ケイケイの映画日記
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2007年10月30日(火) 「ブレイブワン」




あの大女優が、何故バッタもんB級映画に?シリーズ、第二段。しかし観る前の「女処刑人」というイメージはあまりなく、クオリティは結構高めの作品でした。さすがはジョディ×ニール・ジョーダン(監督)のコラボ、と言いたいとこなんですが、全体に私は乗り切れずに終わりました。賛否両論、色々な感想の出る作品だと思いますが、私は否の方です。

ラジオパーソナリティのエリカ(ジョディ・フォスター)は、医師の婚約者デヴィッド(ナビーン・アンドリュース)と結婚間近で、幸せの絶頂にいます。ある日愛犬を連れて二人で散歩している時、数人の暴漢に襲われデヴィッドは死亡、エリカも瀕死の重傷を負います。悲嘆のくれるエリカ。護身のため、不法に拳銃を手に入れた彼女は、コンビニ強盗に出くわし、拳銃を引いてしまいます。それ以来彼女は夜を徘徊し、人や街を汚す悪党どもに弾きがねを弾くようになります。彼女が自分のしていることに葛藤している時、彼女の番組をいつも聞いていたマーサー刑事(テレンス・ハワード)に出会います。

どこがまず乗れなかったというと、主演がジョディだったことです。演技派の彼女なんで、演技自体に文句はありませんが、何故結婚前のラブラブ状態の女性役なの?彼女は来月で45歳。ハリウッドで長年活躍するベテラン女優が演じる役とは思えません。回想でセックスシーンもありますが、多分ボディダブルでしょう。いくら小柄で若く見えるといっても、アップでは顔は皺がいっぱい、口元まで皺があったので、年齢よりもっと老けて見え、手にも薄っら年齢からくるシミまであります。整形でやっきになって若さを保つより、ナチュラルさは好感が持てるのですが、この役は素の彼女では観ていてきついです。この筋にするなら、結婚して10年以上経った夫婦が、やっと念願の妊娠をした、そこで暴漢に襲われて夫は死亡、お腹の赤ちゃんは流産、と変更出来なかったのかなぁ。それなら素直に観られるのに。

どの人がどんな用事で警察に来ても、「それはお気の毒でした。そこでかけて待っていて下さい」。まるでマニュアルでもあるような心のない対応です。警察の対応のおざなりさに、エリカが絶望して拳銃を求めるまでの過程は、すごく上手く描いています。

最初の殺人での過程も上手いです。エリカはいわば巻き込まれて正当防衛なのですが、不法に銃を手にしたため、警察へは出頭出来ません。自分が人殺しをした事で葛藤し苦悩する姿が印象深いです。ですが、その後二つの殺人も、理由はまずまず理解出来ますが、以降正義のためとは言え殺人を犯すことの葛藤の描き方が甘い気がします。決定的なのは四つ目。自分の目の当たりにした事柄ではなく、伝え聞いた話に過ぎない相手です。ここまで来ると越権行為も甚だしいです。彼女が狂信的に自分の存在を美化し始めたのかと思いきや、案外冷静なのが行動とちぐはくで、この辺からだんだんエリカから心が離れて行きます。

アメリカは開業した精神科医に、カジュアルに通う人が多いと聞きます。そんな精神分析大国で、こんなにひどい犯罪被害に遭った人が、カウンセリングも全く受けないとは腑に落ちません。黒人の隣人は良い味を出していましたが、彼女にその任務を負わせるのでは、無理があります。恋人はインド人、黒人も善き人もいれば悪しき人もあり、白人もまたしかり。その辺の人種の差別のなさも、現在のアメリカの姿を現していて、その辺は良かったです。

マーサー刑事も良い人なのはわかりますが、いくらオフレコだと言いながら、捜査段階の話をマスコミ側の人間であるエリカに話し過ぎです。彼女のファンであったとしても、刑事の倫理としてどうかと思います。彼がエリカと交友をはぐぐむきっかけは、他にも彼女の被った事件への同情もあるでしょうが、離婚して寂しいとの描写もあります。それって公私混同じゃないんでしょうか?たった一つの解決できない事件のため、刑事が法を守ることを否定的に描くのも、疑問符がつきます。

決定的にノレなかったのは、ラストです。確かにアッと驚くラストです。しかしあれでは余計にエリカを追い詰め、彼女を本当に救うことは出来ないでしょう。その無間地獄を表現する意図ではないのは、一人だけ出てくる証人の証言が、証明している気がします。マーサーも幾多の事件を担当し、法の矛盾を感じることも多かったと思います。その思いを乗り越える姿を描く方が、深い余韻が残ると思いました。

一連のエリカの行動には、確かに同情も共感も確かに湧きます。しかし彼女の行動を肯定出来ても、観客にあなたも彼女と同じ行動が取れるか?と問われたら、多くの人は「出来ない」と答えるでしょう。私も出来ません。もし私なら?と思いを馳せられない作りでは、本当の犯罪被害者の心の救済を描くことにはならないと思います。


2007年10月29日(月) 「スターダスト」




これもスゴーく気に入った!この前の日曜日、久し振りに夫婦で観てきました。今週末からは観たい作品のラッシュなんで、私は何でも良かったので、夫にチョイスさせたところ、チケット売り場で急遽「ブレイブワン」から、こちらに変更しました。「ブレイブワン」は昨日観たけど、「スターダスト」で正解だった模様。夫いわく、「『ロード・オブ・ザ・リング』より良かったわ」だそう。そりゃ色々総合したら、圧倒的に「指輪」の方が勝っているんですがね、正直言うと私も「スターダスト」の方が好きな作品です。

昔々、イングランのはずれには、塀に囲まれた「ウォール村」がありました。塀の外の町は魔法の国の「ストームホールド」で、塀の外へは決して出ないのがしきたりになっています。トリスタン(チャーリー・コックス)は、愛しい娘ヴィクトリア(シエア・ミラー)に求婚するために必要な流れ星を探すため、父の力を借りて塀の外に飛び出します。巡り合った流れ星は、なんとイヴェイン(クレア・デーンズ)という美しい娘に変身していました。しかしイヴェインを狙うの者は他にもいました。瀕死のストームホールド国王(ピーター・オトゥール)の遺言で、国王になるために彼女が必要な三人の王子たちと、再び輝く若さを取り戻したいラミア(ミシェル・ファイファー)ら、三人の魔女でした。

完璧に「昔々、あるところに・・・」の御伽話です。オチも最初の方のナレーションでだいたい察しがつくのですが、起伏のあるストーリーが、最後まで退屈させずに見せてくれます。魔女たちが使う多彩な魔法は、記憶喪失だったり、人間を動物に変えたり、指一本で家を建てたり、人形を使って戦わせたりと、子どもの頃童話で読んだようなものが出てきます。それを平凡に感じさせるのではなく、あの時頭の中で空想したのは、これだったんだ!と、とっても愉快な気分させてくれます。そんな可愛い魔法ばかりではなく、ブラックな魔法やダイナミックな魔法も数々で、まずは魔女たちに堪能出来ます。

