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雲の向こうの遠雷が呟きさえも掻き消すから x-1
ギンがルキアの存在を知ったのは、もう百年以上も前のことだ。
藍染はずっと、虚の死神化について研究を続けていた。それより前に浦原は、虚の死神化、死神の虚化の双方向の変化を可能にする物質を造り出すことに成功していた。藍染は浦原のその研究に協力していたから、その顛末をギンも東仙も藍染から聞いていた。 浦原は、その物質を破壊したということだった。 「それは、本当のことでしょうか」 静かにそう問う東仙に対し、藍染は酷薄な笑みを浮かべて突き放すように、 「言ってはいたけどね…………はは、下手な嘘だよ」 と言った。 ギンは薄ら笑いを浮かべて、 「藍染隊長、失敗しはるなんて、珍しいわあ」 と言った。藍染は全く笑わない眼でギンを見やり、 「仕方ないさ。あの研究はあまりに高度すぎて手を出せなかったんだよ。さすがの僕でもね」 と口元だけ笑みの形をとって言ったのだった。 それ以来、藍染は自分の研究を影で続け、更に、浦原が崩玉を隠すだろうと思われる場所、人物などをひっそりと、けれど虱潰しに探し始めた。浦原自身はもちろん、関わりの深い人物を徹底的に調べた。ギンも東仙もまた、藍染の命じたままに秘密裏に調査をしていた。 そんな日々が続いてもう数十年という頃だった。
全くの偶然だった。 急の代役でギンは、虚討伐担当として南流魂街にいた。 そもそも護廷十三隊に所属する死神は流魂街の情勢や管理には殆ど関わることがない。ただ虚が出現したときに対応できるのは死神だけであるから、十三隊は持ち回りで流魂街での虚退治を担当していた。虚の出現や空間の歪みなどを調査するのは刑軍が行い、そのような事態が確認されて初めて、そのときの担当の隊に所属する死神が流魂街へと出ていくことになる。その日、南流魂街に虚が出現したという報告を受けたのは六番隊だった。しかし、その虚に対処できるだけの力を持った隊員が皆、不在とのことで、急遽、隣の五番隊がその任務を受けることとなった。
「白哉さんはどないしはったん」 藍染の指示を受けた後、ギンは首を傾げてそう尋ねた。 「現世での虚の大群を相手にしているとのことだよ。そちらの状況によっては隊長も出ていかなければならないからね。彼も席を外せないらしいんだ。そして虚の力だけど……隊長・副隊長級を寄越すように斥候が報告してきたそうだ」 窓際の椅子にゆったりと座って藍染は説明した。陽射しが眩しいのか、眼を細めて外を眺めていた。 「まあ、僕らは今、そんな忙しくはないし。どうせ君は書類仕事より外でぶらぶらする方が性に合っているだろうから引き受けてきた。頼んだよ」 「なんや、ひどう言われとるなあ、ボク」 へらりと笑い、ギンは斬魄刀を腰に差した。藍染は振り返りもせずに、 「実際にそうじゃないか。書類仕事は僕が片付けておくよ。ああ、あと、ギン、君、一人で十分だよね、副隊長だし。他の隊員達は別の仕事をしてもらいたいから」 と言った。見えていないと判っていても、ギンはひらひらと手を振った。 「ええです、ええですわ。ボク一人で十分です。他のお人らは書類仕事が性に合うているさかい」 「まあ、そういうことだね。よろしく頼むよ」 そこで藍染はギンを振り向いた。ゆったりと立ち上がり、柔らかく微笑む藍染は、どこから見ても人の良い真面目な隊長そのものだった。ギンは眼を細め、逆光で影になっている藍染を見た。 「どうした、ギン」 「面倒やなあ、思うただけですわ。ほな、いってきます……どこの地区ですのん」 「ああ、言ってなかったね」 藍染が微笑んで口を開いた。 「戌吊の付近らしいよ」 「そら、また。移動で数日かかるやないの。瞬歩使うても」 ギンは大きく溜息をついた。
