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2002年06月27日(木) 美しい日本語

私はこの日記で日本語学校の悪口と採れる文章を2回も書いているのだが、きょうはちょっと褒めてみる。

ここには日本の学習塾と同じように、帰国予定の子が、日本の中学・高校を受験するための進学塾もあるのだが、ウチの子どもは日本語学校の方がいいと言って、塾には行っていない。私としては、みっちり仕込まれる塾に食指が動かない訳ではないけれど、日本の学校が大好きだった子どもたちにとっては、日本語学校の雰囲気は捨てがたいものであるらしい。

日本語学校には、片方の親が日本人という子どもだけでなく、両親とも外国人だけれど、ここに来る前に日本に滞在していて、日本の公立学校に通っていたという子もいる。両親とも日本人でも、生まれたときからアメリカに住んでいる子もいる。それぞれに一番得意な言語が異なるので、休憩時間に交わされている会話が英語と日本語のミックスだったりする。

先生も日本語の難しい単語が分からない子どもに英語で説明することもある。「先生、奇数・偶数って何?」「oddとevenのことだよ」みたいに。

実は、ここには日本の学校にはない、失われてしまったものがある。それは「美しい日本語」なのだ。たとえば、日本を10年前に出てずっとこちらに住んでいる人は10年前の日本語をそのまま喋っていて、肉親が久しぶりに会った時、その言葉をとても美しいと感じるということがあるのだそうだ。

日本語学校に来ている子どもの中に美しい日本語を操る子がいるのは、その親が普段、家庭で喋っている言葉が、多少時代がかった、美しい日本語だからなのだろう。初めて、そういう日本語を聞いたとき、息子は、とても関心を示した。感じるところがあったらしい。

塾や日本の学校では触れられないものが、ここにある。






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2002年06月18日(火) 雨の卒業式

6月18日の 夜7時45分から小学校の卒業式が行なわれた。年々、生徒数が増えているからなのか、室内では手狭になったらしく 去年から外のバスケットコートで卒業式をしている。7時45分はまだ明るいとはいえ、夜、屋外で卒業式をするのだ。暗くなってきた頃にスクリーンをセットして、スライドショーが行なわれる。子どもたちの学校生活、授業風景、休憩時間、ランチを食べている様子などが次々に映し出されて、そのたびに映っている子どもの名前が呼ばれ、歓声が上がるのだ。日本の卒業式のようにしんみりしたところは微塵もなく、おめでとう!よかったね!ひゅーひゅー!っていうノリなのだ。

去年は日本の小学校で先生をしているTちゃんが来ていて、一緒に卒業式を見に行ったのだが、彼女もとても驚いていた。夜、屋外、明るいノリに。

ことしも、バスケットコートにイスを並べて会場が作ってあったのだけれど、式の始まる15分前くらいに雨が降り始め、急きょ 室内のAPルーム(*)で卒業式をすることになった。

進行役もスピーチも、みんな生徒代表が行ない、先生や父母はお客さんの立場にある。初めに卒業生の5年生全員で合唱をし、次に、生徒代表の10人くらいの子どもが短いスピーチをする。そのあとで、卒業生ひとりひとりが壇上に上がって卒業証書を手渡される。日本の学校のようにきっちりと練習をしていないので、バラバラな感じだ。校長先生と握手をするのを忘れて、壇から下りかけているのに、戻ってきたりする子がいるのはご愛嬌だ。校長先生がまとめのスピーチをし、最後にまた全員で壇上に上がり歌を歌う。終るとそのまま、廊下に出てしまうので、あれ、もうこれで終りなのという印象で、締まりなく式は閉会する。

校長先生のスピーチがとてもすばらしかった。「あなたたちは、かけがえのないひとりひとりです。それを忘れないで下さい。この6年間(K-5th)最高の先生やスタッフに恵まれました。みんなも、よく頑張りました。わたしはそれをとても誇りに思います」

子どもたちも、校長先生も本当にスピーチが上手い。来賓の祝辞など形式ばってつまらない話は一切なく、手作りでアットホームな感じのする卒業式だ。卒業式も、2回目なので感激も薄れてくるけれど、2人目の子どもが小学校を卒業するにまでに成長したことには、感慨深いものがある。

