心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年06月29日(火) 注意獲得行動再考

子供の虐待死に関する研修会に行った話は書きましたが、また別の日に子供のトラウマのケアをしている専門家の話を聞きました。

虐待を受けた子供のトラウマがテーマでしたが、基本は子供も大人も変わりありません。大人であれば会話が可能ですが、幼児の場合はそういうわけにもいかないので、人形を使ったプレイセラピーになるのですが、使われる技法は大人子供共通です。

しかしここではトラウマケアの技法は脇に置いておいて、別の話をしてしまいます。

障害児あるいは被虐待児の問題行動の一つに「注意獲得行動」があります。(被虐待も広い意味では障害と捉えていいでしょうけど)。

例えば、一対一で相手をしているときには比較的おとなしい子供が、集団に混ぜると大声を出したり、暴れたりします。これは大人の注目を得るための行動です。相手の注目や関心を引くために、わざとトラブルを起こしてみせる(悪いことをする)わけです。

例えば御飯のときにみそ汁をわざとこぼします。すると周りの人がこぼれたみそ汁を拭いてくれたり、服が汚れなかったか、体調が悪くないか心配してくれます。これにより自分が無視されず、ケアされると分かって安心するわけです。

また大人に対して、相手の気分を害するような言動、神経を逆なでする言動を繰り返すこともあります。これも悪いことをして関心を引く「注意獲得行動」の一つです。

これはコミュニケーション能力の貧弱さを示しています。(発達障害の場合には、自己制御能力の不足もあるでしょうけど)。良いことをして注目を引けばいいのに、悪いことでしかそれができません。被虐待児の特徴の一つです。

良いことをすれば親が褒めてくれ、悪いことをすれば叱られる、というのであれば、子供は良いことで注目を獲得しようとします。しかし、良いことをしても悪いことをしても、どちらでも親の気分次第で叱られ、ひっぱたかれるという被虐待の環境では、良いことをすれば褒められると学習できません。そこで、(悪いことをやったほうが結果の確実性が高いですから)悪いことで注意を獲得しようとします。

せっかく子供が学校で賞状をもらったり、良い成績を取ってきても、親がそれを褒めず、逆に「そんなものは社会に出たら役に立たない。世の中は金だ」と言ったらどうでしょう。子供は無力感を感じるだけです。これも虐待と言えるでしょう。

先ほど、子供も大人も基本は変わらないと書きましたが、注意獲得行動は大人でも見られます。大人だから成長してきた過程でそれなりの社会性を身につけているものの、いざ誰かの注意・関心を引こうとしたときに、相手の嫌がる行動や迷惑をかけることでしか、それができない人もいるわけです。そういう人は、子供の頃の被虐待がケアされないままなのでしょう。(最近は小学一年生に注意獲得行動が増えているのだそうです)。

アル中さんにも被虐待児が大きくなった人が多いので、断酒板にはふつーに問題行動が見られます。それが継続的・反復的に相手を非難する分かりやすい注意獲得行動であることもあります。しかし、そこまでハッキリとしておらず、その場に居合わせた人の気分をなんとなく苛立たせる行動ということもあります。その場にふさわしい話題で混ざるより、場違いなことを言って雰囲気をかき回した方が確実に関心が集まるからです。

注意獲得行動は、相手の優しい態度を引き出すばかりが目的ではありません。行動の結果、親から殴られ、先生に叱られ、他の誰かとけんかになったとしても、無視されるよりはずっと「ケアされている」実感を得ることができます。しかし、その相手をする大人にとって見れば、クソ生意気なかわいげのない子供と映ります。(アル中さんたちのかわいげのなさも、ここらへんに原因があるのでしょう)。

注意獲得行動にどう対処すればいいのか。それは学校の先生向けの本にも書いてありますが、基本は無視・放置です(安全に配慮した上で)。というのも、悪いことをして関心を集めるという行動を、叱ったり・責めたりするのは、相手の目的に沿った反応であり、悪い行動パターンを助長してしまうからです。もし関わるのならば、悪いことではなく良いことをして人の気を引くように指導することです。時間が取れれば一対一でじっくり相手をすることも必要でしょう(スポンサーシップ)。

「家路」は依存症の治療は自助グループで、というコンセプトでやっているサイトです。そのコンセプトに疑問を持ち、節酒ができるのでは、断酒にグループは不要では、という話を「ぶどう」の掲示板ですることは、ちっともかまわないことです。しかしなかには、人の話を混ぜっ返すことで相手をしてもらうことが目的になってしまう人もいます。以前は、そういう人に対してもなるべく丁寧に相手をしていました。

しかし、どうもこれは「注意獲得行動を助長しているだけなのでは」と気がついてきたわけです。そういう場合には投稿の自粛を頼むのですが、それで行動パターンが変えられるだけの能力がないからこそ注意獲得行動を起こす相手は、自制ができません。結果として、書き込み禁止、アクセス禁止にせざるを得なくなってしまいます。

掲示板、あるいはリアルなグループのなかで、「この人なんでこんなひどいことをする(言う)のだろう」とか「なんでこんなに人を苛立たせるのだろう」と理解に苦しむ場面に出会ったとき、「これは注意獲得行動ではないか」という視点で見ることは大切です。迷惑を被ったり、傷つけられたりするのは良い気分ではありませんが、相手の目的はこちらの気分を害することではなく注意・関心をひくことであると理解できれば、自分が相手にしているのが大人ではなく、虐待されケアを必要とする子供である構図が見えてくるかも知れません。


2010年06月28日(月) 日本には日本のAA?

localize(ローカライズ)という言葉があります。
病気をある地方に制限すること。宮崎県で口蹄疫を封じ込めようとしているのもローカライゼーションです。

一方、工業製品やサービスをその地方向けに合わせることもローカライゼーションです。日本の自動車メーカーであるトヨタは右ハンドルの車を作るのが基本ですが、同じ車でもアメリカ輸出用には左ハンドルで作ります。外国の車を日本に輸入する場合でも、本国仕様とはタイヤやサスペンションの設定を変えることで、混雑して速度の遅い日本の交通事情に合わせます(仕向け地仕様という)。
このように、その場所に合わせたものを提供することは必要です。

「AAだって日本人向けの(ローカライズした)AAがあってもいいだろう」、いやそうあるべきだ、と考える人もいます。例えば、12ステップに出てくる神という言葉は、宗教文化が根付いている欧米ならともかく、神を捨て去った(という設定の)日本人には邪魔である、という人もいます。

もしアルコール依存症が日本の風土病で、他の国の依存症と違っているのなら、違うやり方でもいいでしょう。けれど、アルコール依存症という病気は世界共通です。アメリカ人のアル中も、ロシア人のアル中も、中国人のアル中も、そして日本人のアル中も、おんなじアル中です。そして、AAの12のステップも、12の伝統も、世界共通です。日本のAAも世界と同じであればいいのです。

「日本には日本のAAがあっていいはずだ」と言っている人たちが、AAにローカライズが必要だ主張するのなら、わからなくもありません。「世界のやり方を日本に押しつけないでくれ」という主張ならば、理解できなくもありません。けれど、そう言っている人が実は関東の人で、関東のやり方を日本全国に押しつけようとしていたりします。(たとえばサービス機構の構成を関東と同じにするべきだと主張する)。

もし押しつけが良くないというのなら、関西には(関東と違う)AAがあっても良いし、名古屋には名古屋のAAがあっていいはずなのですが、こういう人に言わせると、関東と違うやり方があってはいけないらしく、「あそこのAAはおかしい」となり、その理由が「やり方が関東と違うから」なのです。

おそらく「日本には日本のAAがあっていい」と主張する人たちは、自分のやり方が日本中で(いやそれどころか世界中で)通用して欲しいのでしょう。自分を中心に世界を回したい、という主張には耳を傾けるべきものがありません。

