無責任賛歌
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| 2002年01月14日(月) |
原作と映画の間/映画『走れメロス』/『朱色の研究 夕陽丘殺人事件』(有栖川有栖・麻々原絵里依)ほか |
成人の日。 ああ、三連休というのはありがたいなあ。自分のペースでやりたいことがやれるし。っつーかたいてい本読んだりDVD見たりなんだけど。 三日も休みがあると何をしていいか分らない症候群じゃないもんね、私は。
昨日録画しといたCSチャンネルNECO『走れメロス』をしげと見る。
『走れメロス』の映像化は、恐らく腐るほどあると思われるが、そのほとんどが世に知られてはいまい。 それはたいていが、NHK教育とかの子供番組でのダイジェストものだったりするからだ。 では、本格的な映画化作品はあるのかと言われると、これが意外にもほとんどない。理由はおそらく単純に、「舞台がギリシャである」ため、日本人キャストでは映画化が無理だったせいだろう。 しかし私は、それ以外にも、「超有名な小説が意外にも映画化されにくい」理由があるのではないかと思う。そのことをちょっと考えてみたい。
それは要するに「手垢がつきすぎている」ということだろう。 映画化しても新鮮さに欠けるのである。集客力につながるものとはちょっと考えにくい。 更に言えば、「教科書に載るような作品は所詮、教条主義的な作品に過ぎない」。既成の概念の破壊と再編成が芸術の価値であるとすれば、『メロス』くらい魅力のない作品はないのだ。友情の物語など、描かれつくされ、語られつくされている。仮にそういうものを描きたいからと言って、その典拠を『メロス』に求める必要など全くないのだ。 実際、この映画が製作された1992年、「なぜ、今どき『メロス』?」と、考えた人は多かったのではないか。 太宰作品に限らない。過去の作品を今に蘇えらせようとするには、そこに明確なモチベーションが必要となる。芥川龍之介の諸作だって、黒澤明の『羅生門』(原作は『藪の中』)、豊田四郎の『地獄変』が知られているくらいのものだ。ほんの百年も経っていないような時期の小説ですら、現代での映画化は容易ではない。果たして『メロス』の映画化に、我々はどのような意味を見出せばいいのだろうか。
では、『走れメロス』の映画が今までに全くなかったかというと実はある。 しかも全て日本人キャストで。 ならば舞台が日本なのかというとそうではなく、中近東の某国に移し替えられているのである。 タイトルは『奇巌城の冒険』。 主演、メロスにあたる「大角」に三船敏郎(……え?)。 セリヌンティウス「円済」に中丸忠雄。王役は三橋達也。 製作は東宝=三船プロ。つまりこれは、『大盗賊』で呂宋助左衛門に扮した三船が姉妹編として作った「冒険もの」なのである。 三船とメロス。このミスマッチ感覚が実に楽しい映画であった。 でもまあ、それは余談。
しかし、今回の映画を見ていて、私は唖然とした。 先にハッキリ言ってしまうが、これは太宰治の『走れメロス』とは全くの別物である。その精神においては真逆とすら言えるものだ。 言うまでもなく、この『走れメロス』はアニメーションである。絵で描ける以上、原作通りの世界観を展開させることは不可能ではなかったはずだ。 メロスに山寺宏一、セリネ(セリヌンティウス)に小川真司、ディオニシウス2世(この名は原作には出て来ない。史実に合わせた改変である)に故・小林昭二。 なんともはやシブ過ぎるキャスティングである(もっともこれじゃウリがないと製作者が思ったのかどうか、女性陣には水沢アキや中森明菜を並べている)。 こう芸達者が揃っているなら、やはり物語を原作に忠実に描いたとしても、ありきたりな印象にはならずにすんだと思う。 しかし、監督のおおすみ正秋(あの『ムーミン』や『(旧)ルパン三世』の監督だ)は、全てにおいて原作とは正反対の解釈で物語を作っていたのだ。
まず、メロスとセリネは竹馬の友ではない。 これだけでも大胆な脚色なんだが、問題はその後だ。 シラクサの町で初めて出会った二人、旅人のメロスと彫刻家のセリヌンティウス。気があったその日から二人は親友になる。 城内に入りこんだメロスが、国王暗殺の犯人として捕らえられる展開は原作とも共通しているが、原作がその目的が事実だったのに対して、アニメでは「うっかり迷いこんだだけで国王暗殺の意図はない=王の誤解」とまたもや大きな改変。