次の日から、早々と夏休みになってしまい、朝から兄弟喧嘩の絶えないふたりと毎日一緒なのかと思うと、そんな感傷もすぐにかき消されてしまったのだけれど。


* All Purpose Room=多目的室。 ランチタイムにはカフェテリアに、授業時間には体育館に、集会の時には講堂にと、目的に応じて使われる。校内で広い部屋はここだけ。


2002年06月16日(日) 勧誘電話

きっと、ローカル電話が定額制(基本料金のみ:約28ドル)という理由もあるのだろうけれど、ここに住んでいると勧誘電話がよく掛ってくる。多い日は一日に5件くらいある。長距離電話会社だったり、マンション購入だったり、寄付しろという何とか団体だったり。

幸か不幸か、ウチの苗字は外国人には発音できない(綴りが読めない)ので、へんてこな名前を呼ばれた時には勧誘だというのがすぐ分かる。夫の名前を言われて、「○○は居るか?」と言うから、「いない」と応えると、決まって「じゃあwifeはいるか?」と聞かれる。「彼女もいないよ」と応える。わたしは、日に何度、お手伝いさんになりすますことか。

「英語は喋れるのか?」なんて失礼なこともしょっちゅう言われる。そりゃ、あなたは勧誘電話のプロだから下手な英語はすぐ分かるだろうけど、そういう彼らも、ほとんどの人が、ヒトのこと言えないような訛った英語を喋っているのだ。移民の人たちの手始めの仕事なんだろうか?

きょう掛ってきた電話に、めずらしく違うパターンで対応しようとして、「わたしは忙しい(I'm busy.)」なんて言って、えらい目にあってしまった。あなたはvisitなのかと聞き返されて、busyなんだと理解させるのに、5回もbusyを言わされた。あとで、ふと思ったんだけど、こういう持って回った言い方は、通じないのだ。察してくれなんて無理なのだ。わたしの発音のまずさの所為ばかりではない。きっと。 

わたしは電話には「もしもし」と言って出る。すると、相手がちょっとひるむ(ような気がする)。たまに、夫がいる時に掛ってくる勧誘電話に、夫は「hello」なんて言って出るものだから、つかまって長々と話に付き合わされたりする。

ちっちっちっ、まだまだ甘いぜ!なのだ。


2002年06月12日(水) マイケルはまいこー! (マイケル、浜行こう !? )

きょう久しぶりにスポーツクラブに行って、プールで泳ごうとしたら、なつかしい人に遇った。「あれっ、まいこさん?」と声をかけると、まいこさんもわたしを憶えていて、なつかしがってくれた。彼女は、3年前の夏休みに 英語の集中コースをとった時、1ヶ月近く一緒に勉強したクラスメートなのだ。まいこさんが、「きょうはゴーグルを忘れて泳げないからプールの中を歩いてる」と言うので、付き合って、いろんな話をしながら歩いた。

「でも、わたしの名前、よく憶えていたね」とまいこさんが言うので、「うん、まあね」とだけ答えたけれど、じつは、まいこさんの名前は、さんざんウチで話題になったから忘れられなかったのだ。

アメリカによくある男の子の名前“ Michael ”、日本語ではマイケルは、英語では「マイコー」と発音する。あのとき、クラスにマイケルという男の人も居たので、先生が生徒をあてるたび、わたしはしょっちゅう混乱していた。あれっ、今のはどっちのマイコ?って。

「ねえ、おもしろくない? マイ・ネーム・イズ・マイコーって言ったらどっちか分からないよね」って言っただけで、やたら面白がって感心してくれる夫でよかった。(←別によくないけど) 少なくとも、まいこさんはわたしの名前を忘れてしまっていたみたいだけど、わたしは憶えていられたんだもの。 ほら、最近ヒトの名前なんて(特に始めて聞く英語の名前なんて)全然憶えられなくて、そういうことでほめれらることが無いから、うれしいじゃない?