自分たちが世界と違うやり方をするのを認めて欲しいのならば、日本の中で自分たちとは違うやり方をすることも認めなければ、話がおかしくなります。


2010年06月27日(日) 12ステップの治療成績

疫学的調査のアブストラクトを見ていると、AAは断酒にほとんど効果がない、とあったります。

「そりゃそうだろうな」と思うのです。

例えばProject MATCHでは、12週間のアルコール依存症治療の後、3ヶ月ごとに12ヶ月間追跡調査を行い、飲酒パターンに変化があったかどうか調べています。そして、認知行動療法・動機付け療法・12ステップ療法(ただしこれはAAそのものではない)のどれが有効か比べようとしたものです。結果、12ステップ療法が優れていると言える有意差は出ませんでした。

12ステップに治療効果がないと言われれば、AAメンバーはメゲるかもしれませんが、そんなに気にしたことはありません。

以前、こちらの県内でも古参のAAメンバーがこんなことを言っていました。

「病院にメッセージに行くだろう? 話をした患者の中で、退院後にAAに来るのは10人に一人さ。せっかく来た連中も、次々途中で来なくなって、残るのは10人に一人。結局助かるのは100人に一人いるかいないかだよ」

実感としてそんなものでしょう。

けれど、来なくなった人の中には、失敗を体験し「無力」を自覚して戻ってくる人もいます。そもそもAAに来なかった人も、次回の退院時にはAAに来るってこともあります。現在AAにいるメンバーのなかでも、AAの存在を知って一直線にAAに来て回復したという人は珍しい存在です。AAに来るまでさんざん回り道をして、AAに来た後もまだ回り道をして、最後にようやく助かるのが普通です。

AAは一生というスパンで結果を出すようにデザインされたプログラムであり、1年間で多くの断酒者を生み出す仕組みにはなっていません。そのかわり回復が成し遂げられれば、その後もそれが維持されると期待できます。一方、精神病院への入院治療は短期間に多くの断酒を達成させますが、その後の維持については期待薄です。

様々な治療方法を比較することは必要ですが、個々の治療法の特性を無視して条件を設定すれば、意味のある結果が出ないことだってあるわけです。

実は認知行動療法にしても、動機付け療法にしても、依存症の治療成績は惨憺たるものです(だから12ステップ療法と差が出ない)。断酒の意欲があるかどうかに関わらず短期間で断酒を達成させ、しかもそれを一生維持させる・・・そんな夢みたいな治療法があればいいのですが、残念ながらまだできていないわけです。


2010年06月24日(木) 回復=掃除片づけ

スポンシーの持ちネタのような気もしますが、スポンサーの特権で使っちゃえ。

ビッグブックでは回復を家の掃除にたとえています。家=自分、掃除=回復です。

いままで掃除をしてこなかった家は、とても汚れて散らかっています(いわゆる汚部屋状態)。自分の心の中も、不要なものを溜め込んで掃除をしていないのでぐちゃぐちゃになっているわけです。そこで「エイヤッ!」と大掃除をするのが、ステップ4と5です。汚部屋を掃除するのは一大事業です。

要るもの・要らないものを分別し、不要品は捨て、必要なものは整理整頓してしまっておきます。すると部屋はさっぱり住みやすくなり、それは心の中の掃除も同じです。

しかし人が生活している家ではゴミが発生するし埃も溜まります。一度きれいになった部屋も次第に散らかってきます。同じように人の心の中も次第に汚れてくるものです。だから一度大掃除をするだけでなく、その後も日常の掃除を続けていくのがステップ10です。

人は生まれながらに掃除のやり方を知っているわけではないので、人生のどこかでそれを教わらなければなりません。その教師役はたいてい親です。掃除のやり方を苦もなく覚えてしまう人もいて、こういう人は自分が親から掃除をやり方を習ったと意識してすらいないものです。

しかし何らかの事情で親から掃除のやり方を教わらなかった人もいます。たとえばそもそも親が掃除のできない人だったとか、親子のコミュニケーションに障害があったとかね。さらには親の代わりに教えてくれる人に恵まれないとなると、大人になって汚部屋の持ち主になってしまうわけ。それは心の掃除についても同じことです。

そこで(心の)掃除の仕方を学べなかった人のために、それを教える手順が12ステップだ、とも言えます。もちろん教え方は12ステップだけじゃないので、回復には別の手段もあり得るのですが、ここでは12ステップの話を続けます。

ステップ4・5をやるためには、スポンサーを自分の汚れた家の中に招き入れねばなりません。要るもの・要らないものを分けてもらい、不要品の処分の仕方や、必要なものの整理整頓のやりかたを教えてもらいます。自分の外面だけを見せて棚卸しをしても意味がありません。

人は羞恥心を持っているので、散らかった部屋は人に見せたくないと思うものです。せめて自分で少し掃除片づけをしてからスポンサーを招きたいと思うのですが、そもそも掃除する能力があればこんなゴミ屋敷にはなっていないわけで、いったん先延ばし戦法を採用すると、どこまでも先延ばしを続けなければなりません。これが「ステップ4・5の先延ばし」です。

要る・要らないの分別も、不要品の処分も、「エイヤッ」と思い切ってやることが大切です。というのも、掃除ってのは一生続ける作業ですから、エネルギーをつぎ込みすぎて掃除をするたびに疲れ果てていたのでは、他のことができなくなってしまいます。経済の持続可能な成長・・じゃないんだけど、持続可能な回復のやり方じゃないと困るわけ。

不要品のなかには思い入れの強いものもあるでしょうが、そこは政治家の事業仕分けじゃないですが、バッサバッサと仕分けしないといけません。それでも端から見ていれば、あんな仕分けじゃ生ぬるいよなぁ〜、と思われちゃうのも事業仕分けと同じです。


2010年06月19日(土) タバコそのものがストレスの元

ロイターのオンライン版を読んでいたら、こんな記事を見つけました。

禁煙で慢性ストレスが軽減する可能性=英研究
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-15870620100617魚拓

タバコを吸うことが「ストレスの解消になる」と信じている人は少なくありません。
それにはおそらく一抹の真実が含まれているのでしょう。
喫煙者の9割以上はニコチン依存の診断基準(IDC-10のF17)を満たすそうです。タバコ吸いは立派な薬物依存者で、依存というのは何かしらメリットがあるからこそ対象に依存するものです。アルコール依存の人だって、最初は酒によるメリット(ストレス解消とか)が大きかったはずです。それが依存症という病気が進行するにつれ、デメリットのほうが大きくなっちゃって、やめざるを得なくなったわけです。

タバコを吸う人も、タバコによるストレス解消効果より、吸うこと自体のストレスが大きいらしく、やめた方が2割ほどストレスが減る、という研究成果です。

元ネタがAddiction誌だというので、プレスリリースに出てないかと見にいったのですが、残念ながらオンラインには出ていませんでした。そのかわり、こんな記事をみつけました。

Smoking cessation treatments work and are safe for people with severe mental illness
http://www.addictionjournal.org/viewpressrelease.asp?pr=125魚拓
深刻な精神病の人への禁煙治療は有効かつ安全、という話です。

SMI=深刻な精神病(例えば統合失調症)の人は、タバコを吸う人が通常より2〜3倍多く、それが多くの健康被害をもたらし、死亡率の高さ(3倍)につながっているのだそうです。

統合失調症で荒廃が進んで長年入院している人など、タバコしか楽しみがない人もいます。医者はそういう人を禁煙させることに後ろ向きで、禁煙によるストレスで精神の状態が悪化することを心配していました。