そして、これがもっとも大きな変更だろうが、セリネが身代わりを申し出たのは、メロスを助けるためではなかったのだ。 ノラリクラリとしていてはっきりとは語られないが、どこかセリネはメロスの帰還を信じつつも「帰ってこなくてもいいかな」と思っているフシがある。 酒で身を持ち崩していたセリネは半ば自暴自棄的な思いで人質に名乗り出たのだ。暴虐な王をたしなめるきっかけがほしかった、それだけだったようにすら見える。 となると、ラストで殴り合う二人の行動の意味も、全くの別解釈が必要となろう。セリネがメロスに殴らせたのは、メロスの真意を疑ったからではない。彼を利用しようとしたからだ。 原作では帰還したメロスに自分の不明を詫び善政を誓う国王だが、アニメでは最後まで反省はしない。結果、民衆は国王をシラクサから追い出してしまうのである。途中経過を見ていても小林昭二の憎々しい声で演じられているこの国王が最後に涙を流して反省するようには見えなかったが、これはどうやら史実のディオニシウス2世の事績に合わせた改変のようだ。 つまり、薄っぺらなヒューマニズムでオチをつけた原作を、監督は拒否したのである。それが正しいか正しくないかの議論は置く。ここには、政治とは結局、戦いによってしかなされないと考えるおおすみ正秋のリアリストとしての目が働いていると言っていいだろう。
……いや、面白い。 書き忘れたが、作画監督は『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』、『人狼』でアニメーションのリアル演出で、一つの頂点を極めたと言ってもいい沖浦啓之であるが、まだほんの少し型どおりの演技をキャラクターにつけている部分が見えて微笑ましい。 ここから『人狼』までわずか数年でたどりついたってのがすごいよなあ。
沖縄では一足先、昨日に成人式が行われていた模様だが、予想通り(^_^;)トラブルがあった模様だ。 会場内に酒を持ちこもうとした連中が警備の者と押し問答の末、乱闘になって逮捕されたとか。 昨日の新聞にも「沖縄は危険」とか書いてあったから、いかにも世間の期待に答えたような形で事件を起こしてくれたものだ。さすが、イマドキの20代(実際にコトを起こしたのは後輩の19歳の連中だったらしいけど)。外さないよねえ。 またぞろ昨年のように「成人式のあり方は」とか言い出してるやつがいるけど、あり方もクソもあるか。どう対策を取ろうが、バカはバカだからバカをやるものである。バカじゃなきゃ、これだけ世間が騒いでるのにわざわざ逮捕されるようなコトをするものか。 どうせなら下手に若者に迎合してイベント制を持たせるようなことはキッパリやめて、もう徹底的につまらなく、どこまでツライ目に忍従できるかを試す儀式にすればいいのだ。 内容は名士の講演を延々6時間、会場は吹きっ晒しの野っぱらに正座、参加拒否者には罰金五十万円、それくらいやって、暴動起こすヤツを全員タイホ、ということにするのだ。これでいずれ犯罪を犯すヤツを未然にムショにぶちこんでおけるという(^o^)。 まあ、冗談めかして言ってるけど、成人式が有名無実なのは事実だし。元々これって「イニシエーション」でなきゃならんのじゃないか? 「成人」になるための通過儀礼的なことやってるところが、どこか一県でもあるのか? 別にバンジージャンプをやれとは言わんが、「ハタチになったこと」を証明するような「行為」なくして「成人式」と言えるか。 逆説的だが、とっつかまった連中は、「ハタチになったこと」を身を持って体現したのである。本人たちはそれで満足だろうから、十年くらいぶちこんどいてハタチの味を噛み締めておいてもらいたいものである。
今日こそ『ハリー・ポッター』を見ようとしげを誘うが、しげは疲れて寝ている。今日を逃すとまたしばらく行けないというのに、ロングランになってるからと言って、のんびりしてやがるなあ。 まあ、明日に疲れを残さないためにもそれはそれでありがたいんだけど。