ママ、ホキーって知ってる? ホッケーのことだよとか、センチメートルはねセニメナって言うんだよとか、子どもたちも最初は面白がっていろいろ教えてくれた。インターネットは「イナネッ」だしね。

ついでに英語になっている日本語も。カラオケはカリオキィで、カラテはカラリィなのだ。これは有名だけど、マクドナルドはマッ(ク)ダァナー。日本語では、マ・ク・ド・ナ・ル・ドって言うんだよと、わざと一音ずつクリアに言って教えてあげると、面白がられる。

マイケルはまいこーなのだ。 


2002年06月09日(日) 日記のような日記

昨日、2回目のガレージセールをしました。(1回目のガレージセールのことは、この日の日記に書いてあります)

今回は、会場が、よそのお宅だったので、準備は自分の品物に値段を付けて運び込むだけでよかったのですが、そのため、気持ちが緩んでいて、結局、当日の朝までバタバタと荷物を運び込むような慌しさでした。(自分の所為だけど)

朝、6時に起きて、子供たちの日本語学校のお弁当を作り、学校に送っていって、ガレージセールに駆けつけ、レジ係をし、途中で抜けて、サッカーの試合のために、学校から子どもをピックアップしてグラウンドまで連れて行き、またガレージセールの会場に戻り、お客さんが少なくなってきていたので、半分、立ったままお昼を食べ、試合の終る頃に、また子どもを迎えに行って、学校に連れて行き、ガレージセールの会場に戻り、売れ残った荷物を片付け、車に積み込んで、また学校に戻り、授業の終った子どもを家まで連れて帰り、荷物と子どもを降ろして、売上金の集計をするためにまた戻り、全て終って家に帰ったら8時になっていました。

わざと一文で書いてみたんだけど、ねっ、忙しそうでしょ?

日頃、とっても楽な生活をしているので、もう限界でした。バタンキューでいつの間にか眠ってしまっていました。朝5時に一度目が覚めたのだけど、今日は7時半から日本対ロシアの試合があるから、もうひと眠りしておこうと思って、少しだけ眠るつもりが・・・。

子どもが気を利かせて、寝室のテレビを点けておいてくれたので、半分、見ていたんだけど、眠気に負けてしまいました。試合しているのは分かっていても、ときどきハッと目を覚まして見るだけで、ところどころしか起きていられませんでした。

「ママ、日本、勝ったよ!」と言われて、すっくと目を覚ました時には終っていて(あたりまえ)、小泉首相が映っていました。あーあ、日本の初勝利なのに見られませんでした。残念。

「ねえ、途中、コーナーキックの所に立っていた日本の選手が、なだれ込んできたフーリガンに押しつぶされて担架で運ばれるシーンがあったよね」と子どもに言ったら、「なにバカなこと言ってんの?」と笑われてしまいました。

どうやら、夢の中で、わたしストリーのサッカーを見ていたようです。






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2002年06月04日(火) 朝 5時起きして 日本vsベルギー戦を見る

ワールドカップが始まってから、うちの子たちは早起きである。朝5時に起きて試合観戦してから学校に行く。新聞とネットのチェックも怠りない。ようやるわと思っていたけれど、そんなわたしも、日本の試合は絶対に見ようと決めていたので、テレビの画面に「ママも絶対に起こすべし!!」と大きくマジックで書いた紙を貼って寝た。

朝5時って、夜中なんだ。なんだよ、起こすなよ、眠いぞ。んでも、毛布にくるまってテレビの前に陣取れば、俄かサッカーファンでもワクワクしてくるのは押えられない。やっぱり、お祭りだね、W杯は。

冬のオリンピックは見てても全然つまらなかった。だってアメリカしか映らないんだもの。スノボのハーフパイプ、あれはひどかった。4位になった中井選手、4位になっちゃうのも酷いけど、1位〜3位と5位、つまりアメリカ選手だけ映しておわっちゃったもんね。悲しすぎるよ。

その点、サッカーはいいよ。90分強、ばっちり日本選手が映るもん。サポーターたちの喜ぶ顔も映るし、おんなじ時間に、日本で何百万人の人たちが一緒に応援しているのを想像するだけでも嬉しい。

まあ、ルールに関しては、たいして分かっていなくて、「何、いまのは?」なんて言って、子どもたちに鬱陶しがられるのは、予想された通りだけど。

後半戦の6時になったら、夫が起きてきて、一緒に見始めたのはいいが、まー、なぜこの人は、何事にもこんなにムキになる人なんだろう?って、疑問符「?」が100個あっても足りない。オヤジィなのか若いのかホント分からないヘンな人だ。見た目は完璧にオヤジだけど・・っていうのはこのまえ書いたばかりだった。(とほっ)