こちらの研究では、そういう人にも禁煙治療(薬物療法・行動療法)が有効であること、また精神病を悪化させない(安全である)という結果が出ています。

荒廃した統合失調の人の寿命は25年短いのだそうです。それは統合失調そのものの影響よりも、タバコの影響のほうが大きいのではないか、というコメントがついています。

アルコール依存症の人の平均寿命は52才だそうです。これは日本人男性の平均寿命より25年は短く、おそらくその主因はアルコールそのものでしょう。しかしアル中にはタバコを吸う人が多い(AAのイベントは煙い)ことを考えても、タバコによる影響も無視できないはずです。きっと疫学的に調査すれば寄与危険度の数字が出ることでしょう。

アメリカでは酒をやめたアル中の死因も研究されていて、そのナンバーワンはタバコになっています。AAメンバーでも、もっと長生きしてメッセージを伝え続けて欲しいと思う人がガンで死んでいくのは残念なことです。

僕が酒をやめた人にタバコもやめることを勧めています。もちろん、酒とタバコ同時にじゃなくて、より深刻な酒のほうを優先し、それが安定してからタバコですけど。それが薬物依存だからというより、

せっかく酒をやめたのに、タバコで死んだのじゃつまらない

からです。
それに、「女性はタバコを吸っていると、明らかに早く老ける」からでもあります。


2010年06月18日(金) 問題の分かち合いばかりでは

6月3日の雑記「その概念を他の依存に拡張する」で、
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100603
「問題」と「解決方法」の二つに分けました。

人それぞれ抱えている問題は違います。アルコールだったり、ギャンブルだったり。薬物だったり。共依存だったり。はてはACだったり。問題が違えば、ミーティングでそれを分かち合っても、共感できないことだってあります。

僕はアルコールの人なので、ギャンブルへの衝動がコントロールできないこととか、覚醒剤をやってセックスするといかに気持ちいいかとか、食べて吐いたときのちょっとスッとする感じとか、(頭では理解できても)体験的に知っているわけじゃありません。

けれど、問題は違っていても、解決方法(12のステップ)は共通です。

「私たち一人一人にとっての偉大な事実は、私たちが共通の解決方法を見つけたということにある」(p.27)

だからミーティングでは、問題ばかりでなく解決方法も分かち合う必要があります。どうやってその問題を解決したかという「経験」を分かち合うことで、将来へ向かう「力」や「希望」が生まれてくるからです。

逆に言うと、問題ばかりが分かち合われているミーティングには「希望」がありません。表面的に明るくても、裏にはいつまでも問題に屈服され続ける惨めさが潜んでいます。過去アディクションがひどかった頃にあんなことやこんなことをした、と笑いに転化して話すのは、一見楽しく明るい分かち合いに見えるのですが、それだけでは実は解決のない暗い暗い希望のないミーティングになってしまうのです。

依存の症状が止まっても、それだけで問題が消え去るわけではありません。日常生活の中で、問題はいくらでも発生してきます。人間や金銭への不満や不安にさらされ続けるのが人生なのですから。もちろん、人間にとってそうした心の中の問題を口に出すことは大切なことです。けれど、ミーティングは問題を分かち合う場所ではなく、むしろ、それをどうやって乗り越えたか(解決)を分かち合う場所です。

けれど、そうした解決の示されない(暗い希望のない)ミーティング会場でも、人はそこに何らかの心地好さを感じます。悩んでいる人は孤立しがちなので、悩んでいるのは自分一人だと思っています。けれど、ミーティングに行けば同じ問題、同じ悩みを抱えた人が他にもいることがわかり、その中に混じって「ちょっとホッとする」のです。

また悩んでいる人は孤立しがちなので、(酒やギャンブルが止まっていても)心の中を打ち明ける相手がいない(か少ない)のがふつうです。ところがミーティングに来れば、みんな黙って自分の話を聞いてくれますから、先週のミーティングから今日までこんなことがあったとか、会社や家でこんな目にあった、という話をして、それで「ちょっとスッとする」のです。

こんなふうに、問題ばかりが分かち合われるミーティングでも癒し(リリーフ)は与えられます。けれど、その癒しの効果は一時的なものに過ぎず、問題は解決されないまま残ります。せっかくミーティングにつながっても、そのことに失望して去ってしまう人もいます。あるいは、一時的な癒しを延々求め続ける人たちもいます。

ある人がミーティングに毎日通って酒をやめていました。回復優先で仕事はしていませんでした。三年経って仕事についたら、忙しくてミーティングに行けず、精神的に調子を崩して再飲酒、仕事もクビになってしまいました。この人に対して「ミーティングから離れるから再飲酒するのだ」と言って済ませていいものでしょうか。

一時的な癒ししか与えないミーティングに毎日通って、それによって断酒を続け、そこから離れたら酒を飲んでしまう・・忙しくてミーティングに行けない状況に、ただ流されてしまうだけの人を作る。これでは回復とは言えません。この人に、またミーティングに通えばいいよ、というのは、螺旋をもう一回転させるだけ、良くて問題の先延ばし、悪ければ「人殺しの論理」です。

だから、ミーティングでは問題だけでなく、解決(ステップ)の話をしなければなりません。ステップの話というのはどうしても堅苦しい雰囲気になりがちなのですが、でもそれが実は明るくて希望のある会場なのです。

けれど、それだと解決を経ていない、ステップをやっていない人はミーティングでの分かち合いに参加できなくなってしまいます。ステップをやっていないビギナーは、問題を分かち合えばいいし、それで「ホッとする」でも「スッとする」でもしてくれればいい。一時的な癒しでも何でも使って、ともかく酒やギャンブルをやめ続けることが大切です。なぜなら、酒に酔いながら、薬でラリリながらステップをやるわけにはいきません。ステップをやるまでの猶予期間です。

ビギナーには、問題だけを分かち合う自由が許されている。

のです。問題だけを分かち合っている人がビギナー(何年飲んでいなくても)、解決(ステップ)の経験を話せるようになればビギナー卒業、ということです。

問題だけしか分かち合われていないミーティング会場は結構たくさんあります。それが与える一時的な癒しが自助グループの効果のすべてだと思っている人もいます。けれど、それは誤解です。自助グループの真の実力はそんなものではありません。見くびってもらっちゃ困るってわけ。


2010年06月17日(木) 希少種

厚生労働省の行った患者調査(2008年)によれば、精神病(精神および行動の傷害)で治療を受けた総患者数は281万5千人。(ちなみに統合失調症が約80万、気分障害(うつ病など)が約104万)。
一方、アルコール依存症で治療を受けている総患者数は1万6,700人(患者調査2005)。

ということは、精神科医が診る患者のなかで、アルコール依存症の人は1.67万/281.5万=0.59%です。

KASTを基準にアルコール依存症の有病率を推定すると男性7.4%、女性1.5%。これだと450万人が依存症。IDC-10を基準にした場合は男性1.9%、女性0.1%。82万人がアルコール依存症です。決して依存症の人が少ないわけじゃありませんが、医者にいく人が少ないのです。

つまり、アルコール依存症の受診率はとても低いため、「精神科の現場ではアルコール依存症の人は珍しい」。168人の患者のうち1人だけなのです。

さらに、うつ病も併発している、しかもそのうつ病が難治性で何年も治療している、となると、そんな患者を複数抱えている先生って、どれぐらいいるんでしょう(きっとすごく珍しい、という意味)。


2010年06月15日(火) 優れていたから断酒できたわけではない

確かに僕は十何年間か酒を飲んでいません。
それだけ断酒が続くということは、僕に何か優れた点(例えば「断酒に向いた資質」)があると考える人もいます。
でもそれは大きな誤解です。

もし僕が再飲酒したとして、もう一度断酒できる確率はどれぐらいでしょうか?
「ひいらぎさんみたいな人だったら、きっとまた断酒できますよ」という人もいます。でもそれは誤りで、「他の人と変わらない」が正解です。

何年酒をやめていても、また飲んでしまったら今度は細かな再飲酒の繰り返しになってしまって、(今のところ)自助グループに戻ってきていない、という人はいくらでもいますし、中にはそのまま死んでしまう人もいます。

