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雲の向こうの遠雷が呟きさえも掻き消すから x-2
残りの地区を廻ってくるというテッサイと別れ、ギンはしばらく走っていた。すでに日は落ち、空は群青から色を深めていた。やがて地区境が見えてくると、ゆっくりと霊圧を落としていき、やがて完全に霊圧を消すと、ギンは踵を返してこれまで来た道を駆けだした。瞬歩を使って風のように走るギンの姿は、一瞬のうちにかなりの距離を移動して動いていった。 先程の森に飛び込むと、ギンは表情を険しくして足を止めた。そして音も立てずに木陰を移動していった。既に死覇装に着替えていたギンは殆ど闇にとけ込んでいた。上を見上げても、厚い木々の葉に遮られて星の光も届かなかった。暗闇をギンは進んでいた。 向こうに火の明かりがちらちらと瞬いていた。 ギンは更に息をひそめた。気配も、霊圧も完全に消し、闇のようにギンは灯りに近づいた。人の気配がした。声もはっきりと聞こえ始めた。 「明日の朝のうちにここを出ていきましょう」 先程の老女の声がした。その声に答えるように、しゃがれた老人の声がした。 「うむ。今度はもう少し集落の傍に住むことにしようじゃないか。人に紛れていた方が良いのかもしれぬ」 「そうですね。姫様もお許し下さるでしょう」 二人は古い小屋の前で、桟に吊してある果物を取り外しては袋に入れていた。もうずいぶんな年寄りの姿をしていたが、先程は感じられなかった微かな霊圧がギンの肌に触れていた。身のこなしも軽やかだった。ギンはその二人の姿を幹の影から覗き見て、小さく笑った。微笑み合いながら体を動かしている二人の姿を、ギンはもう完全に思い出していた。 もう数十年も前、四楓院家の私的な庭に彼らはいた。
あの日、四楓院家の庭では花見が催されていた。護廷十三隊の隊長はそれぞれ招待されていたが、藍染は急用でやむなく欠席することとなり、そのとき既に副隊長となっていたギンは詫びの品を持って四楓院家を訪れていた。その帰り、広い敷地内をぶらぶらと歩いていたギンはいつのまにか裏庭に入り込み、そこで庭の手入れをする老夫婦を見かけた。二人は穏やかに笑いあいながら、手を休めることなく働いていた。それは朗らかで、のどかな光景だった。 庭木の影から彼らを見ていたギンは、道を教えてもらおうと声をかけようとした。しかし、その前に背後に人の気配を感じて振り返った。 「どうなさいましたか」 きれいな身なりの男が立っていた。 「綺麗な庭やなあ思うて歩いとったら、道に迷いましてなあ。怪しい者やありまへん」 ギンが笑ってそう言うと、その男は慇懃に笑みをみせた。 「承知しております。五番隊副隊長、市丸ギン殿でございますな。こちらは一族の私的な庭でございますゆえ、皆様ご存じありません。御迷いになるのも仕方ないことでございます。どうぞこちらへ。ご案内致します」 「よろしゅう頼みますわ」 そう頭を下げて、ギンは木々の向こうの気配が消えていることに気がついた。ギンの、きょとんとした顔に気づいたのか、男が問うような眼差しを向けた。ギンが誤魔化すように笑い、 「向こうにいはった人の気配が消えてしもうたねえ。あんさんが声かけてくれはる前に、道、尋ねよ思うておったんやけど」 と言った。男はわずかに苦笑した。 「私が参りましてようございました。彼らは市丸殿と言葉を交わすことを許されておりませんので」 「どうしてやろか」 「そのような身分ではございません。しがない庭師の夫婦でございます」 男はただ丁寧に、至極当然といった口振りでそう言った。
ギンの目の前で、老夫婦は干した果物を一つ一つ、丁寧に布にくるんでは袋にしまっていた。その仕草は記憶と全く変わらず、ギンは苦笑した。あの日、夫婦を見かけた、それだけだったなら、記憶には残らなかった。ただあの道案内をした男の言葉があまりに冷ややかで、ギンは胸の内ではっきりと「何てけったいな家なんやろ」と思った。夜一への印象とあまりにも異なるあの体験が、この記憶をギンの脳裏に焼き付けていた。 「こういうことも、あるんやねえ」 口の中で呟き、ギンは眉を寄せた。自分の巡り合わせに、ギンはただ一つ、小さく溜息をついた。
