無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月15日(水) アレももう幻の名作/『ふたつのスピカ』3巻(柳沼行)/『定廻り同心 最後の謎解き』(笹沢左保)

 そう言えば、今年の成人式は、去年に比べれば比較的おとなしかったそうですね。テレビでは、やっぱりバイクをパパラパパラパーってフカシてるアホが何人か映ってましたが、タイホされるほどのヤツは出なかったようで、どうやら若い人たちもなかなかオリコウになってきたようです。
 困ったねえ、これじゃオジサンたちが「近頃の若いもんは」って定番の文句が言えなくなっちゃうじゃないですか(^o^)。日々の生活に追われるばかりですっかり疲れ果てて、トウの昔にやる気も生きがいも失っちゃってるのに、とりあえずはトシ食っただけで手に入れた肩書きの上にノウノウとふんぞり返ってるだけの無能なバカオヤジどもにとってですよ、唯一、自己の存在を肯定できるのは、「若いヤツラより自分のほうが常識人」という錯覚の上にアグラをかいてられるときだけじゃないですか。
 そんなバカオヤジたちの姑息で淫靡で下らないささやかな楽しみを、若い人たちは奪おうってんですか。トシヨリは大切にしてくださいよ。
 須らく、若者は伝統的にアホをやり続けてほしいものです。どうせ10年経ったら自分たちが「近頃の若いモノは」と言う立場に回るんですから。


 大塚康生さんのホームページ『大塚康生のWEB峠の茶屋』の「いっぷくBBS」に、大塚さんご本人が映画『ルパン三世 風魔一族の陰謀』(1987)について、ちょっとビックリした「余談」を載せている。

 1、演出不在、シ−ン担当のアニメ−タ−が中心となってシ−ンごとの全コンテを切っている。
 2、予算の関係で声優を取り替えて不評を買った。
 3、技術的には宮崎さんが(ひそかに)褒めている珍しい作品。
 4、東宝と日本テレビの権利関係のいざこざから今後もDVD化等が望めない

 この『風魔一族』には「監督」表示はない。
 オープニングにクレジットされているのは「演出」として、大関雅幸氏の名前が挙げられている。ところが後年、大塚氏が『作画汗まみれ(改訂版)』の中で明かしたところによると、大関氏はテレビ畑出身でそれなりのキャリアはあったのだが(『銀河鉄道999』や『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』など)、切ったコンテがテレビ的な単純なもので、『風魔』の制作に当たっていたテレコムのスタッフにはあまりにも物足りないものであった。
 で、結局、大塚氏が「監修」という形で、実質上、大関氏は降ろされ、1番で語られたような仕儀に相成ったというわけである。……そう言えば、当時の『アニメージュ』には大塚さんのコメントは載ってたけど、大関さんのはなかったな(^_^;)。
 そのあたりの事情は既に知っていたのだが、2番の「声優変更」が「予算」の関係だったとはねえ。と言うのも、宮崎さんも大塚さんも前々から声優の変更はしたがっており、『カリオストロの城』も、声優を全部入れ替えたがっていたからである。
 『風魔』も既に「見たことない」若い人も多かろうから、参考までに声優がどう変わったか紹介しておこう。

 ルパン三世 (従来)山田康雄 → (風魔)古川登志夫
 次元 大介 (従来)小林清志 → (風魔)銀河万丈
 石川五ヱ門 (従来)井上真樹夫→ (風魔)塩沢兼人
 峰 不二子 (従来)増山江威子→ (風魔)小山茉美
 銭形 警部 (従来)納谷悟朗 → (風魔)加藤精三

 今やベテランの右の方々も、15年前ならギャラも安かったってことか。でも加藤精三さんみたいなキャリアのある人が混じってたら、これが予算のせいだとはフツーは気づかんて。
 不評を買った、というのは、私も目の当たりにしたことがある。
 ビデオが発売されたころ、知り合いの女の子を何人かウチに招いて、この『風魔』の上映会を開いたのだが、古川さんの声が発せられた途端、「エー!?」「ヤダー!」「ちがーう!」と、ブーイングの嵐だったのである。もちろん、事前に「声優は違うよ」と伝えていたにもかかわらずである。
 冷静に考えたら「ルパン=山田康雄」なんてのは、ただの刷り込みに過ぎない。それが証拠に、クリント・イーストウッドから山田康雄の声が聞こえてきたら「ルパンやん」と笑っていたアニメファンが当時は腐るほどいた。吹替え洋画ファンにしてみれば全く逆で、「なんでルパンがロディー(『ローハイド』)の声で喋ってんだよ」ってことになるのである。
 けれどだからこそ、洗脳されちゃってる人間には何を言ったってムダって雰囲気ができあがってしまっていて、『風魔一族』は不当に評価が低くなってしまっている。映画シリーズの中では唯一、五ヱ門を主役にした番外編的な造りで、小粒な印象は否めないが、そのアニメーションとしての完成度は『カリオストロの城』を凌いでいる部分も多々ある。特に、途中のカーチェイスと五ヱ門の殺陣は、テレビ・映画全作を通じて、最高レベルの作画がなされているのではなかろうか。宮崎さんが誉めてるってのも、宜なるかな。
 もちろん、声優の演技だって、先入観を取り除いて聞けば、全然悪くはない。というか、手抜きが当たり前になってた当時の山田康雄よりも、古川登志夫の若々しい声の方が遥かによかった。
 女の子たちが口々に文句つけてるのを聞きながら、アニメマニアならぬアニメミーハーには、モノを見る目がないんじゃねーか、と腹が立ったことを覚えている。

 さて、ちょっと気になったのは、大塚さんが「今の時期」にこの『風魔』の話を持ち出してきたのはどうしてかな、ということだ。
 つまりねー、全く同じような状況で、ジブリが「今」、映画を作ってるからなんだよねー。
 そう、『ハウルの動く城』での監督交代劇である。劇場映画作品もあるとは言え、前監督の細田守氏はもともとテレビの人である。あえて憶測だけでモノを言うが、細田氏の切った絵コンテ、ジブリスタッフから見たら「ナニこれ?」ってな出来のものに見えたんではないか。そう考えれば、宮崎さんが公式に発した「これは自分が監督をした方がいいと思った」というコトバの意味が納得できるのである。
 細田氏にそんなに実力がないとは思わないが(『ポケモン』も『どれみ』も、細田氏担当の回は絶品だ)、それでも宮崎さんの目から見たら「未だし未だし」だったんじゃなかろうか。
 大塚さんのこの発言、「アニメ業界って、こういうことよくあるんですよ」と、ジブリの件も似たようなもんだと匂わすための行為じゃないか、と考えるのは穿ちすぎかなあ。

 ああ、でもあの名作がDVD化されないとはなあ。
 これだけはLDボックスで買っておいてよかったってことかな。けれど、考えてみたら、劇場版はほかにも『ルパン三世(VS複製人間)』も『念力珍作戦』も『バビロンの黄金伝説』もまだDVDになってないんじゃないか。出来不出来はあるけれど、最近のテレビスペシャルに比べれば、これらの初期映画版のほうがずっとずっと面白いんである。
 『ルパン』の面白さは、やっぱり原作に第1テレビシリーズと劇場版で判断してほしいんである。


 職場に出てみたら、「今日は臨時の会議がありますよ」と言われて、イヤな予感がする。だいたい上司から出された「臨時」の会議が、あっさりと片付くわきゃない。たいていは何か無理難題を押しつけてくるのが普通だからだ。
 案の定、会議は6時過ぎまでかかる。
 まあ、詳しい内容は書いちゃうと私の職種がバレちゃうんで、ちょっとだけ「事情を変えて」説明すると、これまでウチの職場、業績が悪いとかなんとかリクツつけて、毎日ムリヤリ全員に1時間残業させてたのね。もちろん残業手当は出してたんだけど。
 でも、これはやっぱり正しいあり方じゃないんで、残業をやめようということになった。で、どうするかというと、残業時間まで正規の時間にすることにしたと。
 ……改善じゃないじゃん!
 もちろん会議は罵声が飛び交う大混乱。けど幹部連が意見を撤回する気配はまるでなし。会議後は同僚たちの「やめてやる」ブツブツがあちこちで聞かれたが、これって体のいいリストラじゃねーのかな。けど、部下をただの手ゴマとしか見てない上司のもとに、マトモな連中が残るとも思えんが。
 私ももちっと楽な部署に異動できるんなら、給料がちっとばかし下がっても文句はない。っつーか、まともな交通機関も通ってない山向こうまで毎日通わなきゃなんないのは、もうイヤだ(-_-;)。


 帰宅したらギリギリアニメの『ヒカルの碁』に間に合う。ちょうど「伊角編」のあたりをやってるのだな。
 ふとオープニングを見て、監督が神谷純さんからえんどうてつやさんに変わってることに気づく。ここしばらく見てなかったんだけど、どうやらもう変わって1ヶ月以上経ってるらしいぞ。
 また何かオトナの事情があるのかなあ、と勝手に思うが、ただ、初期の西澤晋さんのように「降ろされた」わけではないらしい。神谷さんは「監修」としてまだ名前がクレジットされている。これが最終回に向けてのスタッフ強化ってことならいいんだけど。

 ただでさえ体調が悪いのに、長引いた会議のせいで頭痛がひどい。
 空気の悪いとこに何時間も押しこめやがってよう。休憩もなし、茶の一つも出ねえ。それで何のアイデアが出せるかってんだ。
 なんだか失神するような感じで、8時には落ちていた。
 でも充分には眠れない。12時前に目が覚めてしまうから、結局翌朝にもう一度寝直し。こんなんじゃカラダのリズムが狂っちまうじゃないか。……ってもう狂ってるから風邪が治んないんだよなあ。


 笹沢左保『定廻り同心 最後の謎解き』(祥伝社文庫・560円)。
 再販本を除けば、これが笹沢氏379冊目の単行本、これから刊行予定の『海賊船幽霊丸』が380冊目。
 笹沢氏の絶筆である。
 笹沢氏が生涯400冊を目指して果たせなかった思いを綴ったエッセイ、『四百冊に達せず』も自筆原稿をそのままに収録しているが、衰え行く肉体と精神と葛藤しつつ、自らの無念を語るその周年、作家って商売ってのはやはり業なんだなあ、とつくづく思う。

