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雲の向こうの遠雷が呟きさえも掻き消すから 6-2
宵闇を押しやるように明るい執務室で、瞬間だけ藍染の気配を感じてギンはちらりと窓の外を見た。そして諦めたように息を吐き、薄く笑う。 「イヅル、もうこれで終わりにしぃひん?」 ひょいと隣の机に顔を向けると、吉良が眉を寄せてギンを見ている。ギンが可愛らしく小首を傾げてみせると、吉良は大きな溜息をついた。 「イヅル? あかんやろか」 「だめと申し上げても、もうやる気がないんですよね。そうなんですよね」 肩を落としてイヅルはもう一度、溜息をつく。薄い金色の髪が揺れてイヅルの物憂げな顔を隠した。 「構いません。明日の午前中のうちに提出しなければならないものは全て終えられてますし……隊長、聞いてます?」 「聞いとる聞いとる」 すでに机から離れて窓枠に腰掛けていたギンは、ひらひらと右手を振ってみせる。 「明日の午後までのもんは、午前の間に終わるやろ。問題あらへんよ。せやから、イヅル、君ももう休み? 地獄蝶来てからぼんやりしとるよ」 イヅルが顔を上げ、申し訳なさそうに俯いた。 「すみません」 「ええよ。ちょいと驚く内容やったしなあ」 ギンは外にちらりと視線をやり、再びイヅルを見る。イヅルは苦笑して、目の前の書類を片付け始めた。 「いえ、僕は朽木さんとそんなに親しいわけでもないし、驚きはしましたが……むしろ、阿散井君が、……気の毒で」 書類の端を机上でそろえて未処理の箱に入れるイヅルの仕草は几帳面で、自分の言葉を整理しているようで、ギンはその様子を薄笑いで眺めている。 「もちろん、朽木さんのことも心配ですが……、すみません。ちょっと気になっていまして、ぼんやりしてしまっていました」 そう言ってイヅルは真面目な表情をしてギンを振り返る。ギンはへらりと人当たりの良い笑みを浮かべる。 「ええよええよ。仕方あらへん。そういうもんや。今夜はもう終わりにし? 阿散井君のところにでも行ってみたらええやないの」 「ありがとうございます。そうします」 イヅルはほっとした顔になり、深く頭を下げた。さらさらと金色の髪が揺れる様を見て、ギンは色が違うと感じる。もっと濃く、本当に太陽の光を写し取ったような、闇の中でも暖かく光る山吹色の髪。そこまで思い浮かべて、振り切るようにギンは小さく笑った。 その笑みを見て、イヅルは力の抜けた顔になって、 「本当にありがとうございます。また明日も頑張ります」 と言った。ギンはただ頷く。 そして窓枠から半身を出して、 「ほな、戸締まりはよろしゅう頼むな……おやすみ、イヅル」 と笑った。イヅルが普段のように窓からの出入りを止めようと手を伸ばすのを目の端に捉えながら、ギンはふわりと屋根まで跳び上がる。瞬間、二人分の気配がして、次の瞬間には宵闇に消える。ギンはその行方を眼で追って、大きく溜息をついた。空を見上げると、月のない空だった。刻一刻と深くなる闇を照らすには星の光はあまりに弱く、街の明かりはただ地面に影を作るだけだ。ギンは空を見上げたまま気配を完全に消した。 足の下の方で、窓の閉じられる音がした。 ぱたん、と軽い音を聞いて、ギンはひっそりと笑った。そしてその笑みをも消すと、さきほどの気配を追ってその姿を消した。
中央地下議事堂の前は少し広く見通しよくなっていて、そこには見張りの死神が数人、通りに目を光らせている。それを遙か上の屋根から見下ろして、ギンの口元は嘲笑の形をとった。 「入り口を見張ったところで、どこからでも入れるというのにね」 ギンの背後で藍染が笑みを含んだ声で言った。ギンは振り返らずにただ地下議事堂の建物を眺める。 「藍染隊長、どう侵入するおつもりですか」 東仙が静かな声で尋ねた。藍染が小さく笑い声をあげる。 「まあ、建物を壊さずに入らないとならないからね。下の彼らには幻を見てもらうことにして、正面から入っていこう。何、今回の朽木ルキアの件について意見があると言って、内側から開けてもらうよ。扉も壁も壊すわけにはいかないからね」 「四十六室は開けるでしょうか」 慎重に東仙は尋ねる。 「開けるよ。これまでの長い間、僕がどうしてあれほどまでに人望の厚い隊長をしてきたと思う。四十六室とも非常に良好にやってきたし、これまで起きた幾つかの事件でも、僕はこうして個人的に意見をするために中に入ったことがある。僕らがここに入った記録は、門番さえ見ていなければ、中の議事堂にしか残らない。そして門番が見るのは幻だ。誰も気づくことはない。問題はないよ」 説明する藍染の声は柔らかで穏やかで、これがこれから人を殺しに行く者の声かとギンは思う。 普段は帯刀を許されていない斬魄刀を腰に差し、堂々と隊長羽織を翻して三人は屋根の上にいた。完全に気配を消し霊圧を押し殺し、白い羽織ですら人に気付かれないほどに存在は闇に溶けている。 ギンは、灯りを持って周囲を警戒する見張り達を眺めている。 「見張りは何人くらいいるんだい? ギン」 藍染に訊かれ、ギンはひいふうみいと数え出す。 