トリスタンは最初冴えない青年なのですが、イヴェインを連れて大冒険の旅に出るうち、たくさんの経験をして、思考も剣の腕もどんどん磨かれて、逞しく勇気ある素敵な青年に成長するのを、わかりやすく描いていて○。途中で出会う飛行船に乗る空賊?のキャプテン(ロバート・デ・ニーロ)に、直接ヴィジュアル面から剣の腕、男としての心得を伝授されるのをサクサク
小気味よく描けています。演じるコックスは誰もが好感の持てるタイプの青年で、変にハンサムではなく、普通の好青年なのがまた大変よろしいです。

登場人物は全て善か悪か二極しかないのが、わかり易いです。ストームホールド国王は、自ら兄弟たちを殺して、国王の座を手に入れますが、さすがはその息子たち。同じことを繰り返しますが、あまり残忍に感じないのは、殺されたらすぐ幽霊になって、画面に出てくるんです。その姿がなんともユーモラスで笑いを誘います。そして生前は骨肉の争いをしていたはずの彼らが、仏さんになったら、なんとも和やかに接しているのが、残酷さを薄めていて、とてもいい感じです。

最初クレアが星の役というのは、ミスキャストだと思っていました。彼女は手足が長く長身で面長、愛らしいというより知的なクールビューティの方だと思っていたからです。しかし彼女がとても良かった!勝ち気で素直なイヴェインは、空の上から人間たちの「愛する」という行動をたくさん観て学んでいます。そして自分が初めて感じた「愛」。その愛を表現するとき、イヴェインは元々は星なので、彼女の感情が高まると光を放ちますが、この姿はとても清らかです。人間も「輝く」という表現をされる時がありますが、それには清らかで純粋な、それを支える芯の強い心、そして品格というものも必要なのだと、数々の場面で流れ星イヴェインが教えてくれます。これがクレアを選んだ理由なのでしょう。

しかし何と言ってもこの作品の最大の功労者は、ファイファーとデ・ニーロです。二人の大ベテランが、何と愉快なことか。ファイファーはまるで自分のセルフパロディのような美に執着する魔女なのですが、若返ったのはいいものの、ひとつ魔法を使えばひとつ逆戻りする自分に嘆く姿が笑えます。ただ笑えるだけじゃなくて、女心は灰になるまでだと、つくづくと思わせてくれます。まだ後5年は充分美女でやっていけそうなファイファーが、一つ女の階段を降りたんですね。楽しんで老婆を演じている様子は、女に執着せずに堂々として見え、とっても爽快でした。デ・ニーロも凶悪なキャプテン、実は心優しい中年男を演じて、とっても楽しそう。言葉の重みや懐の深さと、「とある趣味」のギャップを楽しんで観られるのは、デ・ニーロが演じるからこそです。この二人の余裕の演技ぶりは、このやや平凡なファンタジーを大幅に格上げしたはずです。

お伽話らしい教訓もあり、きちんと道徳的にもかなう作りになっています。時間も二時間少しですし(ファンタジーは長いのが多くて私はいや)、良質の全年齢に対応する作品として、太鼓判でお勧めします。とっても気持の良い作品ですよ。


2007年10月28日(日) 「インベージョン」




あの大女優が、何故こんなB級バッタもん映画に?シリーズ、第一段。(次はジョディ主演の「ブレイブワン」の予定)。この作品は何度も映画化されているジャック・フィニィの「盗まれた街」が原作で、実に四度目の映画化。私は三作目の「ボディ・スナッチャーズ」しか観ていませんが、結構面白かった記憶があります(一番覚えているのは、感染していない人を見つけると、キャディさん真っ青の大声で「ファ〜〜〜〜!」と絶叫すんの。それもすごい形相で)。どの作品も、何者かに体を奪われて別人格になる、という骨格だけ取り入れて、あとは脚色しているようです。この作品も三作目からは、大幅に脚色していました。

シングルマザーの精神科医キャロル(ニコール・キッドマン)は、一人息子のオリバー(ジャクソン・ボンド)を第一に考えるよき母です。ある日謎の生命体が地球に入り込み、感染した人々は次々と感情を失っていきます。その細胞を偶然手に入れたキャロルは、友人の医師ベン(ダニエル・クレイグ)に分析を頼みます。折しも別れた夫のタッカー(ジェレミー・ノーサム)が、四年間会おうとはしなかったオリバーと、面会させて欲しいと電話してきます。不審に思いながら応じるキャロルでしたが・・・。

感想をまず書くと、良いところもあるし、ツッコミもあるし、とっても普通の作品で都合良かったです。いえね、最近立て続けに秀作ばっかり観ているのでね、ちょっとクールダウンしたかったのよね。全力疾走してゴールした後、ちょっと流してランニングしたりするでしょう?そういうのにぴったりの作品でした。あんまり感激ばっかりすると、しんどいもん。

良かったところは、ニコールの母親ぶり。もう感激するほど息子命なんですね。息子の危機には自分の命は省みず、髪振り乱し、必死の形相で子供を守ろうとするのですね。これがずっと続くとダメ母になりますが、私は子供が小さい頃は、女より人間より、まず母親として生きるべきと思っています。ベンとは愛し合っているのですが、まずは子供第一のキャロルなので、「いつまでも親友でいましょう」だって。この身持ちの堅さに感激する私。だってね、前にテレビで豹のドキュメンタリーを観たのですが、豹の母親って、出産後二年はフェロモンが出ないのだとか。要するに子どもがジャングルで一人立ち出来るまで、本能から雌の部分がなくなるわけですよ。日々ニュースで流される若い母親と同棲相手の幼児虐待に、母親なら男より子どもを選ばんかい!と、暗たんたる気持ちになる私なのですが、このニコールの姿は我が意を得たりという気になりました。こう言う役はあまり美に恵まれない女優さんより、ニコールのように完璧な美貌の人に演じてもらう方が、やはり説得力があろうかというものです。豹を見習え!というより数段効き目がありますね。

ニコールは美貌が先立つ人ですが、「アザース」なども非常に好演だったし、子どもへの愛が表現しにくい「毛皮のエロス」でも、複雑で表現しにくい子供たちへの詫びの気持ちなども、上手く演じていました。完璧な美と母性とを兼ね備えているという、稀な長所を持つ人だと、私はいつも感じています。

題材はSFなんですが、どちらかというと、この病原菌はこれからどうなるのか?行方不明の息子はわかるのか?などなど、サスペンスフルな展開の方が楽しめます。この病原菌に感染しても、眠らなければ変化しない設定ですが、その辺は上手く脚本に取り入れていました。

ただ楽しめるけど、すごく楽しめるかというと、そうでもないです。前半ちょっと観念めいた人類についての問答があるんですが、観ながら既に忘れていきます。それくらい絵空事というか、ハートのない会話です。これが前ふりの役目なんですが、感染前の体も保ち、思考も思い出も残るし、感情が抑制されるくらいなら、そんなに感染を怖がらんでもなぁという気もします。だって「この体なら地球上から戦争がなくなる」というのは、すごくそそられません?ゾンビみたいに、絶対こうなるのはいや!という特徴に欠ける、感染後のようすでした。