 実質、最後の作品である『江戸艶女図絵 代理の花嫁』、果たしてこれが70歳を越えた人の筆かと驚くほどに艶っぽい。
 性に無知で、床入れもままならぬ花嫁のために、代わりに花婿と交合して見せる「介添女」。つまりなんですか、オボコ娘に「これはああしてこうしてこうするのよ」って手ほどきするっての?(・・;) ……あまりにもとんでもないんで、てっきりこれって笹沢さんの創作した設定かと思ったら、なんと実在した商売なんだって。『好色一代女』や『きのふはけふのものがたり』などにも表れているそうだが読んでないから知らん(^_^;)。
 川井屋の一人娘、おりんの代わりに介添を務めることになったのは、花婿の平八のかつての想い人、おさと。大木屋の末娘、おさとは七年前に嫁入りして、わずか四年で夫に死別し、以来一人身のままであった。おりんの花婿となる平八は、昔、大木屋に奉公していて、そのころからおさとの方も平八に恋い焦がれていたのだ。
 相思相愛の二人は、それとも知らず、別々の道を歩み、再びこうした奇縁で結ばれる。しかし、二人の睦み合いを陰から覗いていたおりんは、それが愛の表現とも知らず、恐怖を抱く……。
 平八とおさとは、おりんそっちのけで自分たちの営みに没頭しちゃうのだけれど、この描写がもう微に入り細に入り、くんずほぐれつねちっこくて、もしもこれを映像化するんだったら、ぜひともノーカットで30分くらい延々と撮ってほしいくらいだ。それにしてもねー、江戸時代だからしょうがないんだろうけど、アレの瞬間の声が「ああ、極楽」とか「ああ、堪忍」ってのは、なんと言えばいいんでしょうねー、エロスを感じる前に、うっかり笑っちゃいそうだよ(^_^;)。
 いや、ホントに笑っちゃうのは、この声を聞いたおりんが、「堪忍」ってのを文字通り受け取って、おさとが哀願してるのに平八が拷問し続けていると思いこんじゃうとこね。
 確かに、滑稽な勘違いではある。
 けれど、岸田秀曰く、「本能の壊れている」人間には。こういったこともままあることなんじゃないかって気がするね。ましてや江戸時代の商家の一人娘ときたら、世間の淫らなウワサなんかそうそう耳に入ってこなかったんだろうし。
 さて、ストーリー的には、この先、平八、おさと、おりんの三角関係はどうなっちゃうんだろう、と気を揉むところである。近松門左衛門だったら、即、「道行」ってことになっちゃうんだろうけれど、笹沢さんは意外なくらいにあっさりと結末を付けてしまう。
 初夜の後も何度も逢瀬を重ね、狂おしいほどに求め合った平八とおさと、誰に諌められるというわけでもなく、さばさば別れてしまうのである。おりんもそのころにはようやく真実に目覚めていた。というわけで、三方めでたしめでたし。
 あまりにもあっけらかんとしていて、なんだかキツネにつままれたような結末ではある。もしかしたら、体力的にも気力的にも、これ以上の描写を笹沢さんはできなくなっていたのかも、とゲスの勘繰りをしたくもなる。
 けれど、笹沢さんの考える「江戸の粋」ってのが、こういう「潔さ」にあるんじゃないかな、とも思うのだ。本来、平八とおさとは、結ばれるはずのない二人だった。それが、ふとした縁で再び巡り会えた。けれど、これは本来あってはならぬことである。そのことを二人は自覚していた。初めから二人は、これが別れるための出会いであることを知っていた。そういう縁もあることを知ることが「粋」の本質なんじゃなかろうか。
 笹沢氏のダンディズムは、よく木枯し紋次郎に譬えられたが、原作の紋次郎は乾いているようでいて意外と女々しい。自分の無力に背を向けて逃げている印象すらある。紋次郎のその後ろ姿は、粋になりたくてなりきれなかった笹沢さんの投影、とも見える。紋次郎に比べれば、平八もおさとも実にサッパリしていて気持ちがいい。笹沢さん、この二人を書きながら、内心、羨ましく思ってたんじゃなかろうか。
 380冊の著書だって相当なものである。なのに400冊に届かぬ自らを悔しく思う自分自身を「オレもまだまだ粋にゃなれねえな」と自嘲する笹沢さんの姿が、平八とおさとの向こうに見えるような気がする。


 マンガ、柳沼行『ふたつのスピカ』3巻(メディアファクトリー/MFコミックスフラッパーシリーズ・540円)。
 前巻でアスミを思いっきり落ちこませた“悪役”佐野先生が、あっさりと“改心”して退場。……作者が優しいせいなんだろうなあ、どうも徹底した悪人ってのを描けないのだね。ドラマ的にはこれって「弱点」になっちゃうんだけど。
 心を閉ざしていたライバル・マリカも、もう心を開き始めた。まだ3巻なのに展開速すぎ……っつーか、人を信じ過ぎてないか? この作者。
 こうなるともう、あと1巻くらいで終わらせちゃった方がよくないかなあ。長いドラマを引っ張るってことがこの作者には難しいみたいだし。

2002年01月15日(火) チュパカブラってなんだよ/『機動戦士ガンダム ジ・オリジン ―激闘編― SECTION �機伸供�
2001年01月15日(月) 雪は降る、貴女は来ない/『ウルトラマン対仮面ライダー』(池田憲章・高橋信之)


2003年01月14日(火) ある「B級」監督の死/『風雲児たち ワイド版』9巻(みなもと太郎)/『復活! 大人まんが』(夏目房之介・呉智英編)ほか

 深作欣二監督が12日午前1時、前立腺がんのため死去。享年72歳。
 昨年12月21日からの定期入院中に肺炎を併発して、一時は意識が混濁する状態となっていたが、年明けには驚異的な回復力を見せ、監督復帰とのニュースも流れていた。
 多分、そのニュースを知ったほとんどの人が「希望的観測だろうなあ」と思ってたろう。もちろん、テレビのコメンテーターはそんなことはオクビにも出さず、「お元気になられるといいですね」とかなんとか言ってたのだ。ニュースが事実を報道するわけじゃないってことは、こういう人の生死に絡んだときには特に感じるね。
 撮影中の『バトル・ロワイアル�供戮魯螢蓮璽汽襪鰐別�に行われたが、実際に撮入したのは2シーンのみだそうである。深作監督の長男・健太氏が監督代行していたが、そのまま監督交代、ということになるのだろう。
 普通、監督の死で中断した作品を他の監督が引き継いで制作、ということになると、どうにもぎこちないものになるものだが、私は結構期待している。
 それはもちろん加藤夏希が出演しているから……というのもちょっとあるが(^o^)、もともとトンデモナイ映画ばかり撮ってきた深作作品のこと、前作を見れば、仮に深作監督が元気で作品を完成させたとしても、絶対ムチャクチャな映画になったろうことは間違いないのだ。息子さんが更に輪をかけてトンデモナイ映画にしたところで、「深作監督が撮ってればなあ」なんてことになるわきゃないんである(それでもそう言うヤツはいるだろうけどな)。

 訃報には「巨匠」とあるが、62作と多作のほとんどが東映ヤクザ映画路線のプログラムピクチュアである。この20年ほどの深作監督の作品はたいてい見ていて、数えてみたら20本ほどになるのだが、実は『仁義』以前の初期のチープなギャング・ヤクザ映画のほとんどを私は見ていない(ともかく両親が私がヤクザ映画を見ることを極力嫌ったのである)。普通20本もその監督の作品を見ていれば、いっぱしの口が利けそうなもんだが、そこでどうしても一歩引いてしまうというか、批評しにくく感じてしまうのは、以前も書いたことだが、深作監督の本領は、「B級映画の監督」「プログラムピクチュアの監督」というところにあり、その部分を見ずに評価するのでは、その本質を見誤るのではないか、という気がしてならないからである。深作監督を「巨匠」と呼ぶことはかえってシツレイになってしまうのではないか。
 黒澤明が『七人の侍』を制作したときに、「日本映画はお茶漬けサラサラ、たまにはステーキを」と語っていたが、深作監督はステーキを作ったことは一度もない。それは文芸作品と言われている『火宅の人』だってそうである。あれを松坂慶子や原田美枝子のヌードを期待せずに見に行った客がどれだけいるというのか。『青春の門』は杉田かおるの、『魔界転生』は佳那晃子の、『人生劇場』は中井貴恵の、『四谷怪談』は高岡早紀のスケベシーンが楽しみで私は映画館に足を運んだのだ。
 ……大学にいたころ、『人生劇場』をテレビで見た友人が、「中井貴恵のセックス、スゲエなあ!」と往来で恥も外聞もなく叫んでたこと思い出したぞ。そいつは今、長野県で教師をやってるが(^o^)。
 ええと、他に誰のヌード撮ってたっけ。いや、ともかく80年代の「深作映画」と言えば、ひたすらヌードだったのである。どこまでソレに拘っていたかというと、アイドルゆえに脱がすことができなかった薬師丸ひろ子に、『里見八犬伝』ではアノ表情だけはさせていたくらいなのだ。つくづく深作さんってバカだと思うが、それに付き合っていた私もつくづくバカである。そして、当時、そんなバカが日本中に量産されていたのだ。70年代、落ちこむだけ落ちこんでいた日本映画の興行収入が80年代になって少し上回ったのは、劇場アニメブームが始まったこともあるが、深作監督の功績のヌード映画攻勢もあったと言えるのではないか。功績なのかよソレ、ってツッコミはあるだろうが。
 ポルノ映画でもないのに、これだけ女優を脱がすことに命をかけてた映画監督を、私は他に知らない。例えて言うなら深作作品はハンバーグ定食やトンカツ定食、焼肉定食みたいなゴテゴテした定食ものばかりで、ラーメンならギトギトのトンコツ、カレーライスでも辛口か激辛なのである。甘口な映画など、一本もない。
 「なんだこのトンカツ、油浮き過ぎじゃねえかよう」と文句をつけながら楽しむのが深作映画には一番似合っている。

 キネマ旬報ベストテンで、深作監督が1位を取ったことは一度もない。読者選出ベストテンでは、『仁義なき戦い』と『火宅の人』で、二度1位になっている。


 咳がまだ止まらない。
 先週末に仕事を休んで、あちこちに迷惑をかけたんで、関係の同僚に詫びを入れて回るが、そのときもゲホゲホグヘグヘやってるのである。なんだか回りに風邪を移しそうで、もうちょっと休んでた方がいいのかも、とも思うのだが、もうみんなカツカツの状態で仕事してるんで、これ以上は迷惑をかけられないのである。
 結果的に三連休って形になってはいるが、映画に行く予定もキャンセルして、ウチにずっといたので、もちろん遊んでたわけではない(本は読んでるが)。これだけ休んでりゃいい加減治ってもよさそうなものだが、全然その気配がない。いったいどういうことなんだか、自分でもよくわからない。