実際に、息切れするまで瞬歩を使い続けて移動しても戌吊に着くのに三日かかった。死覇装から少し擦り切れた着物に袖を通したギンは、戌吊をゆっくりと見渡した。ギンが幼い頃に暮らしていた場所とは違い、戌吊は緑が多く、色彩が豊かだった。森が広く大地を覆い、川がその間を流れている。森が開けた場所には民家が立ち並ぶのが見えた。地区番号が大きいだけあって、擦れ違う大人の目は暗く澱んでいるものが多かったが、少なくとも自分が暮らしていた場所よりは悲壮感がないとギンは思った。 「食べ物はそこそこありそうやねえ。南にあるからやろか」 丘をゆっくりと降りながら、ギンは空を見上げた。青い空を鳶が悠々と飛んでいる。その影がギンの上をかすめた。 「虚退治、面倒やなあ。このまま一眠りしたいわあ」 小さく呟いてギンは森へ足を踏み入れた。虚出現の地点はこの森の中にあるはずだったが、しばらく歩いても空間の歪みは感じられず、ギンは焦れた。森の中は薄暗いが、ところどころ葉の厚い重なりの隙間から光が射し込んでいた。そこは奇跡のように明るく、光に照らされた地面には陽性の植物が花開いていた。その前に蹲り、膝を抱えてギンはそれを眺めた。 「……面倒やなあ」 ギンは大きく溜息をついた。 そのときだった。 いきなり遙か前方で空間が歪む音がした。同時に、虚ではない、死神の霊圧が弾けた。反射的にギンは顔を上げ、瞬歩で走り出した。走りながら刀を抜き、霊圧で煙ったようになっている空間に飛び込んだ。 猿を巨大にしたような姿をした虚を、男が拳で殴り倒すのがギンの眼に映った。虚はまだ空間の裂け目から体を半分ほど出したところで、男に殴られた反動でずるりと裂け目から地面に落ちた。男が脚を引き、同じ側の腕を引いて再び殴る体勢になった瞬間に、ギンは間に飛び込んで地面でまだ転がったままの虚に刀を突き立てた。ギンの重みと勢いで刀は柄まで虚にめり込んだ。 声ともつかない嫌な音が虚の口のような穴から漏れた。 同時に、 「おや、市丸殿」 と背後で男が言った。状況に似つかわしくない、呑気な声だった。 ギンの体の下で虚が空気に溶けるように消えた。煙のように形を崩し、ギンの手から感触が消えた。ギンは立ち上がり、刀を鞘に収めて振り返った。 浦原喜助の部下、握菱テッサイがそこにいた。 「握菱さんやないの。どないしはったん」 「いやいや、虚が出現したので殴っていたのですがね」 「そら見て判りますわ」 ギンが笑うと、テッサイもまた笑い、地面に落ちている籠を取り上げた。覗き込むと、テッサイはよく見えるようにギンに差し出して見せた。籠の中は植物の実や葉で満杯になっていた。 「いえ、植物採集に来ていたのでございますよ。ご覧になりますか。こちらが」 「いや、ええですわ。珍しい草やいうのは見て判るさかい。いつも大変ですなあ、あっちゃこっちゃによう出かけて」 植物の説明を始めようとするテッサイを手で止めて、ギンはテッサイを労った。テッサイは技術局に所属しているわけではなかったが、浦原喜助の忠実な部下であるからか、よく動植物の採集に出ていた。浦原から崩玉を壊したと告げられた藍染は、最初、テッサイの行く先々に崩玉が隠してあると疑っていたから、掴趾追雀で行方を追ったことも多くあった。しかし、結局何も得られず、このころの藍染の疑いの矛先は浦原や夜一の縁者へと向けられていた。 テッサイは表情の読めない顔でギンを眺めていた。そして、 「市丸殿はどうなされたのですか。虚退治の持ち回りは、今は五番隊でしたでしょうか」 と首を傾げた。ギンは苦笑してみせた。 「六番隊さんの代理なんですわ。ボクがよう仕事しぃひんさかい、藍染隊長に追い出されてん」 「それはそれは、ご苦労ですな」 「ですやろ。ここに握菱さんがいらはるなら、ボク来ることあらへんかったなあ」 「私はここ数日ずっと各地を点々としておりましたから、虚の出現情報を知りませんでした。申し訳ない」 そう言って軽く頭を下げるテッサイの足下には、巨大な袋が置かれていた。それに目を向けると、ギンの視線に気づいたのかテッサイがそれの口を開けて見せた。その中もまた、植物でいっぱいになっていた。草の青い匂いが袋の口から放出された。 「十日ほど、ずっと採集の旅をしておりますよ」 テッサイはそう言って、幾つかの地名を口にした。それを聞いてギンは呆れた顔をした。 「なんや、人使い荒いなあ。えらい広い範囲やないの」 「この辺りになると力の弱い死神では危のうございますからな。