以下はネタバレに苦言を書きます。











それと感染すると、蚕みたいになるんですが、そのまま死ぬ人と首尾よく脱皮(?)する人といるんですが、あれはどういう分け方してるんでしょう?
問題の解決が早過ぎ。超スピードで世界中からアメリカの一大事のために、ノーベル賞クラスの学者が集まるって、あんた何様?ちゅー気がして、余り気分がよろしくないです。ニコールは息子を連れて逃亡の途中、バンバン感染者を殺しますが、それは切羽詰まった状況なんでOKです。感染したベンだけは足を撃って殺さなかったのも、まぁわかる。でもあのラスト、治療法が見つかり、回復したベンと結婚したみたいなんですが、あれも気分がよろしくない。そしたら感染者は、みんな足を撃ったら良かったんじゃないのん?あそこはハッピーエンドにしちゃね、怖さがただの喉元過ぎれば感に終わってしまいます。やっぱりベンには死んでもらって、感染の恐ろしさを教訓にすると共に、キャロルにはどうしようもなかったけど、悔恨の哀しさを漂わせた方が、深みのあるラストになっていたと思います。いかがでしょう?


2007年10月25日(木) 「クワイエットルームにようこそ」




面白かった!監督松尾スズキの前作「恋の門」が大好きなので、今回も期待大でした。全ての登場人物の描き込みに文句がなかった「恋の門」に比べて、今回は内田有紀扮するヒロインと恋人以外の登場人物の描き方が雑な人がいたりで、コメディ的なシチュエーションで逃げてしまった気はしますが、観た後面白かっただけではなく、深い想いを与えてくれたのは、断然こちらの方でした。

28歳のフリーライターの佐倉明日香(内田有紀)は、恋愛や仕事に行き詰まり、誤まって睡眠薬を過剰摂取してしまい、救急病院で胃洗浄の後、自殺の恐れありとして、精神科の閉鎖病棟に強制入院させられます。そんな認識のない明日香は猛反発。しかし同棲相手の放送作家鉄雄(宮藤管九郎)も承諾していたことから、仕方なく明日香の入院生活が始まります。そこには摂食障害を持つミキ(蒼井優)や同じ薬物過剰摂取の栗田(中村優子)、元AV女優で過食症の西野(大竹しのぶ)などがいました。

すごくテンポが良いです。いくら誤飲を主張しようと、これは他にも理由があるだろうなとは、観客は思うのですが、その予測通りに、次々と明日香の抱える苦悩や傷が現れます。それと同時に、かなり個性的な先輩入院患者や、医療者側の人々を、上手に紹介していて、登場人物がたくさんの割には、キャラ分けも人間関係の整理も上手です。

ヒロイン明日香の描き方、及び演じる内田有紀が素晴らしい!。明日香の背景が浮かび上がってくるに従って、私が真っ先に感じたのは、今の若い女の子はなんて大変なんだろうと言うことです。

私の若い頃は適齢期というものがあり、女は学校を卒業して2〜3年腰掛けで仕事して「社会勉強」して、結婚して子供を産んで育てて(私は「社会勉強」をすっ飛ばしたため、適齢期前に結婚したけど)、という絶対公約数的な価値観が支配していました。支配なんて言葉も今は浮かぶけど、当時の感覚としては「当たり前」が当たっているでしょうか?私の学生時代の友人など、本当に24歳前後にバタバタとほとんどが結婚していったもんです。面白味はないけど、価値観が統一されているって、ある意味楽なんだと明日香を観て思いました。

今のように多様化した価値観が認められると、女だって仕事に生きようが恋に生きようが、結婚して子供を産もうが産むまいが、何歳で何をやってもいいし、何だってありなんだから。しかしそれだけならいいんですが、古い価値観の概念もそこはかとなく刷り込まれているもんだから、頭の中が混沌としてくるわけだね。

ひょんなことから、フリーライターになった明日香。初めて仕事らしい仕事に就いたと喜びいっぱいで頑張るのですが、出版社やその他での仕事が経験があるわけじゃ無し、初めて連載をもらった800字のコラムで、「これくらいが何故書けない・・・」と苛立つ彼女。ものすごくわかる。私もサイトを持って三年半くらいになるけど、「800字でこの映画の感想を書け」と言われたら、悶々としますよ。でも私の場合は趣味なんで、自分のしたいよう書きたいことを書けばいいんで、それも無理なら「出来ません」と開き直りもOKですが、お金をもらっている場合はそうはいきません。勢いだけで書いていた頃から、キャリアがその上のステップに上がる時の焦りが、手に取るようにわかります。

そこへ上手くいかない恋愛や肉親との付き合い、同棲相手の子どもが欲しい、元の夫が死んじゃった、などなど重なっては、明日香でなくても心のキャパははちきれます。少し寄り道・横道にそれてはいますが、明日香はどこにでもいる平凡な女性です。明日香を通して精神的な病は、ふとしたはずみに誰にも陥る可能性があるのだと感じます。

深く印象に残るのは、普通女性だけが背負う傷を、明日香の離婚した夫(塚本晋也)は、彼女と共有していたということです。明日香に残した手紙は、そういう意味だったと思います。これが夫婦関係継続中なら美談ですが、離婚した後相手は自殺。そのことが明日香を罪悪感の塊にしたんだと思います。そしてそのことに関係ない鉄雄が、明日香を理解しようとしながら、それが出来ずもてあまし、逃げたくなる気持ちも、丁寧に描いていて共感出来ます。

私が初めて内田有紀を観たのは、多分「ひとつ屋根の下」だったと思います。なんてきれいな骨格をした美少女かと、目を見張りました。不治の病を持つ役柄のせいか、清潔でボーイッシュな中に、寂しげな憂いを感じたものですが、この作品を観ると、それは彼女の持ち味であるようです。
今回も吐しゃく物を顔にへばりつかせたり、カテーテルで尿を採取される姿が映されたりしても、不潔感がありません。それどころか、この状況で必死で前向きになろうとする明日香を、こちらも必死で応援したくなるのです。それは内田有紀が、心を込めて明日香を演じたからでしょう。

クドカンも頼りなげで優柔不断ながら、心優しい鉄雄をとっても好演していました。お尻を出しながら、「死ななくて良かった〜〜〜」と号泣する姿は、真相が明らかにされていくうち、とても感動するシーンに脳内で変化していきます。あの手紙はちょっと男らしくないけど、男のひ弱さと善良さを両方表現出来ていて、妙にリアリティがありました。

