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雲の向こうの遠雷が呟きさえも掻き消すから 3-2
隊首会から戻ってきた日番谷が最初に口にしたのは、ソファに転がって書類に決済印を押している乱菊への説教でもなく、机の上で半分以上減っている饅頭への文句でもなく、 「朽木ルキアが行方不明だそうだ。知っていたか?」 という言葉だった。 乱菊は顔を上げて背もたれ越しに日番谷に振り向くと、表情を変えずに、 「いいえ。いつから行方不明なんですか」 と聞き返した。日番谷は眉間の皺をそのままに、乱菊の向かいに座るとじろりと乱菊に視線を向ける。 「虎徹の妹あたりから聞いてたんじゃねえのか」 「……清音ではありませんね。そして詳細については全く知りません。隊長は、浮竹隊長からですか」 完璧に微笑んで乱菊がしれっと答えると、日番谷は横を向いて、舌を鳴らした。 「ちっ……やっぱり知ってたんじゃねえか。ああ、そうだ。隊首会のあとに浮竹から聞いた。とりあえず」 「お茶ですね。ちょっとお待ち下さい」 乱菊はそう言って微笑み、自分の湯飲みを手にとって給湯室へと向かった。背後で日番谷が再び小さく舌を鳴らすのが聞こえて、乱菊は笑う顔を見られないように後ろ手で開けた扉を閉めた。
広さ二畳ほどの給湯室で、乱菊は薬缶に水を入れて火に掛ける。そして急須の中に残っていた出涸らしの茶葉を綺麗に取り出して、それは脇に置いてある紙を敷いた浅いザルの上に広げた。そして急須を軽くゆすぎ、棚に置かれていた日番谷の湯飲みも軽くゆすぐ。自分の湯飲みは簡単に洗った。干してある布巾でそれぞれの水滴を拭い、そこで乱菊は初めてほうと息をついた。小さな音を立て始めた薬缶に目をやり、乱菊はもう一度、息をつく。 朽木ルキアのことが隊長格にまで知られるようになった。このことに乱菊は何か得体の知れない不安を感じている。それはあまりに漠然としていて、乱菊は、自分が不安を感じる理由が判らない。虫の報せ、というものは要するに経験からくるものであることが殆どだ。それなのに、乱菊はこの不安がどこからくるものなのか、全く掴めなかった。 考えられることとすれば、朽木ルキアが自ら行方不明になりそうな死神に見えない、ということくらいだろうか。乱菊は俯き加減で小さく笑うルキアの姿を思い出す。乱菊はルキアと深い関わりはない。顔を合わせたのも言葉を交わしたのも、数えるほどしかなかった。しかし、その中での印象ははっきりとしていて、朽木ルキアという死神は不器用なほどに真面目で、自分に厳しく、少しばかり自己を卑下しやすい傾向にある、と乱菊は見ていた。ああいった者が行方不明になるとしたら、何かに巻き込まれたとしか考えられない。その何か、を自分は不安に思っているのだろうか、と乱菊は考えて、そこで薬缶が湯の沸いたことを喧しく報せ始めた。思考を途中で打ち切り、乱菊は火を止めた。
湯飲みを乗せた盆を持って執務室に戻ると、日番谷は乱菊が寝転がっていたソファに腰掛けて書類を手にしていた。かなりの枚数が処理済みの箱に入れられている。日番谷は眼だけを乱菊に向けて、 「おう」 とだけ言った。乱菊は笑みだけで答え、日番谷の前に湯飲みを置く。柔らかい湯気と茶の香りが揺れて昇った。乱菊は自分の分を机に置いて、向かいの一人がけのソファに座る。 「で、だな」 日番谷が口を開いた。眼は伏せられて、書類の文字を追っている。乱菊は膝に両手を置いた。 「はい」 「浮竹から頼まれた。朽木ルキアの担当地区に隣接した十番隊の担当地区の奴に、それとなく情報を集めるように言ってくれ、ってよ」 「ということは、朽木ルキアの行方不明は確実で、しかしそれはまだ公にはされていない、ということですね」 乱菊の言葉に、日番谷は書類から目を上げると小さく頷く。そして乱暴に書類を机に置いた。 「朽木ルキアの居所が掴めないんだそうだ」 日番谷の声は普段よりわずかに低められていて、乱菊は眉をひそめた。 「あたしが聞いたのは、朽木と連絡がとれていないということだけだったんですけど……現世での死神の居所が掴めないだなんて、よほど酷い怪我か、体調を崩したことで霊圧が低くなっているくらいしか考えられないじゃないですか」 「だよな。なのに、朽木からは義骸の要請はなく、怪我をしたとの連絡もなく、そして担当地区である空座町ではこちらの情報通りに虚が片付けられているらしいぜ」 「なぜ、誰かを向かわせないんですか?」 そう言って、乱菊は片手を頬に当てて上を見上げた。俯き加減のルキアの姿をまた思い出し、乱菊は顔を振った。乱菊のその様子を日番谷は黙って眺めている。 「……表だって動けないわけですね。浮竹隊長は」 「そういうことらしい。浮竹らが不安に思っている理由はただ一つ、居所が掴めないのに朽木から連絡がないということだけ、なんだと。任期も延長させている手前、おおっぴらに探しにも行けねえだろうしな」 乱菊は苦笑する。 