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2017年05月27日(土)
『天の敵』『クヒオ大佐の妻』

池袋三昧。未だにどちらがイーストでどちらがウエストかおぼえられてない。

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イキウメ『天の敵』@東京芸術劇場 シアターイースト

「人生という、死に至る病に効果あり。」平易な言葉で哲学を語る。どの人物の言葉に心が寄るか、鑑賞者への信頼を感じる。信じるか、信じないか、可能性を追求するか、受け容れるか。厳しく、そして優しい作品。「あまり時間がない」ライターと、「時間がありあまっている」料理家の対話。彼らをとりまく人物たちのクロニクル、人間の欲望の物語。

まず122歳という年齢設定が絶妙で、なくはないかも、と思わせられる。浜田信也の透徹、達観、諦念をまとった姿に説得力。『太陽』でもそうだったが(そして今作はある意味その後の『太陽』でもある)、このひとは不思議と善性を感じさせる空気がある。大石継太にも同様なものがあると個人的には思っている。もともとの資質なのかどうなのか……その読めなさも大きな魅力。そんな人物がとある欲求から、聞き手のライター曰く「アウトでしょう」なことがらに手を染めていく。

老いを手放すということは、その時間との接点を持てなくなるということだ。その時間に生きる他者との関係を築けなくなる。必然的に孤独になる。土岐研一の美術が秀逸。イキウメの作品性をよく表す言葉である図書館のような空間に、標本のようなオブジェに埋め尽くされた壁面。舞台は照明とのコンビネーションにより料理家のアトリエになり、彼が医師だったときの研究室になる。最も感銘を受けたのは、とあるシーンで一度カーテンに遮られたその壁面が再び姿を現した瞬間。青と白のコントラストは、夜のマンションの部屋に灯る明かりのように見えた。それぞれの家でそれぞれ生きるひとたちのくらしを、彼は日々こう見ていたのかもしれない、と思う。

浜田さんは100年という時間を生きたたったひとりの人物ゆえ出ずっぱり。身体はそのままでも、記憶の層は積み重なる一方。しかもひとつひとつをことこまかく、鮮明に憶えている。援助してくれた医師、短いあいだ友達になったヤクザもの。そして失った妻。その苦痛がときどき顔を出す。イキウメの近作では立て板に水な台詞まわしで理路整然と罵詈雑言を繰り広げる安井純平が聞き手に徹する。今か、ここかというタイミングで炸裂する「アウトでしょ」「ぜいたく〜」といったツッコミの間、安井さんの真骨頂。このふたりの丁々発止、とても観たかったものだった。

現在女優が不在のイキウメ、岩本幸子に代わる声を持つ人材は得られるのだろうかと思ってもいた。客演の村岡希美はその声と、芝居の巧さでシーンを色付ける。ある意味贅沢な起用。小野ゆり子はさまざまな年代の女性を演じわけて見せてくれた。壮年〜老年の女性の声色といいまわし。欲望に屈服する女性、スピリチュアルに傾きがちな危うさを孕んだ女性。料理家と生きる、現代の彼女はこれからどうなるのだろう? どんな選択をするのだろう? と思わずにはいられない。興味と、気がかりを残してくれる役者さん。

そして前川知大作品の好きなところ、森下創が演じるような役まわりを配置してくれるところ。唯一料理家と向きあえているともいえる人物、いや、既にヒトではないのかもしれない。「おまえもはやくこっちにこいよ」、料理家とは違う方法を選び、実践し、もうひとつの人間のゆくすえを見せてくれる。可能性ともいえる。理詰めで解明出来ないことは必ずあり、それを否定しない。彼らはいつでも傍にいるし、いつでも会うことが出来る。松尾スズキがよく言っている「頭のなかに墓をつくる」ことにも通じる。それにしても、どこ迄が生で、どこからが死なんだろう? 肉体の死こそが人間の死だと定義されていることに、ふと疑問を覚える瞬間があった。

それでも、太田緑ロランスが演じたライターの妻の涙には揺れる。肉体の死へ向かっている夫を案ずる涙。簡単に納得出来ることではないのだ。それほど人間は身体にしばられている。

生きることに飽き、生きることを憂い、作品はメランコリアに覆われていく。病的に健康、それってなんだ? 食物連鎖から脱し、それでも生きていく方法は? 生きるとは何を指しているのか。『カラフルメリィでオハヨ』の劇中歌を思い出した。♪ぼくたちは100年後にはもういない/いたとしてもかなりヤバい/いつか死ぬ/きっと死ぬ/人間の死亡率100パーセント♪

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おまけ。劇中に出てきた料理のレシピ。『ダークマスター』もそうだし『1993・待つ』の「ねじまき鳥クロニクル」もそうだったけど、芝居で匂いの記憶が残るのって結構楽しい。てか『1993・待つ』って24年も前なのに未だに思い出せるってどんだけ。




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『クヒオ大佐の妻』@東京芸術劇場 シアターウエスト

こちらの美術(伊藤雅子)もよかった。映画監督である吉田大八が、一場の舞台を作り込む。

終盤のあるシーンで客席エリアも使う仕掛けがあって、それは後ろから全景を観たかった……何故だの最前ど真ん中の席だったので。なんでこんないい席とれたんだ。その分接近戦には効果絶大、宮沢りえの美貌と、マシーンのような生態(ここぞというタイミングで涙が零れるあの瞳!)にやられっぱなしでした。あと宮沢さんと岩井秀人の絡みが間近で見られて楽しかったですね(笑)。

観ていくうちに舞台の時代設定が2003年だとわかる。いろいろと解釈が出来そうなメタファーがある。待つ女。実在するのかすらあやしくなっていく男。その男にだまされる女、嫉妬する男。清水邦夫や唐十郎、岩松了の作品を思い出す。アングラの香り。古田新太の「宮沢りえは日本最後のアングラ女優」という言葉の裏付けを見る思い。思えば宮沢さんは唐さんの『緑の果て』に出ていたんだった。何気に素地があったなあ。このドラマ、とても好きだった。

水澤紳悟という役者さん怪演だなあ、何者…と思っていたらあの立兄ィの『ぼっちゃん』のひとだった! うへー気づかなかった。ハイバイの女傑? 川面千晶も格好よかったです。このひとのツッコミ大好き。

個人的にはパールジャムの思い出と関連づけられるところがあって図らずもしんみりした。

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とまあ、こういうふうにどんよりとした考えが出てくるのはクリス・コーネルの訃報があったからです。自分の音楽体験に深く関わる人物であり、思いがけない急死とその死因にまだ納得出来ていない。「もう大丈夫」なんてものはなくて、「今は大丈夫」の更新の繰り返しなのだと思い知らされている。いちリスナーですら受け入れられないのだから、近しいひとたちの悲しみとやりきれなさはいかばかりか。エディ・ヴェダーは何もコメントを発表せずツアーに出た。初日の模様を伝える記事を読んだ。彼はいずれ何か語るかもしれない。今後も一切言葉では語らないかもしれない。どちらにしろ時間がかかる。