CSファミリー劇場で『ガメラ2 レギオン襲来』を見る。 ああ、沖田浩之が出ている。 未だに自殺の理由を知らないんだよなあ。遺族は当然知ってるんだろうけれど、余り口の端に上らせたくないんだろうな。 しかし、ほんの数年前の映画だと思ってたけど、結構時間が経ってるんだね。 冷静になってみるとともかく「ここで予算が使えなかったのは痛いなあ」というところが随所にある。 自衛隊が地下道まで突入していて群体レギオンと戦うシーンがないのは不自然だし、草体レギオンの開花の様子は、アニメーションででもいいから見せなきゃ盛り上がらないよ。 あとやっぱり永島敏行と水野美紀が敬礼して別れるっての、「今時の若いヤツがそういう『文化』を脈絡もなく、いきなり見せるのは不自然」だと思うぞ。 ウチの女房も多分水野美紀と同い年くらいだと思うが、私が仮に戦場に行くことがあったとしても、敬礼で送りゃしないと思うのだ。新作『ゴジラ』で、私が宇崎竜童と新山千春のラストシーンに不自然さを感じてるのも、その辺に理由がある。 それとも私が知らないだけで、「敬礼文化」ってのが世間では流行してるのか。んなことはないだろう。私は単に、『ヤマト』『マクロス』以降の戦争アニメの悪影響だと思うがな。アニメ感覚で実写を撮られてもねえ、文法が違うと思うんだがなあ。
『すごいよ!マサルさん』5話、『これが青春だ』13話、『行け!ゴッドマン』7話など、ダラダラと見る。
『マサルさん』は言わずと知れた大地丙太郎演出なんだけど、『フルバ』と演出の仕方が変わってないのな。とゆーか、『マサルさん』の演出のタイミングで『フルバ』も演出してるわけなんだけど、これって相当少女マンガから逸脱してるどぎついギャグだと思うんである。 『フルバ』ファンは怒らなかったんだろうか。
『青春だ』は、サッカー部部長を決める話。 結局部長に決まったのはいったん学校を退学していた不良。つまり不良がいかに更生するかって話なわけなんで、これも時代だよなあ。「学校に来れないヤツ=苦労人」という図式も今じゃ完全に崩壊してるし。
『ゴッドマン』、ただアクションだけを30分延々見せられるとツライツライ。 ただ殴りあってるのを映してるだけで、見せ方に工夫がないせいだろうけどね。無駄なようでも人間ドラマがいるのだよ、子供番組と言えども。
マンガ、北崎拓『なんてっ探偵アイドル』6巻(小学館・530円)。 だんだん、アキラ以外のトリコロールが目立たなくなってきたなあ。 3人のうち一人にだけ探偵能力があるって設定にしたのは失敗だったんじゃなかろうか。 「ジッチャンの名にかけて」とか「謎は全て解けた!」とか決めゼリフを三人でやるようにするとか、ケレンを入れた方がいんじゃないのかな。……それじゃ『スケバン刑事』か。 それと怪盗ものと鏡を使ったトリックは、もう『コナン』にだけ任しとけばいいんでやらないほうがいいよな。 あと、殺人の動機はもう少し練ってもらわないと……。 ……突っ込むほどのマンガじゃないですね。すみません。
マンガ、有栖川有栖原作・麻々原絵里依漫画『臨床犯罪学者・火村英生のフィールドノート�◆ー訖Г慮Φ罅〕射杁峪�人事件』(角川書店・546円)。 ……なげーよ、タイトル。 1巻が出たの、2年以上前じゃないか? でもこの本も去年の10月に出てたの気がつかずに買い損ねてたんだけど。 少女マンガ家によるミステリーの漫画化もずいぶん増えたけれど、70年代を引きずってるような古臭いセンス、もろレディースなクサイ演出、不必要に美形なキャラデザインの愚作(浅見光彦ものは、たいていそうだ)も多い一方で、原作をキチンと読みこんだ佳作も増えて来たのは喜ばしい。 動きの少ないセリフだらけのストーリーを、作画の麻々原さん、見やすくうまくまとめている。 原作の火村英生という探偵キャラクター自体には、私は余り魅力を感じてないのだが、アンニュイさを漂わせている作画デザインはなかなか秀逸である。ストーリー自体はまだ完結してないので、まだ感想は言えない。次の3巻がいつでるか分らないのがちょつとネックか。
2001年01月14日(日) 雪の断章/アニメ『ポール・グリモー短編集〜ターニングテーブル〜』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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