「ええと、入り口前に二人、周囲を歩いて見張っとるのが四人ですわ……藍染隊長、幻見せるて言うてはるけど、彼らに鏡花水月の解放いつ見せはったんですか。彼ら、隊にも所属しとらん下っ端やないの」 「いやだな、ギン。今更なにを言っているんだ」 笑う声にギンは振り向いた。 藍染が酷く冷ややかな笑みを浮かべていた。 「尸魂界で何かある度に、僕がわざわざ斬魄刀を使って戦ってきているのはこの日のためじゃないか。まあ、あまりに雑魚のときは面倒だから素手だったけどね」 ゆっくりと藍染は歩みより、ギンの横を通り過ぎて屋根の端に立った。 「副隊長には必ず見せておく為に、彼らを集めてまで披露したしね。ああ、下の彼らにも見せてあるな。おそらく僕は全ての死神に見せてあるはずだよ」 眼下を冷ややかに見下ろして藍染は小さく笑う。その背後でギンと東仙は互いに顔を見合わせた。東仙はまるで眼が見えているかのようにギンの気配を読んで、同じように苦笑する。 「大雑把やねえ、相変わらず」 ギンが小声で東仙に囁く。東仙が困ったように笑った。 「まあ、藍染隊長は何故か運命を手繰り寄せる力がおありだから」 「そうやけどな。それ、要するに行き当たりばったりいうことやないの」 東仙の言葉に、ギンは呆れた顔で呟く。それを否定せずに、東仙はまあまあとギンを宥めた。 「それでも、長い慎重な準備期間を経て、結局ここまでこうして来ている。それはつまり、世界が藍染隊長を選んだということではないだろうか。少なくとも私はそう感じるし、世界はこのまま爛熟して腐るより、自らを斬り付けてでも膿を出して正しい姿になることを選んだのだと思っているよ」 「そうかもしれんけどなあ」 ギンはこっそりと息を吐く。東仙は穏やかな表情でギンに微笑み、そして藍染の方に体を向けた。ギンもまた、つられるように藍染の背中を眺める。藍染は自信に満ちあふれた背をこちらに向けて、眼下を眺めている。ギンは、東仙の言うことを否定しなかった。世界は、少なくとも死神達は確かに爛熟し、その熟れきった様相はこれから腐り始めることを示しているだろうと思えた。そこに発展はなく、ただ倦怠が重苦しく漂っている。それを打破することが藍染の目的ならば、ギンも少しは違ったかもしれない。乱菊を遠ざけるようなことはせず、むしろこちら側に呼び寄せようとしたかもしれない。しかし。ギンは目の前の五の字を無表情に眺める。最初にこの字を眼にしたときの悪寒は、未だにギンの中から消えなかった。違う。何か違う。この恐怖に似た感覚は、ギンに警鐘を今でも鳴らしている。 「全く、何も問題はない」 風が吹いて、藍染の背の五の字が揺れる。それをギンは無表情で眺めていた。そしてギンは暗い空を見上げた。星が瞬く空は暗く、ギンは今夜が新月で良かったと思う。太陽の光を受けて輝く月に、これから起こす血塗れの惨劇を照らされずにすんで良かったと思う。 「……人を殺すのはずいぶんと久しぶりだな」 低い声で藍染は囁き、肩越しに二人を振り向いた。仄暗い眼がギンと東仙を捉える。 「東仙。戦う術を持たない弱い賢者達を手に掛けるのは気が進まないだろうが、これも世界の変革のために必要なことだ。ただの殺戮ではないことを忘れてはいけないよ」 東仙は明確に頷く。 「判っています。私はこの道を進む覚悟を決めています」 藍染は満足げに頷く。そしてギンに眼を向けて、 「ギン……君もまた、久しぶりかな?」 と酷薄な笑みを口の端に浮かべた。ギンは何も答えずに、ただ笑ってみせる。藍染はそれを細めた眼で見やる。 そしてこちらに体ごと振り向くと、藍染は二人を見渡した。 「さあ、では確認をしておこうか。これから僕は鏡花水月を解放する。まずはこの入り口の常態の幻を下の彼らにかけ、中央地下議事堂へ向かう。そして四十六室を殺害して、実権を握る。その後は中央地下議事堂全体に鏡花水月をかけて、彼らが生きて会議を続けている状態、という幻をかけておく……まあ、僕らが消えるまでに議事堂に入る者は僕ら以外にはいないだろうがね」 ここで藍染は言葉を切り、ちらりと議事堂に視線をやった。 「僕らの書いたシナリオ通りに、事が進むようになるよ」 その横顔を見て、ギンは笑みを浮かべずにはいられなかった。わずかに口の端が持ち上がり、ギンは薄く笑う。藍染が視線を戻し、それを見て眼を細めた。 「……まずは朝一番で朽木ルキアの捕縛命令を出さないとね。十三番隊に命令するのは得策ではないから……彼女に固執している朽木白哉と阿散井君がいいだろう。彼らなら必ず、朽木ルキアを捕まえてくれる」 その言葉を聞きながら、ギンは声を上げて笑いたい衝動にかられた。腹の底から乾ききった可笑しさが込み上げてくる。ギンはそれを、ただ笑みを浮かべることで堪えていた。 夜の闇がギンを覆った。遠いとおい過去の風景も、その中で微笑みかける少女の姿も、ギンの中で闇に隠される。
誰もが想像もしなかった殺戮が始まる。
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