自助グループは確かに断酒に役に立ちますが、そのメンバーになっていることが(再飲酒後の)断酒に対する能力の高さを示しているわけではありません。もし、断酒会やAAのメンバーを100人並べて、全員を谷に突き落とし(酒を飲ませ)たとすると、谷底からはい上がってこれる(再度断酒できる)人の割合は、いま入院中の患者さんたちと変わらないはずです。

断酒が始まったときに、断酒会やAAに通おうと思ったのは、何らかの幸運に寄るところが大きいわけで、別のタイミングだったら同じ人でもダメだった可能性が高いのです。(AAメンバーであれば、その気にさせてもらえたのもハイヤーパワーのおかげと言うかもしれません)。

以前にも書きましたが
「行ったり来たり」
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100503

再飲酒する人は、飲んでもまた酒をやめることができる、と考えているのです。
もし酒が毒薬で、飲んだらその場で死んでしまうなら、本物の自殺志願者しか再飲酒しないでしょう。アル中は緩慢な自殺だと言いますが、実際には生きるために飲んでいるのであって、再飲酒は自殺ではありません。再飲酒しても生き残れると思うからこそ、目の前の酒が飲めるのです。

今回の断酒(ソブラエティ)が、何らかの幸運(偶然)によって得られたもので、次もチャンスが与えられるとは限らない(今度飲んだらそのまま一生やめられないかも)という事実に思い至れれば、今飲まないで生きていられることの奇跡に感謝できるというものです。そう、ソブラエティは貴重なものだからこそ、大切にしなければならないのです。

「またやめればいいよ」というのは、飲んでしまった人を慰めて、またやる気を出してもらうためにかける言葉です。今やめている人間が自分に対して使うのはそれこそ自殺行為です。


2010年06月14日(月) 専門性って何だろう

子供虐待死から学ぶ、という専門家向けのセミナーになぜか参加していたひいらぎです。
普通は午前中が講演(講義)、午後が少人数のグループに分かれて事例検討を何件か、という組み合わせなのだそうですが、半日しかないのでいきなり事例検討になりました。周りは児童相談所や福祉事務所、学校の先生や施設の職員などなど。泳げないのに冬の日本海に放り出された気分です。

グループの人数は7人前後になるように調整していました。多すぎると発言しない人が出てくるし、少なすぎると別の視点から見ることができなくなるのだとか。それと、すぐに討議に入らず、その前に数分各自黙って検討する時間を設けていました。いきなり討議に入ってしまうと、頭の回転の速い人・声のデカい人が主導権を握ってしまうので、それを防ぐねらいだそうです。

事例検討は実際に起きてしまった虐待死事件の経過をたどりながら、虐待死を防ぐにはどうする「べき」だったのか、そしてなぜそれが出来なかったのかを考えます。

どうやったら防げたのかを考えるときに、社会の仕組みが悪いという話にしてしまってはいけないわけです。例えば「虐待する親も孤立して苦しんでいるのだから、それを支えるネットワークが必要だ」というのは正論なのですが、目の前の案件に対処しなければいけない人には役に立たない話なのです。

また、「こうするべきだった」という「べき」を考えるのは簡単なのですが、ではなぜそれが出来なかったかを考えないと前に進みません。(12ステップの棚卸しでも「べき」を見つけるのは簡単です。恨むべきではなかった・・というふうに。ではなぜ恨んでしまったのかを考えることで、性格の欠点が見えてきます)。

虐待死というのは、親が子供を守れず、親戚や近所も守れず、学校も子供を守れず、医者も守れず、児童相談所などの専門機関も守れず・・という(ワールドカップをやっているのであえてサッカーに例えれば)何人ものゴールキーパーがいたにもかかわらず、順番に全員かわされてゴールを許してしまった、みたいなものなのです。

最初の事例では、子供の左ほほとももにあざがあるのを医者がみつけて通報しました。左ほほのあざは右利きの人が利き腕で顔を叩いてできたもの、もものあざは正座させて上から何かで叩いた結果できたもの。これだけ明らかな虐待の徴候がありながら、対処が学校だけに任され、半分近く学校を休む状況が何ヶ月か続いた後に虐待死が起こっています。

全体を見渡せれば気づけるような「明らかなリスク」が見落とされているのは、他の事例でも同じでした。

最後に講師の先生が、専門性について

「専門性が高いとは、全体を見れば誰でもわかることを、どのような状況の中でも(実際の実践において)見失わない力があるということなのではないか」

と提示していました。

虐待死というのは足が速いんだな、というのが感想です。リスクが発生してから数ヶ月で死という結果がでてしまいます。現場の緊張感というのを感じます。それにくらべて依存症というのは(大人だし)致死性といっても、死ぬまで何年も何十年もかかるので、ゆっくりしたものです。

最近あっちでもこっちでも「専門性の確立が必要だ」という言葉を聞きます。しかし専門性って何なのかがわかりません。もちろんその分野の専門的な知識や技量が必要なのは言うまでもありません。教育、福祉、医療、なんでもそうでしょう。しかし、それ=専門性というわけでもなさそうです。この疑問に対する答えが、講師の先生の最後の言葉だったのではないか、と思いいたりました。

話は変わって、AAのスポンサーにも専門性は必要です。AAはアマチュアなんだから素人で良いじゃないか、という話もあるでしょう。もちろんそれはその通りで、スポンサーになるために専門的な教育を受ける必要はなく、その人の回復の経験がありさえすれば十分です。けれどAAのスポンサーシップはアマチュアであることを(技量の低さの)言い訳にするのではなく、高い専門性を(素人ゆえに)無料で提供できることに誇りを持つものです。

最近ビッグブックを使った12ステップのやり方・伝え方が注目されているのは、とても良いことだと思います。なぜならそれによって、「ステップのやり方を伝えていく」というスポンサーシップの本質が取り戻されているからです。けれど、「ステップを伝える」ことに意識が集中しすぎているんじゃないか、という懸念があります。

確かに12ステップへの知識・経験・技量、そういうものは必要でしょう。スポンサーはそれが「専門」であり、それがなければ話になりません。けれど、それだけがあればいいわけではなく、やはり全体を見通す力は不可欠です。

「私はスポンサーとしてステップを伝えるだけだ。スポンシーの悩み事相談には乗らない」という話をあっちでもこっちでも聞いてしまいました。しかしその言葉は、自ら12ステップへの専門性を否定する言葉です。

例えばこういう人に限って、スポンシー本人だけを相手にして、スポンシーの家族へのコミットメントを避けています。「ビッグブックのやり方に忠実に従っている」と言いながら、第7章の内容はまるで無視です。僕の経験では、本人だけを相手にしているよりも、スポンシーの家族と何らかの接触を持てた方がずっとうまくいきます。何も家族からの情報を拒否する必要はありません(ビッグブックに捨てて良いところなんてないよ)。

ビッグブック・ムーブメントには様々な批判も寄せられています。ビル・Wの言うとおり、批判にはまるで正当性のないものも混じっていますが、たいていの批判には正当な部分も含まれています。「ステップを伝えるだけ」というのもその一つであり、字句通りステップを伝えることに集中するのではなく、その目的を達成するためにこそ全体を見渡す能力が必要なのでしょう。


2010年06月11日(金) というわけで共依存について

6/2の雑記で
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100602
「アディクションの基礎概念」を説明し、
翌日の雑記で
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100603
「その概念を他の依存に拡張」してみました。

依存症とはコントロールを失う病気です。ほどほどでやめる(量のコントロールをする)ことができない以上、唯一の解決方法は完全にやめることだけです。一方、食べ物や買い物への依存の場合には、完全にやめることはできません。ではコントロールを取り戻せるのかというと、そうではなく、やはりある一線を越えれば病気がぶり返してしまいます。

アルコールやギャンブルの場合には、健康と不健康を分ける境界線は量がゼロのところ(しかも全員同じ場所)に引かれている。食べ物や買い物の場合には、その線はゼロのところではなく、しかも人によってその線の場所が違っている。・・という違いがあるものの、「ある線から向こう側には行けない(一生)」という点は同じです。

そしてその概念は、感情の依存や共依存にも拡張できることを説明しました。

様々な依存症のなかには、医学がまだ病気として認めていないものもあります。しかし医学が認めていない病気でも、それがアディクションであれば同じ概念が通用します。つまりたまたま依存の対象が違うだけで、同じ病気なのです。そして、同じ病気であれば、治療法も同じとなります。

旦那さんも奥さんもアル中という夫婦がいたとします。この場合、旦那にも奥さんにも同じ治療が必要、というのは分かりやすいことです。これが、旦那さんがアル中、奥さんがパチンコ依存だったとしたら? AA・GAというグループの違いはあるでしょうが、やる治療は同じです。片方だけを治療して、もう一方は治療しない、なんてあり得ません。

では・・・。旦那さんがアル中、奥さんが共依存だとしたら?