コメディリリーフ的な看護師の平岩紙、鉄雄の弟子・妻夫木聡、患者の筒井真理子など上手く使っていたのに、肝心の主な脇役の患者西野の大竹しのぶがもう一つ。エキセントリックな演技で、精神科の患者を表現していましたが、これは過食症で精神を病んでいるというより、別の病名じゃないの?これではただの迷惑なおばさんで、痛々しい女性でなければならないところが、痛いおばさんにしか感じません。りょう演じる看護師も、この病棟で患者から命を失いそうになるほどの怪我をさせられながら、今も看護師を続けている理由がわからない。あれじゃただ並はずれた根性と、感情が超低温なだけな人に見えます。もう少し患者への愛が見えたら、良かったかと思います。

ゴスッコ風の摂食障害患者ミキ・蒼井優は、この役のためにかなり減量したそうですが、その甲斐あって、謎の多いミステリアスなミキを、最後まで上手くひっぱり、謎を辛さ哀しさに昇華させていました。さすが優ちゃん(彼女は私のお気に入り)。ただ入院患者の病名の大半が摂食障害関係とは、いかがなもんでしょうか?閉鎖病棟にしては、症状が軽く思えました。鬱や多重人格などは描きにくいし、明日香を作品の中心にするためには、しょうがなかったかもですが、この辺はもうひと工夫欲しかったところです。

重い内容を笑い飛ばしながら、かる〜く観られるのですが、観た後しっかり心が満腹になる作品です。世の中悩みのない人はいないでしょう。観た後、もうちょっと頑張ってみようかなぁと思わせる、そんな元気というより勇気の出る作品でした。お勧めです。


2007年10月23日(火) 「ミリキタニの猫」




上の画像をご覧に下さい。これが撮影当時80歳の日系アメリカ人、ジミー・ミリキタニ(ミリキタニ・ツトム)が描いた絵です。2001年NY。彼はホームレスのストリート画家です。アメリカに生まれた彼ですが、子どもの時に両親と共に日本の広島に帰国。しかし軍人になれと言う父親に反発し、アメリカで結婚していた姉を頼り、また渡米。しかしその後戦争が勃発、彼を含む日系人は、強制収容所で辛酸を舐めます。米国政府の手によって彼は市民権を放棄させられ、その後50年間社会保障は受けられず、現在に至ります。監督のリンダ・ハッテンドーフは、彼の絵の代金の代わりに、自分を撮影してくれと頼まれます。そしてあの「911」。居場所のなくなったジミーにリンダは、「うちに来ない?」と申し出ます。




東京の映画友達の皆さんが絶賛するので、期待して観てきましたが、74分の中にぎっしり詰まった、ジミー・ミリキタニの反骨精神いっぱいの人生は、実はとてつもない反戦の心でした。今回ネタバレです。




私がまずびっくりしたのは、彼が描く絵です。瑞々しいタッチと色彩を使い、生命力に溢れています。一番びっくりしたのは、全く老成していないこと。とても若々しいのです。この絵は彼の心そのものなのでしょう。彼の喋る英語は流暢ですが、日本語なまりがありました。私の身近な在日一世のお年寄りも、日本に渡って60年になろうかというのに、韓国語なまりの日本語を話す人が多いので、彼の話す英語につい微笑んでしまいます。彼の話す英語は、ジミーが日本で育ったという証しなのです。

収容所時代を含め、アメリカで苦労の限りを尽くした彼は、アメリカが大嫌いで日本は素晴らしい国だと言います。由緒正しき武士の家柄だというのが自慢の彼は、サムライ映画が大好きです。あぁ〜、在日にもいるいる、こんな年寄り。やれ自分はヤンバン(貴族階級)の出だ、李王朝の流れを汲んでいる、自分の祖先は李王朝時代大臣をしていたetc.。私も若い頃は、どんな貧乏たれだろうが貴族の家柄だろうが、みんな同じ日本に住む韓国人じゃんと、鼻白む思いで聞いていました。ですが中年になった今、それは差別激しく見下される他国で、自分の出自を支えに必死で生きてきたのであろうことが、理解出来ます。きっとジミーもそうだったのでしょう。

しきりに「自分は米国生まれのなのに、アメリカはひどい仕打ちをした」というジミー。アメリカと言う国に罵詈雑言浴びせる彼ですが、彼は日本に馴染めなかったからアメリカに戻ったはず。そんな彼を、戦争が始まったためアメリカは受け入れてくれなかったのです。言葉とは裏腹に、憎だけではない、アメリカへの複雑な感情も感じ、望郷の念を語る彼からは寂しさも感じます。

自然体でジミーを受け入れるリンダ。段々祖父と孫娘のような関係になっていき、「今日は遅いけど、ご飯は大丈夫?」と聞いたり、深夜に帰宅するリンダに「どんなに心配したと思っているんだ、結婚前の娘のすることではない」(←年齢が出る)とジミーが怒ると、「私だって自分の時間が必要なのよ!」とケンカしたり、全く微笑ましいです。ジミーが社会保障を得られるよう奮闘し、手を尽くして彼の姉を探すリンダ。それは若い彼女にとって多分初めて、日本人の戦争の傷跡を生々しく感じる道程だったと思います。

ジミーのアメリカへの敵意を沈めたのは、そんなリンダであったり、彼の絵の腕を見込んで、デイサービスで絵の教師を頼む女性であったり、善意に溢れた現代のアメリカ人です。盛んに悲惨だった収容所時代の話が出てきますが、監督のリンダは、それを自虐的なアメリカ史として捉えているのではありません。この作品では日系人ですが、場所を変え国を変えれば、被害者は東アジアの人だったりアフリカの人だったり、はたまたヨーロッパの人だって。元凶は全て戦争なのです。この作品から私が強烈に感じたのは、ここでした。

ジミーはアメリカは大嫌いでしょうが、リンダは好きなのです。国が嫌いなら、まずその国の人を好きになればいい。戦争や植民地時代を挟み、長く確執のある国同志は、国がいやなら、せめてその国の人を拒むのだけは、止めなければならないと思うのです。

私の勤め先は小さなクリニックなのですが、患者さんは私が在日だとは知りません。在日の多い土地柄なので、患者さんが先生に「この辺はあっちの人(在日)が多くて柄が悪ぅて、しょうがおまへんな」と言うのが、受付まで時々聞こえてきます。先生方は私が韓国人なのはもちろん知っておられるので、「そんなことありませんよ。人それぞれですがな」と、フォローして下さいます。私は「あっちの人」と表現する患者さんの言葉に傷つくより、私を気にかけてフォローして下さる先生の気持ちの方が嬉しいです。その方が私の心の栄養になりますから。

今日の朝一番の新患さんは、中国の四か月の女の子の赤ちゃんでした。しっかりした話しぶりでしたが、少し日本語がたどたどしいお母さんは、来日5年目だとか。月齢が小さ過ぎて、あちこちで断られたそう。「うちの先生は診て下さいますよ。ベテランさんですから」というと、心底ほっとした表情でした。他の子供を連れたお母さんと、何ら変わりはありません。お父さん似で、男の子のようだというお母さん。「お父さん似の女の子は、将来別嬪さんになるっていうねんよ。」と私が言うと、すごく嬉しそうな笑みを返してくれました。日本の言い伝えが、中国の子には関係ないということは、ありませんよね。