私くらいしか適任がおりませんよ。まあ、あと二カ所ほど廻ったら瀞霊廷に戻る予定です」 相変わらず、真意の読みにくい笑みでテッサイは笑い、その巨大な袋を斜めがけに背に背負った。がさがさと乱雑な音がした。 「ボク、浦原さんの部下やのうて良かったですわ」 テッサイが採集だけでなく、書類仕事から研究の助手、掃除洗濯炊事に至るまで、浦原の周辺の仕事全てをこなしていることを知っていたギンは感心してそう言った。テッサイは明るい声で笑った。 「ははは。私はもう数百年もこのようなことを繰り返しておりますゆえ、もう慣れてしまいましたが」 「慣れとうないなあ」 「そうでございますか」 二人で笑い合ったとき、茂みの向こうから人の気配が近づいてきていることにギンは気づいた。テッサイを見上げると、彼もまた気づいたのかギンに頷いた。事前に与えられていた情報では、虚の出現地点の周辺には集落はないはずだった。ここはまだ空間が不安定であるはずで、だから人が来るようならば近づかないように注意しなければならなかった。 二人でその方向を見ていると、やがて茂みの奥から一人の老女が現れた。質素な身なりだが品が良く、こちらを見て驚いた表情を浮かべたが、狼狽えることもなくすぐに姿勢を正した。 「どうなされましたかな、ご婦人」 テッサイが優しげな声で問いかけた。ご婦人は軽く首を傾げて、そして微笑んだ。 「いえ、私はこの辺りに暮らしている者でございますが、ここ最近、妙な鳴き声のようなものが聞こえましてね、先程も何か呻き声のような声が聞こえたので、様子を見に参ったのでございますよ」 ゆったりとした口調で、柔らかく老女は説明した。その笑みを浮かべた顔を見て、ギンは首を傾げた。 「そうでございましたか。もし不都合がなかったら、ここから少し離れた場所に居を移された方がよろしいかと」 テッサイがそう言うと、老女は首を傾げた。 「なにゆえでございましょうか」 ギンとテッサイが横目で目を合わせた。ギンが小声で、 「……虚云々て話した方がええんやろか」 と尋ねた。テッサイは、小さく首を横に振った。 ギンはちらりと老女を見た。老女はギンと目が合うと、先程のような笑みを浮かべた。その笑みが頭の奥でちらりとかすめて、ギンは瞬きをした。 「最近、この付近で珍しい獣が出るとの評判です」 テッサイが腕を組んで慎重に話し始めた。老女が顔をそちらに向けて微笑んだ。今度は既視感に加えて違和感も感じ、ギンは無言で瞬きを繰り返した。 「私共はそれの確認と、見つけた場合は退治することを使命としてこちらに参った死神でございます。先程、見つけた獣は退治いたしましたが、他にもまだ残りがいるかもしれません。それゆえ、できるだけ早く居を移されるよう、お願い致します」 「まあ、死神様でございますか」 老女は小さく驚いて、深々とお辞儀をした。その所作も上品で、ギンの中の違和感はますます大きくなった。 「それはそれは、ご苦労様でございます。仰るとおり、明日にでもこちらを離れるように致します」 顔を上げると、老女はゆったりと微笑んだ。ギンは瞼の裏にひらめく霞んだ映像を無視して、老女に笑いかけた。 「お手間かけさせてしもうて、すんませんなあ」 「いえいえ、こちらこそありがとうございました」 老女は何度も頭を下げて、再び茂みの奥へ消えていった。その小さな背中を見送って、ギンとテッサイは顔を見合わせた。 「ここらでは珍しい、上品な婆さんでしたなあ」 ギンが笑ってそう言うと、テッサイも頷いた。 「現世ではどこぞの奥様などだったのかもしれませんなあ。いやいや」 「しかしまあ、握菱さん、引っ越せまで言わはるんやねえ」 さらりと軽くかるく、ギンが横目でテッサイを見ながら言った。テッサイは何も窺えない表情で、 「しばらくの間は、いつ空間がひび割れてもおかしくないですからな。用心するに越したことはございませんでしょう」 と言った。その言葉に、ギンは笑って頷いた。そして、ゆっくりと、 「そうやねえ。用心せんと、何あるか判らへんもんなあ」 と呟いた。
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