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2016年07月09日(土)
『母と惑星について、および自転する女たちの記録』

『母と惑星について、および自転する女たちの記録』@PARCO劇場

母の欠片は、灰となって風に乗る。「重石」の娘たちを離れ、好きなところへ飛んでいく。重荷を背負わされたままの娘たちも、それぞれの道をいく。三人の娘はそれぞれ母親に似ている。それを認めてもいいし、反作用と思ってもいい。赦しとも諦めとも、どうとでも。気の持ちようで、憎んだり愛したりすればいい。ただ、呪いを解くことは出来る。

身におぼえありすぎてあるいはなさすぎて、ほっとするやらうらやましいやら。ああ、さるまわしのさる、わかるー。私もやったやった。すすんでやっていた自覚がある。けれどそれは自分がまだこどもだという自覚もあったからだ。大概はいい思い出だが、母があと何年か生きていたら戦争になっただろうとも思っている。他者への寛容は、相手が近しくなればなる程線引きが難しくなる。家族だから大目に見てくれるだろう、あるいは大目に見てよ。いや、家族だからこそ許さない、許せない。かくして断絶は深まる。それでも、生き残った側は、生きていくことを肯定していかなければ生きていけない。

ラマダン中のイスタンブール、白昼食べに食べる末妹。配慮に欠ける行為は無知からくるものであるが、必要以上に食べるのには理由があった。それを見つめる街のひとびと。勿論食べ歩く外国人の娘の事情など知らない。これを無知とは呼べない。ただただ見る。これを無言の非難ととるか、異教への寛容ととるか。これも気の持ちようだが、場合によっては命をも脅かす。その範囲は日々狭くなる。震える惑星に生きるちいさき者たちに、幸いを。祈るような気持ちになる。

生きることを静かに肯定する、蓬莱竜太の書く台詞のレイヤーの多さ。あの言葉の裏には、あの言葉を放ってしまった要因は。その多層を観客に伝え得る栗山民也の演出、役者たち。台詞のレイヤーを視覚的にも見せる多層の美術は、場面だけでなく現在と過去という時間もスライドする。滑らかで美しい光景だが、段取りをひとつ間違えると怪我人が出そうだ。オペレーションの妙も光る。一度だけ、終盤のいいところでそのスライドする床面から何かが落ちてしまったようだ。ゴトン! という大きな音がした。ほんの一瞬台詞がつんのめる。のめりこんで観ていた(それほど緊迫感のある場面だった)側も我に返った、惜しい。千秋楽迄事故がありませんように。

姉妹はそれぞれの役割を演じている。長女の責任、次女の奔放。田畑智子と鈴木杏の顔立ちがとても似ていることに気付く。志田未来演じる末妹にはおみそゆえの苦悩がある。意志の強さが感じられる瞳は、母を演じる斉藤由貴とよく似ている。四人とも物語る瞳を持っている。最前列だったので、彼女たちの目の輝きに吸い寄せられる思いだった。憎悪も、諦念も、悲しみもその目は語る。丁々発止の台詞とともに、黙してのにらみ合いに言いようのない迫力。この四人が揃ったことが、作品へのギフトのように感じた。

パルコ劇場はホント良質な舞台をつくるなあ。おそらく現劇場で観る最後の公演、観ることが出来てよかった。で、多分最後だからとあのホットドッグも食べてきた。アルミに包まれてホットプレートに載っている、売店のロールパンホットドッグ。短時間で小腹を満たすのに丁度いいサイズ。既製品じゃないところ、ここでしか食べられないのが魅力。コーンスープは暑かったので断念、残念。新しい劇場にこれらのメニューは継承されるのかなあ。そして今の劇場が閉まったら、あの売店のおばあちゃんはどうするんだろう。引退しちゃうのかな。歌舞伎座前にいた甘栗屋のおじいちゃんのことを思い出した。さびしい。