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雲の向こうの遠雷が呟きさえも掻き消すから 2

 幾つかの外回りの仕事を片付けて、乱菊は隊舎に向かって街の通りを歩いていた。戻ればまだ仕事はあるが、終業までにかなり余裕で終わらせられる量だ。乱菊はちらちらと軒先で売られている団子や饅頭に視線を送る。歩き食いが日番谷にばれたら怒られるのは確実だが、いい匂いは湯気とともに通りに漂って乱菊を誘惑している。
 賑わう通りの端により、通りの向こう側にある店を凝視して乱菊は考え込んだ。そのとき、目の前に影が現れる。
「こんなところで何してるのさ」
 顔を上げると、飾り眉が揺れている。乱菊は鮮やかに笑った。
「なんだ、弓親じゃないの。あんたこそどうしたの」
「僕はお使いさ。今日のお茶請けを買い出しに」
 弓親はそう言って抱えた紙袋を顎で示す。乱菊が覗き込むと一番上に金平糖の袋が見えた。
「やちるが待っているわね」
「まだ大丈夫さ。仕事が終わらないとお茶にしないって言ってあるからね。夕方にお茶にできればいい方だよ」
「今日は書類仕事の日ってわけね」
 乱菊は苦笑いを浮かべる。十一番隊は虚退治が仕事の殆どを占めているし、それに見合った人材で構成されている。しかし書類仕事が全くないわけではない。机での仕事に耐えられる数少ない死神がそれらを処理するのが十一番隊の常だったが、弓親は遠慮無く書類仕事を苦手とする剣八ややちるにも仕事をさせていた。
 弓親はにやりと綺麗な顔を崩さずに笑う。
「そう。どうしても隊長格が確認しないといけないものもあるからね。ここで一気に終わらせないと」
「あらあら、大変ねえ」
 全くそう思っていなさげな顔で笑う乱菊に、弓親が眼を細めた。
「君のところの日番谷隊長も大変だろう。勤務中に買い食いしようかどうか悩んでいる副官を持ってるんだから」
「……ばれてた?」
「ばればれ」
 いたずらがばれた子供のような眼をして笑う乱菊に、弓親は軽く鼻で笑ってみせる。そして懐から小銭入れを取り出すと、
「まあそういう僕も、何か甘い物でも食べようかと思ってたんだけど」
と言って首を傾げて見せた。
「ならご一緒にお茶でもいかがでしょうか? 十一番隊五席殿」
 乱菊も笑って懐から小銭の入った袋を取り出した。

