風紋 もくじ / この前 / この後
昨日今日とあまり体調が良くない…かもしれない。いくら眠っても頭痛がして体がだるい…のは単に眠り過ぎかもしれない。気合いで何とかなるような気もするのにと思うと哀しくなる。 私の研究のペースが遅い、とは自分でも自覚はしているし、そう指摘されることもある。自分でわかっているだけに、なぜいつもいつも同じことを繰り返してしまうのだろうと自己嫌悪に陥る。しかし自己嫌悪に陥ってもペースが上がるわけではない。 もう続けられないかもしれないと思っていることは確かだけれど、それでもこうし続けていることを選んでいるのは私自身なのだし、だから今の自分の状態は怠慢だとしか言いようがなくて。 そこまではわかっているのに。 今は、流れに流されていくか、あるいは溺れないようにもがくことしかできていなくて、そんな自分の在り方がただただ悔しいし、なんとかしなければと思うけれど。 できることから少しずつ? しかし何ができるのだろう? ふと目にした文章が気になって、全文を読みたくて仕方がないのに出典がわからない。 恐らく児童文学なのだと思う。一部分しか読めなかったのだけれど、おじいちゃんが亡くなった後、おじいちゃんの薬が入っていた茶色の小びんを大事にとっているおばあちゃんを見ている、孫娘の「わたし」…の話。おばあちゃんが少しぼけ始めて、茶色の小びんを捨てようとする「おねえちゃん」とのやり取りの中で、思い出は茶色の小びんに在るわけではなくて、茶色の小びんはどこまでもただの茶色の小びんでしかないのだけれど、だからそれを捨てられないのはセンチメンタルでしかないのだけれど、センチメンタルでもいいじゃないの…みたいなやり取りがあった(←かなりうろ覚えなのであやしい、かつ何だか私の文章ってば回りくどくてわかりにくい)。 いや、自分のことも考え合わせて。前の家がなくなった時、別に家という物体がなくなっても思い出は自分の心の中にあるし、ものがなくなるだけなんだし…と必死で自分に言い聞かせても、やっぱりつらかったよということを思い出して。 すごく大きなものや思い入れの強いものなら、その喪失を強く意識するのだろうけれど、考えてみれば、永遠に変わらないものも、永遠に失われないものもないわけで、日々私はどれだけのものを失いながら生きているのだろう、そして自分はどこにすがって生きているのだろうと思った。 そんなことを考えながら帰宅していたからか、今日初めて、帰り道を間違った。本当は、今の家に行くには左に曲がらなくてはいけないのに、直進してしまった。まぁ直進しても帰れるんだけれど。 昨日の日記も書きました。短いですが。
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