 溜まった仕事を片付けるために、帰りが遅くなる。
 今日はさすがにしげに「迎えに来て」とは言えない。というのも、しげ、いつもは昼間に寝て、夜働いているのだが、今日は昼間寝られなかったはずだからなのだ。
 この前、天井から雨漏りしてたのの修繕に、業者の人が来て張り替えをすることになっているからである。もちろん、仕事も休めないし、私の送り迎えなんぞをしていたら、寝る時間がますます削られてしまう。
 というわけで、今日はしげと全く顔を合わせない一日になってしまった。
 こういう日は結婚以来、数えるほどしかない。……なんてことを書くとまた「ケッ、この愛妻家が」とか思う人もいるかもしれないが、ただの恐妻家なので、そこんとこ、勘違いしないように。
 
 帰宅してみると、なるほど、天井にずっと渡っていたヒビが消えてなくなっている。狭っ苦しい部屋で作業も大変だったんじゃないかと思うが、そこがやっぱりプロの仕事なんだろうなあ。
 もっとも、こういう事故が今後も起こらないという保証はないけれど。
 
 今日はコンビニに寄る元気もなかったので、しげリンガーハットから買って来ていたチョコレートカステラを晩飯がわりに食う。カロリー的によくないことは判ってるが、もう何日も冷蔵庫の中に入れっぱなしで、賞味期限も迫っていたのだ。こういうときに食べ物を捨てられないのは、オジサンってことなんだろうな。
 風呂に入って、『踊る踊るさんま御殿スペシャル』を見始めたらすぐに、そのまま落ちてしまった。疲れが取れてないんだなあ。


 雑誌、『アニメージュ』『ニュータイプ』2月号。
 『アニメージュ』は、突然「コラム」のページを全て最終回にしてしまった。
 大地丙太郎、大森望、石田敦子、伊藤伸平、水玉螢之丞の各氏の連載、全て打ち切り。どーゆーこと?
 いや、人気がなかったってことなんだろうが、私ゃ単にアニメ新作情報が知りたいだけでアニメ雑誌を買ってるわけじゃないんだが、こういうアニメ関係者のコラムが楽しみで読んでるオジサンの読者は購買層として眼中に入れないってことなのかな。この分だと、もう一つの楽しみ、小黒祐一郎さんの『この人に話を聞きたい』の先行きも危ない感じである。

 その『この人に』の今回のゲストは平田敏夫さん。監督としての最新作はもう4年も前の『Petshop of horrors』なので、なんだか無聊をかこっている印象があったが、マッドハウスで原画やコンテなどの仕事はしているらしい。
 平田さんが東映動画で制作した『グリム童話 金の鳥』(1987)は、何年もお蔵入りになった末、ひっそりと公開されたので見てる人が少なかったが、宮崎駿たちベテランの退社で、興行的にはともかく作品のレベルという点では凋落の一途を辿っていた東映動画が、久々に会心の出来映えの作品を送り出したことで印象に残っている。けれどインタビュー読むと、アレ、ほとんどマッドハウスで作ってたんだね。
 必ずしも傑作ばかりを作ってるとは言えなくて、『ボビーに首ったけ』『火の鳥 ヤマト編』『カッパの三平』『お星さまのレール』なんてのはどこか腑抜けたところもあった。
 けれど、1作目が思想的にガチガチだった『はだしのゲン』を、『2』では見事に躍動感溢れる少年の青春アクションとして描いて見せたその演出力などは、「平田敏夫」の名前をアニメ史上に残す価値があると充分にかんじさせてくれていた。私ゃ、マッドハウスの演出家の中じゃ、りん・たろうや川尻善昭より、よっぽど平田さんの方を監督として上だと思っている。
 なのにだよ、監督として何本もの傑作を作って来てる人がさぁ、『メトロポリス』や『千年女優』では、ただの一スタッフとして参加してるんだよ。ああ、なんてもったいない!
 言っちゃなんだが、その二本、平田さんが監督した方がよっぽど出来がよくなったんじゃないかと思う。この意見には賛同者、結構いると思うぞ。小黒さんが平田さんを取り上げたのも、「才能ある人を飼い殺しにするな」ってマッドハウスに対する批判の意味も込めてるんじゃないかな。

 『ニュータイプ』の方、新連載で庵野秀明の『エヴァンゲリオン』リニューアルのレポート。
 作画のデジタル化だけかと思ったら、なんと音響も5.1チャンネル化、再アフレコまで行ったとか。すごいなあ。
 音に拘る、というのは、絵的なモノについ目が行きやすいアニメの場合、しばしば忘れ去られがちなのだが、実は基本中の基本なんである。こりゃ庵野さん、腰を据えてこのリニューアルに取り組んでるな。もっとも、ご本人のエッセイによると、新作が一つポシャったおかげで『エヴァ』に取りかかれるようになったって事情だそうだが(^_^;)。
 確かに庵野さんには新作を作ってほしいと思うけれど、これはこれで期待はしてしまう。当時の騒動があまりにデカ過ぎて、「今さらエヴァかよ」って思う人もいるだろうが、もう随分時間が経ったんだし、冷静な目で普通に「面白いアニメだった」てこと認めていいんじゃないかねえ。
 ともかく私は、LDの時には間に合わなかったリテイクカットが挿入されて再構成されるんだったら、それだけでもうれしくなっちゃうけどね。


 マンガ、みなもと太郎『風雲児たち ワイド版』9巻(リイド社・680円)。
 何巻か感想書くのすっ飛ばしてるような気もするが、まあいいや。
 時代的には田沼意次の失脚と、松平定信の寛政の改革が始まるあたり。私の子供のころには、まだ田沼意次は「ワイロ政治」の代表みたいな印象が強かったのだけれど、近代経済の先駆者としての評価が高まった背景には、この『風雲児たち』の宣伝効果も大きいんじゃないかな。
 これ以前に田沼をよく描いた作品、ということになると、NHKドラマ『天下御免』で平賀源内のブレーンとして登場させていた例くらいしか思いつかない。あのドラマじゃ、仲谷昇が遠山の金さんみたいな役回りで田沼を演じてたように記憶している。
 何の本だったか、さくまあきらが「歴史上、無名な人物にばかり光を当てているのがいい」と誉めてたが、えらくトンチンカンな誉め方である。そりゃ、何百人というキャラクターが登場しているから、中には「へえ、こんな人がいたの」って人物もいないわけじゃないが、扱われている人々は、たいてい誰でも名前くらいは聞いたことがある有名人ばかりである。
 この巻に出ている主要人物をちょっと挙げただけでも、大黒屋光太夫、最上徳内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、大槻玄沢、司馬江漢、林子平、高山彦九郎といった面々である。この人たちをみんなひっくるめて「無名人」だの「地味」だなどと言うんだったら、さくまさんの学生時代の日本史の成績は赤点だったに違いない。
 みなもとさんのスゴイところは、これらのキャラクターにたびたびギャグをやらせてフィクションに見せかけていながら、実は、要所要所でちゃんと歴史的事実を踏まえているところである。
 今巻でも、林子平が高山彦九郎について、「この男は泣くよりほかに何の脳みそもないっ」とバカにしてるセリフ、いかにもマンガチックなんだけれど、これがホントに林子平が語ったコトバなんである。「寛政三奇人」とひとくくりにされちゃいるが、勤皇思想に凝り固まった高山彦九郎と、世界の情勢を客観的な理性で見通していた林子平とでは、まさしくその脳みそに天と地ほどの差がある。それをマンガのキャラとして描き分けているみなもとさんの力量、もっともっと評価されていいと思うのだがなあ。


 マンガ、夏目房之介・呉智英編『夏目&呉の復活! 大人まんが』(実業之日本社・1575円)。
 「大人マンガ」と「成人コミック」は全く違うものである。
 ……ということも、説明しなきゃ分らない人が圧倒的に増えちゃったんだよなあ。実際、「大人まんが」という響きから真っ先に連想されるのは、私より上の世代なら『漫画讀本』あたりなんだろうけれども、30代より下の人なら、「それナニ?」って言いそうだ。
 呉さんは「大人まんが」を「成熟した笑い」「子供には分らない深みのある笑い」と評しているが、実際、ホントに今時の「子供(必ずしも成人が「大人」とは限らない)」は、それがどういうものか全くピンと来ないし、存在自体を知らない人も多い。
 東海林さだお、加藤芳郎、谷岡ヤスジ、黒鉄ヒロシ、岩本久則(ちゃんと「キューソク」と読もう)、園山俊二、馬場のぼる、滝田ゆう、久里洋二、古川タク、砂川しげひさ、二階堂正宏、杉浦茂、タイガー立石、秋竜山、矢玉四郎、長新太、横山隆一、杉浦幸雄、佐川美代太郎、高新太郎、みなもと太郎、永井豪……。さて、アナタは彼らの大人マンガをどれだけ読んだことがありますかな? 「『ギャートルズ』をアニメで見てた」、なんてのはダメですよ。

 一作だけ、その内容を紹介しよう。
 東海林さだおの『緑の水平線』である。

 夫が庭で、木舟を作っている。
 妻がそれを見て、「ボートなんて作ってどうすんだよ、このバカ」と悪態を吐く。
 夫はただ黙々と木舟を作り続ける。
 そして、完成した木舟を持って、はるか沖へと向かって行く。
 妻はそのときになって初めて慌てふためき、夫に追いすがる。
 警察を呼び、仲人を呼び、夫を止めようとする。
 しかし夫は言う。「しかたないんだよ」
 夫は沖に出る。
 カモメが飛んでいる。
 空が青い。
 夫の舟は、海に沈む。
 波紋だけが、そこに残っている。

