいいと思うけれど。曲と一緒にその時の出来事も思い出していて、あれから1年経ったのかなどと思っていた。今は、あの時予想した通りになっているところもあれば、思いもよらなかった方向に進んだりもしている。何かと。 明日が前日リハーサルで明後日が本番。
電車の乗り継ぎを考えると、もう少し後で帰った方がいいんだろうなという時刻。で、時間潰しに。帰ったらもう少し頑張ろうと思う。
悩ましい連休だった。 とても良い天気。きれいな空。なんだか、嬉しいような寂しいような複雑な気分になった。嬉しさは、これからこの1日に何が起こるのだろうという期待。寂しさは…よくわからない。 吉原幸子さんの「疎開の秋」という詩を思い出していた。 「うすいわらぢに 石ころや枯枝をふみながら 裏山で木の実をひろった 遠い秋 河も澄んでゐた 遠い秋 桑畑のなかを 帰ってくると 壁も光ってゐた 遠い秋 お芋の 白い切り口を たくさんならべて干した屋根 その下に うどんを茹でてる うすい煙 母と わたしと 幼い二人と うどんをたべてた 遠い秋 うすい煙よ 消えないでおくれ いつまでも あのときの ぬれ縁に 背なかまるめて日向ぼっこしてておくれ なつかしい人のかげ いつまでも わたしが 幻の桑畑を 帰ってゆくたび」 (「幼年連祷」より) 今日は大安だったので、来年の手帳を買った。今年と昨年と同じ種類の手帳を使っている。青・赤・白・黒の4色がある。昨年の手帳を選ぶ時は、一昨年が何かと散々な年だったので、次はいい年になればいいと思い、赤を選んだ。今年の手帳を選ぶ時は、同じ色は避けたいが、あまり暗い色にする気も起こらず、消去法で白を選んだ。で、今日、来年の手帳を選んだのだが、どうしても青か黒にする気が起きなくて、また赤を選んだ。いい年になればいいなと思う。いい年になるかどうかは自分次第でもあるのだけれど。だからいい年をつくっていければいいと思う。せめて大きな禍が起こらなければいい。願わくば、少しでも明るい気持ちでいる時間が長ければいい。…と思って、赤。 こう書くと、手帳選びにすごく気合いを入れていそうな感じだが、実は私はあまり手帳を使う方ではない。だいたいの予定は頭の中に入れている感じで、予定が入ったら手帳に書くという癖がない。いいことなのか悪いことなのかよくわからないけれど。 前の家に戻りたいなぁ、と思った。そう思ったきっかけになることはないでもないのだが。 言っても仕方のないことだとは思うけれど。 前の家に戻りたいなぁ。 そう思うと、何の脈絡もなく、数年前に別れてしまってもう二度と会えなくなってしまった友達に会いたいなぁとも思って。でもどちらも今はかなわない願い。 なぜ、それが大切だったと気がつくのは失った後なのだろう。そして今、私は、どれだけの大切なものを、大切だと気がつかないままでいるのだろう。 今、聴いている音楽:「スター・ウォーズ」より“王座の間”と“エンドタイトル” …実は映画の方を見たことがないので、どんな場面でどのように使われる音楽なのか知らないのだが、勇ましさや強さの中に、寂しさや切なさが同居している…ような気がするのは、私がこんな気分で聴いているからだろうか。
昨日今日とあまり体調が良くない…かもしれない。いくら眠っても頭痛がして体がだるい…のは単に眠り過ぎかもしれない。気合いで何とかなるような気もするのにと思うと哀しくなる。 私の研究のペースが遅い、とは自分でも自覚はしているし、そう指摘されることもある。自分でわかっているだけに、なぜいつもいつも同じことを繰り返してしまうのだろうと自己嫌悪に陥る。しかし自己嫌悪に陥ってもペースが上がるわけではない。 もう続けられないかもしれないと思っていることは確かだけれど、それでもこうし続けていることを選んでいるのは私自身なのだし、だから今の自分の状態は怠慢だとしか言いようがなくて。 そこまではわかっているのに。 今は、流れに流されていくか、あるいは溺れないようにもがくことしかできていなくて、そんな自分の在り方がただただ悔しいし、なんとかしなければと思うけれど。 できることから少しずつ? しかし何ができるのだろう? ふと目にした文章が気になって、全文を読みたくて仕方がないのに出典がわからない。 恐らく児童文学なのだと思う。一部分しか読めなかったのだけれど、おじいちゃんが亡くなった後、おじいちゃんの薬が入っていた茶色の小びんを大事にとっているおばあちゃんを見ている、孫娘の「わたし」…の話。おばあちゃんが少しぼけ始めて、茶色の小びんを捨てようとする「おねえちゃん」とのやり取りの中で、思い出は茶色の小びんに在るわけではなくて、茶色の小びんはどこまでもただの茶色の小びんでしかないのだけれど、だからそれを捨てられないのはセンチメンタルでしかないのだけれど、センチメンタルでもいいじゃないの…みたいなやり取りがあった(←かなりうろ覚えなのであやしい、かつ何だか私の文章ってば回りくどくてわかりにくい)。 いや、自分のことも考え合わせて。前の家がなくなった時、別に家という物体がなくなっても思い出は自分の心の中にあるし、ものがなくなるだけなんだし…と必死で自分に言い聞かせても、やっぱりつらかったよということを思い出して。 すごく大きなものや思い入れの強いものなら、その喪失を強く意識するのだろうけれど、考えてみれば、永遠に変わらないものも、永遠に失われないものもないわけで、日々私はどれだけのものを失いながら生きているのだろう、そして自分はどこにすがって生きているのだろうと思った。 そんなことを考えながら帰宅していたからか、今日初めて、帰り道を間違った。本当は、今の家に行くには左に曲がらなくてはいけないのに、直進してしまった。まぁ直進しても帰れるんだけれど。 昨日の日記も書きました。短いですが。
朝から、とある行事で演奏。ただただ寒かった…。
1日中、日当たりのよい部屋でぼけっとしていた。外はどうだったのかよくわからないけれど、部屋で居るととても暖かくて眠くて、猫になって丸まってお昼寝したいものだなぁと思った。 夜は練習へ。なんとなく外を歩きたい気分だったことと、駐車場代を浮かすためにバスで行った。空には星がきらきらと。随分寒いけれど、この夜の冷たい空気の中を歩くのが私は好きだ。 今回、あまり練習に参加できなかったし、気持ちが音楽に向くどころではない日々だったので、久しぶりにきちんと合奏に参加すると、どの曲もとても魅力的に思う。先日も同じことを書いたような気がするけれど。ほとんど合奏に参加していないのにも関わらず、もうすぐこの曲と接する機会がなくなるのねと思うと悲しい。 明日は朝から、とある行事に出席して演奏する予定なので、寝る。
縺れていた糸が、少しずつ少しずつ解けていくような気がした。
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