samahani
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2002年05月30日(木) どうでもいいやとしか思えなくなったことは本当はちょっと悲しいことかもしれない

アメリカに住んでいるといろいろと習慣の違いに戸惑うことも多い。もちろん、いいことも悪いこともあるのだけれど、そういう時、夫は、いいことをオーバーに褒め称え、悪いことを世の中の一大事のように嘆き、憤慨する。

「しょうがないじゃん、アメリカってそういう国なんだから」と、受け入れるしかないと私は思っている。しらっとしている私を横目に、ひとりいつまでもぶつぶつ言って熱くなっている夫は、気持ちが若いのか、頭が固くなっている頑固な年寄りなのか、どっちなんだろうとふと思う。

来てすぐの頃は 私も、頭にくることが多くあった。

支払いの終わった品物を取りに行って、目の前で横流しされたこともある。

9月の新学期に小学校2年生に編入した息子2は、先生の喋る英語はもちろんABCさえ知らなかった。学校に行くのを嫌がることはなかったけれど、しょんぼりして帰ってきて「みんなはもらっているのに、ボクだけお菓子とか鉛筆とかをもらえないんだよ」と言うことがあった。聞けば、宿題をしてきた子、permission slip (許可・同意書)に親のサインをもらってきた子などが、ご褒美として「もの」をもらっているようなのだ。学校で「モノで釣る」教育が行なわれていることにも驚いたが、何も分からない息子2が、出来ないのは当たり前なのに、そのことへの配慮がないことに憤慨したものだ。

すぐに、サインをもらってくる紙の区別はつくようになったし、宿題も皆とは別に簡単なものを与えられるようになったので、先生にクレームを言いに行くことはなかった。息子は、これは絶対に忘れたらダメと言って飴のもらえるペーパーを一番に処理するようになったので、こういうやり方もアリなのかなと思った。

小学校では、2年生くらいから算数と国語(英語)の授業はレベル別で受けるようになる。他の小学校も同じだそうだ。一学年に3組ある場合は、上級、中級、初級というふうに、その時間になると一学年全部の子がクラス(部屋)を異動する。日本の公立の小学校で同じことをするのは無理だろうなと思う。現地にある日本語学校でさえ出来ないのだから。

日本語補習校は、日本から来たばかりの子と、永住の生まれたときからここに住んでいる子とが居て、学力の差が激しい。永住の子は、3年生くらいになって難しい漢字が出てくると教科書を音読することさえ困難だという。こういう場合、レベル別のクラスにした方が、出来る子、出来ない子の両方の「ため」になる。けれど日本語学校は、文部省から派遣された先生と、日本の学校カリキュラムに則って運営されているので、それは出来ないコトらしいのだ。

わたしも、担任の先生との懇談会の時に話しただけで、校長先生にまで直談判をした訳ではないので、大きなことは言えない。

みんな違っていて当たり前なんだから、日本の悪平等主義のように皆が同じでなければいけないなんて全く思わない。ひとりずつ違えば、そりゃいろいろあるだろうなと、多少の理不尽も受け入れられる。けれど、そんなことよりも、わたし自身が、アメリカの多様化した社会には、なんでもアリなんだからと分かったような口を利き、なんだかどうでもいいやという気持ちがだんだんと強くなってきていることの方が、ちょっと悲しいことなのかもしれない。


さとこ |mail

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