確執のある国の今後は、若い世代の交流にかかっていると思います。ラストに流れた、ミリキタニが再会した姉の家族と写っていた写真が、それを物語っていました。姉の、丸々日本人の顔立ちの孫娘の、愛する御主人は、白人のアメリカ人でした。


2007年10月21日(日) 「ヘアスプレー」




わ〜、すっごく楽しい〜!この作品の元作は、あのカルト映画の王様ジョン・ウォータースが監督した1988年度作の「ヘアスプレー」なのですが、その後この作品はブロードウェイでミュージカル化され、そのミュージカルを映画にしたのがこの作品と、ちとややこしいです。「これであなたも愛され上手」とか「究極の愛され服」とか、若い子の雑誌で最近よく常套句として「愛され○○」と形容するのが出てくると、何だかうんざりした気分になる中年の私ですが、その「愛され系女子」がおデブちゃんのトレーシーになるだけで、媚ではなく、活気あふれるものになるのには、びっくりでした。

1962年のアメリカのボルチモア。16歳の高校生のトレーシー(ニッキー・ブロンスキー)は、歌とダンスが大好きなちょっと(本当はだいぶ)太めの女の子。今日もスプレーをバンバンかけて、高めのヘアスタイル作りに余念がありません。そんな彼女と親友ペニー(アマンダ・バインズ)の一番の楽しみは、テレビ番組の「コーニー・コリンズ(ジェームズ・マースデン)ショー」を観ること。ティーンが歌い踊るこの番組で、いつの日かレギュラーになるのが夢なのです。しかしやはり超太めのママ・エドナ(ジョン・トラボルタ)は大反対。太めの体をバカにされて、娘が傷つくのを恐れているのです。しかし「ジョークのおもちゃ」の店を経営するパパ(クリストファー・ウォーケン)は応援してくれます。ほどなくコーニーの目に留まったトレーシーは無事レギュラー入り出来、あっと言う間に人気者に。しかしそれまで番組の中心的存在だったアンバー(ブリタニー・スノウ)と、番組プロデューサーのベルマ(ミッシェル・ファイファー)の、美人ブロンド母娘は面白くなく、あの手この手でトレーシーに意地悪します。しかしその意地悪のお陰で、黒人差別の実態を知ったトレーシーは、友となった彼らのために、力になりたいと感じ始めます。

あぁ今回はあらすじが長かった。最後の二行にたどり着くまで、是非書きたかったのです。ということで、実はこの作品の本当のテーマは、因習深き60年代のボルチモアで、人種差別に抵抗する全てとの黒人たちと、それを応援する少数の白人たちのお話なのです。

差別されるのは黒人だけではありません。ベルマ母子から蔑みの言葉や嫌味を言われ続けるトレーシーだって、その体型から差別されるのです。しかもその差別は、実は男性より同性の方がネチネチしているのですね。男性の方は、性格美人のおデブちゃんがいっしょにいて楽しい子だとわかると、「コーニー〜」の一番の人気者リンク(ザック・エフロン)のように、その外見には案外無頓着になるのに対し、同性の女性の方は、意地悪アンバーのように「何よ、デブのくせに!」と一層差別心丸出しになる子がいるのですね。私は女子高育ちなのですが、容姿に恵まれない子が突出して出来が良いと、陰でひそひそ「ブスのくせに」と、それで全人格を否定する輩が、どの学年でも必ずいました。女性は美が全てを支配する、そう女性たちが思いこむのはどうしてでしょう?

それをデフォルメして体現していたのがベルマ。彼女は元ミス・ボルチモアなのですが、それは審査員たちと寝て、勝ち取ったものです。女性として当時としてはかなりのキャリアのあるベルマですが、トレーシーのパパを誘惑しようとする様子など、それも寝技でのし上がってきたのは明白です。アンバーはその輝くような美貌を武器としなければ、どんなに優秀であっても男性優先の社会では、生き残れなかったのでしょう。1962年当時を映す風俗描写のはずですが、離婚した夫を見返したい意地を感じさせるところなども、この辺は脈々と現代にも通じているものがあります。だからイマドキの女の子が、受動的にしか愛を表現出来ない「愛され○○」が、私は嫌いなの。

トレーシーを演じるニッキー・ブロンスキーが素晴らしい!とにかくキュートなのです。画像を観ておわかりのように、かなりのおデブちゃんなのですが、ハリがあって声量のある歌声、キレもあるけど、ゴムまりが跳ねるようなユーモアを感じさせるダンスが、これまたとっても愛らしいです。何故こんなに可愛いのかと考えたのですが、この可愛さは赤ちゃんに通じるのですね。丸々太ってボンレスハムみたいな赤ちゃんを観て、「この子太り過ぎでブサイクね」と思う人は、よっぽど意地悪な人でしょう。純粋に黒人たちの踊りをカッコ良いと憧れ、教えをこう素直さ。仲良くなった彼らの苦境を知るや、何とか力になりたいと奮闘するある意味分別の無さは、世の中の構図を知らないから出来る、若さだけの特権でしょう。その瑞々しさや純粋さには、大人をも目覚めさせる力があるんですから、これも赤ちゃんと同じですよね。

その他登場人物が全てよく描きこまれています。演じる俳優もベテラン揃い。腕もあって華もある俳優ばかり集めているので、普通これくらい集まればギトギトするのですが、目立って良いシーン、相手の個性を引き立てなければいけないシーン、それぞれがわかってお芝居しているので、とってもアンサンブルが良いです。ファイファーは意地悪アンバーを演じて嫌らしさ満開ながら、50歳前にしてその美貌の凄みに感嘆。上に書いたような女の哀しさもきちんと感じさせるなど、絶妙の敵役で、とってもチャーミングでした。ウォーケンも超鈍感で変人ながら、とっても善人で愛妻家の夫を演じて出色でした。クィーン・ラティファも、黒人たちのビックママ的存在のメイベルを、包容力があって求心力抜群の存在感で表現し、それをご自慢の歌声でさらに強化して、お見事でした。嬉しかったのはジェームズ・マースデン!いっつもいっつも優等生でいい人なのに、ふられたり死んでしまったりの役ばっかりで、明るい彼は観たことがありませんでした。あぁしかし、この作品では弾けるような明るさで、スーツを着て髪型もびしっと決めて、60年代の品行方正で由緒正しきスターっぷりを見せてくれます。未来は差別がなくなる世界だと信じて、押してもだめなら引いてみな、的な柔軟な手法で黒人たちを応援する姿は、向こう見ずではない、大人の対応の仕方だなと勉強になりました。
その他若手の主要人物たちも、若々しくて健闘していましたが、如何せんベテラン陣が素晴らしくて、ちょっと影が薄かったですが、それはキャリアの差なので、致し方ないことでしょう。

そしてそして、画像のトラボルタ!元作のエドナが、伝説のドラッグクィーン、ディバインであったための起用かと思いましたが、舞台のミュージカル化に際してのウォータースの注文も、「エドナ役は絶対男性で」だったとか。