 どうだろう、この「味わい」は? 作品自体についての解説はもうしたくないので、ぜひとも現物に当たっていただきたい。

 これら「大人まんが」の特徴はなんなのか。
 確かに、少年マンガにも青年コミックにもない「味わい」があるのはその通りなのだが、それはいったいどのように発酵し、芳醇な香りを生み出すまでに至ったのか。
 夏目さんも呉さんも、作品の紹介はしていても、そういった歴史的な流れについては触れていないので、その点についてだけ、ちょっと注釈を付け加えてみたい。
 ここで紹介されている作品は、もともと海外の作家たち、チャールズ・アダムス(あの『アダムス・ファミリー』ですな)やペイネ、コービン、トポール、サンペ、シャバル他、ナンセンスマンガの系譜の上に生まれてきたものばかりなのである。『漫画讀本』は、創刊時からこういった海外作家たちの作品を次々に掲載していた。その影響のもとに日本のナンセンスマンガ家たちが育っていったのだ。
 例えば、本書では紹介されてないが(版権の関係だろう)、あの長谷川町子だって、「大人まんが」の代表選手である。
 彼女をアニメの『サザエさん』のイメージで、ほのぼの家庭マンガを描いてた人、なんて思ってたら大間違いで、原作はもっともっとナンセンス色や時評性が強いのだ。もう随分昔、『磯野家の謎』なんかでその「大人まんが」としての一端が紹介されたりはしてたが、結局、長年培われてきた大衆の勝手なイメージを覆すまでには至らなかった。そのあたり「寅さん」が「庶民派」と誤解されてる点とよく似ている。原作のサザエさんって完全にオバタリアンだし、マスオさんだってしょっちゅうマジで浮気したがってるのにねえ。
 だいたいやねー、『いじわるばあさん』自体、ボブ・バトルの『意地悪爺さん』をルーツとしていることを考えれば、長谷川さんが「大人まんが」の描き手だってことに気づきそうなもんなんだけどねー。
 愚痴はともかく、若い人には特に感じてほしいことなんだが、いっぱしにマンガが好きだ、マンガを語ろう、と思ってるなら、こういう「大人」の世界もあることをちゃんと知っといてもらいたいものである。
 と言うより、もともとマンガは「大人のもの」だったのだよ。だって、「子供」の概念が生まれるのは西洋も日本も近代以後のことで、マンガの歴史はそれよりもずっとずっと古いんだからね。マンガの歴史を語るのに、「大人まんが」は避けて通れない。一読を乞うものである。

2002年01月14日(月) 原作と映画の間/映画『走れメロス』/『朱色の研究 夕陽丘殺人事件』(有栖川有栖・麻々原絵里依)ほか
2001年01月14日(日) 雪の断章/アニメ『ポール・グリモー短編集〜ターニングテーブル〜』


2003年01月13日(月) またまた風邪悪化/『別冊宝島Real まれに見るバカ女』/『宇宙をぼくの手の上に』(山本弘)ほか

 ネットカフェの話、続く(←マネって言うなよ)。
 と言うのも、気がついたら午前サマだったからなんだな。
 夜8時に入って、外に出てみたらもう2時。6時間もいたのかよ。それで4千円もしたのか。
 考えて見たら、その間、映画を一本見て、私もしげもあとはマンガ読みまくりだったのだから、6時間経ってたってのも当たり前なのである。昨日の日記ではもうメンドクサイので省略したけど、他にも『イリヤッド』とか『ラブひな』とか読んでたんである。……そんなん全部感想書いてる時間なんかねー(^_^;)。
 帰宅して、昼まで昼寝。いや、朝寝か。
 夜更かしのせいなのか、風邪がぶり返している。やはり油断は禁物だったなあ。


 マンガ、手塚治虫『ブラック・ジャック B・J生い立ち編+2/ピノコ誕生編+2』(秋田書店・各880円)。
 コンビニで「文庫版未収録作品特別掲載」の文字に惹かれて購入。
 でも『人間鳥』も『化身』も、雑誌掲載時に読んじゃいるのだ。両作とも初期作品で、人間を鳥に改造したり、馬の脳を人間に移殖したりと、非現実的でSF色の強い作品だったので、「ヒューマンドラマ」の印象が強くなった単行本には未収録だったのだろう。でも『ブラック・ジャック』ってもともとそういう傾向が強かったんだよな。
 オマケのB・J&ピノコのキューブリック人形ってのがエラいチャチ。こんなん付いて何か楽しいんだろうか。海洋堂の作った食玩のB・J、造型が気に入らなかったんだが、これに比べりゃ天と地ほどの差がある。反作用的に海洋堂の株が上がっちゃうなあ。


 『別冊宝島Real043 まれに見るバカ女 社民党議員から人権侵害作家、芸なし芸能人まで!』(宝島社・1260円)。
 すげえ企画だなあ、こういうのが通るようになったか。
 思いっきり女性差別を目的とした本ではないか、とお腹立ちのフェミニストの方もいらっしゃるかもしれないが、いやいやいや、短絡的にお怒りになってはいけませんよ。「出る杭は打たれる」の譬え通り、叩かれるためにはまず「出」なきゃならない。どんなに「芸なし」とさげすまれようが、とりあえず「顔出し」さえしていれば、話題にはなる。話題になればテレビか雑誌か、どこかで使ってもらえる。これもまた「生活の知恵」というやつでありましょう。
 さて、今回取り上げられた60人の女性の一人一人についてカンソウを述べる余裕はないので、何人かをピックアップ。とりあえず田嶋陽子や辻元清美ほか政治家関係は省こう。

 柳美里の『石に泳ぐ魚』、実は未だに読んでない。
 けれども、裁判のヤリトリなどの一部を抜粋して、彼女がいかに「人権侵害作家」であるかを追求した石井政之氏のレポートを読むと、このひたーやっぱし、原告のプライバシーなんか屁とも思っちゃいねーよな、と思っちゃうね。
 いや、対象書を未読であることも無視して、ここはもう柳美里を「モデルの女性の人権なんか知ったこっちゃねえ」と思ってるクソ女だと規定してしまおう。「文学かプライバシーか」という問題について考えるなら、その方がスッキリするからだ。
 社会常識的に判断すれば、柳美里が原告の女性の身体的障害や出自について何の相談もなく小説化したことは、どう考えたって人倫に反する行為である。
 スゲーな、と思ったのが、「顔面の腫瘍は人にさらされているわけだからプライバシーに当たらない」という裁判中の柳美里の主張だ。これをして石井氏は「身勝手な理屈」と怒りを表明しているが、そりゃ当然だわな。
 で、「柳美里ってそんなバカなのか」、と判断してしまえばそれで終わりなのだが、ちょっとそこでヒト呼吸置いて考えてみたいのは、この屁理屈、柳さん本人もムチャクチャだとわかってて、ワザと言ってんじゃないかってことなんだね。
 私もある件で昔、裁判の証人として立った経験があるので言えることなんだけど、たとえどんなに常識的にはムチャクチャな理屈であろうと、被告の弁護に立つ場合には、ほんのちょっとでも検察側に「弱み」を見せてはならぬ、と弁護士さんからクギを刺されるものなんだよね。
 極端な話、誰が見ても明白な形で犯罪を犯したことがわかっている場合でも、例えば、殺人の現行犯で逮捕された被告の弁護に立ったときに、「やったことは悪いことだけど、本人も反省してますから情状酌量を」なんてナマヌルイ懇願をしたところで、そんなの何の弁護効果もないのだ。
 じゃあどう言えばいいかっていうと、「被告には殺意はなかった」とか「偶然の事故だ」とか主張しなきゃならないのね。大事なのは、「たとえそれが事実に反することであろうと、被告を救いたいという意志を表明すること」、これなんだね。アナタ、世間一般に流通してるアマイアマ〜イヒューマニズムとか良心なんてものを持ってたら、裁判にゃ勝てやしないんですぜ。

 柳美里の目的は自作を出版することである。
 自らを「文学者」と自認している人間が、目の前に書いてみたい題材が転がっていた場合、たとえモデルとなる人間の人権を傷つけることになることがわかっていても、それを果たして書かずにいられるものなのかどうか。
 もともと、「作家」だの「文学者」なんて存在は、常識や道徳観にとらわれないところに位置しているものだ。彼らを突き動かすものは自らの正義のみであり、だからこそ、従来の規範や既成概念を破壊する方向に往々にして進んでしまう。いい悪いではなく、そうでなければ「作家」は「作家」としてのアイデンティティー自体を断たれてしまう。
 柳美里は、本心では「人権」なんてどうでもいいと思っているのだ。というより嫌悪しているといってもいい。裁判での「身勝手な理屈」はもちろん柳美里の本心の声ではない。自らの著作を何が何でも出版したいための方便である。
 柳美里は少なくとも「バカ女」ではないと思う。外道だし、クソ女だし、多分既知外でもあろうが、彼女が「文学者」であるならば彼女の取った行動は全て当然のことだ。ただ、私が柳さんを無条件に「弁護」してるとは思わないでほしい。いくら「作家なら当然の行為」だからって、社会的に許されることではないから裁かれているわけなんでね。
 たとえ改訂版であっても、『石に泳ぐ魚』は出版された。改訂前の形で出せなかったことに柳さん本人は不服かもしれないが、うまいこと裁判官をだまくらかしてそこまでこぎつけたんだから、これはもう柳さんの「勝利」である。実際の作品を読んで面白いと思うか腹を立てるかはまた別の問題。
 ただ、そこまで「作家」に拘るのであれば、「人権無視して何が悪い」と開き直って弾圧食らうくらいのことはしてほしかったな、とも思う。それが、「文学者」だの「作家」だのという人種に余計なステイタスを与え過ぎてきた戦後の思潮に対するカウンターカルチャーになるのではないかと思うからである。
 仮に、『石に泳ぐ魚』が出版停止になったって、これだけネットがオープンになってる社会なら、改訂前の作品が闇に消えて幻になるってことはそうそうないだろう。いずれ「ほとぼりが覚めたころ」に、どこかの誰かがアップしちゃうのではないか。
 でも、その際、柳さんには、せっかく自分の作品がしっかり流通しているのだから、絶対に著作権侵害裁判なんかは起こさないでほしいもんだね(^。^)。
 