まぼろしになってしまった3点目、あれはファウルじゃないだろう!なぜだ!なんで抗議しないんだ!と、いつものように熱くなっている夫の言葉に、「スポーツってそういうもんでしょ」と冷めた返事をする息子1の姿も、予想されたようにいつも通りであった。 






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↑ 組み合わせのことは全然知らないで言ってます

試合内容に関しては全然言及してないところが、分かってない人らしくて大変よろしい今日の日記。(なんちて)


2002年06月03日(月) アメリカ社会の中のユダヤ人

「ねぇ、アメリカの発祥の地ってどこだと思う?」と、息子1に訊いたら、「そんなもんあるわけないじゃん、日本の発祥の地がどこだって言われたら、答えられる? まー しいて言えばアラスカかな、大昔、大陸が繋がっていた時、そこから人類は渡ってきたんだよ。それよりママ、アメリカにはもともとネイティブ・アメリカン(インディアン)が住んでいたのは知っているよね?」って、しらっと言い放たれた。 ちっ いいようにアシラワレてるなぁ。

ボストンの常識は、『1620年に102人の清教徒が、イギリスからメイフラワー号に乗ってボストン南部の海岸に着いた。この地はプリマスと名付けられ、「アメリカ発祥の地」と言われている』なのである。だから(もとボストニアンの)わたしもずっとそう思ってきたのだけれど、お隣のバージニア州の常識はそうではないらしい。バージニアの観光ガイドには、「アメリカはここから始まった」とある。英国の最初の植民地がここにあり(1607年)、やがてここが独立戦争の舞台となったからである。

うちがオリジンだよと言いたいのは、どこの人も同じだろう。まあ、どっちでもいいのだ。わたしが言いたいのは、アメリカは、そうやって宗教的な迫害を逃れて、自由で平等な国を作ろうとした人達、この国にアメリカという名前をつけ、その宗教的教義と建国の精神を認めた人達のものではないだろうかということだ。もともとは。

わたしがそう思ようになったのは、ここに住むJewish(ユダヤ人)の強い勢力を「ひし」と感じるからだ。メリーランドでは、ユダヤ教の儀式の一つであるヤムキッパーの日は、学校が休みになる。ラッシュハナハの週末は行事(サッカーなど)が行なわれない。ボストンではそんなことはなかった。そして、ボストンでは休みだったコロンバスデーは休みにならない。なぜ、Jewishだけ特別なんだと、毎年それを不満に思う。(それなら日本の祝日も休みにして欲しい)

Jewishは優秀なので議会や官庁に多くの人を輩出している。実際、マグネットなどの優秀な子どもが集められる学校に行くのも、レベル別クラスの上級にいるのもJewishの子どもが多い。外見で分かる訳ではないけれど、彼らは自分から名乗るのである。

アルカイダに報復していったときも、どうしてアメリカは、よその国の争い(パレスチナとイスラエル)に首を突っ込むのだろうかと思っていたのだが、それはアメリカの政治にJewishが力を持っているからだと夫に聞いて、わたしは、ある日のスミス夫人の悲しそうな怒った声を思い出した。


きょう、ホロコースト・ミュージアムに行った。ナチスドイツが、600万人ものユダヤ人を大量虐殺した、歴史上もっとも悲惨であったと言われる出来事を伝えるためのフイルムや展示品が置かれている所である。以前、日本から来ている友人がスミス夫人に(観光した中で)どこが一番良かったかと訊かれ、ホロコースト・ミュージアムと答えようとするや、彼女は、言葉をさえぎって、「わたしは、あれが国有の土地に建られていることに納得がいかない」と言った。その様子に驚いて、それ以上は理由を聞き取れなかったけれど、敬虔なプロテスタントのクリスチャンであるスミス夫人がユダヤ人のことを嫌いだということはよく分かった。

「力のある者が支配する、しかしそれは無理やりではなく共通のルールの下(もと)に行なわれる。」

夫は、それがアメリカという国で、それがアメリカの良いところなのだと言うけれど、わたしは、400年も前に苦労してアメリカに渡ってきた、会ったこともないプリマスの人たちの気持ちを考えると、ユダヤ人に侵食されていくアメリカを複雑な思いで見つめざるを得ない。


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