池ポエム
ハンス



 猫は側溝で力尽きる

 生温い風が、開け放したままの窓から流れてくる。
 どうぞ、と言われてそのままなんとなく上がりこんでしまった。いつかは訪ねたかったが、多分来ることはないだろうと思っていた。彼女の部屋。思ったよりあっさり、静かな夢は叶った。
 目的のソフトをカバンから出して、片手に持ったまま突っ立っている。この部屋の主がせめて何か言ってくれたら、バカみたいに固まっていなくて済むのに。彼女の頬を、決して心地よくはない風が撫ぜていった。
 「目ぇ覚ましてよ、陣内」
 ぼつりと、小さな声で言ってみた。起きる気配はない。起こす気もあまりなかった。
 縦になって、横にいる時はあまり気にしたことのない、彼女の胸が規則正しく上下している。寝ているんだ、と当たり前の事実が頭を横ぎる。自分でも意識しないままに、入り口の襖を閉めていた。
 ベッドには薄い青のタオルがかかっていた。
 立膝をついて、そっと覗き込む。
 見慣れた不敵な笑みも、図々しい眼差しも、そこにはない。白い顔をして、汗もかかずに横たわる人が一人。伸びた手の指を、いたずらにいじってみた。力のない、変な感触が指に伝わる。
 「貴方は本当に陣内?」
 それどころか、生きている人間なのかどうか。呼吸をしているのは確かなのに、急に不安になった。


 目を覚ますと、学校の友人が自分の胸元に耳をつけてじっとうずくまっていた。
 「えーっと」
 人は過去に経験したことのない状況に置かれると、どうしていいかわからなくなる。
 「あんたは人の上で何してんの」
 こちらからは後ろ頭しか見えない向きだった顔が、急にぐるりと向き直った。頭をつけたままだったから、少しくすぐったかった。すぐにでも叩き倒してやろうと士気を高める。
 「あっ!」
 彼女の表情は真剣だった。例えていえば、子供がかぶと虫やコオロギを観察している時のような。
 「な、何」
 「生きてる!」
 「は?」
 そりゃあ生きとるわ、と言いかけて言葉を飲み込む。続けざまに彼女の表情は大きく変化した。泣いてるような、心底ほっとしたような顔。
 「よかったぁ」
 「はぁ、まぁ、よかった、のかな」
 「死んでるみたいだったんだ」
 その言葉が二人の間にストンと落ちた。彼女が最も恐れていること。
 「ねぇ陣内」
 服の裾が硬く握られているのに、今気づいた。
 「貴方は死んだりしないよね」
 「部長」
 どうでもいいTシャツにシワが寄るのは別に構わない。彼女の手は必要以上に強張っていて、手を重ねても激しく力を抜くことを拒絶している。
 「あんたを置いて死ぬなんて、とんでもない」
 薄い靄がかかったような目が、すっと正気に戻った。
 「死んだ後にすぐ追っかけてきそうだもん」
 それこそ川の手前の土手で追いつかれて、すがりつかれるだろう。
 「何それ。すごい自信家」
 「違うの?」
 パッと二人の間に距離ができる。彼女はアメリカ人みたいに、肩をすくめるジェスチャーをした。
 「そうそう、返しにきたんだから、わざわざ」
 床に放り出されたソフトが寝起きの陣内の頭に突き出された直後、母が声も掛けずに襖の向こうから参上した。麦茶を手に持って。

2005年08月05日(金)
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