トラボルタと言えば、私が青春時代熱狂した「サタデーナイト・フィーバー」や「グリース」などでも、ダンスの腕はお墨付き。こんなファットスーツ着て踊れるのか?と思っていたんですが、弘法筆を選ばず、じゃない役者役を選ばずで、全然OKなステップでした。なんでもエドナになるための特殊メイクは、毎日6時間かかったそうですが、その甲斐あって、見事な母親っぷりです。その超ふとっちょな体からは、暑苦しくもありがたい母性が充満です。仕事が忙しくなかなか夫がかまってくれなくても、「男の人は家庭よりお仕事が大切なのよ」と、60年代は日米とも良妻賢母のおかげで社会が成り立っていたのだなぁと、つくづく感じました。結婚して太ってしまった自分を恥じて外へは出ません。実は私も結婚前から十数キロ太ってしまって、夫からは詐欺師呼ばわりされて幾歳月、昔は傷ついたもんですが、最近では「あんたが三人も子供産ますから悪いねん」と開き直る有りさまで、エドナの爪の垢でも煎じて飲まなくてはと、深く反省(嘘)。

エドナはクリーニング店も営んでいるのですが、ガチガチに堅くお上品であることが生活の信条のペニーの母親は、ペチコートの値段が高いと文句を言います。「シミを取るのに苦労したからよ」と言い返すエドナ。「失礼じゃないの!」と言うペニーの母ですが、このシミって多分生理の血液でしょう。お金を出すからと生理の血のついたままのペチコートをクリーニングに出すなど、まったくもって恥知らず。女としてあまりに不作法です。

対するエドナは慎み深く、夫への愛を表現する姿は本当にいじらしく、パパが「お前にしか興味はない」と言い切るのに充分な女らしさです。こんな素晴らしい女性のエドナを男性俳優でと拘ったウォータースの真意は、人間は表面の氏素性や地位で計るなかれ、中身を見ろ、そういう意味かも知れないなと感じました。

最後になりましたが、ミュージカルシーンは盛りだくさんで、時代設定の60年代にマッチした軽いロックンロールが楽しく、歌いあげる黒人のブルースはファンキーで、声量の豊かさには圧倒されます。踊りも同じ若さの表現でも、白人は端正で正統的な雰囲気、黒人は自由自在で力強いステップと振り付けも変え、こちらもとても楽しめました。

主役は超重量級なのですが、スクリーンはどの場面でもとっての軽やかでコミカルで、爽やかさがいっぱいです。舞台版をご覧の方には物足らないかもですが、こちらもとっても上出来ですので、是非ご覧下さいませ。


2007年10月14日(日) 「パンズ・ラビリンス」




こんなに苦い内容だとは。こんなに哀しく切ないとは。ダーク・ファンタジーと聞いてたので、暗目の「不思議の国のアリス」風な、シニカルでユーモアのあるファンタジーだと勝手に想像していました。監督のギレルモ・デル・トロが「デビルス・バックボーン」に続き、フランコ政権下に抵抗する人々を描いた作品です。

1944年のスペイン。内戦終結後のフランコ政権下の人民は独裁政権に苦しみ、秘かにゲリラ活動も盛んでした。仕立て屋の父親を亡くした少女オフェリア(イバナ・バケロ)は、母カルメン(アリアドナ・ヒル)の再婚相手であるビダル将軍(セルジ・ロペス)と暮らすため、とんでもない山奥までやってきます。カルメンは臨月で、ビダルは出産はここでと主張したからです。冷酷な義父ビダルが好きになれないオフェリアは、孤独を噛みしめます。そんな彼女に何くれとなく心を砕く女中頭のメルセデス(マリベル・ベルドゥ)。ある日昆虫の姿をした妖精と出会ったオフェリアは、妖精の導きで迷宮へと足を踏み入れます。そこは「牧紳」パン(ダク・ジョーンズ)がオフェリアを待っており、彼女こそ地底の魔法の国の王女の生まれ変わりだと伝えます。そしてオフェリアが真の王女になるためには、三つの試練を乗り越えねばならないと伝えます。

最初オフェリアを演ずるイバナを観た時、私は花がほころんだような、お人形さんのような美少女が出てくると思っていたので、少し意外でした。彼女も確かに愛らしいのですが、芯の強さと賢さ、そして無垢さが先に感じられる子です。しかしのちの展開を観だすと、あぁこの作品のヒロインはイバナでなければと、すごく納得出来ます。

ビダルの冷酷さを感じるオフェリアは、何故彼と結婚したのかと母に問います。「大人には大人の事情があるのよ。あなたも大人になればわかるわ」と答えます。子供を女手一つで育てるのは、いつの時代も大変です。権力者に寄り添うのは、確かに賢い選択かも知れません。しかし晩さん会で馴れ初めを問われて答えるカルメンからは、不実な匂いも感じるのです。それはビダルが権力者であるということからだと思います。「ママは一人ではないわ。私がいるじゃない」と言うオフェリアの言葉が痛々しく響きます。幼い我が子を胸に抱きながら眠るときほど、母親が安らぎと明日への力を得ることはありません。それはもう男の腕枕で眠るなんかの比ではありません。娘オフェリアを抱きながら眠るカルメンを観て、女としてのか弱さを感じます。

カルメンの生き方は、レジスタンスとして活動する人々とは対照的です。母に対する嫌悪感を胸に押し込め、慕情だけを露にするオフェリアは、気丈な子です。パンの与えるラビリンスの試練を必至で乗り越えようとするオフェリアの姿は、彼女を抑圧するもの=ビダルや母への抵抗に感じました。地上では大人たちが生死かけて、やはり必至でレジスタンス活動をしており、ラビリンス内のオフェリアと重なります。

ビダルの描き方は極端過ぎるほど冷酷で残酷。凄惨な殺人場面や拷問シーン、まだ子供である妻の連れ子を、底冷えのする目で見つめる様子など、本当に怖いです。しかしやはり晩さん会の会話や、カルメンのお腹の子を男子と決めつけている様子は、彼の中にある、自分と亡き父とのわだかまりを修復したいように感じました。亡くなった父親が軍人だったというのが、キーポイントかと感じ、長く安定しなかったスペインの政局が、ビダルの性格を作ったように感じました。

女中頭のメルセデスが印象的です。レジスタンスである弟を、自分のあらん限りの力を注いで助けようとする姿は、姉というより母親の強さです。オフェリアの境遇に同情し、愛深いまなざしを向ける彼女を、私も好きになりました。最初は弱腰であったのに、最後には医師として人としての良心を貫く医師も含めて、登場人物が何故そう感じたのか、何故そうなったのかが、観客にしっかり伝わる秀逸な描き方です。

ラビリンスでの場面は、まさにダークなファンタジックさで、妖精やクリーチャーの造形も愛らしいとは言えず、少しホラーめいていました。パンと二番目の印象的なクリーチャーを演じるのは、なんと「ヘルボーイ」で、インテリかつ優雅な風情がとっても素敵な、半漁人のエイブを演じていたダグ・ジョーンズと知り、すっかり嬉しくなりました。エレガントで陽気だったエイブと比べると、今回はやや悪役ですが、この作品の狂言回し的なパンを印象深く演じています。