「それだけで朽木の様子を見に行ったら、確かに朽木にとっては更に居づらい雰囲気になるでしょうね」 呟くように乱菊は言った。数十年前、ルキアが入隊した頃に耳にした噂話が耳の奥に甦る。 日番谷は吐き捨てるように、くだらねえ、と言った。 「霊圧が捕捉できねえってだけで、探しに行くのには十分な理由じゃねえか。虚が片付けられているから構わねえだろうっていう奴らの方がおかしい。朽木の義妹が瀕死のままで戦ってたらどうするつもりなんだか」 「本当にそうなんですけどね。ただ、朽木の周囲は本当の理屈が通じない馬鹿も多いんですよ」 「……くだらねえな。本当に」 大きな眼を伏せて日番谷は呟く。長い睫の影が日番谷の淡い翠の瞳を濃くしている。眉間の皺が不愉快そうに深められた。 「まあ、仕方ねえから担当してる奴に伝えておけ。理由は何でもいい……そうだな、空座町付近で虚の動きが活発化しているようだから、お前も注意して様子を見ていろとでも言えばいいだろう」 「判りました。加えて、得られた情報の有無は問わず、マメに連絡を寄越すように伝えておきます」 頷くと乱菊は懐から伝令神器を取り出した。そしてアドレス帳から担当者を探し出すと、素早い親指の動きで伝令を打ち始める。 「副隊長から直接伝令がいくことは滅多にありませんから、驚くでしょうね」 苦笑しながら乱菊が言うと、日番谷は呆れた眼を乱菊の手元に向けた。 「俺はお前の打つ速さに驚いてるぞ」 「隊長は神器でのやり取りをあまりなさらないから、慣れてないんですよ。お友達が少ないんでしょう」 「お前は無駄に多そうだよな」 「そんなことありませんよ……よし、こんなもんか。ちょっとしたことのように書いておきましたので、詮索もされないでしょう」 打ち終えて送信ボタンを押し、乱菊は顔を上げた。日番谷が頷く。 「おう」 日番谷はソファに小さな身体を沈めると、大きく息をついた。乱菊は机上の書類を脇に寄せ、饅頭の盛られた器を日番谷の前に置く。日番谷が手を伸ばす。 「隊首会、お疲れ様でした」 「全くだ。いつも通り内容のねえ会だった。久々に浮竹が出席したせいで爺が張り切りやがって、えらく長引いたしな」 饅頭を頬張りながら日番谷は相変わらず不機嫌そうな顔をして話す。乱菊も饅頭を一つ手に取り、食べながら頷いた。 「そうだ、言っておくが、朽木ルキアの件はあまり口にするな」 口の中のものを飲み込んで、茶を一口飲んでから日番谷が言った。囓ったあとのある饅頭を持った手で日番谷は手振りをする。 「副隊長の連中は虎徹の妹や小椿あたりから聞いているんだろうけどな、詳しいことまでは知らないはずだ。この件を知っているのは、当事者の十三番隊、縁者である六番隊の朽木、あと空座町に担当地区が隣接している三番隊の市丸と八番隊の京楽、あと俺だけらしい」 「では、この件について情報交換が出来るのは、三番隊と八番隊ですね」 「そういうことだ。奴らも副隊長までには話すだろうから、吉良や伊勢にも聞いてみてくれ……阿散井はどうなんだ。朽木から何か聞かされているようか」 ルキアの話をしていた阿散井を思い出し、乱菊は苦く笑う。あの夜、阿散井は慣れた様子で自分のもどかしさを隠していた。その様子があまりに自分と重なって、乱菊は笑うしかない。 「どうでしょうか。朽木ルキアの行方不明については知っていたようですが、それを朽木隊長から聞いたのかどうかは、ちょっと……」 「そうか。まあ、六番隊自体は朽木ルキアとは無関係だしな、阿散井に報せることもねえか。阿散井も副隊長になったばかりで、朽木に慣れる方が先だろうしな」 そう言って日番谷は茶をずずと飲んだ。もう大分温くなっている茶は、仄かに湯気をたてるだけだ。乱菊は揺れる薄い湯気を眺め、そして目を上げた。 「確かにそうだとは思うのですが、もし阿散井が朽木隊長から話を聞いていないようでしたら、こちらから話してはいけませんか」 「なぜだ」 「阿散井は朽木ルキアの幼馴染みだそうです。朽木の元来の性格や嗜好にも詳しいでしょうし」 「お前がそう言う気持ちは判らないでもないが、だめだ」 乱菊の言葉を遮り、日番谷ははっきりとした声で言った。 「俺らは朽木の義妹を捜索するわけじゃねえ。そこまで知る必要はねえし、だからそれは阿散井にこの件を報せる理由にはならねえ。阿散井に報せるか否かは、奴の上司である朽木が判断することだ」 日番谷の淡い翠の眼を真っ直ぐに見つめた後、乱菊は蒼い眼を伏せた。日番谷の言っていることは尤もで、乱菊は何も言えずに口を閉ざす。 「だから」 溜息混じりに日番谷が、独り言のように言う。 「今度、俺が朽木に、阿散井に報せてみてはどうか言っておく。それでいいか」 乱菊は顔を上げた。日番谷は横を向いて、やけに不機嫌そうに腕を組んでソファの上で反り返っている。乱菊の口の端に笑みが浮かんだ。 「ありがとうございます。……さっすが隊長。あたしの自慢の隊長ですよ」 「……たりめーだ」 横を向いたまま、日番谷はふんと鼻を鳴らした。
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