 さて、もう一人だけこの本の中から、かつて私の青春の象徴でもあった中島梓(栗本薫)女史について触れておこう。
 今となってはねー、恥ずかしいことなんだけどねー、彼女が『文学の輪郭』やら『ぼくらの時代』で華々しく登場する以前、雑誌『幻影城』で「早稲田のキャピキャピ女子大生がミステリ語ってマース」ってな雰囲気のまあ青い青い文章綴ってたころからのファンだったからねー。ファン歴の長さだけで言うなら、たいていのヒトには負けない。
 そのころの彼女、化粧も今ほど濃くないし、何より痩せておられたし(^_^;)、いや、結構かわいいおネエさまだったのよ。友人に「栗本薫ってかわいいよな」っつったら、「贔屓目でモノ言うな」って言われてたけど。
 でも、初期の小説のいくつかには本気で感心していたのだ。『時の石』には泣かされたし、伊集院大介シリーズ、特に『優しい密室』と『鬼面の研究』は当時の私にとってベスト・ミステリと言ってもいいくらいに感心させられた。
 けど、みなさんもご承知の通り、この方が作品世界に露骨に「趣味」を持ちこんできたあたりから段々オカシクなってきたんですねー。
 呉智英さんがこの『バカ女』で指摘してる通り、「肥大化する自意識のバケモノ」になっちゃったんである。いちいち作品を挙げてくのがメンドウなんで省くけれども、なんかもー、読む小説読む小説、キャラクターどうしのヤリトリがネチネチと鬱陶しくなってきてねー、愛の言葉ささやいててもさぁ、それが相手に対してじゃなくて、作者自身に向けられてるものだってのが見えてくるのよ。「アナタを好きな私はこんなにステキ」って感じ? ……いや、もう文章は引用しません。あまりにツラすぎるから(-_-;)。とりあえず、私の言いたいことがよく分らない人は、『終わりのないラブソング』あたりでも読んでみてくださいな(実はどの作品でもいいんですが)。私はアレだけは二度と再読する気になれません(T∇T)。
 「この人はダメだ」って思っちゃった決定的なヤツが『マンガ青春記』。
 この半自伝の中で、中島さんは、自分に自信を持てない人に対して、それまで自分が何をし、何を見聞きし、何を読んできたか、全部書きだしてみよう、と言っている。そこから自分の「核」になっているものが見付け出せるだろう、ということね。
 この方法、確かに悪くはないのだ。人間のアイデンティティはつまるところ自らの「記憶」に頼るしかない。筒井康隆も、自伝を書くよう依頼された時に、自らに与えられてきた「情報」のみで綴る、ということをやっている。「ああ、私って、結構いろんなこと経験して来てるんじゃん」、と思えれば、それは確かに自信回復につながるだろう(思い出せないとかえって自信喪失は深まるが)。
 でも、そのときに大事なことは、あくまで自らを客観視して、過去の自分と今の自分を繋いでいるものが何かを判断しなきゃならないってことなんだよね。過去の自分の中に埋没してしまうと、自分に自信のなかった人ほど、反作用的に自己の全面肯定に陥ってしまう。「私ってステキ」から抜け出せなくなるのだ。中島さんはまさにその、落ちちゃいけない落し穴に落ちてしまった。
 そこから私は中島さんの本が辛くて読めなくなってしまったのだ。結局、あの人の小説は全て「私はこんなにかわいいの、かわいいの、かわいいの」ってことを手を変え品を変え語っているに過ぎない。それを延々読み続けるなど、マリー・ローランサンの絵を何十枚何百枚と見せられ続けるようなものだ。
 栗本さんがそういうスタイルで作品を書き続けることに文句をつけるつもりはない。けれど、彼女がたびたび起こしてしまう舌禍事件、これは自分自身のファンタジーの中に入りこんでしまっている人間が往々にして犯してしまう失敗の典型なのだ。呉智英さんは「覚悟なき暴論」と批判するが、そもそもファンタジーの住人に「覚悟」などはない。覚悟を持てと、あの人に要求するんですか(^_^;)。
 今さら栗本さんに何かを言ったところでどうしようもない。『グイン・サーガ』は100巻を越えても続けられるらしいが、こりゃもうね、神棚に飾って、手を触れないようにしとくしかないよね。


 ようやく手に入れた『SFJapan』6号(徳間書店・1800円)。
 今回の特集は、「翻訳の載らない翻訳SF特集」と題して、翻訳SF名作のタイトルから連想した新短編を、現代のSF作家さんたちに書かせるという趣向。

 とりあえず、SFファン必読なのは、火浦功の『火星のプリンセス』であろうか。
 と言っても、あの人が既に作家としてダメだということを確認する意味での「必読」と言うことだが。
 引用が簡単なので、全文を紹介しよう。

 『2001年宇宙の旅』火浦功
 「去年じゃん」
            おわり

 『火星のプリンセス』を書こうとあれこれ考えてるうちに〆切りが来ちゃったんで、こーゆーのを書いたそうです。
 ある意味こんなのを堂々と書けるという神経がスゴイんだが、1800円の定価のうち、30円くらいは返せと言いたい(-_-;)。

 山本弘さんの『宇宙をぼくの手の上に』、もちろんフレドリック・ブラウンの短編が元タイトルだが、ストーリーは一切原典と関係がない。
 読んでつまんなかったらどうしよう、と考えていたが、幸いそれは杞憂に終わった。
 書きだしが魅力的かどうかで、その作品が秀作かどうかの判断ができる、とはよく言われることだが、SF作品は特にその傾向が強い、というのが私の持論だ。
 冒頭の、「灰色のコートの刑事が私のアパートを訪ねてきたのは、高速シャトルシップ<ダート>が惑星シュードベリ1のトリポリウム採掘基地に到着した時だった。」、ここから既に「仕掛け」があるのに気づいて、思わずニヤリとした。。これはいわゆる「叙述のトリック」である。
 「刑事が私のアパートを訪ねてきた」時と、「シャトルシップが基地に到着した時」は、同一時間軸にはあっても、「世界」が違っていたのだ。よく読めば、「刑事」と「シャトル」の違和感からそのことに気づくのだが、さりげない筆致が効果的で、ミステリを読みなれてない人は結構引っかかってしまうだろう。上手いなあ。

 主人公の深宇宙探査船<セレストリアル>のキャプテン、「ジニ・ウェルナー」 ―― というのはネット上のハンドルネームで、本当はごく普通のOL、椎原ななみのアパートに、刑事が殺人事件の捜査に現われるところから物語は始まる。
 この刑事、ネットで同好の士を募ってリレー小説を書いているななみに対して、捜査そっちのけで「その歳でマンガのごっこ遊びは恥ずかしいんじゃありませんか?」なんてオタクに対する偏見丸出しの説教を始める。
 いるよな、パソコンやってる人間を勝手に「ヒキコモリ」と決めつけるヤツ(`´)。そりゃ、そういう人間も中にはいるんだろうが、全てのパソコンユーザーを十把ひとからげにして括りたがるのは、自分の理解の範疇の外にある人間を蔑むことで自己防衛を図ろうとするさもしいヤツの心理である。
 以前、私の務めてたとこの上司が全くこういう外道で、しかも職場の若い女の子にセクハラばかりしてやがったからなあ。なるほど、引きこもらないヤツは女にすぐ手が行くらしい(^o^)。
 このあたりの描写、山本さんもいろいろイヤな目に遭って来たんだろうなあ……( ̄-  ̄ ) 。
 それにしてもこの刑事、聞きこみの相手をムッとさせるような捜査してちゃ、刑事としてはヘボなんじゃないか。果ては生半可な知識で「ゲームだのインターネットだのに1日何時間も熱中してると、頭がバカになってくるんだそうですよ」と来たもんだ(例のトンデモ『ゲーム脳』論ですな)。仕事ほっぽらかして余計なこと言ってんじゃねえ。~凸(-~~- )。

 あとのストーリーをはしょって紹介するとこんな具合。
 刑事からななみは、彼女の主催する<セレストリアル>に参加していた少年、谷崎祐一郎(HN「ショウン」)が、殺人事件を起こして逃亡中の身であり、自殺の恐れもあることを聞く。谷崎少年は、自分をいじめてきた同級生たちを、思い余って殺してしまったのだ。
 彼女は初め、ネット上では優しくおとなしい「ショウン」がそんな殺人を犯すなど信じられなかった。しかし、それがいよいよ事実だと判ったとき、なんとか彼の命を救えないかと懸命に思案する。
 そして彼女の思いついた方法というのが、リレー小説の続き、危機に陥った宇宙船クルーの命を助ける展開ををショウンに書かせることだった。たとえ虚構の中であっても、誰かの命を救う行為に従事することが、現実の彼の自殺を思い留まらせることに繋がるのではないか……。
 このアイデアはいったんは効果をあげる。どこにいるかわからない谷崎少年は、「ショウン」として<セレストリアル>に書きこみを始めたのだ。
 それでも物語のなかに「自殺」を持ちこもうとするショウンの書きこみを見て、ほかのクルーたちは次々とショウンを救う手段を提案していく。その結果、ついにショウンは自首することを決意する。

 多分、私がこのアイデアで小説を書けば、ラストは悲惨なものになっていたと思う。谷崎少年、パソコン抱いたまま死んでるシーンで終わり、とか。
 山本さんのつけた結末は、一見すると「甘い」し「安易」だ。「現実には、そう、うまくいくわけないじゃん」と批判することも簡単だろう。
 けれど、それならば私がつけたようなアンハッピーエンドは、「甘く」もなく、「安易」でもない、と言いきれるのかどうか、と考えてみたらどうだろう。どうもね、それもやっぱり「現実」にだらしなく依拠しただけの「安易な」結末なんじゃないかな、という気がしてくるのだ。
 そのときになって初めて、山本さんの意図が、そしてこの小説の「価値」が見えてきた。
 確かに、ラストのアイデア、生体宇宙船である戦闘艦ドームズデイ・シップを「改心」させるために、クルーたちの全データを送信するというアイデアは、SF設定として面白くはあっても、理想的に過ぎる、という気はしないでもない。なんか映画『ウォーゲーム』の焼きなおしみたいだな、という感触もあるし。
 でもって、実際にジームズデイ・シップは、光り輝く純白の宇宙船に変貌し、戦闘艦としての呪いから解放されるのだが、ネットでの仮想現実とは言え、ご都合主義の謗りを受ける危険は充分にある。
 何より、こんなことで現実の谷崎少年が、自首する可能性は低いのではないか?

