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2010年03月14日(日)
『農業少女』

『農業少女』@東京芸術劇場 小ホール1

ネタバレあります。そうそう、なるべく早く劇場に入った方がいいと思います。ロビーにいろいろと仕掛けがあります。

初演は観逃しています。松尾さんが演出に専念するのは珍しいけれど、再演にあたって脚本の補足も手掛けたのかな。笑いを増幅させたところと、ツイッターが出てきたところ。エッセンス的な使われ方ではあったが、これがあるとないとではかなりの違いが出たのではないかと思う。

初演は2000年で、webで通販、とか、携帯電話の使い方、と言った部分は、当時まだそんなに普及していなかったからこその、カルト的な情報提供とその収集と言う図式として効果的だったのだと思う。「『自分だけが知っている』と言う優越感と『何故皆知らないの?』と言う歯痒さ」「当事者が期待している程は外部の人間に拡がっていかない」と言うこの関係は、今では殆ど当たり前のようになっている。これは、共通言語がどんどん減ってきていることにも繋がる。それをより強力にしていくのがツイッター。webサイトからの情報発信は、2000年当時はまだ網羅出来ないこともなかった。検索を駆使すれば、web上にある相当数の情報は探し出せないこともなかった。ツイッターは網羅を諦めるくらいには膨大な数で、流れも早い。あまり使いたくない言葉ではあるが、「情報格差」を歯痒いと思うか、諦めるか。ここが奇妙な程にリアルだった。ゾッとする程。ツイッターもギリギリのところかも、数年後には違うツールが出てきているかも。松尾さんの嗅覚の鋭さには毎回ビビる。

ただ、先日観た菊地成孔と金原ひとみのトークイヴェントでも話題にのぼった「インターネット上に不在である」ひとと言うのは必ずいて、webに関わらない方が穏やかに暮らせるひともいるし、そもそもweb上に存在しようとしゃかりきにならない方がいいひともいる。それは世俗から離れる、劇中の言葉で言えば大衆の“気分”から離れることでもあり、ひょっとしたらこのことが百子の未来に光を示すものではないかと思い、少しだけ希望を持った。そして、彼女を失った山本に思いを馳せた。ファシズムは独裁者ではなく、大衆の気分が作り上げる。

「東京都青少年育成条例の改正案」はどうなるのだろう。マンガだけではない、表現と言う表現にその規制とやらは拡がっていく。『農業少女』も、内容からしてひっかかっている。

プログラムでも指摘されていたモチーフ『ロリータ』がよりハッキリしたのも松尾さんの演出に因るところが多いと思います。「少女を想う中年男のみじめな恋と、ファシズムに関する思索が交錯する斬新なアプローチの舞台」。衣裳からセットから抽象的なもので成立させる野田演出とは違い(小道具の使い方は野田さんに寄ったところもあったように思うが)、徹底して笑いを織り込み、人間の滑稽さからもの悲しさを浮かび上がらせる。うーん、これ、『パンドラの鐘』演出合戦の時に、ストーリーの骨子が明確に伝わったのは蜷川演出の方だったことを思い出した。勿論どちらも感動的な仕上がりでしたが。

舞台初出演の多部未華子さんの身体性は替えが利かないと思わせられる説得力、まさに百子。その身体をフルに使って表現した多部さんの役者力も素晴らしい。あの無邪気さ、残酷さ、傷付きやすい繊細な心と、ひとを試し傷付けることを楽しむ心が同居出来る。これは見事だった。吹越さん、山崎さん、江本さん皆見応えのある立ち方でした。映像で野田さんがひっそり出演していたのにはウケた。

あと個人的には、わたくし九州出身で、東京に出てきたばかりの頃、家のポストにオウム真理教のコンサートのチラシ(宗教思想については触れておらず、コンサートをしますよと言うお知らせのみ)が入っていて、こんなのがあるのかあ、随分近所だな。無料だし、面白いのかな。としばらくそのチラシを保管していたことを思い出した。もしあのコンサートに行っていたら、今頃私はどうなっていただろう。今回の芝居に宗教は絡んでこないけど、ひとりの冷静で卑小なカリスマと、それに熱狂する若者たち、と言う光景をよりリアルに感じたのも、そのことがあったからだと思う。