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2011年11月25日(金)
『太陽』

イキウメ『太陽』@青山円形劇場

腹を据えて行ったけどやっぱり打ちのめされるなー、前川さんホントすごいの書く。役者さんたちも素晴らしい。苦しいし考えることも多い、けど見逃せない。二時間で頭も心もフルに使う。どんなに落ち着いて観るつもりでも感情を揺さぶられ、どうしようもない気分で劇場を出る。こういう体験が忘れられなくて、こういう体験に出会いたくて、だから劇場通いが辞められないのだ。

それにしてもここ迄書くとは。そして自分はこうだ、とちゃんと決着をつけている。その決意に爽快なものはない。それでもこうだ、と描いた。以下ネタバレあります。

SF。どんな恐ろしい場面にもひとの優しさと言うものは存在するし、同時にどんなに穏やかなひとでも自分の大切なものを奪われて平静ではいられない。果たしてそうか? 醜く美しい、それはどれもが人間の姿。種族が違えど、変化すれど、集団が形成されればそこには必ず階級が発生する。平等な世界なんてありはしない。では、どうする? そこ迄描く。登場人物がそれぞれの立場から、「自分で考え」て、選択する迄を描く。そして勿論、そこで問題は解決などしないのだ。人生は続き、それどころか自分の死後も続く。そして、この種族も、いや、どの生物もいずれは滅亡する。ノクスの万能感は実は進化ではないし、キュリオの感受性は社会の役に立たない。どちらもお互いの持っているものに一種の羨望を感じているが、それが何を意味するのかを理解していない。

しかしそこでハッとさせられるのは、その“ひとの優しさ”を感じさせたのが生まれつきのノクスである門番であり、感受性の醜悪さを露にしたのが当のキュリオたちだったところだ。キュリオからノクスに変異した娘は躁状態にすら映る不気味さでその万能感を唱え、その気分を以前感じたことがあるだろうノクスの医者は自分たちのことを「病気だ」と結論付け、自らの命を終わらせようとする。ノクスの門番とキュリオの男の子が心を通わせ乍ら衝突する経緯は、個人対個人では全く問題ではなかったことが、それぞれが所属する社会的立場によって顕在化すると言うことを見せつける。そして、この世界では社会に所属しない、と言う選択はないのだ。では、どうする。門番は「それは自分で考えるんだ」と言い、男の子はノクスになると言う選択を捨てる。

台詞がない場面での緊迫感や日だまりのような安堵感が、瞬間瞬間で入れ替わる。物語の世界観を立ち上げる前川さんの演出家としての手腕と、演出の意図を理解しその世界の住人となる、役者陣の懐の深さにも唸らせられる。出演者全員が、「この気持ちは何だろう? どう名付ければいいのだろう?」と言った感情の表現を、これしかない、と言った形で提出してくる。嬉しい筈なのに悲しみの涙が流れる、愛情を感じている筈なのにそれが何か理解出来ない。これは言葉には出来ないものだ。舞台にしか存在しない、言葉に変換出来ないもの。

安井順平さん(医者)にはもってかれた…ノクスの幸福を語り乍ら、キュリオへの罪悪感を拭いきれない。あらゆるシーンでその葛藤が表情の端々に出る、声のトーンに出る。浜田信也さん(門番)には寂しさがつきまとう役が似合う。彼が生まれつきのノクスだった、と言う設定は、理性が感情を兼ねることが出来るのではないか? それは進化なのではないか? と思わせられる希望のひとつになっていた。複雑な難しい役だと思うが、浜田さんの透明感漂うニュートラルな演技は、ノクスへの好感と無自覚の悲哀を同時に感じさせた。盛さんと伊勢さん、有川さんと岩本さんがそれぞれ演じるノクスのパートナーシップ、キュリオの愛情表現が違う質感として感じられたのもおおきなポイント。加茂さんと大窪さん(キュリオからノクスへの変異を選ぶか迷う若者たち)の感情の振り幅の大きさは若者にしか直面出来ない葛藤に満ちていて、その後のふたりの選択にも胸が痛んだ。そしてキュリオの醜さを全面的に引き受けた森下さんは恐怖感を抱く程のユニークさ。限られた出番でガッチリ存在感を示していた。

「朝」がくる恐ろしさと「夜」の静かな美しさを表現する照明と音響、要所要所の音楽も素晴らしかったです。ここ迄描ききった前川さんと演じきった出演者、舞台をあの世界に立ち上げたスタッフの方々に感服。現時点で今年のベストワン。