 けれど、やはりこの物語にアンハッピーエンドはふさわしくないのだ。
 実体のない言葉だけのやりとりに過ぎないと批判されることも多いネットの世界だが、ならばネット社会には全く希望は見出せないものなのか。
 ネットに居住する人全てが2ちゃんねらーであり(^_^;)、便所の落書き的意見の垂れ流ししかできないものなのか。
 そんなことを言い出すなら、そもそも人間どうしのコミュニケーション自体が、単なる本人どうしの思いこみに過ぎなくなってしまうのではないか?
 パソコンを通じて知り合った、顔も見えない人と人との間にも心の交流がありえる、と考えて、何が悪い?
 現実的、と言えば聞こえはいいが、ただニヒルを気取ってるだけで何一つ理想を語らない姿勢が、果たして何かを生み出すものなのだろうか。
 確かに、現実は甘くない。
 けれど、理想を語らぬ現実と、信頼や友情を熱く語る虚構のどちらが魅力的か、と問われれば、私は躊躇なく、後者である、と断言する。
 理想を語らない作家もいる。それはそれで、それがその作家の姿勢だから別に文句はつけない。けれど山本さんは「理想を語る」作家なのだ。なのに「あの人は理想を語りすぎる」という批判をすることは、そもそも的外れだろう。
 安易な自己犠牲で宇宙船クルーが死にまくる映画『アルマゲドン』に対する山本さんの怒りもここにはあるような気がするな(^o^)。

2002年01月13日(日) カメラ小僧にご用心/DVD『エコエコアザラク』/『ななか6/17』5巻(八神健)ほか
2001年01月13日(土) 正月の半ばに/『天才伝説 横山やすし』(小林信彦)


2003年01月12日(日) ヤマさんが見ていた/DVD『パニックルーム』/『快傑! 鈴鳴高校探偵部』1〜3巻(日下部拓海)ほか

 昨日の『今日も映画日和』について、もう一つ書き忘れてたネタ。
 第二章「43年目のマーズ・アタック!」のところで、川本三郎さんがこう語っている。
 「『ゴジラ』って、空襲と原爆の映画でしょう。これは私の持論なんですが、ゴジラというのは海で死んでいった兵隊たちの霊なんですよ。ゴジラを倒す科学者、平田昭彦も戦争で負傷して、片目を失っている。それで河内桃子演じる婚約者を諦めて、最後、ゴジラとともに海に沈んでいく。あれは『海ゆかば』ですね」
 対談は1997年だから、金子修介がこの記事から『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』のネタを拾った可能性は高いなあ。まあ読んでなくて、たまたま同じことを考えついただけかもしれないけれど、こういうのはあくまで「解釈」として考えるレベルだから面白いんであって、映画として見せるもんじゃないんである。
 百歩譲って、天本英世に「ゴジラは英霊の残留思念だ」と語らせるにしても、あんなにくだくだしく喋らせちゃいけない。新山千春に会ったときにそのことをヒトコトだけ言わせて、あとは一切黙秘。この言葉の解釈はほかのキャラにまかせて、もしゴジラが本当に怨念の塊なら、それをどう倒せばいいのか? って方向にドラマを持っていかなきゃなあ。
 後半、普通の怪獣プロレスものにしちゃうし、普通の人間の武器でゴジラが倒されるんだったら、その残留思念って設定、なんの意味もなくなっちゃうじゃん? ゴーストバスターズ連れてきた方がまだ整合性が合うぞ。
 だからヘタにコリクツひねったらボロが出るんだってば。「なぜだかわかんないけどゴジラは倒せない」っての、ちゃんと絵で見せようよ。


 俳優の藤岡弘さん、芸名を「藤岡弘、」に改名してたんですって。まあ、ビックリ。
 てっきり「モーニング娘。」のマネかと思ったけど、改名してたのもう十数年も前だっんですって。
 オフィシャルサイトを覗いてみたら、確かに全部「藤岡弘、」って読点が付いてるわ。けど、句点ならともかく、読点だとそのまま文章続けて読めちゃうから、まさか「、」まで含めて芸名だなんて、全然気づかないわよ。でも、もしかしたら、世間のオタクのみなさん、とうに気づいていらしたのかしら。私だけが知らなかったんだったら恥ずかしいわ。どうしましょ。これからは「、」を付けるから許してね。
 藤岡さんの話だと、1986年に『SFソードキル』に主演したのが改名のきっかけだったんですって。渡された初稿の台本が、あまりにサムライの姿をゆがめて書かれてたんで、通訳をつけて日本の伝統文化の中でのサムライの役割や地位などを粘り強く説明して、台本を大幅に書き換えさせたんですって。
 だったらそもそも、「凍りづけの侍が現代に蘇える」って設定もなんとかしてほしかったわよねえ(^o^)。
 でも『レッドサン』の時も三船敏郎が同じように困らされたそうだから、日本映画ってやっぱりハリウッドには全然浸透してないんじゃないかしら。
 で、それがどうして改名に至っちゃったかっていうと、そこから藤岡さんの「侍道」が始まったからってことらしいのよね。これって大竹しのぶが北島マヤにのめりこんで「マヤは私」なんて言っちゃったようなものなのかしら。それとも「サムライ」演じると日本人って、先祖が別に侍じゃなくっても、みんなその気になっちゃうものなのかしら。漁師の息子のクセに「サムライ」って言ってたジャイアンツの選手もいたわね。アレはフィクションだけど。
 実在人物では、緒形拳が『MISHIMA』の時にカンヌで「アイ・アム・サムライ」とぶって、観客にシラケらけられちゃったそうね。あの人のご先祖さまってサムライ?
 「昔の武将はいったん“点”を打って決意した。流されないで立ち止まって自分を見つめる、という覚悟と『いまだ完成せず』の意味も込めて」
 って、藤岡さん仰ってるけど、実際に名前に点を打った侍なんていたのかしら? 「宮本武蔵、」とか「柳生十兵衛、」とか聞いたことないんだけど。
 いえいえ、私、別に藤岡さんの改名に文句をつけるつもりなんかないわよ。だって藤岡さん、素敵なんだもの♪
 でも「、」にこんな意味があるってことは、「モーニング娘。」ってもう終わっちゃってるってことになるのかしら。読みにくいから省略してるけど、実はしげの名前にも「。」がついてるのよね(^o^)。
 それはそうと、どうして女コトバなの? なんて気にしないでね。何となくこの話題を書こうと思ったらこんな感じになっちゃっただけなんだから。


 昨日からずっと徹夜で劇団の台本を書いてたんで、すっかり疲れた。
 タイトルは『アプリコットティー』ってのになったらしいが、初稿の段階でも、完成稿でも、アプリコットティーなんて全く出て来ない、どころか作品世界を象徴するものでもなんでもない。
 タイトル決めに私は全く関与していなくて、しげの話によれば相談した中で一番マシだったのがこれだと言うが、なんでこうみんなセンスがないかな(-_-;)。これなら『北京の秋』ってつけたって全然構わないくらいである。
 もともと私が付けていた仮タイトルは『挽歌』であった。
 これがみんなに実に評判が悪かった。単純過ぎるということなのか、意味が分らない、ということなのか。ちゃんと作品テーマに沿っちゃいるし、今回、ある意味古臭い純愛ドラマなんで、60年代の昼メロ的ニュアンスを狙ったのである(もちろん内容は昼メロそのまんまでなくて、捻っちゃいるが)。
 私もすごくいいタイトル、と思ってたわけじゃなし、このタイトルで行け、と押しつけるつもりはなかったが、でも「アプリコット〜」なんてアホなタイトルにされると「何でやねん」と言いたくはなる。
 会場への申し込みのためにタイトルが必要だったんで、急遽決めちゃったらしいが、「ヘタの考え休むに似たり」である。何もいいタイトルが思いつかないなら、そのまま通してほしかったなあ。

 しげ、台本が上がったのを見て、「〆切までに仕上がったのって珍しい」、とあまり嬉しくない誉め方をしている。実を言うとまだまだ誤植やら何やら一杯あるのだが、そこはもう現場で言いやすいように直してもらえばいいことなんで、特に注はつけない。
 ともかく、しげは台本を持って練習に出かけた。
 キャストのみんながどう反応するか聞いてみたいが、あまり下らん直しは言ってきてほしくないもんだ。
 疲れきった私は、昼過ぎまで爆睡。

 今回のキャストは4人、よしひと嬢、穂稀嬢、しげに客演のラクーンドッグさん。
 帰宅したしげから、練習の様子を聞いてみたが、一番感想を聞いてみたかったラクーンドッグさん、よしひと嬢、二人とも急に都合が悪くなって来てなかったそうである。それは残念。改訂があるとしたら、早めに読んでおいてもらった方がいいんだが。
 「特に感想はなかったの?」
 「一回通して読んだだけだし。あ、でもハカセ(=穂稀嬢)、『ヤマさん』のこと知らなかったよ」
 公演前に台本の中身について詳しく紹介するわけにはいかないのだが(カットされることもあるし)、台本の中に、「話は全部聞かせてもらったぜ」「わあ、ヤマさんね」「誰それ?」というヤリトリがあるんである。
 穂稀嬢、ハタチかそこらだから、多分『太陽にほえろ!』ももう知るまいと思ってワザと書いたんだが、やっぱり知らなかったか。
 私の書く台本、最近こういう「世代間のギャップ」ネタが多くなってるんだが、若い人たちのあまりにモノシラズな状況に対して、ちょっとばかし腹が立ってるんだな(~_~;)。
 できるだけ昔ネタを持ちこんで、少しは文化ってものの意義を考えてもらいたいなあって狙いなんだが、ボケ女の穂稀嬢にも少しは通じたかな、と思って、更にしげに状況を聞いてみたのだが、しげは私の想像を上回るとんでもないヤツであつた。
 「で、ホントのことは教えてあげたんだろ?」
 「うん、教えたよ」
 「ちゃんと『太陽にほえろ!』のネタだって言った?」
 「いいや、それは言ってない」
 「……なんで? じゃあ、なんて説明したの?」
 「あのね、『ヤマさんとチョーさん』って漫才コンビがいるんよ」
 「……はあ?」
 「ヤマさんがどこからともなく現われて『話は聞かせてもらったぜ』って言うもんだから、チョーさんが『アンタとはやっとられんわ!』と突っ込むという」
 「全然違うやんか! ……じゃあ、露口茂の名前も下川辰平の名前も出さなかったんか」
 「あ、それは出した」
 「余計悪いわ!」
 穂稀嬢、しげのデタラメ、信じちゃってるんだろうなあ。

 でもって、しげの感想はどうだったかというと、穂稀嬢演じるキャラが「パラレルワールド」を「パラソルワールド」と言い間違えるギャグが気に入ったそうである。全く、なんでこういうマイナーなネタばかりに、しげは反応するんかな。いや、一応NHKで放送されてたんだから、マイナーといっちゃ悪いかもしれんが、少なくとも安孫子さんの代表作とは言えないよなあ。