作品の終焉が近づくにつれ、作り手の意図が明確に顔を出します。しかしその意図は、観る人により様々だと思います。私は思いもかけないオフェリアの行く末に狼狽しました。そして次々と過去の情景が浮かぶのです。オフェリアが最初からパンに対し平静でいられたこと、恐ろしいクリーチャーにもそれほど恐れているように思えなかったこと、そしてメルセデスの言葉です。「私は母から、パンに出会ってもついて行ってはダメと言われたわ」と言う言葉。過酷な境遇を乗り越えるため、幼いオフェリアが自分に課した戦いだったのだと思うと本当に辛く、胸をつかれました。と同時に、辛さだけではない幸福感も漂わせる幕切れはお見事で、きっと語り継がれるラストになるかと思います。

メルセデスもオフェリアも命がけで弟を守る姿に、表裏一体のような魂の繋がりを感じました。か弱いカルメンには、それに相応しい行く末が用意されていましたが、そこに赦しを感じ深い感慨を残します。ファンタジーというカテゴリーで、これほど深く現実を表現し感動させる作品は、今まで観た記憶がありません。独裁政権の様子はかなり血生臭く、そういう描写が苦手な方には辛いシーンもありますが、そう言う場面は目をつぶっていただいてもいいので、是非ご覧頂けたらと思います。


2007年10月09日(火) 「サウスバウンド」




今年70本目の作品。普通の人に比べれば遥かに多い鑑賞数ですが、こういう映画の感想文サイトの管理人としては、少し物足らない本数です。しかし月7〜8本ペースというのは、人が思うほど手当たり次第と言う訳ではなく、自分なりに厳選して観ているもので、そのせいか今年はあまり外した作品はありません。この作品も当初は観る気満々、しかし伝え聞く評判の悪さに止めようと思っていました。でももしかして面白いかも?私にはイケるかも?という想いはぬぐい切れず、結局久々のギャンブル気分で観ました。監督は玉石ごろごろ、何が出てくるかわからない森田芳光。

東京は浅草に住む小学校六年生の上原二郎(田辺修斗)。父一郎(豊川悦史)母さくら(天海祐希)姉洋子(北川景子)妹桃子(松本梨菜)の五人暮らし。父一郎は元学生運動の過激派で、現在は無職。母さくらの営む喫茶店で生計を立てています。一郎は社会制度に対して反骨心旺盛、常に破天荒な言動で、思春期の二郎を悩まします。とある暴力事件に二郎がかかわり、そのことが原因で都会生活にいやけがさしたさくらの提案で、家族は成人した洋子を残し、一郎の故郷・沖縄の西表島に移住することにします。

前半の東京パートは全然OK。最初二郎の先生(村井美樹)が、あまりにわざとらしいフリと笑顔なのが、こんな先生いるかよ!と気持ち悪かった以外は、楽しく観られました。確かに一郎の言動は常識からはみ出していますが、観ていて少々痛快です。「年金なんか払うか!」と一喝しますが、時節柄年金払ってくれとやってくる方が非常識なんじゃないの?と思うし、修学旅行の積立金に、学校と旅行会社の癒着を感じると学校へ乗り込む姿はカッコイイです。確かに子供たちにははた迷惑な父親だとは思いますが、しっかり妻子を愛しているのが感じられるのがポイント高し。ある意味頼りがいもあり、これなら妻が喜んでついていくのもわかります。無職というのはミソをつけますが、これだって夫婦で納得済みならいいんじゃないでしょうか?ヒモ夫が困るのは、妻が働いて欲しいと思っているの、にぐうたらしているケースだと思います。

体格にも差があって、本当に子供っぽい子から二郎の様に少年に移行している子など様々なんですが、いちように思春期に入り、色気づきはじめる少年少女たちの描写が楽しく微笑ましいです。そしていじめの描写が生々しい。中学生の子が小学生の子を手下にして恐喝したりは、私も聞いたことのある事実です。父親に知れると大ごとになるとわかっている二郎はさておき、他の子たちも誰も親にも先生にも相談しません。事後にのこのこ出てくる校長(平田満)などの全く的外れの指導の仕方を見ると、これは助けを求めても無駄だと思ってるんだとわかります。今時「母子家庭=問題ありの家庭」なんて、他の父兄の前で言う教師なんかいるか?親として大人として本当に情けない気持ちになりますが、でも実際はあんなんじゃありません。マスコミにデカデカと連日困った教師の記事が出ますが、現役中三生の母の私の実感としては、圧倒的に生徒のために頑張る先生の方が多いです。この辺は父一郎の反骨心を正当化するため、教師=体制側として、わからずやに描いているのでしょうが、子どもたちの日常の描き方のリアリティに比べて、これでは少々不満が残りました。

まずまずだった東京パートですが、これが西表島に移住するところから、個人的に違和感がくすぶってきます。二郎のごたごたが原因で、母の提案での沖縄行きです。父一郎の故郷ということで、辻妻は合いますが、正直実際に子育てしている身からすると、これくらいで?という気がします。もっと葛藤があったり、周囲の人との衝突の描き方に工夫がなければ、周囲と自分たち夫婦の意見が合わないから、さっさと沖縄に逃げたように私は感じました。この描き方では親として幼稚です。

実際幼稚だったのでしょう。移住するには無計画過ぎて、色々揉め事が起こります。自分の生まれ育った土地を大切に守りたい気持ちはわかりますが、あの描き方では無理がある気がします。ここでも土地を買収する人たちや法律を、体制側=悪と決め付けて描いているので、ここも違和感を増大させます。何でもかんでも体制側が悪じゃなぁ。西表島の風景は美しく、島の人々はみんな優しく、生活はのどかで心が洗われる様ですが、どうもいいとこばっかし映して、生の生活感がありません。島での上原一家の生活ぶりが上滑りなので、そこで一生暮らしていくという気概より、都会の生活に疲れた人が一時癒しに来ているように感じてなりませんでした。

そしてオチで決定的に私は大噴火。以下ネタバレ(ネタバレ以降にも開けて文章ありなので、読んでね)














子供を置いて夫婦で逃亡するって、あれは何?ちょっとの間だけ我慢してまた闘争すればいいじゃん。父ちゃんだけ逃げれば?母ちゃんは子供たちと残って、「後のことは任せて」ならば私はこんなに怒ったりしません。むしろそれが内助の功ってもんでしょ?それとも牢屋の中から闘争する方が、もっと子供に自分たちの生き様が見せられるじゃん?その方がカッコイイよ。何も全て社会制度に迎合することが良いわけじゃないし、こんな不器用に自分のスタンスを貫く人がいても全然かまわないと思います。しかしこんなに軽やかにファンタジーっぽく、子育て放棄を肯定的に描くことには、私は納得出来ません。結局この夫婦は、一見ポリシーがあるようで、中身なく反社会的に生きることだけが目的だったように感じました。学生運動に身を投じていた人たちは、結局この二人のようなもんだったんだなと観客に思われたら、かつて本当に国を憂いて闘っていた人たちが浮かばれません。