もちろん、同じ治療が必要であり、対処も同じになります。

例えば、「自力でやめることは困難だ」というもアディクションの基礎概念の一つです。飲んでいるアル中に「酒をやめろ!」といくら説教をしても無駄です。そのことは良く理解されています。

さらには、一人で酒をやめようとして、何度も失敗している人に対して、私たちは「医者に行け、自助グループに行け」とアドバイスをします。それは依存は「一人でやめることは困難」ということが理解されているからです。

(簡単にやめられて、一生ぶり返さなければ、それは依存症ではない)。

では、旦那がアル中だという奥さんが、そのことを相談をすると、どんなアドバイスをもらうでしょうか。僕も以前はこんなことを言っていました。

「旦那さんの病気の尻ぬぐいをするのはやめなさい。過度な関わりを避け、旦那さんを手放して、あなた自身の幸せを考えなさい」

・・だがこれは、アル中に酒をやめろと説教しているのと同じです。もちろん、やめなくてかまわないと思っている人に、「やめるべきだ」と言うことは必要です。しかし、やめられなくて悩んでいる人に、繰り返し「やめろ」と言うのは無意味です。

(簡単にやめられるのなら悩んでいないし、簡単に自分の幸せに気持ちが切り替えられるのなら、それは共依存ではありません)。

しばしば繰り返されてきたことは、依存症のことは分かっているはずの援助職の人が、相談に来た奥さんに「手放して、あなた自身の幸せを考えなさい」という、一見もっともらしいけれども役に立たないアドバイスをすることです。これは共依存をヤメロヤメロと説教しているのと同じです。結果的に共依存はおさまらず、奥さんが旦那に酒をヤメロヤメロと言うのは止まりません。

援助職が家族に対してヤメロヤメロと言い、家族が本人にヤメロヤメロと言う。本人が家族にウルセエと言う。こんな構図では問題が解決しなくて当然です。

では、どうすればいいのか。

旦那(本人)も、奥さん(家族)も、依存の対象が違うだけで、同じ依存症です。だから、同じ治療モデルを使えばいいのです。まず教育(知識)が必要だし、急性期治療が必要なら病院に行けばいい。その上で慢性期には12ステップグループなり断酒会なりの自助グループに通ってもらって、そこの治療モデルを使ってもらう。自助グループの守備範囲外(健康や法律など)は専門家の手を借りればいい。これは本人も家族も同じです。

本人と家族を同じように「病んだ人」と見ることで、問題はシンプルになり、解決可能になります。なぜ、断酒会という一つの場所で、本人も家族も回復するのか。なぜ本人のグループと家族のグループが同じ12ステップを使っているのか。考えてみれば当然のことで、問題が同じだからこそ、解決方法も同じで良いのです。

アル中と暮らしているから(旦那が依存症だから)といって、家族が共依存とは限らない、という意見もあるでしょう。もちろん、それはそのとおりです。大酒飲み全員がアル中とは限らないのと同じです。やめようと思えばいつでもやめられる大酒飲みは、たくさんいる・・・はずなのです。

AAメンバーの多くは、初めてAAにやってきた頃は、自分がそれほどひどい酒飲みではないし、やめようと思えばいつでもやめられるし、やめるときは自分一人でやめられる、と思っていました。けれどAAに通い続けて、そうではないことに気づき、助力を得て問題を解決することができたのです。もし、孤独に飲み続けていたなら、当時の信念を今でも貫いていたことでしょう。

回復した人の多くは、自分が依存症になる前から「依存になりやすい何らかの素質」を持っていたことに気づきます(素質ではなく才能と言っても良い)。アルコールやギャンブルという依存対象と出会ってその才能が開花し、激しく発症したのです。共依存の人も同じように素質を抱えていて、それが依存症者との生活という環境と出会って「激しく発症」したのです。

子供の立場の人からすれば、「飲んでいるお父さんはヘンだけれど、しらふのはずのお母さんは、お父さんと同じぐらい(いやそれ以上に)ヘンだ」というわけです。だってそれは夫婦が同じ問題を抱えているのですから当然です。

共依存というのはなかなか理解されていない問題です。なかでも最も理解されていない点は、それが依存症そのもの(他の依存症と同じ)であるということです。

この文章を書くに当たっては、某ダルクのスタッフの文章を下敷きにさせて頂きました。許可は取っていませんが、笑って許してもらえると信じております。いつもありがとうございます。


2010年06月10日(木) 離婚

掲示板で離婚という単語が出ていました。
僕も離婚経験者なので、それについて少しだけ書いておこうと思います。

離婚は結婚よりずっとエネルギーが必要だと言われますが、それはその通りです。

結婚するときは、二人とも気持ちのベクトルが「結婚したい」という同じ方向を向いています。けれど、離婚するときは、離婚を請求する方(離婚したいと言い出す方)と請求される方で、気持ちのズレがあります。お互い次の相手が決まっていて早く別れたいという場合ならいざ知らず、片方はあまり離婚したくないと思っているのが普通じゃないでしょうか。結婚するのも大変ですが、それは共同作業だからまだいいのであって、離婚は足の引っ張り合いになりがちなのでエネルギーを消耗するのです。

だから、離婚するには、様々なサポートが必要になります。婦人相談所、法律家、カウンセラー、グチの聞き役(モラル・サポートってやつ)などなど。そうした支えなく離婚を遂行しようとすると、途中でエネルギーがつきて離婚話がうやむやになってしまったりします。それほどまでに「現状維持」というのは圧倒的なパワーがあり、物事を変えるのは大きなエネルギーが必要になります。
(アル中さんたちも、「現状維持」の圧倒的な力によって飲み続けているんです)。

僕の以前いたホームグループでは、オープンミーティングは(アル中でなくても)誰でも話し(分かち合い)ができました。それに毎回来ていた女性がいました。彼女は旦那さんがアル中で、入院も役に立たずに飲み続けているという状況でした。彼女は半年ほど通い続け、最後に「ダンナの回復は諦めました。離婚することにしたのでもう来ません」という言い残してそれっきり来なくなりました。(当時アラノンはこの地にありませんでした)。

この話をすると、結局AAは彼女の役に立たなかったと判断する人もいます。けれど、僕はそう思いません。1、2回来ただけで来なくなってしまう人たち、再飲酒、それを何度か繰り返して、何年か後にようやく訪れる回復。そうした状況を半年見続けて、彼女はダンナの回復を待つのを諦めることができ、離婚するだけのエネルギーを貯められたのでしょう。

だから、離婚するのだから自助グループは必要ない、という考え方は誤っていると思います。それに、僕は離婚後もアラノンやギャマノンに留まり続けている人たちも知っています。それは離婚がすべての問題を解決するわけではないことを物語っています。子供がいなければ離婚も良いかも知れませんが、別れても子供にとっては親は親なので、離婚すればいいというものでもありません。