 夕方から外出、博多駅の紀伊國屋に寄ったあと、8階の食堂街で、お好み焼きの店に入る。
 名のみ聞いたことのある「もんじゃ焼き」を生まれて初めて食べる。要するに「薄いお好み焼き」なわけだね。スペシャルを頼んだので具は肉、餅、エビ、卵ほか盛り沢山で実に美味い。値段はお高いが、食い出したらちょっと病みつきになりそうである。
 チーズ嫌いのしげは、品書きに「チーズ」と書かれていないお好み焼きを選ぶ。ところが何を間違ったのか、運ばれてきたお好み焼きに、調理人さんが豪勢にチーズをまぶし始めた。しげもその場で「チーズは入れなくていいです」と言えばいいのだが、こういうときにしげは絶対にタイミングが掴めなくて言いそびれてしまうのである。
 こんがり焼けたお好み焼を目の前にしてもしげが全然箸をつけないので、その時になってようやく私も、チーズが入ってて食べられないのだ、と気がついた。
 「食べんと?」
 「チーズが入っとるもん」
 「チーズケーキは食えるやん」
 「チーズが固形じゃなければいいとよ」
 お好み焼きもチーズは溶けて固形じゃなくなってると思うが。
 しげの偏食はただのワガママなので、私も改めて別の料理を頼んでやったりしない。一応、私のもんじゃ焼きを代わりに食うかどうか聞いてみたが、「アンタのやけん」と食べようとしない。人の親切も無にするというなら、それ以上、気遣ってやるこたぁない。しげの残したお好み焼きを、遠慮なく食べることにする。
 ところが、私がいかにも美味そうに食ってるのを見て悔しくなったのだろう、しげ、「チーズは食えない」と今言った口で、「これ以上は渡さないぞ」という形相でお好み焼きを食べ始める。結局、しげは食えないはずのお好み焼きを半分以上は食っていた。ホントにチーズがダメなら、こんな食い方はまずできまい。やっぱりしげの場合はただの好き嫌いである。
 イジマシイ、とはこういうことを言うんだろうな。


 そのあと、しげも今日は仕事が休みということなので、ネットカフェ「POPEYE」で時間を潰す。
 しげ、以前からぴんでんさんに「『女帝』はイイですよ!」と吹きこまれていたので、1巻から食いいるように読み耽っている。いくら「面白い」と言われたからって、ホントに面白がるなんて、つくづく暗示にかかりやすいというか、騙されやすい女だ(^_^;)。
 まあねー、アレを読んじゃイカン、コレを読んじゃいかんなんて注文つけようって気はないけどよー、『女帝』だの『野望の王国』に入れこんじゃう女って、どう思いますか、特に妙齢の女性の方。
 って、このサイトを覗いてる人で、「妙齢の女性」ってのがどれだけいるというのか、そしてその中のどれだけが『女帝』の存在を知ってるのか。
 いや、だから「しげはヘンだ」ってことになるんだけど。

 DVDもここには置いてあってヘッドホンで試聴できるんだけど、数が少ない。『キャッツ&ドッグス』か『パニックルーム』にするか、しげに聞いてみたら、てっきり『キャッツ』の方にするかと思ったら、『パニック』だと言う。
 「『パニック』怖いかもよ?」
 「でも、『キャッツ』は見たくないから」
 好き嫌いの基準というか、根拠がわからん。
 ともかく、プレステ2が置いてあって利用しないのも損なので、二人で『パニックルーム』を見る。
 コケオドシの無意味な演出が多くて、全然怖くない。ホラーものかと思ったら、『暗くなるまで待って』式の泥棒サスペンスだったんだね。
 ジョディ・フォスター主演ってことで結構期待してたんだがなあ。ストーリーは陳腐だし展開は先が読める、読め過ぎる。ジョディ・フォスターの娘が糖尿病で、インスリン注射が必要なんだけど(なんだか『MASTERキートン』読んだんじゃないかって設定だ)、これを助けるのが3人組の泥棒の中で唯一人間的な感情を持ってる黒人の技術屋。あとの二人が、アタマの悪い金持ちのボンボンにただの殺人鬼だもんなあ。誰が助かって誰が死ぬか、ハナからバレバレだよ。
 それくらいならまだしも、パニックルームに閉じ込められて、泥棒たちにガスを送り込まれて、ジョディがそれに反撃するために火をつけるって展開は何なんだよ。普通自分が焼け死ぬだろ(^_^;)。これも相当なトンデモ映画であった。


 マンガ、叶恭弘『Tokyo ants 叶恭弘短編集2』(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 表題作は巨大コングロマリットに所属するトラブルシューターグループ「ants」の活躍を描くもの。主役が見習いの熱血バカで、失敗しながらもその情熱が、初め冷徹だった他のスタッフの心を和ませていく展開も定番。
 それよりは、人の嘘を見破る能力を持つ燕馬を主役にした連作、『ENMA』『enma』の方が面白かった。
 巻末の『蝶 -swallow tall-』は、これも人の死が「蝶」の姿となって見える超能力を持つ少年の話。けれど定番に見えてラストのドンデン返しは小味が利いている。叶さんはよくあるラブコメしか描けない、と思いこんでると足下掬われるぞ。


 マンガ、日下部拓海『快傑! 鈴鳴高校探偵部』1〜3巻(実業之日本社/MBコミックス・各410円)。
 日下部先生、最近エンピツの日記も覗けないくらいお忙しいようだけれど、大丈夫なんかな。
 巷の本屋ではご著書をなかなかお見かけしなくて、感想書くこともできませんでしたが、ようやくネットカフェで3冊だけ。でも4巻がなぜか置いてないです(+_;)。
 私立とは言え、学園内で「探偵部」なんて人のヒミツを探るような部活動が認可されてるとは思えないのは欠点だけれど(野間美由紀『パズルゲーム☆はいすくーる』もそこはテキトーで、「自由な校風」ということで誤魔化している)、そこに目を瞑れば、心理描写がリアルで説得力がある。学園ものに拘らずに、もう少し対象年齢を上にしてもよかったんじゃないかな。ミステリとしての骨格もしっかりしていて、もちっと店頭に出回っててもいいんじゃないか。
 メガネで容姿に自信がなく、笑顔を見せないヒロインの葵が、朱雀たち探偵部のメンバーと触れ合う中で、どんどんかわいらしくなっていく様子にはまるで自分のムスメを見るように嬉しくなってしまった。いや、実際にムスメはいないんだが。
 でも部長がホンモノの「猫」っていったいどういう設定なんだろう(~_~;)。

2002年01月12日(土) 寝(られ)る場所そろそろ作らんとな/『仮面ライダー激闘ファイル』(岩佐陽一)/DVD『本陣殺人事件』ほか
2001年01月12日(金) 一陽来復


2003年01月11日(土) 妊娠来たかと鸛に問えば/『今日も映画日和』(和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資)/『ワイルダーならどうする?』(キャメロン・クロウ)

 タイトルは西村知美さん妊娠記念。
 「鸛」は「コウノトリ」と読みます。私も初めて知った。あまりその点、突っ込まないでね。
 いや、別に深い意味はないです(^_^;)。
 西村さん、不妊治療が失敗続き、流産も二度経験して、あきらめてたところの自然妊娠だそうである。
 こういうニュースを聞くと、「不妊治療」ってアテになるんかな、という気がどうしてもしてしまう。医学の発展にイチャモン付ける気はないけど、医者が自分たちの研究してることをきちんとオープンにしてないことが誤解を呼んでること、多すぎないか。
 ウチにも子供いないけど、しげは「不妊治療してまで子供ほしくない」って言ってるもんなあ。なんか怖そうだし。
 それは私も同じ考えなんで、お医者さんにはさ、『ブラック・ジャック』で本間丈太郎が「人の生き死にを医者がどうこうしようというのはおこがましいとは思わんかね」って語ってるセリフ、よーく考えてほしいんだけどね。少なくともこれをただの姿勢の問題に過ぎないとか、哲学的なだけで現実性のない言葉って受けとってるような医者にはかかりたくないよ。
 ラエリアンムーブメントのクローンがどうたらって話もよ、クローン技術があいつらに可能かどうかってこと以前に、クローンに関する知識そのものが一般化してないじゃないかよ。本気で「自分と全く同じ『記憶』を持った人間が生まれる」って信じてるヤツいるんだぞ。だからあんなフツーだったら東スポでしか扱わないようなガセが一般誌や全国ネットのニュースになっちまうんだよ。
 それにしても、クローンに反対してる方も賛成してる方もどっちも宗教がらみってか。こうなると信教の自由の保障自体、いっぺん考えなおして、お布施の3分の2は税金で徴収するくらいのことしなきゃならんのじゃないかね。で、国自体が宗教国家ってとこは問答無用で滅ぼすと(^o^)。
 ……地上から人間がいなくなるな。
 
 
 明日が劇団の練習日、台本も今日が〆切ということなので、ひたすら朝から書いて書いて書きまくる。
 疲れて風呂に入って、もう1回書きだして、合間に本読んで。
 なんとか目途がついたところでひと寝入り。


 和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資『今日も映画日和』(文春文庫・660円)。
 オビには「心から映画を愛する3人だから、こんなにたのしい! SF超大作から青春映画、西部劇に法廷ものまで、語った映画実に1200本!」
 珍しく、惹句に掛け値なし、このお三方の対談本なら、1200本でも少ないくらいだろう。

 書かれたもの、語られたものを読んで、ああ、この人はちゃんと映画を見てるんだなあ、と感心し、そして尊敬する評論家って、ホントに数が少ない。
 そりゃ、どんな批評だって、最終的には個人の主観なんだから、何言ったって構いはしない。けれど、あるジャンルの作品について語ろうと思えば、そのジャンルについての基礎知識が必要になる場合ってのが必ずあるのだ。それを無視した批評や論議は、どんなに感動的な筆致で書かれていたとしてもクズである。

 例えば、あちこちで話題になった、『アルマゲドン』問題。
 あれを「コメディである」と語る人がいたけどさ、そう主張したいんだったら、そもそもコメディってのが作り手の意図はどうあろうと、観客が笑えりゃそれでいいんかってことまで含めて論議しなきゃならなくなる(そう言えばあれ見た感想、日記に書くのケロッと忘れてたな。いろいろ腹立つ描写があったんで描く気が失せたんだろう。今からでも書いたがいいかなあ)。コメディってのはそんなもんじゃないよ、ということで「バカ映画」とか「トンデモ映画」という呼称をしてる人が多かったと思うんだけれど、「作り手が確信犯だから」ということで「コメディ」と言いはってたんだよ、あのアホ連中はさ。果てはあの映画を非難してた人たちに向かって「映画の見方を知らないヤツラだ」とか悪態ついてたしなあ。そりゃ、どっちの話だよ。本気でその件について論議するなら、その「映画の見方」ってことについて、作品論、作家論、読者(観客)論、全ての立場から論破してやってもいいぞ。
 でも、どうせそういうヤツラは、たいてい自分の知識のなさを棚にあげて、「あなたの話題にしていることは私にとってはどうでもいいことなんです」「結局は主観の相違ですね」とか言って、逃げるんだよな。だったら世の中に「客観描写」なんてものは存在しないってことになるだろう。それは「映画」ばかりでなく、芸術作品、引いては人間自体の否定だ。
 そんなヒキコモリの言い訳みたいなモノイイするんだったら、最初から土俵に登ってくるんじゃねえや(`´)。
 百歩譲って、その「確信犯だから」って主張を受け入れたってさ、別に確信犯がバカじゃないってことにはならないんだから、やっぱりコメディとしても駄作だとしか言えないんだが。私ゃあれ見て、笑う気にすらなれなかったよ(-_-;)。

