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雲の向こうの遠雷が呟きさえも掻き消すから 00-z

 擦れ違うと、血の臭いがした。

 その、郷愁すら誘うほどに遠くなり、しかしかつて身近にあった臭いは本当に微かだったが確かなもので、乱菊は反射的に振り返った。ギンはそれをわかっていたかのように、ゆっくりと振り返る。手を伸ばせば届きそうな距離で、二人は相対した。
 渡り廊下には、二人の他は誰もいない。
 池の水面に二人の髪からこぼれ落ちる金と銀の光が輝いている。渡り廊下の影も二人の影も、鯉が跳ねて酷く揺れて乱れた。中庭に、水の跳ねる音だけが響いて、消える。
「どうしたん……乱菊」
 ようやく出されたギンの声はあまりに柔らかで優しげで、乱菊は唐突に哀しくなった。眉の間にぎゅっと力を入れて、乱菊はギンを見上げる。
「市丸隊長」
「ギンでええよ、乱菊……今は大丈夫や。大丈夫。誰もおらんよ」
 自分でも確かめるようにそう言って、ギンは乱菊を見下ろす。乱菊はその言葉の響きに心をざわめかせた。
「……ギン」
 ギンはいつもの薄い笑みではなく、けれど乱菊にすら感情の伝わらないほどのきれいな笑みで乱菊を見つめている。もう長いこと、もしかすると出会った時からずっと、乱菊はギンの考えていることをわからないでいる。しかし、ここまで、感情の揺れや色すら伝わらないことはなかった。乱菊は何か暗い予感を覚える。すぐ脇の大木で鳴く、早すぎる蝉のひび割れた声がひどくやかましく、耳障りだと乱菊は思う。
「あんた、何があったの」
 乱菊の言葉に、ギンはきょとんとした顔をする。そして、またへらりと柔らかく笑う。
「何にも、あらへんよ?」
「嘘、だって」
「だって?」
「臭いがするわよ。血の。あんたのものじゃない血の臭いが」
 躊躇せずに乱菊はギンに踏み込んだ。ギンは困ったように眉を寄せて、それでも笑みは崩さない。もう、人を殺すときに血を浴びるような下手な真似をギンはしない。昨夜も血飛沫がギンを避けているかのように、ギンの白い羽織は真っ白のままだった。ギンは目の前のきれいな人を見つめる。気づいて欲しくはないのに、どうしてどこか、気づいてくれたことに喜びを感じているのだろう、とギンは自分の感情が震えるのを感じる。
「気のせいやないの」
 ギンは小さな声で優しく言う。首を僅かに傾げ、幼い子に言い聞かせるようにギンは囁いた。
「乱菊の気のせいやて。大丈夫。大丈夫や。何にも、なんにも、あらへんよ?」
 その声色はあまりに優しげで柔らかくて、綿菓子のように空中に溶けてしまう。乱菊は眉間に皺を寄せた。ギンの声がひどく儚げで、乱菊は泣きたくなる。
 眉を寄せて黙り込む乱菊を、ギンは目を僅かに開いて見つめていた。朝の光を受けて輝く山吹色の髪は眩しくて眼が痛い。けれどギンは、網膜に焼き付けるように瞬きもせずに見つめる。
 乱菊は真っ直ぐにギンを見上げた。
「……今夜、六番隊が、朽木隊長と恋次が現世に行くそうね」
 小さな声で乱菊が言う。ギンは笑って頷いた。
「そうやね」
「四十六室の命令で、朽木ルキアの捕縛を……って今朝一番に地獄蝶で伝えられたわ」
 それにもギンは頷く。乱菊が痛々しげに眼を細めた。
「恋次の、副隊長のしての初の大きな仕事が、そんな仕事だなんて」
 乱菊の声は細く、小さくギンを揺さぶる。その、乱菊の綺麗な眉をひそませている捕縛命令を出したのは自分達だ、ということをギンは知っている。内部の揺れは小さくとも確かで、ギンはそれを隠すように薄く微笑みを貼り付ける。
「阿散井君の幼馴染みらしいもんなあ……ルキアちゃんは」
「ええ、そうらしいわ」
 沈黙が流れた。遠くの喧噪が風に乗ってここまで聞こえる。乱菊はギンをじっと見つめる。何も言わない、全てを隠した笑みがギンの顔に貼り付いていて、乱菊はその奥を見たくて目を離さない。その視線に、ギンは少し困ったように笑う。その、わずかに覗く表情に、乱菊は締め付けられるように思う。
「ギン。あんた、約束を覚えてる?」
 一言ひとことをゆっくりと確かめるように乱菊は尋ねた。ギンは柔らかく笑う。柔らかくやわらかく、消えそうに笑う。
「大丈夫。大丈夫や。ボク、前にも言うたやろ? な、乱菊」
「あたしは」
 何かに突き動かされるように、乱菊は間を空けずに口を開いた。
「あたしは訊いてるのよ? 約束したわよね、あたし達。あの、森の中で約束したわよね? ギン?」
 乱菊の目の前で、ギンが困ったように顔を歪めてわずかに眼を伏せる。そして目を上げると、首を傾げて、
「覚えとるよ」
と一言だけ呟いた。きれいな薄い笑みを浮かべて、ギンは乱菊に向かい合う。
 乱菊は唇を噛んだ。
 薄い笑みを睨むように見上げ、乱菊は言葉を飲み込む。その様子をギンは歪みをきれいに隠した笑みのまま見つめた。
 お互いに言葉が出てこなかった。
 伝えたいことはあるのに、形にならない。形に、できない。
 居心地の悪い沈黙だけが今の二人にあった。

 視線を動かせないまま、乱菊は言葉を探していた。ギンもじっとその迷う視線を受け止めていたが、常に意識を尖らせている肌にざわりと触れるものがあった。
 ギンはふと横に顔を向け、遠くを見るような表情をする。そしてふっと、普段通りの軽薄な笑みに切り替えた。
「もう、人来るわ…………ほな、十番副隊長さん、失礼しますわ」
 はっと乱菊が周囲に気を巡らすと、その間にギンは背を向けた。乱菊は唇を更に噛みしめ、その背にある三の字にきつい眼差しを送る。
「はい……市丸隊長。失礼致します」
 乱菊は深くお辞儀をした。視界からギンの姿を消すように深くふかく頭を下げ、そしてそのまま硬く眼を閉じる。長い髪がさらさらと背中から流れて落ちた。

 ギンは振り返らず、ただその微かな音を聞いた。そして俯くと、振り切るように瞬歩でその場から離れる。


 顔を上げた乱菊は、その姿が掻き消えるのを見た。そしてその行方を眼で追って、大きく溜息をつく。ここ一月ほど、消しても消しても沸き上がる不安を抑えこむように、乱菊はただ両腕で自分を抱える。
 上を見ると、空は青く澄み渡っていた。




 暗い予感も重い現実も全てを嘘だと言わんばかりの空が、高く深くそこにあった。




 けれど、遠く遠く向こうから。




 遙か雲の向こうで鳴り響く遠雷の震えは微かに、しかし確かに肌を揺らしている。
 気付かない程に微かなそれは、確かに大気を震わせ肌を震わせ、嵐の到来を告げているのに。

 今はまだ、空は青く澄み渡っている。







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