心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年06月03日(木) その概念を他の依存に拡張する

昨日の続きです。

・渇望=アレルギー反応=身体の病気(の相)
・とらわれ=狂気=精神の病気(の相)

さて、この「渇望」と「とらわれ」というアディクション概念を理解すれば、対象をアルコール以外に広げることも可能です。アルコールをギャンブルや覚醒剤に置き換えてみても、まったく同じ図式が当てはまります。

だから、アルコールのためのAAのほかに、ギャンブルのためのGA、薬物のためのNAが存在するのは当たり前のことと言えます。AAのメンバーと、GA、NAのメンバーは「問題」を分かち合うことはできません。それぞれ依存の対象が違うからです。けれど、問題の「解決方法」=12ステップは同じなので、方法を分かち合うことは可能です。

(ビギナーは問題の違いに注目してしまい、解決方法の共通性に目が向きません。それが自分の問題から目をそらす原因となります。だから依存対象ごとにグループを分けるのは意味があると思います)

さて、ここからが本題です。これまでの話は、本題を理解するための前フリでした。

アルコール・薬物・ギャンブルの場合には、健康と病気の間の線引き(境界線)は明確です。アルコールなら酒を飲んでいる・飲んでいないの境目に線が引かれています。しかもその線引きは全員に共通で、僕だけ「一日缶ビール一本までなら断酒のうちね」ということはありません。断酒と飲酒の境界は全員共通です。

アルコールやギャンブルは完全にやめることができます。回復とは完全にやめ続けることです。コントロールを取り戻して、適度に楽しめるようになることではありません。

けれど、依存症によっては完全にやめることができないものもあります。例えば摂食障害の人は食べるのを完全にやめることはできません。買い物依存だからといって、一生買い物をしないわけにもいきません。

完全にやめることができない依存症の場合、コントロールを取り戻すことが回復なのでしょうか? そういう誤解が存在する気がします。僕もこのタイプの依存症に興味を持つまで、なんとなくコントロールを取り戻すのが回復だと誤解していました。

アルコール依存症の場合には、適度に飲める(節酒)ことはない。けれど、摂食障害の場合には適度に食べられるようになり、買い物依存なら適度な買い物が実現するのが回復です。それがあたかも失ったコントロールを取り戻したように見えてしまうわけです。

しかし、そうではありません。「完全にやめる」という点はすべての依存症に共通です。やめるというのは、健康と病気の境界線を踏み越えていかないということです。アルコールやギャンブルの場合は、その境界線が量がゼロのところに引かれているわけです。ゼロじゃないところに引かれている依存症の場合でも、線の向こう側に行っちゃダメという点は共通なのです。

さらに、線の引かれている場所が人によって違ったりするようです。例えば摂食障害は、最近は食べ物依存(food addiction)と呼ぶようですが、どこまでが健康な食事かは人によって違います。ある人は、砂糖を食べると過食おう吐が始まってしまうので、砂糖を使った料理は食べられないのだそうです。この場合砂糖を trigger food と言います。トリガーとは引き金という意味です。この人にとっての砂糖は、アル中にとっての最初の一杯の酒と同じです。カフェインがダメという人もいます。あるいは種類は関係なく量の問題で、御飯を茶碗2杯食べるとダメ。種類でも量でもなく食べる状況が問題だという人もいます。このように、境界線の位置は人によって違うのですが、その向こう側(例えば焼き肉食べ放題に行ってお腹一杯食べてくる)に行けないのは、共通だというわけです。

food plan とは、その人にとってどこまでが健康で安全な食事か示したものですが、これはスポンサーや施設のスタッフが決めてくれるのだそうです。食べ物依存からの回復にはぶり返しがつきものですが、これは境界線の場所が人によって違うために、food planの確定に試行錯誤が避けられないからではないかと思います(この部分は外野の勝手な想像)。

境界線、つまり food plan を守っていくことがアブスティネンス(アルコールで言うところのソーバー、薬で言うところのクリーン)であるわけです。

(ただし過食おう吐には stress coping の効果があり、何らかの精神的疾患、不調の症状として食べ吐きが起きている場合もあるはずです。その場合は、元の疾患が良くなれば食べ物に対する完全なコントロールが戻っても不思議ではありません)。

共依存の場合も同じです。人の世話を焼く行為を完全にやめてしまうことはできません。生きていく以上、人と何らかの関わりは持たねばならないからです。ここも同じように、健康な関わりと病的な関わりの間に線を引くことになり、しかもその線の位置は人によって違ってくるはずで、どこに線を引くかは(おそらく)スポンサーと相談しながら決めていくしかないのでしょう。

買い物依存でも、健康な買い物と病的な買い物の間に線を引くしかありません。

わかりにくいのは感情の問題です。感情に線引きは難しいですから。
例えばある人が、強い恨みの感情を持ち、その恨みを吐出することでストレスフルな環境に耐えていたとします。けれど、それをやるたびに鬱になり仕事を休んでいるとするなら、感情のアディクションを持っていると言えるでしょう。その場合は、健康な感情と病的な感情との間に線を引き、向こう側に行かないようにするしかありません。そして、砂糖が trigger food である人のように、(砂糖のような)一見無害な感情あるいは行動であっても、それがコントロール喪失を引き起こすトリガーになっているのなら、避けていくしかありません。もちろん、どこに線を引くか、何がトリガーになるかは人によって違うでしょう。

ひょっとすると、境界線がゼロ以外のところにあり、その場所が人によって違うのが、各種依存症では普通であり、境界線がゼロの位置になって全員共通であるアルコール・薬物・ギャンブルの依存症が例外的なのかも知れません。

人間関係の中でときどきブチ切れてみるとか、信頼できる友人に愚痴をこぼすという形で陰口を言うとか、そういうことが trigger action になっているなら、それを諦めるのは辛いことでしょう。けれど、アディクション概念に基づいて考えれば、

「普通の人ならできる何かを、病気である私たちは一生諦めねばならない」

ことは分かってもらえるはずです。諦める対象が、一杯の酒であれ、砂糖であれ、陰口であれ、その困難性は変わりありません。その難しさを「自分だけの力では(あるいは人間の力では)絶対にやめられない」と自覚したときに、無力が認められます。

この境界線の曖昧さが「コントロールを取り戻せる依存症もある」という誤解を生んでいるのかも知れない・・・と思い至りました。どこまでがアブスティネンスで、どこからがスリップか。どんな依存症でも、その境界はハッキリさせねばなりません。そうでないと、じくじくとスリップが続く陰気な状態が続いてしまいます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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