「人間最後はどうせ死ぬんだ」と言いながら飲み続けているダンナさんと、「最後は離婚すればいいのよ」と言いながら行動しない奥さん。実は夫婦のベクトルは現状維持で一致しています。だからなかなか離婚しないのです。


2010年06月08日(火) 自助グループという道具

相変わらずスポンシーから毎晩電話をもらっています。

昨夜はいつもの会場に行ったのに、ミーティングをやっていなかったそうです。きっと何か間違いがあったのでしょう。せっかく行ったのにやってなかったと恨み言が出たり、やっていなかったのをこれ幸い、ミーティングに出なくて済んだとばかりに家に帰ってしまったのなら、スポンサーとしては説教をせねばならないところです。

しかし彼は別のグループの会場に向かおうとしました。ところが近所の会場に行く予定だったので小銭しか持っていません。これではそちらの会場に行く途中の有料道路が抜けられないので、金を取りにいったん家に戻っていたら30分遅刻しちゃいましたが、暖かく迎えてもらえました、という話でした。

そうやって1年目に毎日努力してミーティングに出ることは、一生続くソブラエティの良い土台になってくれることでしょう。立派な建物を建てようと思ったら、基礎をしっかりと工事しなくてはなりません。・・という話をするということは、今日の行動は良かったと褒めることでもあります。

回復の方向へ向かう行動は褒め、ダメな方向への行動は叱る。しかも「後で」ではなく、すぐに。これは犬猫のしつけと同じです。会社の新人教育とも同じかも。

彼は家族から小遣いをもらう身なのですが、以前ミーティングへの交通費をちょろまかして酒を飲んだこともあるので、家族の信用がまるでありません。金を渡せば飲んでしまうし、どうしたらいいんでしょう、とご家族から相談を受けたので、金銭出納帳をつけてもらうことにしました。1円の単位まで出納を記録して、毎日帰ったらそれを現金の残高と一緒に家族に確認してもらう(もちろんレシートを添付して提出)。そこまでやっているのに、今度は「自動販売機で缶コーヒーを飲む回数が多すぎないか?」と言われたそうです。レシートのでない自動販売機でコーヒーを買ったことにして、また酒を買う金をちょろまかしているのじゃないか、と疑われたわけです。

そこまで家族を疑り深くさせたのは、本人の過去の行動です。こんなときの慰めの言葉は、「証拠の空き缶を持って帰って提出しろと言われなくて良かったね」です。(まあ、実際それをやっても、今度はどこで拾ってきた空き缶だと疑われるだけでしょうけど)。

それだけ疑われていても本人が腐ってしまわないのは、真面目にミーティングに通う姿勢が見えるおかげで、少しでも信用が回復する方向へ進んでいるからです。信用回復も自分の努力次第だと実感できれば、努力する方向へ進めるわけです。

自助グループは道具なのだといいます。それを言えば、断酒すら道具です。道具というのは何かを実現する手段ですから、断酒が目的になるのは本末転倒だと考える人がいてもおかしくありません。

断酒というのは、その上に何かを成し遂げるための基礎です。基礎が軟弱だと、立派な建物も倒壊します。良い人生を送りたければ、質の良い断酒という基礎を維持していくことが大事です。つまり、断酒は手段であると同時に目的でもあるのです。自助グループも同様です。

もう一つ大事なことは、道具をきちんと使いこなせているか、ということです。自助グループに負の感情を持つ人は、自助グループという道具の使い方が下手なのです。逆上がりができない小学生が、鉄棒の授業を嫌いになるのは自然なことです。

逆上がりはできるまで練習しなければできるようにはなりません。だからミーティングにひたすら通えと言うわけです。


2010年06月07日(月) ギャンブル患者増加中

お世話になっているメンタルクリニックの先生から、AAのミーティング会場地図がなくなったので持ってきて欲しいと言われました。そのついでに少し話をしたのですが、「最近の依存症の新患は、ギャンブル依存症ばかりだ」というお話でした。

その数週間後、ギャマノンのセミナーにおじゃましました。
そこで大学の医学部で依存症を専門にされている精神科の先生にお会いしました。
地元の保健所では月に1回、依存症相談・依存症家族教室というのをやっており、保健所の委託を受けた精神科医が、ご本人や家族の相談に乗っています。実はこれが酒害者家族教室と呼ばれていた頃、僕の母もお世話になったことがあります。そのころは、前述のクリニックの先生が担当していたそうですが、現在はセミナーでお会いした大学の先生がやっているそうです。

その先生がおっしゃるには、そちらでの相談件数も、最近はアルコールよりギャンブルの依存症の人が多い、という話でした。

最近ギャンブル依存症の人が増えているのかどうか。それはわかりません。
ただ、ギャンブル依存症の人が治療につながる数(患者数)が増えているのは確かなようです。

なぜそうなのか、理由は僕にはわかりません。法律の改正によって新規の借金がしづらくなったのと関係あるのかもしれません。

ちなみに「患者」とは、医療機関で治療を受けている人のことです。未治療の人は患者数には含めません。IDCの診断基準を使って日本のアルコール依存症者数を推計すると約82万人。このうち患者数が約2万人。無事断酒している人たちが多少いるにしても、残りの大多数である(数十万人)は未治療です。

患者数が増えても、母集団である依存症者数が増えているとは限りません。

製薬会社がSSRIを売るために行ったうつ病啓発キャンペーンのおかげで、うつ病患者が増え、それをあてにしてメンタルクリニックがたくさんできました。だからといって、うつの人が増えたとは限りません。うつの人の中で、治療につながって患者になる人の割合が増えただけでしょう。

話を戻して、DSM-IV(IDC-10)では病的賭博は衝動制御の障害に分類されていますが、現在ドラフトが出ているDSM-Vでは依存症の分類に移動してきています。(ギャンブル依存症が診断書にも使える病名となるわけだ)。加えて、何らかの社会的原因によって、ギャンブル依存症の受診率が上昇中です。

今後何年間か、ギャンブル依存症が最も注目を浴びる依存症になるのかもしれません。


2010年06月05日(土) 病気だから

「病気だから」という理由で、許してもらえる不始末はたくさんあります。
インフルエンザにかかったら仕事を休んで当然ですし、精神病であれば犯罪が不起訴になることもあります。

病気に無理解ならともかく、理解しているならば症状を非難しても意味がないことは分かります。

依存症というのは「自分の思い通りにしたい」病気です。それが病気の症状であり、具合が悪ければ悪いほど、その症状も重くなります。例えば、自分が悪かった場合でも素直に謝罪することができなくなります。「ごめんなさい」が言えないのも、アル中という病気の症状です。

例えばAAというのは、そうした病気の人の集まりですから、仲間の症状を責めることはしません。気に入らないことがあれば椅子を蹴って出て行ってしまってもいい。そして次の回には何食わぬ顔でそこに座っていてもいい。それが何事もなかったように受け入れられる。(現実のAAがそうなっているかどうかはともかく)それが一つの理想の姿です。なぜなら、「思い通りにならないのが気に入らない」と出て行ってしまうのも症状だし、「この前は失礼なことをしてごめんなさい」と謝れないのも病気の症状だからです。

それを責めても仕方ありません。「回復してない奴は仕方ないよね」と肩をすくめて、その件は終わりにするしかないのです。頭が下げられるようになってくれば、それだけ回復したね、と言われる仕組みです。

スピリチュアル(霊的)というと、なんだか超自然的な怪しげなものや、聖書の真髄みたいなものを想像するかもしれません。だからスピリチュアルなものを求める人は、聖書を読んだりします。けれど、スピリチャリティ(霊性)というのは、例えば人と人とのつながりです。それが霊性の本質なのかどうかは知りませんが、現象面から見えるのは人と人とのつながりです。

