池ポエム
ハンス



 まじめな保健体育

 夕日の差し込む窓に背を向けて、珍しく順が熱心に本を読んでいる。いや、読んでいるのはポーズだけで、よく見るとまるっきり上の空なのがわかる。鍵が開いているにしては、部屋の中からひどく静まりかえった雰囲気が漂っていたから、ついそっとドアを開けた。
 足音をできるだけ控えて、一二歩中に入る。いつもなら入り口と反対の方向を向いていても必ず「おかえり」とかかる声が今日はない。
 本を見つめる視線は、一点を見つめている。それでいて、どこにも意識は向いていない。いつもの軽薄な表情ではない、あまり見たことのない友人の姿に、すぐには声をかけるのをためらった。かといってさほど深刻そうでもなく、魂の抜けた人形のような不思議な顔をしていた。
 「順」
 いつまでも入り口で突っ立っている訳にもいかず、ついに声を出す。すぐに順の瞳に生気が戻ってきた。
 それから遅れて「おかえり」と。
 「何読んでるの」
 本当はとても読んでいるようには見えなかったけれど。順は見られていたことに気づいていないらしい。表紙をこちらに見せてくる。
 「綾那に読めるかなー」
 「あんたに読めて私が読めないわけないでしょ」
 同学年で、それほど成績にも差はないのだから当然。そう思って覗き込んだ題名は、綾那が何となく想像していたどのジャンルでもなかった。順が普段読んでいるのは雑誌か、さもなくば綾那にはあまり興味のない小説の類。小説の方は、夕歩いわく“いかがわしい”らしい。
 「医者にでもなるつもり?」
 いくら保健体育が得意とはいっても、この本は中学生の学習内容を超えている。順は中を開いて、ある単語を指さした。これ、読める?と。
 「骨髄移植。あんたが前に言ってた……」
 順の非常にわかりやすい解説でいうなら“順の中の汁を夕歩に入れる”ということ。その後の数行に目を走らせると、確かに表現こそ違うフィルターがかかっているが内容は間違っていない。
 その本は昨日今日買ったものではなかった。どこから持ち出したか知らないが、随分と古くて、何やら仮名遣いも古臭い。順の年齢より遥かに上に違いない。こんなものを持っているところを、今まで目にしたことはなかった。
 「骨髄移植って、患者の造血幹細胞を消滅させて、代わりにドナーの骨髄液と入れ替えるんだって」
 「書いてあるのそのまま読んでるだけじゃない」
 「骨髄液は腰の腸骨に針を刺して採取するんだって」
 「それも書いてある」
 その他にも、提供者は前後四日間ほど入院することや、提供者を募っていることなどが書かれていた。何となくでしか知らなかった知識だが、順にとっては随分前から馴染みのある内容なのだろう。もう読む必要もないほど、頭に入っているから。だからただ広げてぼんやりしていたのだろうか。
 本は角がぼろぼろになっていて、そこをなんとなく指で触れる。幾度となく、手に取られてきた物の人間に馴染んだ感触がする。
 「血がつながってるほうが適合者の可能性があるんだよね」
 かつて医務室で、聞くつもりはないのに聞かされてしまった話を思い出した。似ているといっても、あえて聞かなかった順と夕歩のこと。血のつながり。姉妹。
 順は心の底からうれしそうに言った。
 「よかった。あたしが夕歩の未来の一部で」
 「うん」
 綾那も、つい素直にうなずく。この二人も、自分にも、まだまだ長い先があるはず。目の前の順が、一人の大切な人の未来を繋いでいこうとしていることが今更身に染みた。手術までまだ間がある。順は綾那ぐらいしか気づかないぐらい程度に、ぼうっとしていることが多くなった。
 「あんたも、夕歩も、大丈夫だから」
 掴んだ順の右手は力が抜けていた。そして反応がない。いつになく熱く手を握られたのに驚いたのか、順は素で固まっている。
 「私が言っても何の説得力もないけど」
 ただの中学生が、いくら大丈夫大丈夫と言ったって、訪れる現実は変えられないけど。
 夕日が下りていく。最後の光が地平に重なる。窓のほうを向いていた綾那は眩しくて目をすぼめた。順の姿が完全に影になる。ドンっと胸の辺りに頭が飛び込んできて、あやうく後ろに引っくり返りそうになる。黒い影は懐にくっついた。
 「ちょっと!」
 「ありがと、綾那」
 回された腕に込められた力が強くて、綾那は顔をしかめた。剣を合わせた時も思ったが、順はこれでなかなか力が強い。
 「あんた、この調子で夕歩に抱きついてんじゃないでしょうね」
 「なんで?」
 至近距離で不思議そうな表情を見せる順。目の端に何か光っているのは見なかったことにする。
 「こんなバカ力、絞めてるようにしか思えん」
 言いながら、手の平で順の頭を後ろへ押した。首だけ45度ほど仰け反る。
 「夕歩にはしないわよ。これは綾那専用」
 「ほう」
 つまり絞めたいほどの殺意と見なしていいのだろうか。
 「でも元気になったら、ね」
 いつか力いっぱい夕歩に触れられる日が来ることを、なおも抱きついてくる順を蹴り飛ばしながら一応祈っておいた。このバカの行いさえ良ければ、神様は願いを叶えてくれるに違いない。

2005年12月14日(水)
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