池ポエム
ハンス



 Future:2

国境を越えた。
あの人は去って行き、見たこともない荒涼とした世界に放り出され、山猿が瓦礫の山のてっぺんで唸っているのを目撃し、気づいたら手足を繋がれ檻に入れられていた。
一人ではない。
檻は人相の悪い、熱狂した人間たちに囲まれ、値札が宙を舞った。


「おう、生きてるかい」
頬を太い指で掴まれる。
「こいつは、あんまり丈夫そうじゃあねぇ。なんだってそこまでしてブン奪りに行った?」
値踏みするように上下左右から見渡される。
目をうっすら開けると、そこは檻ではなかった。なるほど、声から想像した通りの太い腕の男が目の前にいる。
「そいついいもの持ってたんさ、とうちゃん」
遠くから、また別の声がする。途切れ途切れの記憶のどこかで聞いたような声。檻の中にいた時、最後に思い出せるのは赤く爆ぜる光と、挑戦的な目をした誰か。
その、誰かの声。
「名無し、お前は向こうから来たのか」
男が何かを手にしていた。
「名無し?」
「あいつがそう呼んでんだ。オーナーがつけた呼び名には従え」
よくわからないことを言う。あの値札の中の一枚を誰かが握ったのだろうか。紙切れのように、誰かに握られてしまったのか。それがこの妙な、多分親子だろう二人組でまだましだったのかどうかは、わからない。
「ボクは、あの人に買われたんですか」
「あいつは一銭も出しちゃいねぇがな」
「それって……」
国境を越えると、人とも思えないような凶悪な人間がたくさんいて、国境を越えて来た旅人を捕獲して、飼いならすのだと聞いてきた。
「普通は、市場でやりとりされるもんだけどよ」
男が苦笑した。笑うと、それまでの恐怖が帳消しになる。なんとも人のよい、心ある笑みをしている。自分の娘なのだろう、オーナーがいる方の仰いだ。
「あいつは金なんか持ち合わせてねぇのよ。欲しいもんは、奪る」
人は悪くないのかも知れないが、物騒な親子だ。
娘は言った。振り返ったその髪は赤く、瞳は金に輝いている。男とは少しも似ていない。
「ハイウェイの掟を知ってるか、名無し」
「あの、名無し名無しって、ボクは名前が……」
「おい!ここで名前と来たか!!」
ガッハッハッ、と一気に湧き出すような笑い声が溢れた。一人分ではない。男と娘が同時に笑っている。
「名前なんか、みんなねえよ」
笑いに混じって、説明が入る。
男は名前はないし、もちろん娘にもない。ここでは、誰も特定の個人で呼ぶ必要も秩序もないから、誰も名前がないのだそうだ。
国境を越えた時に、あの名前は捨てたも同然。
「しかし、おめぇ、なんだって名無しだ?いつもみたいに、番号でもつけりゃあいいだろう」
「とうちゃん、名がないやつは、名をなくしようがないじゃん」
娘は手帳を開いた。擦り切れて、茶色の皮にオレンジの糸。見慣れ、手に馴染み、捨てることもできなくて、大事な記憶が刻まれた……。
「あー!そ、それ」
「こいつにはかつて名があった、でも無くしちゃった」
「返せ!!」
「最初から無ければなくすこともなかったろうよ」
「は?」
ナンギ、と娘はつぶやいた。ナンギとは、きっと難儀だろう。
猿と人の相の子みたいな娘には似つかわしくない言葉だ。でも、もうすでに買われてしまったのだ。奇妙な親子に。
星だけは綺麗で、向こうにいた時より夜が輝いてみえる。誰でもなくなってしまうとはどういうことだろう。


「ハイウェイの掟だ。知ってるな?」
手にしたものは自分のもの。
屑の山。最後の吹き溜まり。思い出、記憶。
ここならばあるかもしれない、何かを探す者が来る場所。
「とうちゃん、あいつに見つけてもらおうよ」
あの人の名前も、ここならあるかも知れない。深いがらくたの山に、人の残した残骸の下に、埋めてしまった何かの一部に。
どこかに、どうかあってくれ。
小さな親子は祈っている。
失われた道路で。

2009年02月28日(土)
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