ネタばれ終わり。

主要人物は総じて良かったですが、子役の素人臭さはまぁ見過ごすとして、西表での現地の人々は、学芸会以下の演技でびっくり。何故普通の役者をつかわなかったのか疑問です。ここは本当の現地の人に拘らなくても全然大丈夫だと思いました。

他の役者は総じて好演。トヨエツは破天荒な父ちゃんをチャーミングに演じていました。元々土着の大阪人ですから、こういう演技をするのは好きなんでしょうね。「いらっしゃ〜い♪」の間合いは良かったなぁ。彼は同世代なのですが、子供の頃はきっと毎週吉本新喜劇見ていたはずです。天海祐希は普通の奥さんが案外似合う人で、イメージよりずっと器用な人だと思います。田辺君は現在は下手ですが(!)、ルックスを含めてなかなか将来性はありとみた。桃子役の梨菜ちゃんはほんとに笑顔が可愛くて、この子の愛らしさと、巧みに沖縄の方言のイントネーションを使いこなす警官役の、松山コウイチの気弱な好青年ぶりが出色でした。後はお姉ちゃんか。彼女は印象に残っていません。普通でした。

私的にネタバレ部分でぶち壊された作品でした。それが気にならない方は、緩いコメディとして、それなりに楽しめるのではないかと思います。


2007年10月07日(日) 「エディット・ピアフ 〜愛の讃歌〜」




この作品を観に行くつもりだと、いつもカットをお願いしている若い美容師さんに話したところ、「”あ〜なた〜の燃える手でぇ〜♪”の人の話ですか?」と答えてくれました。正確に言うとそれは『越路吹雪の「愛の讃歌」』なのですが、それくらい若い人でも、ピアフが「愛の讃歌」を歌っていた人だと知っているのですね。ですが彼女も私も、不世出の歌姫ピアフが、こんな波瀾万丈の人生を送った人だとは、全く知りませんでした。少々説明不足の箇所もありますが、ピアフを演じるマリオン・コティヤールの大熱演が、それをしばし忘れさせてくれる作品でした。

1915年、パリに生まれたエディット。彼女の母は街角で歌を歌い、日銭を稼ぐ日々でしたが、出征した夫を待ちあぐね、実母に娘を預けて失踪してしまいます。それを知った父(ジャン・ポール・ルーヴ)は、軍隊を一時徐隊し、エディットを連れだし、娘を娼館を営む自分の母(カトリーヌ・アレグレ)に預けます。娼婦のティティーヌ(エマニエル・セニエ)らに慈しまれながら成長するエディット。しかし除隊し大道芸人に戻った父は、エディットを娼館から連れだします。浮草生活の父親から独立し、母のように街角で歌い日銭を稼ぐようになったエディット(マリオン・コティヤール)は16歳。有名なキャバレーを営むルイ(ジェラール・ドパルデュー)に見出され、歌手として歩み始めます。

オープニングは舞台で熱唱するピアフが倒れるところから。以降最晩年のピアフ、幼少の頃、歌手になりたての頃、全盛期、アルコールと薬物のため病に苛まれる時期などが幾重にも交錯して描かれます。しかし場面場面の演出に手をかけ、メイクや衣装にもはっきり違いを出しているので、わかりづらいということは、全くありません。

幼少から少女期を丹念に描いているのが私的に良かったです。娼館での風景はルイ・マルの「プリティ・ベビー」を彷彿させるものがありました。淫蕩な風情の中に、娼婦たちが幼女のエディットを慈しむ様子が、彼女たちの哀れな境遇を浮き彫りにし、そこはかとない哀しみが漂います。取り分けエディットを大層可愛がるティティーヌを観て、これはもう客が取れなくなるぞと感じましたが、そういうシーンが本当に出てきました。仕事柄彼女たちには、産めなかった子もいたでしょう。子供を育てている感覚は、ティティーヌの心に閉じ込めた悔恨や辛さの鍵を開けてしまったのですね。女性が子供を可愛がる、その当たり前の行為に、娼婦の哀しさを滲ます良いシーンでした。セクシーなイメージの強いセニエですが、溢れ出る母性を隠そうとしない娼婦を演じて、とても良かったです。数少ないエディットの安定した愛情に恵まれた時期で、心に残りました。




その数奇な運命もさることながら、一番の見どころはピアフを演じたマリオンの素晴らしい演技ではないでしょうか?30過ぎの女優さんだそうですが、元気一杯のハイティーンから晩年の老婆にしか見えない47歳までを、メイクの力は借りていますが、観ていて全く違和感がありません。歌声は本当のピアフの力を借りているそうですが、たとえクチパクであっても、歌うことに全霊を賭けるピアフの執念とも言える姿が、ひしひしこちらに伝わります。天才アーティストにありがちな傲慢さ、反するような復活のステージの直前の心の乱れ、私生活での恋人を一途に愛する少女のような愛らしさ。一つ間違えば暑苦しく嫌悪感を抱きかねない直前で止めているので、圧倒的な迫力にただただ感心してしまいます。↑の画像は普段のマリオンなのですが、作品を観た方はあまりに違うので、びっくりされることだと思います(もちろん私も)。大変な美人ですよね。

常に猫背で少々卑しさの漂う若き日のピアフは、その恵まれない生い立ちを観た後なので、むしろ心を寄せて観てしまいます。ピアフは尊大に思えるほど自分の歌声に自信を持っているように見えますが、それは言いかえれば、彼女の人生全ての拠り所が、歌しかなかったからでしょう。

天才的なアーティストを描くと、だいたいが傲慢で破天荒な人生を送る主人公、それを支える人という図式になりがちですが、この作品でも節目節目にピアフを支え救う人々が現れます。ティティーヌであり、義姉妹の契りを結んだモモーヌであり、ルイであり、とある事件に巻き込まれた彼女を救う作詞家のアッソであったり、生涯で一番愛したマルセルであったり、晩年のマネージャーであるバリエであったり。よくよく考えれば、幼少の分は倍にして取り戻すほど、ピアフは与えられる愛に恵まれた人でした。少し関係の繋がりやその後がわかりづらい人もいるのですが、要所要所に素晴らしいピアフの歌声が入り、その疑問を消してくれます。波瀾万丈であっても、決して不遇でも幸薄かった人生でもなく、幸せな人生を送った人だったのだとの思いが、鑑賞後残りました。

父方の祖母役の人は、晩年のシモーヌ・シニョレにそっくりだなぁと思っていたら、本当の娘のカトリーヌ・アレグレだったのでした。ピアフは再会した母を罵りますが、彼女のその歌声は母からもらった宝物のはず。映画では描かれませんでしたが、ピアフがそのことに気づき、母を許せる気持ちになってくれていたら、私は嬉しいです。


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