 じゃあ、そんな映画の見方もわからないシロウトやエセ評論家どもとは一味違う人たち、ということになると、私にとってはこれはもう3人しかいないのである。
 荻昌弘、淀川長治(ボケる前)、そしてこの瀬戸川猛資さん(小林信彦や森卓也あたりが次点。あとは十把ひとからげ、水野晴郎やおすぎ、襟川クロなんかは論外である)。
 でも三人ともすでに故人。なんか最近、故人の話ばかりしてるなあ(T-T)。

 川本三郎さんが、あとがきで瀬戸川さんに対してこう語っている。
 「瀬戸川さんは博識だった。ミステリ、SF、映画に関して、実によく知っていた。この三つのジャンルは、子どものころから好きでないと深い知識が得られない。学校での勉強とはわけが違う。大人になってからのにわか知識ではだめだ」
 まず、この文章に反発を抱いて、「大人になってミステリやSFや映画を好きになっちゃいかんのか」なんて思う人間は、そもそも大人ではない。いやもうはっきり言って超低級のバカであって、私ゃ口も利きたくないよ。
 何歳で何を好きになったって構わないが、そんなことを話題にしてるわけじゃないじゃん。知識や判断力について、子供の頃から読んでる人の方が一日の長があるのは当たり前だって話をしてるんである。たいていこんなこと言ってるやつは、本も読まず、映画も見ず、自分のバカを開き直って肯定するためか、本好き映画好きをからかうためにこんな言い訳をしてるんである。要するに「勉強できないガキが『数学できんとがなんで悪いとや』と叫ぶタワゴト」から一歩も出ちゃいないんである。
 瀬戸川さんの『夢想の研究』(創元推理文庫)を未読の方は、ぜひ一読していただきたい。映画一本を見て語るために、どれだけの知識が必要となるか。

 本書の内容について語りだすと、これも果てしなく続きそうである。
 いやはや、私ごとき浅薄な人間が口を差し挟む余地など本来はないのだが、対談本の唯一の問題は、話の流れで、もっと語ってほしい話題がサラリと流れてしまうことがある点だ。
 例えば「スクリーンの中の酒場で会おう」の章で、和田誠さんが「チャップリンの初期の短編で、冒頭で奥さんが喧嘩して出ていってしまう。次のカットでチャップリンの後ろ姿が映って、こう肩を震わせている。誰が見ても泣いてるんですよ。で、カメラが前に回るとカクテルを作っている(笑)」
 この映画のタイトルが脚注でも紹介されない。編集者に知識がないと、こういう「穴」が往々にして起こるんである。
 答えは『のらくら(“THE IDLE CLASS”)』。私が劇場で見たときには『ゴルフ狂時代』と解題されていた。
 普通、「チャップリンの初期短編」という言い方をすると、これはメーベル・ノーマンドあたりと組んでいたキーストン社時代(チャップリンも日本では「アルコール先生」と呼ばれていたころ)や、エッサネイ社時代、せいぜいミューチュアル社時代(エドナ・パーヴィアンスとのコンビが最も多かったころ)までのもの(概ね1914年から1917年)を指す。長さも2巻ものが多く、20分程度が普通だった。従って、1921年、ファーストナショナル社制作で3巻もの32分であるこの『のらくら』は、ちょっと「初期短編」とは言いきれないのである。
 和田さんも相当な映画ファンではあるのだが、こういう間違いは淀川長治さんなら絶対に犯さない。これが「一日の長」ってやつなのだな。

 瀬戸川さんの見識に驚いたのは、「法廷から正義が消えた」の章で、アガサ・クリスティー原作(『検察側の証人』)、ビリィ・ワイルダー監督作『情婦』のラストシーンについて触れているところ。
 私もあの映画は何度も見ていたのだが、全く気づかなかったことを指摘してくれていた。
 ……ここから先は、『情婦』を見てない人は絶対に読まないように。(V^−°)イエイ!

 最後の最後のドンデン返しのあと、レナード・ヴォール(タイロン・パワー)に裏切られたと知ったクリスチーネ・ヘルム(マレーネ・ディートリッヒ)が、レナードを“そこにたまたま置きっぱなしにされていた証拠のナイフ”で刺す。ところが、それは、やはりレナードにまんまと一杯食わされた弁護士のウィルフリッド・ロバーツ卿(チャールズ・ロートン)の「作為」であったというのだ。

 瀬戸川「ロートンが片眼鏡(モノクル)持ってたでしょ。あれでね、こう(とおなかのあたりで両手で眼鏡を動かす)やっているシーンがあるんですよ。その先にナイフがあるんだよね。ディートリッヒに、ここにナイフがあるぞ、と示してるわけ。それで、ディートリッヒはカーッときて、刺す。そういう流れになってるの」
 川本&和田「えーっ?」

 うわあ、川本さんも和田さんも気づいてなかったのか。
 私も驚いて、慌てて『情婦』のDVDを引っ張り出して見返してみた。
 すると……まさしくその通りだったんですね。( ゜.゜)……ポカーン。
 なんで今まで気がつかなかったのか。確かにロートンは「片手で」モノクルをぶら下げ、回転させている。その反射光が、机の上のナイフを照らして……って、問題はその位置だ。
 ナイフは左画面の下ギリギリのところにあって、最初、ウチのテレビのモニターでは左端画面が切れていてそれが見えなかった。普通のテレビサイズだと、ちょうど画面が切れる位置にこの光は映るのだ。それがどうしてわかったかと言うと、パソコン画面で見なおしてようやく左画面の切れない位置を確認できたというわけだ。
 川本さん和田さんは、当然初見は劇場でだろう。これは想像だが、劇場ではその光、下手の袖幕に隠れて見えず、それで川本さんも和田さんも気がつかなかったのではなかろうか。私も基本的に「映画は劇場で」と考える方だが、実のところ、この上映条件に関して言えば、画面のサイズばかりでなく、明るさ、音響等について列悪な環境の劇場は、昔から腐るほどあったのである。
 この「反射光の画面切れ」は、断じてビリー・ワイルダーのミスなどではない。これこそが「確信犯」である(『アルマゲ』賛美者は「確信犯」って言葉もこういう具合に使ってほしいものである)。
 『情婦』の制作は1958年、カラー映画が普通になり、テレビもお茶の間の寵児となっていた時代であれば、自作の「画面切れ」についてもワイルダー監督は何度も煮え湯を飲まされているはずだ。そんな状況にあって、あえてモノクロ・ヨーロピアンビスタサイズで撮影したワイルダー監督が、「画面の両端が切れることの実作での弊害」を演出してみせたと考えるのは、決して的外れではなかろう。
 瀬戸川さんは、舞台版『検察側の証人』の脚本と舞台も見て、その上で「これはクリスティーの創作ではなくワイルダーの演出である」とはっきり断言してるんである。
 ……いやね、あのジジイ、それくらいのことは絶対にするヒトなんだよ(^_^;)。そう断言できるのは、ワイルダーの映画をずっと見続けている人になら、説明は要らないだろう。そう判断できるのが本当の意味での映画を見るための「知識」というやつなんだよ。


 積読の山の中から、キャメロン・クロウ著・宮本高晴訳『ワイルダーならどうする? ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話』を引っ張り出し、当該部分に当たってみる。
 ワイルダーはロートンの演技を絶賛してはいるが(クライマックスシーンを二十通り演じ分けてみせ、そのどれもが一つ前の演技を上回った!)、光の演出については触れられていない。ちゃんと聞いてくれよ、キャメロン・クロウ。

 この本で語られているロートンの最晩年のエピソードは、涙なしには読めない。
 ワイルダーの『あなただけ今晩は』にロートンは出演する予定だった。
 しかしそのころ既にロートンはガンに冒されていた。ロートンはワイルダーに伝えた。
 「少しすればよくなる。四月ではなく、夏の終わりに来てくれ」
 夏の終わり、ハリウッド大通りのロートン家をワイルダーは訪ねた。
 体重が60ポンド(27キロ!)減っていたロートンは、プールサイドを看護士に付き添われて歩いてみせた。けれど、最後の数歩は息も絶え絶えだった。
 「医者の指示は一つ残らず守ったんだ! 看護士も四六時中ついている! だから9月には万全だ!」
 それを聞いたワイルダーは答える。
 「すごいじゃないか! 続けるんだな! じゃあ、9月から始めよう!」
 ロートンが亡くなったのは、その一週間後のことである。

 映画に関する本を読むと語りたくって仕方なくなるなあ。
 もちろん、この本を読んだら、ロートンのほかにも触れたくなる人々がいくらでもいるのである。いや、一つ一つのエピソードの面白いこと。
 ジャック・レモン、ジョー・E・ブラウン、I.A.L.ダイアモンド、マリリン・モンロー、アーサー・ミラー、シャーリー・マクレーン、ウォルター・マッソー、オードリー・ヘップバーン、トニー・カーティス、ピーター・セラーズ、ピーター・ローレ、セシル・B・デミル、チャールズ・リンドバーグ……。
 とても語りきれないことの中で、少しだけ触れたいのは、ワイルダーが会社とトラブッて編集を放棄し、本編の三割が失われた『シャーロック・ホームズの冒険』である。見たことのある人にはわかると思うが、あれはいいところもたくさんありはするのだが(マイクロフト・ホームズ=クリストファー・リー!)、ホームズファンにはイマイチの評価だったりする。しかし、もしもカットされたフィルムが見つかれば、もしかして評価は逆転するのではないか。
 そういう努力をこそ、映画会社はしてほしいものである。

 ワイルダーの語る「最高の映画」は『戦艦ポチョムキン』。
 自作の傑作は『アパートの鍵貸します』『お熱いのがお好き』『サンセット大通り』の三本。
 傑作コメディと認めるものは『イヴの総て』『雨に唄えば』『フォレスト・ガンプ』『恋愛小説家』『フル・モンティ』。周防正行監督の『Shall We ダンス?』も傑作と認めてくれている。
 「いいコメディはまじめに監督しなくちゃいけない」
 このセリフ、聞かせてやりたいヤツラって、やたら多いような気がするな。

2002年01月11日(金) 先陣争い雪隠の役/『雪の峠・剣の舞』(岩明均)ほか
2001年01月11日(木) 一週間が長いなあ/映画『ノース 小さな旅人』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)