浅間日記

2008年03月25日(火)

本日上京す。

断ることも考えたが、恩義あるSさんの招集ということもあって、出かけることにした。

Sさんとは、この機を逃せば、悪くすればもう会えないかもしれない。そうした気持ちもある。

70をとうに過ぎた人というのは、臨月の女と同じぐらい、残された時間に敏感になるものかもしれない。



2004年03月25日(木) 現代ホモ社会



2008年03月23日(日) 奉納精神

ラジオで、大相撲春場所千秋楽の模様。
朝青龍が変な大阪弁で何か叫んでいる。

品がねえなあとH。
これじゃプロレスだ、と。

続いて、売名目的の芸能知事が土俵でアピール。



今の大相撲がどうにも滅茶苦茶なのは、
奉納の精神を失ってしまったからだと思っている。

横綱の人格が問われるのも、伝統行事としての格式も、全力で取り組みをすることも、
祈りを込めて「人間以外の何者か」へお見せするものだからこそ、であった。

そういう祈りを失った現代の大相撲に、人々は精神性を求めない。
興行として面白ければいいのである。
形式や伝統は見世物と化し、力士の人格など、何をかいわんや、である。




神様へ品物ではなく行為を納める-奉納行事-というのは、面白いなと思う。
なんだか、ご機嫌取りみたいな感じもする。

あるいは「これは神様用」という建前にして、
お下がりの芸術文化を楽しむための言い訳かもしれない。

それはどうあれ、奉納の中には祈りが込められている。
生きていることのままならさを、何者かに託すための寄進行為なのである。



ままならぬことは今も昔も存在する。

けれども、金やイノベーションで何でもできると信じ込まされている現代社会だから、
ひとたび解決できないとなると、私たちはすぐに絶望してしまう。
生のままならさと共存するのが下手っぴなのである。

2006年03月23日(木) 春の門前に子鬼
2005年03月23日(水) 自分アーカイブ
2004年03月23日(火) 頼むから静かにしてくれ



2008年03月17日(月) 扉を閉める 窓を閉じる

またしても、気が乗らない遠出。

家に戻りHとAの顔をみてほっとする。
この安定した場所からこれ以上一歩も外に出たくないし、
もう、家族以外の誰にも会いたくない。

産み月が近づくと野生動物のように極度に警戒心が強くなる。
多分それは、たとえ親しい人であっても理解の範囲を超えているだろう。
だから、この状態はなかなか世間的に受け入れてもらえないのである。

頼むから放っておいてほしいという強い気持ちに罪悪感を感じるあまり、
嘘の愛想笑いなどする。まったく問題ない大丈夫などと、心にもないことを口にする。
悪循環していく自分を莫迦だなと思う。

遅い夕飯をとりながら、もう自分は社会的には死んだということにしてほしいものだとHに愚痴を言うと、
では誰かから電話がかかってきたら「そのような者はおりませんが」と対応しよう、と冗談で言われるが、その冗談に救われる。



押入れに隠れる子どもでもあるまいし、愚痴っている場合ではない。
礼を欠かさぬよう言葉を尽くしながら、ここから先はご遠慮願いますと、
自分で一つひとつ扉を閉めていくしかない。

いずれにしても、そうした手続きを早くしなければ。

2006年03月17日(金) 急発進
2005年03月17日(木) 3月の水



2008年03月16日(日)

Hは深夜から氷登りに行ってしまった。
Aと2人、車で2時間ほどのところへスキーに行く。

本来出不精だから、休みの日に長時間を車で出かけるなど嫌なのだが、
誘われて何となく重い腰を上げる。ぶつぶつ言いながら曲がりくねったダムサイトの道を往く。

Sさん一家とWさん一家が面倒を見てくれて、Aにスキー指南。
いつの間にか、スイスイ滑っているから驚いた。
それどころか−これには肝を冷やしたが−、知らぬ間に一人でリフトに乗っている。

楽しい時間を過ごして、思いのほかリフレッシュした。
結論からいけば、遠出もまたよしであった。

2007年03月16日(金) キリギリスの涙
2006年03月16日(木) 
2005年03月16日(水) 性と生殖に関する口角泡



2008年03月11日(火) 冬を吐き出す

暖かい日。

湯船に浸かった瞬間がそうであるように、身体が温まると人は息を吐き出すようになっている。

そういう理屈で、道端の梅の蕾を観察しながら、知らず知らずのうちに深い息を吐く。

NHKラジオ健康相談の医師によると、呼吸の順序というのは呼気が先で、
だから「呼吸」というのらしい。
どうしても吸い込む方に意識が向きがちなので、これは意外であった。

そして、そうだから、深呼吸をするときも吸う前にしっかり吐くのが大切だと言っていた。

理屈はともかく、緩んだ体は、知らず深い息を吐く。
根雪のように固まっていた冬の疲労を、勝手に身体が吐き出している。
その息は、もう白い湯気になることもなく春の大気中へ溶け込んでいく。

