初日 最新 目次 MAIL HOME


I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME

2013年09月22日(日)
『冒した者』

葛河思潮社『冒した者』@吉祥寺シアター

『浮標』同様、テキストは青空文庫で公開されています

あー、これはすごくよかった。と言うかこういうのが好きなんだな、自分が。独立して観てもいいのだけど『浮標』を観ているといろいろ思うところも多い。あの家族の記憶がのしかかる。それは自分の家族の記憶のかけらでもある。

八方塞がりの五郎が必死ですがる希望のひとつひとつを、周囲の人間がひとつずつ丁寧に潰していく重さ、上演時間の長さ、モノローグの比率の高さ。これら息詰まる要素を揃えた『浮標』を経ていると、今回の『冒した者』は全体の印象としては観やすいものになっています(それでも重量級だが)。『浮標』の後日譚としても観ることも出来ますし、須永の存在がサスペンスの要素にも成りうる。登場人物たちの内なる激情が表出するメリハリもある。そういう意味では、より芝居らしい芝居です。

五郎=私は、絵をもう描いていないのだろうか。舟木との交流が続いていることにいくばくかの安堵。妻=美緒の親兄弟との関係はどうなったのだろう。

ある人物の訪問で、日常に波風がたつ。皆が少しだけ正直になる。その正直さは、集団を崩壊に導く。現代で言えばシェアハウスのようなシチュエーションは、その場所が「定住、安住の地」ではなく、旅人たちが交流し、情報を交換しあう「オアシス」であったことを再認識させる。

『浮標』同様、登場人物は全員裸足。ほぼ正方形の舞台の上には椅子が数脚、両サイドにも数脚。完全な退場は数少なく、基本的に演者は両サイドに用意された椅子に座って出番を待ちます。この辺りも『浮標』と同じですが、『浮標』では両サイド全ての椅子が舞台に向いており、出番ではない演者は舞台に身体を向けて座っていましたが、今回はその逆で、椅子は舞台とは反対方向を前にして据えられている。演者はその椅子に座り、舞台に背を向けて座る。そのまま出番を待つか、身体を反転させて舞台を見詰めるかに分かれる。それにはある種の規則性があったのだろうか。その場にいない登場人物のことが舞台上で話されるとき、その不在の人物を演じている役者が「聴いている筈のない自分に関する話」を聴いている。そのときの表情、振る舞いに注目出来ると言う空間が前回同様用意されていたことは興味深い。今後葛河思潮社がどの作家のどの作品を上演して行くか、その際この演出方式は踏襲されるのか、と言ったこれから先のことを考える楽しみもありました。

舟木の妻の宗教観、そしてそれを論破する舟木。人間が考えうることの限界は舟木自身にも返ってくる。手を出すと言うことは、いかに罪深いことか。そしていかに利己的なことか。神の存在を認めつつ、それを人間の手で操作しようとすることへの矛盾は『90ミニッツ』でも強く感じたことだ。これは自分が一生興味を持って考え続けていくだろうと言う自覚がある。信仰を持つことと、それを宗教として扱うことは違う。全ての人類は“冒した者”であると言い放つのは、「私」か、「須永」か、三好十郎自身か。いや、そう言ったのが誰であろうと本質は変わらない。自明のことだ。

来週もう一回観ます。出演者についての感想はそのときに。