だから、スピリチュアル(霊的)に病んで症状を出している人は、人とのつながりが断ち切れていきます。その症状が例えば、「失礼なこと、わがままなことをやっておいて、後になっても謝りもせず、それを当然だと思っている」というわけです。確かにそういう人は、つきあってくれる人が次第に減ってしまいます。

ビッグブックには、霊的に病んだ人から傷を受けたとしても、病気だと思って許すしかないとあります。健康な人は、ビッグブックを読まずとも、そのことは分かっています。世の中には霊的に病んだ人との関係を断ち切るわけにいかず、付き合いを続けざるを得ない立場の人もいます。病んだ人というのは、周囲の人たちに「病気だから」という理由で許され続けているのです。(まあ、病気だからと意識はされていないかもしれませんが)。

ここの「ぶどう」の掲示板も霊的に病んだアル中さんたちが来るところです。だから、症状を出している人もいます。悪態をついて出て行ったヤツが、しばらく時間をおくと、しれっと戻ってきたりします。その時に、前回は失礼をしましたと頭を下げる人はなかなかいません。

例えば普通の職場でそんなことをやれば嫌われ、繰り返せばその職場にいられなくなるでしょう。友達づきあいもそうです。子供の遊びだって、わがままをやったあとは「ごめんなさい」を言わなければ、再び仲間には入れてもらえないものです。

アル中さんは「頭を下げたくないから(謝罪するのがイヤだから)もうあそこには行かない」ということを良くやります。オレはアイツらが嫌いだと言っているパターンは、たいてい謝罪から逃げ回っているだけです。そうやって、人とぶつかり続けて自由に動ける範囲を狭くし、苦しく生きているのがアル中さんです。ステップ8・9というのは、それを打破するステップでもあります。

「ぶどう」に限らず、ネットの断酒板やブログなどのアル中コミュニティには、具合の悪い人が必ずいます。例えば、ひいらぎ(やその周りの人)に失礼なことを面と向かって述べて、しかもそれに謝罪もできない人がいたとしても、僕は「その人は病気だし、それは症状に過ぎないのだから」と許すしかありません。それが唯一取りうる選択肢だからです。それは僕が特に寛大な人間だという意味ではありません。本当にそれしか選択肢がないのだし、それが一番楽な道だからです。(介護職員の人が認知症のジジババに対して持つ感情に近いのでしょう)。

何の話がしたいかというと、何ヶ月、何年酒をやめていようが、そのように「病気だから」「症状を責めてはいけないから」という理由で人に許してもらっているうちは、「回復している」とは見てもらえない、信用してはもらえないということです。

そうやって病気だからと許してもらっておいて、「重症だ」「回復していない」という評価をもらうと、気分を害するのも、これまた具合の悪さ(症状)なのでしょう。

人はアル中の言葉なんか聞いちゃいないのですが、行動はよく観察しているものです。いくら本人が「自分は回復した」と主張しても、行動でバレてしまうわけです。何を言うか(ネットに何を書くか)じゃなく、どんな行動をするかで判断されているんだ、ってことが・・・まあ、具合の悪い人に理解できるはずもないのですけどね。

さらに何が言いたいかというと、そういう症状丸出しの状態から、人は回復できるということです。具合の悪い人をバカにしているわけではなく、そこから良くなれるんだから、良くなろうよというわけです。しかし、それが上から目線だと感じられてしまうわけだ。

平等に扱われていても、「上から目線で言われてる」と感じてしまう。特別扱いされたい(甘やかされたい)病気なんですな、依存症って。


2010年06月04日(金) 「ご存じでしたかAA」

アルコホーリクス・アノニマスは、以前にはどうしようもない酔っ払いであった連中が企画し運営している仲間の共同体である。

仲間の資格は“もう飲めない”ことと、やたらとわけをきかないことである。この共同体には規則もなければ会費や月謝のようなものもない。そういった目に見える組織は何もないらしいのである。ミーティングでスピーカーになった人は、一つのことから出発して全く違うことがらへと語り進み、しまいに、“このプログラムは効く”ということのほかには自分はほんとうになにも知らないという。

グループは絶えず破産しているのに、いつも金があるらしい。

こなくなる仲間がいつでも出るのに絶えず成長しているらしい。

人々は、AAが利己的なグループだと言うけれども、いつも他人のためになにかしているようにみえる。どのグループも掟や規則、布告や決定を破る。みんな気楽にそういうものを無視する。何か気に入らぬことがあったら、いつでも怒って去る権利がある。―――同時に何事もなかったような顔で立ち戻り、何事もなかったように迎えられる権利もある。24時間以上先の計画は何もない。それで偉大な計画が生まれ素晴らしく続いていく。AAには規則書にのっとったことは何もない。

―――どうして続いて行けるのか?

たぶんわれわれが自分のことを笑えるようになったからだろう。神は人間を笑うものにも造ったのだ。
たぶん神はわれわれの努力を喜ばれ、誰かがまちがったボタンを押しても、すべてよいようにして下さるであろう。
神はたぶん、われわれが完全であることより誠実であることを喜ばれる。たぶんわれわれが他の何者でもない、われわれ自身であろうと努めることを喜ばれるであろう。
どういうわけか、それは知らないがこれは効く。仲間は皆AAの投資信託から配当を受け取り続けている。

飲まないで生きるために、こいつが賢いやり方なのだ。

「ご存じでしたかAA」 from BOX-916 '95/10 (BOX425, Norris)


2010年06月03日(木) その概念を他の依存に拡張する

昨日の続きです。

・渇望=アレルギー反応=身体の病気(の相)
・とらわれ=狂気=精神の病気(の相)

さて、この「渇望」と「とらわれ」というアディクション概念を理解すれば、対象をアルコール以外に広げることも可能です。アルコールをギャンブルや覚醒剤に置き換えてみても、まったく同じ図式が当てはまります。

だから、アルコールのためのAAのほかに、ギャンブルのためのGA、薬物のためのNAが存在するのは当たり前のことと言えます。AAのメンバーと、GA、NAのメンバーは「問題」を分かち合うことはできません。それぞれ依存の対象が違うからです。けれど、問題の「解決方法」=12ステップは同じなので、方法を分かち合うことは可能です。

(ビギナーは問題の違いに注目してしまい、解決方法の共通性に目が向きません。それが自分の問題から目をそらす原因となります。だから依存対象ごとにグループを分けるのは意味があると思います)

さて、ここからが本題です。これまでの話は、本題を理解するための前フリでした。

アルコール・薬物・ギャンブルの場合には、健康と病気の間の線引き(境界線)は明確です。アルコールなら酒を飲んでいる・飲んでいないの境目に線が引かれています。しかもその線引きは全員に共通で、僕だけ「一日缶ビール一本までなら断酒のうちね」ということはありません。断酒と飲酒の境界は全員共通です。

アルコールやギャンブルは完全にやめることができます。回復とは完全にやめ続けることです。コントロールを取り戻して、適度に楽しめるようになることではありません。

けれど、依存症によっては完全にやめることができないものもあります。例えば摂食障害の人は食べるのを完全にやめることはできません。買い物依存だからといって、一生買い物をしないわけにもいきません。

完全にやめることができない依存症の場合、コントロールを取り戻すことが回復なのでしょうか? そういう誤解が存在する気がします。僕もこのタイプの依存症に興味を持つまで、なんとなくコントロールを取り戻すのが回復だと誤解していました。

アルコール依存症の場合には、適度に飲める(節酒)ことはない。けれど、摂食障害の場合には適度に食べられるようになり、買い物依存なら適度な買い物が実現するのが回復です。それがあたかも失ったコントロールを取り戻したように見えてしまうわけです。