 店の前に設けられている赤い傘の下の椅子に並んで座り、乱菊と弓親は饅頭を頬張っていた。二人の間には湯気の立ち上る湯飲みが盆の上に二つ、並んでいる。目の前を人々が通り過ぎていく。乱菊は人の流れに酔わないように、目線を上に向けた。
 赤い傘の向こうには青い空が広がっている。
「そういえば」
 弓親が顔を前に向けたまま、思い出したように言う。
「この間、朽木隊長と一緒に阿散井が挨拶に来たよ。ちょっと前まで同じ場所にいたくせに、六番隊副隊長って顔をしてまあ畏まって……頑張っていたけどね」
「そうね。就任の日は挨拶回りだけで一日が終わるから、相当気を張っていたでしょうね。疲れるもの、あれ」
 十番隊に挨拶に来た阿散井を思いだして乱菊はひょいと肩を竦める。あの日、阿散井は白哉の後ろで硬い顔をして礼をしていた。新任の阿散井を気遣う様子もない白哉と、新任というだけではない硬さで白哉の背を見やる阿散井。二人が去った後、二人の様子を日番谷は一言、硬ぇな、と評した。それに乱菊は苦笑して頷いただけだった。
「初日だから仕方ないけど、朽木隊長とはぎくしゃくしてたわね」
「まあ、彼は朽木隊長と何やらあるみたいだし」
 乱菊の言葉に弓親が軽く答える。弓親は饅頭を食べ終えて、両手を体の後ろについて力の抜けた様子をしていた。しかし、乱菊に向ける眼は思わせぶりに光っている。乱菊は華やかに微笑んでみせた。
「そうなの?」
 弓親は可愛らしく小首を傾げる。
「僕はよく知らないけどね。一角と彼が話しているのをちらりと耳にしたことがあるだけさ。僕は別に興味はないからね」
「あんたって、ホントそうよね。興味あるのって一角と、あとは更木隊長とやちるくらいでしょ」
 溜息混じりに乱菊はそう言う。弓親はすっと眼を細めて微笑んだ。
「それは違う。僕は単に美しいものが好きなだけさ。苛烈で、その力を爆ぜることしかできない、壊れゆくそのぎりぎりのところで輝くものに惹かれるのさ。阿散井にだって興味がないってことはないよ。ただ、彼が力を求める理由は、強さだけじゃないからね。彼はややこしいよ」
 弓親の横顔は静かで、その眼は確かなものを捉えているように乱菊には感じられる。死神としての経験は乱菊の方が豊富で、生きてきた時間も乱菊の方が長いようだったが、迷いは弓親より自分の方があるだろうと乱菊は思っていた。
「……あんたの求める美ってのは、そのうち壊れてしまうかもしれないわよ」
 乱菊はわずかに眼を伏せて呟きのように囁いた。
「それは当然。壊れないものなどどこにもないよ。覚悟のうちさ。僕はそれを見届ける」
 弓親の声は笑みすら含んでいた。乱菊は一度眼を閉じて、ゆっくりと開けた。足下の自分の影の上を何かの甲虫が這っていた。
「あんたは本当に十一番隊が似合っているわ」
 弓親も眼を閉じて深く笑う。
「僕もそう思うよ。だから、阿散井も君も、更木隊から出ていってよかったとも思う……鉄さんはちょっと違うかな。あの人の気性はまさに更木隊なんだけど、ああ、でも、ちょっと優しすぎるか」
 そう言って弓親は乱菊を振り向いた。普段の皮肉めいた笑みではなく、わずかに柔らかい笑みを向けられて、乱菊は少し戸惑い、そして笑う。
「そうね。そう思うわ」
「君の飲みっぷりは素晴らしいんだけどね……最初に幻滅したくらいに」
「失礼ね。明るいお酒が美味しいのよ」
 乱菊は唇を尖らせてふて腐れると、弓親と顔を見合わせてふふと顔を崩す。弓親は再び皮肉な笑みになり、
「君は遠くから眺めていれば美しい人なんだけどねえ」
と言った。そして湯飲みを骨張った細い手で持ち、微かな音を立てて茶を飲む。乱菊も気づいたように湯飲みを手に取り、茶をすすった。口の中が潤うのがわかる。乱菊は湯飲みを持ったまま前を見た。名も知らない人々が急いで、またはゆったりと通り過ぎていく。
「……恋次と、朽木隊長の妹さんは幼馴染みなんだそうよ」
 ぽつりと乱菊は呟いた。
「……ふぅん」
 興味ないというように弓親が答える。乱菊は通りから視線を動かさず、もう一口だけ茶を飲んで、湯飲みを盆の上に置く。
「妹さんは養女のはずだから、その過程でなんか色々あったのかもね。幼馴染みで一緒に死神になったっていう人は多いけど、恋次と朽木は喋っているところも親しげにしているところも見たことなかったから、あたしは知らなかったわ」
「阿散井はあれで、そんなにぺらぺら喋らないからね。懐いている一角や、あとは一緒にいた同期くらいしか知らなかったんじゃないの…………ま、幼馴染みだから親しいってこともないとは思うけど」
 弓親が淡々とした口調で話し出す。
「それでも、流魂街出身の幼馴染みはここにきてもずっと親しい奴が多いみたいだね。あんな荒んだ場所を一緒に生き抜いてくればそうもなるかな。お互いの綺麗な部分も汚い部分も全部目の当たりにして、親しい、なんて一言じゃ括れないようになってるんだろうけどさ」
「そうね」
 乱菊は通りから目を離さずに、しかし眼はただ遠くの過去を捜すように彷徨わせて頷いた。通り過ぎる影の向こうに、幼い頃のギンの姿が見えるような気がして乱菊は眼を細める。綺麗な部分も、汚い部分も全て。もう遠くなった自分の誓いを思い出し、乱菊は胸の奥が痛むのを感じる。
 隣の乱菊の気配にちらりと眼をやり、弓親は前に視線を戻した。
「腐れ縁……ってことかな。僕と一角も、突き詰めれば単にそんな気がする」
「あんたと一角も幼馴染みなんだっけ」
 乱菊は横目で弓親を見た。その眼を見て弓親は小さく頷く。
「まあ、小さな頃から一緒ってわけでもないけどね。僕が流魂街に落とされたのは結構大きくなってからだし」
「そっか」
「……松本には?」
 小さく笑う乱菊を見て、弓親は囁くように言う。乱菊は眼を伏せたまま、笑みを崩さない。弓親はもう一度、囁く。
「松本も流魂街出身じゃない。君には、そういう腐れ縁はいないのかい?」
「いないわよ」
 乱菊は綺麗に微笑んで顔を上げた。この答えは数えるのも嫌になるくらい繰り返し口にしていて、今はもう何の綻びもなく感慨もなく言えるように乱菊はなっていた。
 その綺麗な笑みを見て、弓親は皮肉を含んだ顔で薄く笑う。
「ふぅん……僕は、そういった腐れ縁の奴がいるから君は何か吹っ切れないところがあるのかと思っていたよ」
「吹っ切れないって、何よ?」
「別に。たいしたことじゃないさ。ただ、そう感じていただけのことだよ。何かあるのかなーって、さ」
 そう言って弓親は何かを振り落とすように勢いよく立ち上がった。乱菊は弓親を見上げる。逆光の影の中、弓親は微かに微笑んだ。
「僕から見れば、君も阿散井も同じようなもんだってことさ。単純に見えるのに、どこかややこしい。じゃ、そろそろ戻らないと一角にどやされるから、僕はもう戻るよ。君も早く帰りなよ」
「……うん、そうするわ」
 乱菊の返事に弓親は普段通りに笑い、端に置いてあった紙袋を手にとってくるりと背を向けた。乱菊は傘の下に腰掛けたまま、その遠ざかる背を見送る。急に雑踏のざわめきが聞こえだした。行き交う人の影に弓親の姿が紛れ込み消えていく。
 乱菊は影が縫いつけられたようにじっとしていた。しばらく、そのまま動かなかった。





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