四楓院家に勤めていた者が流魂街で、しかもこのような最果ての地で暮らしているはずはなかった。 仮に何かの罪を犯して流されたのだとしても、四楓院家に勤めていた者が握菱テッサイを見知らぬはずはなかった。浦原と夜一は身分の差はあれど幼馴染みだ。テッサイは浦原に、彼が幼い頃から仕えていたはずだった。あの夫婦があまりに身分が低いために彼らを見知ることがなかったと考えられなくもないが、それはあまりに可能性が低かった。夜一は身分の差で人を区別したりはしなかった。 更に。ギンは、夫婦から目を離さずに考え続けた。 老女の方が「姫様」と言った。「姫様もお許し下さる」だろうと。こんな地で姫と呼ばれるような立場の者と繋がりがあることは、普通はあり得なかったし、四楓院家にいた夫婦が「姫様」と呼ぶのはただ一人、四楓院夜一しかいなかった。 四楓院家に仕えていた者が流魂街の危険な地区にいること。 夜一と思われる、身分の高い人間に何か指示されているらしいこと。 おそらく顔見知りであるはずのテッサイと、互いにそんな素振りを見せなかったこと。 テッサイがわざわざ「移動しろ」と言ったこと。 ギンはテッサイがここに戻ってきてないと読んでいた。そんなあからさまな行動を彼がとるはずがなかった。だからこそテッサイは、あの場で「移動しろ」と告げたのだ。ここにテッサイがいないことが、ギンの考えを確かにしていた。 「……何やら、隠しとるうんやろうねえ」 再び溜息混じりに呟き、ギンは自分が眉間に皺を寄せていたことに気づいた。あえて笑ってみるが、それも苦笑としかいいようのない歪んだものだった。
茂みの向こうの夫婦は、黙々と真面目に荷造りをしていた。長年連れ添ってきた二人だということが傍目にもわかる動きで、一切の無駄なく二人は全ての乾燥果物をしまい終えた。そして二人、顔を見合わせて微笑んだ。 ギンはどこか痛みを感じて、拳を握りしめた。その痛みがどこか、羨望と、それが手に入らないことを知っている諦念、その両方を含んでいることをギンは知っていた。俯くと、ギンの眼には身にまとっている烏色の装束が映った。この装束に腕を通すと決めたときから、もうあの光景へと進む道からギンは、ギンと乱菊は外れたのだった。自分の進んでいる道の行方を知るのは、いつも引き返せない分かれ道を通り過ぎた後でしかない。夕闇に沈む目の前の光景を、ギンは顔を上げ、眼を細めて眺めていた。 夫婦は袋を手に取ると、辺りを見回し始めた。そして溜息をつくと、老女の方が、 「どこまで行ってしまわれたのでしょうねえ」 と呟いた。それに老人の方が頷いた。 「暗くなるまでには帰ってくるように、申し上げているのになあ」 「そうですよねえ」 二人は探しに行くかどうかを相談していた。もう一人、誰かいるのかとギンは更に身をひそめた。そのときに、遠くから無防備な霊圧が近づいてきたのをギンは感じた。それはまだ不安定だったが、明らかに夫婦よりも強い霊圧だった。 夫婦も感じ取ったのか、ギンとは反対側の茂みに目をやった。茂みが揺れた。 「じじさまー、ばばさまー。ただいまもどりましたっ」 茂みから快活な声とともに、幼女が飛び出してきた。体は小さく、細く、不釣り合いに大きな頭。髪は黒髪で闇に溶けるようだったが、肌は闇を拒むかのように白かった。大きな吊り目が夫婦を見上げ、笑みの形をとった。 幼女は腕の中に抱えた籠を夫婦に見せようと籠を前に突き出すようにして走り寄った。 「みてくださいっ。ほら、こんなにとれたんですよ」 「ほう、これは沢山採れましたなあ」 老人が屈んで籠を覗き込み、幼女に笑いかけた。老女もまた同様にした 「でも、ルキア。日が暮れるまえに戻るよう、婆はいつも申しておりますよね」 老女が優しげな声で窘めると、ルキアと呼ばれた幼女は小さな身体を更に小さくして項垂れた。 「すみませぬ……ほんとにたくさんころがっていたので、つい」 「まあまあ、無事に戻ってきたのですから、もう良いですぞ。もう、ほろ……いえ、あの妙な鳴き声の獣も退治されたようですしなあ」 老人が慰めるように少女の頭を撫でた。老女も、 「さあ、ルキア。よろしいのですよ。婆は怒っているわけではありませんからね。夕餉にしましょう。お腹が空いたでしょう?」 と少女の背を撫でた。