しかし、そうではありません。「完全にやめる」という点はすべての依存症に共通です。やめるというのは、健康と病気の境界線を踏み越えていかないということです。アルコールやギャンブルの場合は、その境界線が量がゼロのところに引かれているわけです。ゼロじゃないところに引かれている依存症の場合でも、線の向こう側に行っちゃダメという点は共通なのです。

さらに、線の引かれている場所が人によって違ったりするようです。例えば摂食障害は、最近は食べ物依存(food addiction)と呼ぶようですが、どこまでが健康な食事かは人によって違います。ある人は、砂糖を食べると過食おう吐が始まってしまうので、砂糖を使った料理は食べられないのだそうです。この場合砂糖を trigger food と言います。トリガーとは引き金という意味です。この人にとっての砂糖は、アル中にとっての最初の一杯の酒と同じです。カフェインがダメという人もいます。あるいは種類は関係なく量の問題で、御飯を茶碗2杯食べるとダメ。種類でも量でもなく食べる状況が問題だという人もいます。このように、境界線の位置は人によって違うのですが、その向こう側(例えば焼き肉食べ放題に行ってお腹一杯食べてくる)に行けないのは、共通だというわけです。

food plan とは、その人にとってどこまでが健康で安全な食事か示したものですが、これはスポンサーや施設のスタッフが決めてくれるのだそうです。食べ物依存からの回復にはぶり返しがつきものですが、これは境界線の場所が人によって違うために、food planの確定に試行錯誤が避けられないからではないかと思います(この部分は外野の勝手な想像)。

境界線、つまり food plan を守っていくことがアブスティネンス(アルコールで言うところのソーバー、薬で言うところのクリーン)であるわけです。

(ただし過食おう吐には stress coping の効果があり、何らかの精神的疾患、不調の症状として食べ吐きが起きている場合もあるはずです。その場合は、元の疾患が良くなれば食べ物に対する完全なコントロールが戻っても不思議ではありません)。

共依存の場合も同じです。人の世話を焼く行為を完全にやめてしまうことはできません。生きていく以上、人と何らかの関わりは持たねばならないからです。ここも同じように、健康な関わりと病的な関わりの間に線を引くことになり、しかもその線の位置は人によって違ってくるはずで、どこに線を引くかは(おそらく)スポンサーと相談しながら決めていくしかないのでしょう。

買い物依存でも、健康な買い物と病的な買い物の間に線を引くしかありません。

わかりにくいのは感情の問題です。感情に線引きは難しいですから。
例えばある人が、強い恨みの感情を持ち、その恨みを吐出することでストレスフルな環境に耐えていたとします。けれど、それをやるたびに鬱になり仕事を休んでいるとするなら、感情のアディクションを持っていると言えるでしょう。その場合は、健康な感情と病的な感情との間に線を引き、向こう側に行かないようにするしかありません。そして、砂糖が trigger food である人のように、(砂糖のような)一見無害な感情あるいは行動であっても、それがコントロール喪失を引き起こすトリガーになっているのなら、避けていくしかありません。もちろん、どこに線を引くか、何がトリガーになるかは人によって違うでしょう。

ひょっとすると、境界線がゼロ以外のところにあり、その場所が人によって違うのが、各種依存症では普通であり、境界線がゼロの位置になって全員共通であるアルコール・薬物・ギャンブルの依存症が例外的なのかも知れません。

人間関係の中でときどきブチ切れてみるとか、信頼できる友人に愚痴をこぼすという形で陰口を言うとか、そういうことが trigger action になっているなら、それを諦めるのは辛いことでしょう。けれど、アディクション概念に基づいて考えれば、

「普通の人ならできる何かを、病気である私たちは一生諦めねばならない」

ことは分かってもらえるはずです。諦める対象が、一杯の酒であれ、砂糖であれ、陰口であれ、その困難性は変わりありません。その難しさを「自分だけの力では(あるいは人間の力では)絶対にやめられない」と自覚したときに、無力が認められます。

この境界線の曖昧さが「コントロールを取り戻せる依存症もある」という誤解を生んでいるのかも知れない・・・と思い至りました。どこまでがアブスティネンスで、どこからがスリップか。どんな依存症でも、その境界はハッキリさせねばなりません。そうでないと、じくじくとスリップが続く陰気な状態が続いてしまいます。


2010年06月02日(水) アディクションの基礎概念

アディクション(依存症)には、いろいろな種類があります。アルコール、ギャンブル、覚醒剤・・・。それぞれに12ステップのグループがあり、共依存や感情の問題の12ステップグループもあります。

ここではまず、いろんな依存症に共通する概念を考えてみます。

アルコールを例に取ると、飲んでいる状態では「渇望現象」が起きます。強迫性とか、飲酒欲求と呼ばれるもので、もっと飲みたい、飲み続けたいという気持ちです。これによってコントロール喪失が起こり、酒のせいでいろいろなトラブルが起きます。

AAでは渇望現象を「身体のアレルギー」と呼びます。アレルギーとは何らかの物質が身体に入った時に起きる異常反応です。アルコールが身体に入ったとき、アルコール依存症者の身体には「渇望現象」という異常なアレルギー反応が起きる、と考えるわけです。花粉症を意志の力で克服できないように、この渇望を意志の力で乗り越えることはできません。体質によって花粉症になる人ならない人がいるように、依存症になるのも体質の問題です。

(花粉症は免疫系、渇望現象は脳内の報酬系の異常なので、科学的に正確な例えではありませんが、観察される現象は同じです)。

花粉症には抗ヒスタミン剤が有効です。ひょっとすると将来「渇望現象」を抑えて飲酒のコントロールを可能にする科学の進歩があるかもしれませんが、「今はまだできてはいない」わけです。

酒をやめるためには、まずこの渇望を乗り越えて酒を断たねばなりません。渇望が強烈な場合には断酒はなかなか難しくなりますが、最悪でも精神病院の保護室に拘禁して酒から隔離してしまえばいいので、解決可能な問題です。アメリカではアルコールの解毒(デトックス)を専門にやってくれる短期入所施設が増えているのだそうです。

この「渇望現象」は酒をやめ続けていれば消失していきます(ゼロにはならないかも)。飲酒欲求が消えれば問題は解決したと思う人が多いのですが、もしそうならデトックス施設さえあればアルコール依存症の治療は完璧ということになります。

現実には解毒だけでは依存の問題は解決しません。依存症者は渇望現象(飲酒欲求)が消えた後も再飲酒してしまうからです。人はストーブに触って火傷すれば、二度と熱いストーブに触ろうとはしなくなります。僕自身の経験を挙げると、一度古い生ガキにあたったらカキの匂いをかぐだけでも吐き気がするようになりました。これが人の正常な反応です。

ところが、アルコール依存症の人は、あれだけ酒で痛い目にあったのに、また酒に手を出してしまいます。心のどこかで「今度こそ大丈夫だきっと」と思って酒を飲む行為は、今度こそ火傷しないと思ってストーブに触るのと同じです。

これは明らかに自己防衛の本能が損なわれている状態で、何らかの精神の不健康(つまり狂気)が存在しています。「狂気」でなければ、何ヶ月、何年も酒をやめて渇望がなくなった人がまた飲んでしまうことが説明できません。AAではこれに「(精神的)とらわれ」という言葉を与えています。

この狂気を取り除き、精神的な健康を取り戻してくれるのが12のステップです。

つまり依存症には二つの相があります。一つは「渇望現象」に支配された身体的病気の相。AAはこれを治せません。節酒できるようにはしてくれません。もう一つは酒をやめている時期で、精神的とらわれがある精神的病気の相です。AA(あるいは12ステップ)はこちらを治すためのものです。

「酒をやめる」というのは、前者の問題だけでなく、後者の問題が解決されている状態を言うのでしょう。

(もちろんそのための手段が12ステップしかない、と言うつもりはありません)

では、このアディクション概念をアルコール以外の依存症に広げてみましょう。(続く)


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