2007年03月11日(日) 
2004年03月11日(木) come back to home



2008年03月10日(月) Thank You

ちょっとした契約更新の書類が届く。待ってましたと封を切る。

この書類にサインして送れば、素浪人にならずに休みに入れる。
そして休み中の資金繰りは、既に1年分の目処が立っている。

自営で産休など店仕舞に等しい博打と思ったけれど、
まあこれで、食詰める心配をしながら乳飲み子を育てることはないだろう。

この状況ができたことは奇跡のようだなと思ったが、
べつに奇跡ではなく、明確に関係者の温情に支えられているのだと思い直す。

自分の産前産後を気遣ってくれる人のほとんどが仕事関係の中年男性というのも不思議な感じだが、
安心して休むようにという言葉と、それに添えるようにして差し出される
産後の生活が経済的に困窮しないようにという配慮は、実に現実的でありがたい。

2006年03月10日(金) 
2005年03月10日(木) 完熟産業
2004年03月10日(水) 聖トーマス教会受難、そして光



2008年03月05日(水)

寒い早朝に、Aと散歩に出る。

せっかちな私においてけぼりにされそうになったAは、
シクシクとべそをかきながら歩いている。

このところのAは、めまぐるしく身体が変化する私のことが心配でならないのか、
自分が心細いのか、始終私の傍にいたがる。

ちょっと立ち寄った先で、両手いっぱいの荷物が増える。
たちまち、優雅な散歩は労働に変わり、どうやって運ぶか算段する。

一人では持てないので、あなたは頼もしい運び手であると宣言した後、
二袋ほどAの分担とする。

Aは使命を果たすべく、それは相当に重かったはずなのだけれど、
丸めた背中に荷物を背負ったり、持ち方を工夫しながら歩いている。

いつしか泣きべそも止んで、力の出るまじないの言葉を叫んでは
坂道を駆け足で運んでいる。

2005年03月05日(土) 世界の常識、日米の非常識
2004年03月05日(金) 



2008年03月04日(火) 餃子に必要な年収は

生活協同組合について、評論家の内橋勝人氏のラジオ解説。もう数日前のこと。

餃子問題ですっかり信用を落とした生活協同組合であるが、
元々は、食の安全をまじめに考えていた消費者の団体なのだそうである。

生活協同組合は自分としても個人的な関わりと思い入れがある、と断った上で、
内橋氏は、ではなぜそのような意識の高い消費者団体が、健康被害をもたらす食品の流通に関わってしまったのかについてレポートしていた。

それは、1995年時の運営方針の転換にあるという。
生活協同組合の運営方針に、「安価な商品の提供」というこれまでになかった視点が加えられたのである。

その背景には、低所得者層−年収350万円以下と言っていた−の出資者が増えたことがあげられる。安さへのニーズを無視できなくなったのである。

そこで、国内から海外生産への切り替え、材料の調達方法の変更など、
色々なコスト削減策が図られ、中国工場でつくられた餃子も買うようになった、
というわけである。



内橋氏は、そもそもそのような「海外で安く」という考え方が、
生活協同組合の精神に反すると指摘する。

海外であれ、国内であれ、妥当な価格で妥当な商品を購入し、
生産者の生業を支え、消費者として主張をし、
信頼関係を築く努力を放棄してはいけないと熱を込めて言っていた。




餃子も食べたい。春巻きも食べたい。
何だかわからない横文字の料理も口にしたい。
できれば手のかからない調理方法で食卓に運びたい。

家計支出は多様で、食費にはこれだけしか割くことはできない。
その中で、より多くの皿を食卓に並べ、家族を喜ばせたい。

仕事に忙しく、食事に加工済み調理品は欠くことができない。
安全なのは当たり前だし、簡単で便利なのはよいことだ。



安価な−安易な−食品に対するニーズは存在する。
内橋氏によるとそれは、低所得者層のニーズとしてある。
食育は結構であるが、教科書どおりにはいかない。

安価であることは時に、安全に優先して、市場を動かす。
安価な商品は、ニーズと事業戦略との相互作用でさらに進化する。
その代償として、これから先も第二、第三の餃子事件は起こるだろう。

氏素性のわからぬ者がつくった物を口にするということは、
どんなに規制や検査を厳しくしたとしても、そのリスクから逃れられない。

それでも構わぬという向きはまあよいとして、
また、そんな危ないものを食べるぐらいなら白米にごま塩で十分、という
我が家のような高楊枝系の貧乏所帯も抜きにして、

低所得者層が、その経済的事情から否応なしに食品リスクにさらされることは、
国として貧しいことではないだろうか。
日本人は食い詰めていて、飢えてこそいないかもしれないけれど、
まともな食品を口にできる人と、そうでない人がいるのである。

2007年03月04日(日) 
2005年03月04日(金) 大人の時間
2004年03月04日(木) 国民給餌法



2008年03月03日(月)

こことのところ数週間の自分はまるで、「アルジャーノンに花束を」における後半下り坂のチャーリィのようで、日増しに社会的活動が困難になっているのがわかる。

適切な言葉が見つからず、コミュニケーション能力が衰え、
収支の計算も、世俗の何にどう反応すべきかも判断がつかぬ。
喜怒哀楽すら放棄し、まるで睡眠薬を飲みすぎたサンショウウオみたいに
ただ、身体感覚と直感だけで生きている。

そのうちこの日記も文章に脈絡をなくし、件の物語の名訳みたいになるだろう。

産月の近い女の身体というのは、面白いものである。

2007年03月03日(土) 
2006年03月03日(金) ひとくぎり
2005年03月03日(木) 低俗の海へ
2004年03月03日(水) 寒の戻り


 < 過去   INDEX  未来 >


ipa [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加