少女は顔を上げ、大きく頷いた。 「明日は居を移しますから、今夜は早く休みましょう」 「なにかあったのですか?」 「まだ獣が他にいるやもしれぬそうで、危ないからここを離れるよう退治して下さった方々が仰ったのですよ」 「だいじょうぶですよ、ばばさま。そんなけものがきたら、このあいだみたいに、またわたしがやっつけてさしあげますっ」 「ふふふ、ルキアは強くなりましたものねえ」 じっと身動ぎもせずに見ていたギンは、三人の柔らかな会話を背にすると、音も立てずに離れた。そして完全に気配が遠のいたところで、走り出した。後ろを振り返らずに全力で走り、やがて霊圧を消すことをやめ、瞬歩で更に速く走った。森は瞬間的に遠ざかり、地平線の向こうに消えた。
肺が張り裂けそうに空気を欲し、心臓がこれ以上は動けないというところまで鼓動を速くしたところでギンは立ち止まった。周囲の草が風圧で揺れた。 ギンは空を見上げた。満月が天頂に近づこうと南東の空を昇っていた。見上げたまま、ギンの体は膝をつくようにして崩れ落ちた。だらりと落ちた腕の先で、手が肌に触れた草を握りしめた。 「あの子やな……浦原さん」 虚空に向かってギンは呟いた。 「あないな子に入れよったな。剥き出しにしとるわけあらへん。婆さんでも爺さんでもあらへん。何も知らんままでおる小さい子に崩玉入れたやろ。なあ、浦原さん。そうやろ……そうやな」 手がぶちぶちと草を引きちぎった。青い匂いが立ち上り、風が全くないからただ真上にあがりギンの鼻孔をくすぐった。ギンは草から手を離し、そしてまた握りしめた。 「誰も、何も知らん。それ知っとったら、爺さんらはあの子を一人にしぃひん。誰も知らん。あの子ん中に何あるか、誰も知らん。何も言わんまま、あんな重いもん任せよったな。あんな爺さんと、婆さんに。あんな子に」 ギンは眼を細めて月を見ていた。満ちた月はあますところなく開けた草原を照らしていた。冷たい光がギンに降りそそぎ、ギンの髪は更に冷たく輝いた。 「……外道やなあ。そらそうや。外道に対抗しよ思うたら、外道になるしかあらへんよなあ。皆、みぃんな、外道や。浦原さんも、藍染隊長も……ボクも…………いややなあ。とうに道から外れておったのに、そないなこと知っとったんに、なんで」 月は明るく、大きかった。過去を月光に照らし出されたように、ギンははっきりと遠い昔の、幼い姿の乱菊を思い出した。ぼろぼろの小屋の前で、乱菊は干してあった柿を一つ一つ丁寧に籠に入れていた。そしてギンに向かって笑いかけた。確かに、笑いかけていた。 あのままでいられたら、あの老夫婦のようになったのか。 あのままでいられたのなら、二人で共に朽ち果てられたのか。 そう問いかけている自分に気づき、ギンは小さく笑った。 「いややなあ。そないなこと、無理やてわかってたやないの」 ギンは笑い続けた。乾いた声で笑い続けた。 月が天頂を下り始めるまで、ギンは冷ややかな月光に照らされて笑っていた。
戻ってきたギンの報告を聞いたとき、藍染は目を光らせた。 「ほう、握菱がいたのか」 「目新しいもん何もありませんでしたけどな。ボク、見てまわりましてん」 藍染の前で、ギンはテッサイが採集して廻っていたという地区を全て調べてきたことを詳しく伝えたが、戌吊での出来事だけは黙っていた。藍染は椅子に深く腰掛け、両手を膝の上で組み合わせて聞いていたが、ギンが話し終えると大きく息を吐いた。 「結局、何もなし……か。彼らも慎重だな」 「握菱さんはあちらこちら行きはるから、どこに何かあってもよう判らへんわ。とりあえず今回は、握菱さんが言うたところ見てきてんけどなあ」 ギンは薄く笑いながら、そう言って口を閉ざした。藍染は眼を伏せて考え込んでいるようで、ギンの様子には気を止めていないようだった。ギンは薄くうすく笑った。これ以上、何も言わなかった。
それから先も、ギンは何も言わなかった。何も言わず、戌吊へ行くこともなかった。ただ、あの夜から百年以上経って、ルキアが白哉の義妹として彼に連れられて目の前に現れたとき、ギンはやはり薄くうすく笑った。 それだけだった。
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